2話 子犬と狐面
――声が、聞こえた。
冷えた鉄に触れたと錯覚するような、耳に障る硬質な声。敵意を感じる、鉛のように重々しい女声だ。
慌てて周りを見回す。
誰もいない。
まさか、幻聴か?
いや、それにしては嫌に声が頭に響いた。
――反転総図。
異変が起きる少し前、小さく聞こえたその言葉が、この異変の本質か?
だとしたら、俺は、いま――
「再度、問う。童よ、貴様は何者か?」
「……っ」
――また、聞こえた。
今度は、俺を責める熱を持った声。
確信した。この異常な空間は、声の主が作ったものだ。声の方向はわからない。鼓膜に届いているのではなく、頭に直接響いている感覚だからだ。
わかったところで何が出来るわけでもないが、可能な限り、刺激しないようにするしかないだろう。
「次で三度だ。童よ、貴様は」
「俺は、高原天! ここが貴女の住処だったなら、えっと……その、勝手に入ってごめんなさい……」
自分の声が鼓膜を震わせ、同時に心臓が跳ね上がる。
久しぶりに、こんな大声を出した。慣れてない自声に、声のトーンが少しずつ下がっていった。
「ほう。謝る分別は付いているか」
言葉に割って入る無礼をした、と少し焦ったが、どうやら気にしていないらしい。
「ここが如何なる場か知っているか?」
「……神社の、本殿、です」
「そうだ。本来、人が立ち入ってはならぬ神域である。何故かわかるか?」
「わかりません……」
「本殿とは即ち”神の家”。神社とはその”敷地”である。いきなり知らない輩に、自分の家に入られるのは、其方も嫌かろう?」
刺々しい口調に責め立てられる。まるで年長者に叱られている気分だ。俺の声も段々と弱々しくなる。
「はい……」
「ならば勝手に入ってはならぬ理由はわかったな? 此度は許すが、次はないと心得よ」
「……ごめん、なざい」
久しぶりに怒られた。やっぱり外に出るんじゃなかったかな、などと思いつつ、何処か懐かしい気持ちに駆られた。
その懐かしさと、叱られたことへの責任感から、自然と目尻に涙が溜まり、ツーンとワサビを食べた時のような、突き抜けるような痛みが鼻を襲った。
「む? おい……おい、泣くな童よ。何故に泣く?」
「ご、ごめんなさい」
「むぅ。ちと制裁が過ぎたか?」
ふむん、と喉を鳴らす音が聞こえた後、俺の頭にモヤが掛かり始める。
寝ている時に、たまに現れる浮遊感。身体は動いていないのに、膝から崩れ落ちるような脱力感が、俺の全身を襲った。
「ふむん」と耳元で、鼻を鳴らす声がする。
「仕方あるまい。少し言い過ぎたのは、わしの失態じゃ。わし直々にあやしてやろう。何、気にするな。めんたるけあ? というやつじゃよ」
ピシ、とヒビが入る音がした。
地面に、骨組みに、天井に。
視界に入るすべての場所に、ピキ、ピキとヒビが入り、世界が息を止めた。
「反転総図――解呪」
そして、破裂。
まるで風船が割れたような音と共に、色も、空気も、匂いもひっくり返る。
無くなっていた、と思っていた物が元に戻り、あったと思っていた空虚が消え去った。
潤う瞳の中に捉えたのは、白い衣と赤い袴を纏い、狐のお面を付けた女性。
面の奥は見えないが、きっと呆れた顔をしているのだろうと思えるような、きつね色の頭を掻く動作をしながら俺を見ていた。
「泣き虫童よ。わしは神でないゆえ、これ以上は怒らぬ。だから、ほれ、泣くのをやめよ。わしが悪者みたいではないか」
「ごめ、ごめんな、さい」
しかし声は震えている。
久しぶりの、誰かからの説教。
久しぶりの、人の優しさ。
久しぶりの、人との会話。
数年間堰き止めていた感情の涙が、久方ぶりに溢れ出した。
しかし事情を知らない狐面は、ふむんと唸って両手を広げる。
「謝る前に泣き止んでほしいのじゃが。仕方あるまい、わしの胸を貸してやろう」
「いらないです……」
「なんじゃと貴様! 我が自慢のふくよかな胸を見て欲情せぬとは、如何なる性活を送っているというのだ!?」
「送ってないです……」
「納得できぬわ!」
狐面は憤慨し、地団駄を踏んだ。
◇◆◇◆◇
数分ほど、涙は流れた。
涙で冷えた顔を、渡されたタオルで拭う。
「洗って返せよ」と言われ、拝殿の縁側に座りタオルを畳んでいた隣に、狐面は寄り添うように座ってきた。
「……近いです」
「離れるな、近う寄れ」
「寄れないです……」
「恥ずかしいか?」
「……」
俺が黙り込むと、「くふふ」と狐面の奥から濁った笑いが漏れた。
そして巫女服の袖で俺の肩を抱き、底冷えし始めていた体を温めてくれる。
「気にするでない。人と人ならいざ知らず、人の摩羅で妖魔は孕まぬ」
「そういう、問題じゃない、かと」
「ほう。腹に稚児を宿すより、触れ合うことを恥じるのか? 時代は変わったものよ」
……どんな世界で生きてたんだ。
倫理観が欠如してるどころか、距離感が殆どないんだけど。この人、今まで何処で何してたの?
