7話 ランナーズハイ
それから、何時間経ったのだろう。
……いや、もしかしたら数秒だったのかもしれない。
とにかく俺は、それだけ長い時間、地面に座り込んで呆然としていた。
頭の中は変わらずまっさらだ。黒環が飛び去った方向を見ていた。
橙色が黒ずんでいく空を見ていると、目の前に細い手が差し出された。
「ほら、立ちなさい」
安倍明美だ。
まだ警戒しているのか目を少し吊り上げ、肩にまで掛かる長い髪を、耳に掛けながら手を伸ばしている。
伸ばされる手に対し、俺は手を返すことが出来ず、逆に言葉が湧いて出てきた。
「なんで……な、んで、黒環さんは……」
「アンタが黒環と何があったか知らないけど、妖っていうのはそういうものよ」
そういうもの、と言われても。俺には理解が出来ない。俺にとっての黒環さんは、優しい人だった。
……決して、あんな笑い方をする人じゃない。
「だからほら、立ちなさい。ずっとそうしてるつもり? 風邪、引くわよ」
「……ありがとう、ごさいます……」
ぐっと腕を掴まれる。
この細い腕の何処に力があるのか、特に力を入れる様子もなく、中学三年生の平均身長ほどある俺の体は引き上げられた。
……まじかよ、フィジカルすごいな。
ズボンに着いた土を払いながら、俺は安倍に視線を戻す。
「俺は……」
「名乗りなら必要ないわ。興味ないもの」
にべもなく名乗りをキャンセルされた。……初対面でなんだけど、俺、こいつ嫌いかもしれない。
「それより、アンタなんで黒環と一緒にいたの?」
「……」
ギラギラと目を輝かせて問う安倍に、俺はどうしたものかと考え込んだ。なんて言えばいいか、わからないのだ。
騙されていた?
――これは違う。俺はまだ、騙されているとは思っていない。何か、理由があったのだと、思う。
連れてこられた?
――これも違う。それだと、勘違いが発生してしまうかもしれない。勘違いであっても、黒環さんを悪く言いたくない。
「なんで言わないの? ……やっぱりアンタ、黒環と繋がってるんじゃ……」
安倍の視線が段々とキツくなる。
そして安倍の背後の大亀が、ズゥンと地響きが鳴るほどの強さで地団駄を踏んだ。
もしかして、答えによっては潰す気か? ぺちゃんこになるぞ、俺が。
「……」
「なんとか答えなさいよ。答えによっては、家に帰してあげるから」
「……繋がっては、いません」
「繋がって“は”?」
俺の言葉が詰まったところを、容赦なく責めてくる。まるで圧迫面接を受けている気分だ。
少し肩が跳ね上がり、呼吸も絶え絶えになりかける。そんな恐怖をぐっと心に押し込み、俺は淡々と答える。
「ええ。繋がってはいません。……ただ俺は、黒環さんに助けられました」
「助けられた?」
「はい――」
それから、俺の境遇を話した。
両親が幼い頃に死んで何年か引きこもり、いざ外に出たら情緒が壊れ、落ち着ける外出場所として星隠社に向かったら――狐面の女と出会った事を。
どうせ聞いてくれてない、と思いながら簡単に話した言葉を聞き終え、安倍は「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「関係は浅いのね」
「まぁ、はい……」
どうやらキチンと聞いていたのか、途端に恥ずかしくなってくる。もう少し、ちゃんと話しておけばよかった。
「心に付け込むのが妖よ。アンタがどれだけ弱っていたのか知らないけど、そこに付け込まれたのね」
「俺は、そうは思えません」
「アンタがどう思おうと、これが妖なのよ。現に、裏切られてるじゃない、アンタ」
「……」
その言葉が、グッと心に突き刺さる。鋭い弓矢で射抜かれたようだ。まるで手加減がねぇ。
「ま、アンタを見張ってれば黒環は現れるようだし? これからは警護対象として護ってあげる」
「……いらないです」
「わたしだって護りたくないわよ。効率悪いし。けど、そうもいかないの。陰陽師は規定で、妖に狙われてる一般市民を護らなきゃいけないの。我慢なさい」
「いらないです……。一人に、してください」
「我が儘言わないで!」
ンだ、この女。どっちが我が儘なんだよ。一人にさせてくれたっていいじゃないか!
