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ふと顔を上げたら、壁にかかったカレンダーが目に入った。今日は9月20日。秋に入ったこの時期は、夏の暑さが落ち着き始めていて過ごしやすい。いずれこの秋も終わり冬が来て、やがて春がやってくる。
自分の3月の誕生日まで半年と少し。あと半年と少しで、20歳になる。それはこの期間限定結婚の、解消までの猶予でもあった。
いつまで一緒にいられるんだろう。
そんなことを思い、そのまま答えのでない考えに沈んでいたようだ。気づけば動かしていたはずの包丁が止まっていた。
まな板の上にはすでにイチョウ切りにされた人参と、切り込みだけ入れられて放置されている人参。豚汁を作る予定なので、あと大根と玉ねぎとごぼうを処理しなくてはいけないのに、どうにも手の動きが鈍い。
本当に嫌になる。この結婚ははじめから離婚を前提としていたものだったのに、今更になって気が重くなるなんて我ながら情けない話だ。だからといって笑い飛ばすには辛くて、しばらく唇を噛んで俯く。
「蓮華ー」
呼ばれた声に、蓮華はハッと意識を取り戻す。持っていた包丁を置き顔を上げれば、彼女の夫がリビングにいた。
彼の名は杜沢 護。蓮華より8つ年上で、現在28歳。185cmを越す長身と、学生の頃からやっている空手のおかげでずいぶんといいガタイとは裏腹に、本職はフランス語と英語を扱う翻訳家だ。前職は教師だったこともあり、もちろんその手の免許も持っている。
「ちょっと出かけてくる」
「あ、はい。えと、夕食は……」
「知り合いと話してくるだけだから作っておいてくれ。帰ってきたら一緒に食べよう」
「はい、わかりました」
上着を羽織りながら玄関に向かう護に蓮華も続く。愛用のサンダルを引っ掛けた護がこちらに振り返ってくる。
「なんか欲しいもんあったらついでに買ってくるけど、あるか?」
「いえ、特に…。気遣ってくださって、ありがとうございます」
「そか。んじゃいってくる」
「いってらっしゃい、お気をつけて」
鍵はしっかりかけろよと、蓮華の頭を軽く撫でつつ護がいう。すっかり子供扱いされている。と思うものの、撫でてくれるのはやっぱり嬉しい。思わずほころんでしまう表情のまま、蓮華は頷いた。
敷地内に停めてある黒のローレルに護が乗り込む。
エンジンがかかり、ギアの操作をしているんだろうなと察しつつ、それでも蓮華は車に向かって小さく手を振ってみた。気づいてくれないかも、と思っていた蓮華だったが、護はなかなか目敏かったらしい。
家の前に通りに出る前に、ひらひらと手を振り返してきてくれた。それが嬉しくて嬉しくて、車が出て行って見えなくなっても蓮華はしばらく手を振っていた。
幸せだ。本当に過ごしている今この瞬間が幸せだと思う。
「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と、当たり前に言葉をかけていい人がいる。「いってきます」「ただいま」と言葉を返してくれる人がいる。挨拶を交わしてくれる人がいる。一緒にご飯を食べてくれる。そのたびに「美味しい」といってくれる。ちゃんと話を聞いてくれる。一緒に笑ってくれる。隣にいてくれる。独りぼっちじゃない今は本当に、本当に。
静かに、振る手を蓮華は止める。それはそのまま、力なく脇に垂れた。
そしてぼんやりと、けれど唐突に思う。これはいつまでも続く幸せではない、と。垂れた手同様に俯く。
蓮華はそんな自分が情けなくて、それでもまだ半年はこの幸せを噛み締めて生きていけるのだと、己を奮い立たせる。立たせようとする。
けれどあと半年で終わりなのだと、それ以上に重たくのしかかる現実にどうしたものかと嘆息した。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
護が帰ってきたのは、それから2時間ほど経ったころだった。
夕食の支度をすっかり終え、専門で出された課題をリビングで取り組んでいた蓮華の耳に、車が入ってくる音が聞こえた。ノートを閉じ、玄関に向かい、鍵を開けて表に出る。ちょうど車から降りてきた護と目が合った。笑顔で彼を家に迎え入れる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「すぐに夕食にしますか?」
「うん。で、これ土産」