少し距離を取ろうとすると、ぐいっと肩を引き寄せられた。
「豊後の……わしの古い知り合いなんか酷くてなぁ。孕まんだろうと高を括り、人妻だろうとお構いなし。よく嫁と揉めておったわ」
「まぁ……でしょうね」
怒られる、ではなく揉める、と言ってる辺り、自分の責任を感じていなかったのだろう。奥さんが可哀想だ。
浮気だけは絶対しないぞ、と意気込んで視線を上げると、狐のお面が至近距離で覗き込んでいた。鼻と鼻がぶつかる距離。俺は目を剥いて「うわっ!?」と叫声を上げる。
「くふふ、良い声で鳴くな。子犬みたいで愛嬌がある。まっこと、からかい甲斐があるのぅ」
「――や、やめてください……」
本当にやめてほしい。
否定をするのにも勇気はいるのだ。対人スキルは未成熟なんだぞ。
俺の拒否を受けた狐面は「くふふ」と笑い、俺の体をさらに抱き寄せた。
「それはこの先次第じゃな。聞きたいことがあるからの」
親指で顎を持ち上げられ、離した顔が再び近づく。自然と俺の呼吸は荒くなり、頰も少し熱くなる。
「それで? なにゆえ、本殿に上がり込んだ?」
……あっ。
いけない。説明責任を果たさなければ。
「その……本殿の中で、火が付いてるのが見えて、もし神社が燃えたらどうしようって……ごめんなさい」
「義侠心からの行いか。ならば神も許すじゃろ。日ノ本には八百万もいるらしいからの。迷い込んだ子犬を許す神も、一柱くらいはいるじゃろて」
パッと手を離し、ふははと笑う仮面。その下で、頰肉が少し上がっているのが見えた。
というか、そもそもこの女性は、何者なんだ?
この魔法が夢物語として語られる現代において、超常的な力を行使して見せた狐面は、間違いなく異端な存在と言えるだろう。
しかも冬場に素足をパタパタと振り子のように揺らし、夜風に白衣と赤袴の巫女服を靡かせている。なんとも色っぽ……寒くないのだろうか?
「……む。なんだ見惚れたか? さては其方、裏の色好みが激しいタチじゃな?」
「ぐむっ……」
気付かれた。一瞬視界に映り込んだくらいだったのに。鋭すぎるだろ、この狐面。
「いや、その。寒くないのかなって思って」
「ふむん? なんだ、そんなことか。妖は暑さも寒さも感じんよ。あれじゃ、あいどる? が便所に行かないのと同じじゃよ」
じゃあ寒いんじゃん。
というか、現代の概念は知ってるのに、なんで倫理観は持ち合わせてないんだよ。
俺が疑いの視線を向けると、狐面は「んんっ!」と咳払いをして空気を断ち切った。
「要は生理現象に惑わされん、ということじゃよ。人より環境適応に優れた肉体をしておるでな。寒さ程度で身は震えんよ」
「……そういうことなら」
……納得、出来るか?
しよう。もうそういうことにしよう。考え出したらキリがないと思う。
「……ぼけ神主め。服は用意しとけと言うたろうに」
◇◆◇◆◇
気づいた時には、既に心は穏やかだった。
狐面との会話が、癒してくれたのだと思う。
腕時計を見ると、針は四時を指していた。まだ陽は沈んでいるが、一時間もすれば早起きの人が起きてくる時間帯。
「そろそろ、帰らないと……」
「む。帰るのか?」
「はい」
狐面の問いに即答する。
これ以上、おばあちゃんに迷惑を掛けるのはダメだ。それだけは、何よりも優先しないと。
「……ここでまた、無理に引き止めらたら其方は如何する?」
「やめてください。魔法だか妖術だか知らないですけど、アレをやられたら僕は身動きが取れません」
本殿の中でやられた、アレ。
突然吹き抜けになったかと思えば、四方を壁に塞がれているような圧迫感を受けた。
何かしら超常的な力だとは思うが、その正体はまるでさっぱりだ。結局アレは、何だったのだろう?
「ああ、反転総図な。アレはもう、其方には使わんと約束しよう。それでも引き止まらんか?」
「止まりません。これ以上、おばあちゃんに迷惑を掛けるのは嫌です」
また、即答する。
それでようやく諦めがついたのか、狐面は「ふむん」と寂しそうに鳴いた。
そんなしょんぼりされても……
後ろ髪を引かれながら、俺は縁側から立ち上がった。
「相わかった。じゃが、わしは其方を気に入った。からかい甲斐があるからの。また、会える日を楽しみにしておるぞ」
「はい、また遊びにきます」
「うむ」と頷く狐面に見送られながら、俺は鳥居をくぐった。振り返って一礼し、家に向けて歩き出す。
さぁ、準備をしなくては。
◆◆◆◆◆
「帰ったか」
何やら幸薄そうな少年を見送り、狐面は一息つく。
「まったく、やんちゃな坊主め。……久しく意思を介したが、やはり対話とは愛おしい物よな」
少年は長らく他人と話してなかったが、狐面も長い間、他人と話していなかった。
それもそのはず。現代において、常人が妖を視認することなど極稀なのだ。
何かしらの妖術を使うか、あるいは幻影を介するくらいしかコンタクトは取れないはずなのだが……
「神秘の薄れた世で、しかもこの身で話すとは何の因果か……あの子が特別なのか、それとも……」
狐面の中の瞳が、ギョロリと本殿を睨む。
それまでの鈴が転がるような声ではなく、地獄の底から這い上がってくるようなドスの効いた声で喉を震わせる。
「貴様のせいか? ――天津餓狼」
その問いに答えはなく、泡沫のように消えていった。




