21話 霊峰・高尾山
東京都・高尾山。
元来は修験道の霊地とされていながら、神仏習合の時代より真言宗の聖地としても機能し、神道・仏教の信仰を兼ねる霊峰である。
現代では、都内で登山や紅葉狩りを楽しめる行楽地として繁栄しつつも、本来の役割を全うしている。
山の麓・大豪邸。
家名も書かれていない、武家屋敷と呼ぶべきこの家に、大きな門が開くと同時に一台の車が入っていく。
漆黒塗りのプリウスが門内に入っていくと、自動で門が閉まった。すごいな、ハイテクだ。
「ふぅ……我が家ながら、何でこんなに不便なのかしら。杉並にでも引っ越さない?」
「一応、霊地の保全も兼ねて、国から貰ってる土地なんじゃないですか? だから離れられないって……」
車の運転を担当していた老齢の男性にお礼をしつつ、安倍の愚痴にツッコミを入れる。いきなり何を言い出してんだ。
「利便性を考えたら、こんな場所クソよクソ」
「この前鼻高々に自慢してたの、安倍さんでしょ……」
安倍の言葉に呆れながらも、大自然の空気を目一杯に吸い込み、肺に溜まった排気ガスを吐き出した。
八王子市高尾町。
薬師如来が安置されるこの地域に、安倍家の邸宅は存在する。
秩父三山や高尾山、富士山などの大規模な霊地の管理を、安倍家が担当している関係上、どうしても車移動で手間な地域に家を築かなければならない。
「そんなこと言ったっけ?」
「言ってましたね。渡辺さんとの地元トークに割り込む形で」
「じゃあ訂正。京都の山の方が何倍もマシだわ」
「訂正ってか、それ注釈……」
「細かいわね。なんでもいいのよ、そんなの」
細、かいかぁ……とにかく、俺は西から東へと到着していた。
これから安倍曰く「厳しい修行」が始まるのだと思うと、少し身震いしてくる。
心を落ち着けるため、もう一度深呼吸をしていると、安倍がパンパンと手を叩いて乾いた音を出した。
「さて、それじゃあ早速始めていくわよ。まずは霊力の強化ね」
「はい!」
さぁ、頑張っていこう!
◆◇◆◇◆
ゼー、ハーと息を切らす。
凄まじい勢いで高鳴る心臓を虐めながら、俺は尚も身体を動かす。
顔や手の発汗がすごい。足腰が痛い。吐息に熱が込もり過ぎて、最早熱いと感じるほどだ。
「あら、もう限界なの? まだ始まったばかりよ?」
苦楽を共にする師匠は余裕の表情だ。少し嗜虐的なイメージを感じるのは、この苦痛で俺が弱っているからだろうか。
「まだ、行けます……!」
「当然よね? この程度で根を上げてるようじゃ、アンタは本当にダメ人間だものね?」
「くっ……」
「苦しそうな顔をしない。ほら、顔を上げなさい――」
くしゃり、と落ち葉を踏んだ。
アスファルトのように硬い地面を踏みしめながら、俺は懸命に足を上げる。
涙が出そうだ。恥辱やら苦痛やらで、心の中がない混ぜになる。
そんな俺の様子を見て、安倍は呆れたように顔を顰めて言った。
「――まだ、三十分しか歩いてないわよ?」
「ぐぅ……」
……登山である。
ハイキング、と言えば聞こえはいいか。とにかく俺は、高尾山の薬王院までの山道を歩いていた。
「……はぁ、まさかここまで体力がないとは。修練場に着いてさえないのよ?」
「ここ数年間……外に出てなかった、もので……」
「今回ばかりは、流石に己を恥じなさい。何よ、運動なしの数年間って。せめて家の中でも動きなさいよ」
「面目ない……」
「本当にね」
あと一時間半、歩き続けるってマジ?
辿り着ける気がしない。助けて猿田彦。俺の身体で披露した身体能力をください。
しかし返答はない。屍のようだ。
勝手に殺すな、なんて幻聴が聞こえてくる程度には、俺は消耗し切っている。
まさかここまで体力が落ちてるとは思わなかった。適度な運動って大事だな。いざという時に死ぬ。今みたいに。
「……まぁ、これでも霊力の強化は図れるし、支障はないんだけどね」
「そう、なんですか?」
「ええ。大事なのは霊地の中で、どれだけ苦しみを受けれるかなのよ。
原理は滝行と同じ。肉体の苦しみを受けて体内の余分を吐き出し、その隙間に自然の神秘を取り込んで身体に習合させる。これを禊って言うの」
「修験道、ですか……」
「よく知ってるじゃない」
俺の場合、山登りで苦痛を受けることで体の余分が吐き出され、空いた隙間に高尾山の神秘を取り込むことで体内の神秘と霊地の神秘が習合している。
イメージとしては、チーズの発酵がわかりやすい。
牛乳を、加熱殺菌して、”雑菌”を殺し、新たに乳酸菌を取り入れ、凝結させる。
つまり、俺はチーズなのである。……違うか。違うな。
「……もしかして、歩いてるだけで、修行になって、いるのでは?」
「そんなわけないでしょ、効率が悪い。支障がないとは言っても遅れは出てるんだら、早く行くわよ」
「……はい」
ピシャリ、と言われて付き従う。
修行は、まだ始まってもいなかった。