そういって護は持っていた手提げの紙袋を差し出してきた。蓮華はそれを受け取り、改めて紙袋を眺める。
紙袋に印刷されているロゴは見たことがあった。駅前にある、評判のいい喫茶店のものだ。そういえば一昨日新作のケーキが出たと、店の前にのぼりが出ていたっけ。ついくんくんと鼻をならせば、渡された紙袋に収まっているケーキ箱から甘い匂いがした。
「好きだろ、ケーキ」
「はいっ、ありがとうございます!」
思いっきり破顔する蓮華につられて、護も穏やかな表情を見せる。そんな彼に蓮華はまた頭を撫でられる。
きっとケーキでつられるなんて子供だな、と思われたに違いない。実際違わないが、ちょっと寂しかった。でもやっぱり撫でられるのも嬉しい。
その後自室でラフな部屋着に着替えた護がリビングにつくなり、夕食が始まった。
メニューはひき肉とジャガイモ、カボチャ、コーンクリームの3種のコロッケと合わせのキャベツの千切りを筆頭に、スナップエンドウのごま和え、切り干し大根の煮物、白菜と人参とゆずの漬け物、具沢山の豚汁。あとは炊きたての白米。
けっこう量を作ったつもりだったので残るかもという蓮華の危惧は、護によって片っ端から綺麗に食べられていく料理とともに見事になくなっていく。大柄ゆえ身体の維持エネルギーが違うのか、それとも単に大食らいなのか、どちらにせよ護はよく食べる。
ひたすら食べる護を見ていたら、寄越された視線に気がついたらしい彼と目が合った。もぐもぐと口を動かしつつも首を傾げる護は、なんだか少し可愛らしく目に映る。思わずくすりと蓮華は笑ってしまった。
「本当に、護さんは美味しそうに食べてくれますね」
「美味しそう、じゃなくてマジで美味いの」
「ありがとうございます」
「特にこのコーンクリームのコロッケ、絶品だな」
そういって護はコロッケに箸を刺す。そのまま器用に箸で2つに割って、片方を口に放り込む。じっくり咀嚼してから再度「やっぱり美味い」と護はいってくれる。
それに対し蓮華は腹の底から溢れる幸せを噛み締めて、「口にあってよかった」と笑った。
「あ、そうだ。来週の午後から家を空けることになるわ。たぶん期間は2〜4ヶ月くらいだと思う」
出した料理がすべて片付き、出した茶を啜る頃、護が唐突にそう切り出してきた。蓮華は口に含んでいたお茶をごくんと飲み下し、彼からの言葉の続きを待つ。
「今日出かけてきたろ? 会ってきたの、塾経営してるヤツでな、英語講師の一人が止めたらしいんだが、後釜が見つからねえって臨時講師頼まれたんだわ」
「そうですか。えっと、来週の月曜日からですか?」
「うん」
「何時出勤になります?」
「15時開始だから、ん———…家でるのは14時半くらいかな」
「お帰りの時間は…?」
「22時半上がりだから、23時には家に戻ってるはず」
「わかりました」
蓮華は頷きつつ、食事はどうすべきか頭を回転させる。朝と昼は現状維持でいいだろうが、問題は夕食だ。今までなら専門学校から戻ってきてから作れば間に合ったけれど、出勤時間を聞く限り無理だ。弁当でも用意したらいいのだろうが、夜食べる弁当を朝作るというのも個人的に好かない。どうしたものか。
うんうんと蓮華が何を考えて頭を捻っているのか、護は目敏くも察する。
「メシの心配ならいらんぞ。自分でなんとかするし」
「でも……」
「あのなあ、いちいち俺の面倒を第一に考えなくなっていいんだって。お前の本業は学生。家事メインの主婦じゃねえ」
ぐさっと、胸に何かが突き刺さったような気がしたのは、きっと気のせいではないだろう。確かに学生身分ではあるけれど、便宜上とはいえ自分はれっきとした護の妻でもある。夫の世話をやきたいと思うのはいけないことではない。……はず、なのに。
夫の言い方からまったく妻としてみられていないのだと嫌でも気づかされ、蓮華は上手く口が開かなくなってしまっていた。曖昧に笑って、頷くのが精一杯。
そのまま護との会話が終わったのを機に、あんまりにも居たたまれなくなって、蓮華は早々に席を立って夕食の食器を片し始めることにした。いつもは少しでも家事時間が短縮できるようにと護が買ってくれた食器洗い機に、軽く水洗いした食器を収めるだけなのだが、今日はスポンジを持って自らの手で洗い始める。
護のいるリビングに戻るのが怖かった。勝手に傷ついた心情を、うっかり顔に出してしまいそうで、それが護にバレるのが怖かった。