3話 ヒビ割れた器
ふわりふわりと海の中。
波に攫われ漂い揺れて、辿り着いた此処は何処か。
きっと夢の中なのだろう。
なんて夢のないことを思う。
『哀れな子犬よ』
子犬? 狐面にも言われたな。
新しい褒め言葉か?
というか、誰だお前?
『褒めてはいない。憐憫である』
憐憫? 憐憫って何?
いや。というか、質問に答えろよ。
『いと哀れなる呪いの器よ。救いは必要か?』
救い? 何のための?
『世界を変えるための、救いである』
なら、いらないかな。
俺は今、多分、狐面に変えて貰ったから。
『ふむ……予言を、しよう』
予言? なんの?
『近い将来、今際に瀕する』
今際って、何?
さっきから、言ってることがよくわからないんだけど。
『その時に我は、必ずや器へと納まろう』
◇◆◇◆◇
翌朝。いや、日にち的には同日なのだが。
俺は自室のクローゼットから、ビニール袋に入った黒い服を取り出した。胸元に校章が刺繍された黒いブレザーだ。
まずはズボン。そして白いインナー、Yシャツ、青いネクタイを着用し、その上にブレザーを羽織る。
「……初めて着るな、学生服」
中学の担任から何度も登校を催促され、家から出ようとしては腰が砕けてきた。
「この調子が続く限り、登校は難しい」と精神科の先生からも諦められていた。
だが、今日は違う。
昨日、深夜の人や車がいない時間とはいえ、街道を歩けた。
神社の中とはいえ、家族ではない人とも喋ることが出来た。
そう、一味違うのである。
今日なら学校に行けるだろう。
いくら課題を出せば成績は付けてくれる、と言われていても、ずっとこれが続けば社会復帰は夢のまた夢。
おばあちゃんに心配をさせたくなかった。そのために学校に行くのは、俺に取って必要なことなのだ。
「すぅ、はぁ」
緊張してきた。
この学生服姿は、おばあちゃんには見せたことがない。
手のひらに汗が滲み、心臓の鼓動が早くなる。制服に汗を染み込ませないため、ハンカチで手汗を拭う。
「――よしっ」
革製の学生鞄を肩に提げ、その持ち手で震える肩をギュッと硬く締め付ける。
「おばあちゃん、行ってきます――!」
俺は靴を履き、一歩外へと歩み出た。
◆◇◆◇◆
東向きの太陽が照らす、青い空の下。
深夜とは違う、心地のいい冬風を受け、胸を張って堂々と初めての登校を――
「ひっ……」
――できる、なんて奇跡はなかった。
車道を通る車の音で、足がすくんで遅くなる。
腰が砕けることはなったが、それでもかなりの鈍足だ。
このままでは学校に遅れてしまう。頭では理解していても、体が言うことを聞かない。
いま飲んだ唾液で体内の水が枯れ、緊張も恐怖で発熱しても、流れるのは少量の冷や汗だけ。
精神的なストレスが頂点に達し、声も言葉も頭の中で無に帰した。
「う、ぅ……」
息をするのが苦しい。過呼吸になっているのを自覚した。ガードレールを力強く握り、心をそこに繋ぎ止める。
「はぁ……」
長い溜息を吐く。
緊張や恐怖を諸共吐き出そうと、座り込んで地を見つめる。
額に当たるガードレールは、発熱した頭を冷やすのにちょうど良かった。
俺には、まだ早かったのかな……
などと弱腰な思考が脳髄を刺激する。
「大丈夫ですか?」
肩にポン、と。触れられる。
『坊や、大丈夫だった?』
瞬間、記憶に蘇ったのは、火の記憶。
焦げた鉄と、ガソリンの匂い。
居心地の悪い、周囲の視線。
聞こえなくなった、親の声。
「――っ! はぁ、はぁ……」
大丈夫、な、わけがないだろう!
心は乱れ、思考は停止し、枯れたはずの唾液が口の中で、飲み干すのが困難なほど溢れた。
――潮時か。
「顔が青いですよ、救急車を呼びましょうか?」
「いえ、大丈夫、です。本当に……大丈夫なんで」
これ以上、話しかけないでほしい。
俺と同じ校章を胸ポケットに付けた女子生徒を振り払い、俺は帰路に着いた。
今日は無理だ。
明日はどうだ?
きっと無理だ。
明後日も、明明後日も。
でも、いつか、きっと。
「学校、行きたいなぁ……」
ぽつりと漏れた、潤んだ言葉は、微かに震えていた。
◆◇◆◇◆
「大丈夫かな……」
ふらふらと歩く少年の背後で一人、その背中を見て心配くる少女は呟いた。
同じ校章を胸に付け、しかし一度も見たことのない顔の少年だった。
自分が通うクラスには、一人分の空いた席が存在する。その席は、基本誰かの物置きと化しているが、所有者は確かに存在する。
名前は、高原天。
珍しい名前だから覚えていた。
高原天は、PTSDと思われる症状で家の外に出られない、と担任の先生は言っていた。
その高原が、あの少年なら?
頑張って、この道まで来たのだろう。
学校に行こうと努力し、無念にも帰宅したのだろう。
「……確か、高原くんの宿題って、先生が持って行ってるんだよね」
今日は、名乗り出てみようか。
あんな姿を見せられたら、心配でならない。過干渉かもしれないが、それでも。
その上空で「ふむん」と鳴く狐が一匹、ニヒルに口角を吊り上げて笑っていた。




