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今この状況、けっこうきつかったりする。
本職の翻訳が軌道に乗って3年弱、おかげでじわじわと仕事の総量が増えてきていることもあったし、なによりやはり塾講師を請け合ったことが一番の理由だろう。
平日はまともな睡眠時間の確保すら厳しかった。それでもなんとか三十路前の若さでと無駄に意地をはって耐えていたが、週末付近になると溜まっていた疲れがどっと出た。
4時間以上の睡眠をとれるのはずいぶんと久しぶりだった。
昨日ようやく本職が一段落して、本当に何日ぶりか午前様を過ぎる前に護はベッドに潜り込んだ。
日々蓮華が干してくれている掛け布団は、温かい日差しの匂いがする。知らずにその柔らかい匂いを吸い込めば、傍に彼女がいるように感じた。
けれど疲れ過ぎているのか、しばらくたっても護は眠ることがなかった。身体はだるいのに、意識だけはしっかりと冴えている感じ。うつぶせだった体勢を、護はごろりと仰向けに転がす。見上げた天井はもうずいぶんと慣れたものだった。
ふいに視線を横にずらせば壁にかかっているカレンダーが目に入った。今日は10月26日、明日は第4土曜の27日。思えば塾講師の副業をこなし始めて早1ヶ月経つのだと気がついた。
意外に講師の仕事は楽しい。
元教師だからか、それとも子供が好きなのか、単に性に合っているのか。どれが理由なのかは自分でもよくわからないが楽しい。充実もしている。けど。
知らずのうちに溜め息が出た。あとどれくらいこんな生活なんだろうかと思う。たしかに仕事自体は気に入っているし、引き受けた手前もあり中途半端に投げ出すことをするつもりはないが、こうも忙しいと逃げ出したくもなる。無論、考えるだけで実行に移すつもりは微塵もないが。
そうしてぼんやりと、蓮華のことを思う。忙しさにかまけて最近では会話を交わすことすら少なくなったと気がつく。食事だってそうだ。互いに顔を合わせ時間を気にせずとれることは、もはや土日のみという有様。
今更ながら、当たり前だった蓮華と過ごしていたゆったりとした時間が懐かしくなった。
護は天井に向かって手を伸ばす。無論掴めるものはなにもなかった。伸ばしていた手はまた、ベッドの上に逆戻り。
なんだかなあ。なんとなく心に小さな穴が開いた気がした。なんだろうどうしてだろう、少しだけ虚しい。寂しい。この気持ちはどこからくるのか、よくわからなかった。
ようやく冴えていた意識が、ゆったりと心地よい眠りの底に沈んでいく。せめて穏やかな夢が見れたらいいなあと思いつつ、そのまま意識を手放した。
「護——、あんたいつまで寝てんの!!」
突如として部屋に響く、えらい勢いで開かれたドア音と、無駄に張り上げられた大声。睡眠をがっつり貪っていた護の意識は、否応無しに浮上させられたのはいうまでもない。入ってきた人物をわざわざ目を開けて確かめるまでもない、弥生だ。
本当にこの人はもう、勘弁してもらえませんかね……。
「さっさと起きなさい、今日出かけるっていってたでしょ!」
「………」
あーうるさい、まだ寝てたい。つーか寝起きに大声は頭に腹が立つほど響くんだな。
そう思った途端、弥生によって容赦なく布団を剥がされた。急激な冷気に当てられて、無意識に護の身体がぶるりと震えた。
「ほら、起きる起きる!!」
「さむっ…!」
「シャキッとしなさいよー、シャキッと!」
大あくびをしつつ、護はしぶしぶとゆっくり身体を起こした。頭を掻きながら、もう一度大あくび。なんとなく感覚的にいつもよりは睡眠時間を取っているような気はするが、身体はまだまだ足りないいわんばかりに気怠い。
ちらりと窓の外を見れば、なかなかいい天気。でも、と直感する。日差しの感じからいって、まだかなり早い時間なのでは……。
「………今、何時ですか…?」
「7時」
「………」
阿呆らし。弥生の答えを聞くや否や、護は再度ベッドにダイヴした。
「って、なにまた布団にもぐってんのよ!」
「7時とか、早過ぎだっつーの」
「なに言ってんの、もう起きて準備しなさーい!」
「はいはい、あと2時間ほど寝たら準備しますわー…」
さぁ寝よ寝よ、と枕に顔を沈めた途端、胸ぐらを掴み上げられた。そしてそのままベッドから引き摺り降ろされる。それはもう、まったく見事な力業。強か打った腰が痛い。
「起きた、わよね?」
「………、はい」
にっこり笑って拳を見せつける弥生に、護はもう頷くしかなかった。
◇◇◇ ◆◆◆ ◇◇◇
あれから弥生にせっつかれるように支度をした護は、眠気覚ましにシャワーを浴び、蓮華の出してくれた朝食もそこそこに、アウトレットに向けて車を出すことになった。
家を出たのはだいたい8時10分前。車に乗り込んでナビでアウトレットの場所を確認してみれば、家から1時間もしないでつく近場だった。けれど「こんな朝っぱらから店開いてんの?」とかいう疑問はあえてしなかった。
助手席には蓮華、後部座席には弥生と、彼女の旦那でもあり護の長年の友人……、もとい悪友でもある弘が座る。
どうやら弘も無理矢理つれてこられたクチらしく、思い切り寝惚け眼で何度もあくびをかみ殺していた。十中八九間違いなく、荷物持ち要員なのだろう。
ちなみに二人の間には1歳と少し過ぎた一人息子がいるのだが、今回は弘の実家で留守番だそうだ。
それにしても眠い。弘じゃないが、本当に眠い。
弘同様何度目か分からないあくびをかみ殺していたら、隣から視線が寄越されていることに気がついた。ちょうど赤信号に捕まったので、護は隣に視線をやる。泣きそうに顔を歪めている蓮華と目が合った。
「なに、どしたよ?」
「…………身体の具合、大丈夫ですか……?」
「身体?」
「ここのところずっと、仕事漬けだったでしょう? なのに………」
消え入るようにいうと、彼女はそのまま俯いてしまった。
護は苦笑する。彼女はものすごく心配性だ。それでいて無駄に気にしい。
「俺は平気だよ。だからそんな顔すんなって」
「でも……」
「平気だって」
「……ごめんなさい」
「お前が謝るこたぁなんもないだろうがー」
本当にこの娘は、必要以上に謙虚だ。また苦笑。
そういえばこうやって蓮華と出かけるのはいつぶりだったけか。ハンドルを握りながらそんなことを思う。一応今は弥生と弘という余計なのもいるが、それはこの際考えないことにする。
ここ一週間はなかった。それどころか講師の仕事をはじめてから一度もなかったと気がついた。基本的に蓮華はどこそこに行きたいとねだったしないタチだ。だからこちらから誘わなければ動かないし、たとえ誘いがなくてもなにもいってこない。
ここにも忙し過ぎる現実のつけが回ってきているようだった。
「ま、なにあともあれ久々の外出なんだ。気にしてばっかりじゃつまらんだろ」
信号が赤から青に変わった。クラッチを踏み込み、護はギアをニュートラルから1速へと入れる。車はゆっくりと進み出した。