「……わたしだって、今すぐにでも、黒環を追いたいんだから」
悔しそうに歯噛みする安倍を見て、激情で沸騰しかけた頭がハッと冷静になった。
混乱しているのは俺だけじゃない。安倍も、黒環の行動で戸惑っているのかもしれない。
……もしかしたら違う理由かもしれないけど、それでも、上手くいっていないのはお互い様だ。
確かに、俺のは我儘だ。自己中心的で、自意識過剰な要求だ。人間は一人じゃ生きれない。さっき、教えてもらったことじゃないか。
漏れ出そうになる言葉を堪え、俺は安倍に向き直る。
「……わかりました。それじゃあ警護をお願い……」
ぐぅ、と音が鳴った。
腹の虫が鳴る音だ。俺の腹も奏でたことがある。
まさかと思うが、見てはいけない。代わりに、大亀の方を見る。首を振られた。お前、意思があるのか?
とはいえ、大亀ではなく、もちろん俺でもないとなったら、答えはひとつ――
「――お腹、すきましたね」
「……うるさい。こっち見んな」
頰を赤く染めて睨んでくるが、腹の虫を躾けられてない人に睨まれても怖くない。
ほれ見ろ、後ろの大亀も困って顔を背けてるじゃないか。……え、お前本当に意思あるの?
――ともあれ、このまま放置したらしたで、大亀に踏み潰されかねない。
俺は、踏み潰されないように、とりあえず話を逸らす。
「……警護って、何をするんですか?」
「とりあえずは、アンタの周辺で寝ずの番よ。長期戦を見据えてホテルも取ったのに、本当に最悪」
「……じゃあ、ウチで飯食ってきますか? 警護のお礼、しなきゃいけないと思うんです」
俺が言うと、頰を赤く染めたまま目を逸らし、安倍は「むぅ」と唸った。
「作れんの?」
「はい。一緒に暮らしてる祖母の帰りが遅いんで、いつも自炊です」
日常的なレパートリーなら揃えてある。冷蔵庫に入っていた材料なら、生姜焼きくらいなら作れそうかな。
そんな思考を巡らせる俺とは対照的に、安倍は「むぅ」と唸って考え込んだ。そして溜め込んだ息を吐き出すと、愚痴るように言う。
「……アンタ、将来セールスマンになりなさい」
「なんでですか」
「セールストークが上手そうだからよ。感謝を盾にしてくるなんて卑怯だわ」
「……、っ」
……褒められている、のだろうか。わからないが、少し心が浮ついて、顔がニヤけてくるのを自覚した。
ヤバ、と思って口を隠す。他人に笑顔を見られるのは恥ずかしい。
しかし咄嗟の行動であっても、目の前の安倍にはバッチリ見られていたようで。
「ニヤけないで、キモい」
「え、キモ……?」
「早く行くわよ。先導してちょうだい。アンタの家どこ?」
「……僕もわかりません。ここ何処ですか?」
この丘、本当に何処だろう?
空を飛んできたから、この丘までの道なんて知らないんだよな。後でこの街のマップを確認しないと。
「……早く街に降りるわよ」
安倍に先導され、俺は何とか街に降りることが出来た。
その日は何故か心も足取りも軽かった。
感情を吐き出しすぎたせいだろうか。車の姿は見なかったが、バイクの音には怯えることなく、家まで歩くことが出来た。
「名乗りはいらないって話でしたけど、不便だと思うので……俺は高原天です」
「……そ。わたしは安倍明美。公務員よ。短い間だけど……その、よろしく」
……ところで、あの大亀。泡みたいに消えてったんだけど、大丈夫そ?




