1話 星隠社
『――――死になさい』
その言葉が、いつまでも脳裏に焼き付いている。
◇◆◇◆◇
親が死んだ。車の衝突事故だった。
その時、俺はその車に同乗していた。
熱海旅行に行く最中の出来事。
幼い俺は喉が渇き、水を飲んでいた時だった。
逆走してきた車と正面衝突。強い衝撃に体が跳ね、轟音が耳を貫いた。
ガソリンと、鉄の焦げた匂い。全身で炎の熱を感じながら、鋼鉄の棺桶から子供だけが救出された。
――たった一秒の出来事だった。
車の運転手と家族は、息子を除いて即死。
たった一秒で、子供の――高原天の世界は変わった。
泣いたのは、多分最初の三日くらいだ。
それ以降――葬式だろうと、墓前だろうと、乾いた目から流れる涙はなかった。
あの日に見た衝撃と、耳にこびりついた音、焼き付いた肌の感覚は、今も忘れられない心傷となった。
以来、引きこもるようになった。
車道を走る車が怖かった。
工事現場の音が怖かった。
外に出るのが、怖かった。
引き取り、育ててくれた祖母からは、何も言われなかった。
過去のトラウマが、俺の足枷となっているのをわかっているからだ。
『無理なんて、しなくていい』
無理に、外に出させようとしない。
その優しい言葉が、俺の心に罪悪感を生んだ。
その罪悪感が、親の屍の上で生きる、俺への罰なのだと思ったのだ。
――だから、決心をした。
外に出てみよう。
祖母を安心させよう。
数年もの空白に、終止符を付けよう。
俺は新品同然の愛用の靴に足を通す。
シュル、と紐を結ぶ音がする。
蝶々結びで一回。さらに輪の部分で二重に結ぶ。
これなら簡単に解けることはない。
俺は鍵をポケットに取り出し、ゆっくりと扉を開けた。
「……行ってきます」
バタンと、扉を閉める音は、ガチャリと鍵を閉める音は、やけに鼓膜に響いた。
◇◆◇◆◇
時刻は深夜二時を回る頃。俗に丑三つ時と呼ばれる時間だ。
この時間は車はおろか、歩く人もいない。たまにバイクが通るくらいだ。
冬になって虫は冬眠につき、コロコロと鳴いていた虫の音も、この時期にはもう聞こえなくなった。
家々の間を吹き抜ける寒風が目に染みて、思わず涙を浮かべてしまった。
「……はぁ、」
肺を刺す寒気を受けて、白い息を吐き出した。
スマホを開いて気温を見ると、今日は深夜に冷え込む日だったようで、気温が十度を下回っている。
手がかじかんで、鼻も少し痛い。まるでかき氷を食べた時のキーンとした頭の痛みが、鼻を集中的に攻撃して来ているようだ。
まだ心臓も早鐘を打っている。
冬の夜の寒さが肌を冷やし、ふるふると手が震えている。
「手袋、持ってくればよかった……」
手に息を吐きかけて、僅かながら体を温める。
心がざわつく。きっと夜を歩いているせいだ。
子供は夜を歩いてはいけない、その戒律を破っている背徳感から来るざわめきだろう。
寒さでカタカタと震えていた口が、ゆっくりと口角を上げていくのがわかった。
「……っ。鎮まれ、俺の表情筋……!」
冷たい両手で頬を冷やす。すると徐々に口角が下がり、気持ちも少し落ち着いた。
「……ふぅ」
そしてまた、白い息を吐く。
夜の道で不自然に笑い、補導される危険から脱した安心感から胸を撫で下ろす。
何もないのに笑ったのなんて、いつぶりだろう。それこそ、あの事故の日以来、上手く笑えた記憶がない。
……いや勿論、本当に記憶にないだけかもしれないけれど。
それほどまでに、あの事故が尾を引いているのだろう。そう思うと、今度は目が痒くなってきた。
「っ……、クソ、情緒が……」
我ながら忙しない。何処か、人気のないところで、気持ちを落ち着かせたい。
家に帰るか?
いや、せっかく家から出たんだ。どこか、人のいない場所へ行きたい。
近くに、何かあっただろうか? ……ひとつだけ、あった。
「……神社に、行くか」
寂れていて、正月にも滅多に人が入らない神社。あそこなら、誰もいない。
少し怖いけど、静かだし車も来ない。俺が心を落ち着けられるのは、この地域にはあの神社しかない、はずだ。なにぶん、外に出ないものだから、何が近くにあるのかわからない。
……少し、怖いけど。
俺は俯いて顔を隠しながら、神社へと足を急がせた。
◆◇◆◇◆
――星隠社。
森に覆われ、隠れ、寂れた神社。
詳しい話は知らないが、ただ、どうやら犬神様を祀っている神社ということだけは知っている。
犬神ってなんだ? と疑問に思って検索した。
そしたら中世日本での犬の虐待に関する文章が出てきて、すぐに閉じた。気分が悪くなった。
どうやら犬の首に群がった蛆を、縁起物と捉える信仰らしい。今で言う、霊感商法というやつだ。
神社も建つくらいだ。当時は相当流行ったのだろう。
……まぁでも流石に、今もそんなことをやっているとは思えないけど。
時代にそぐわず、廃れてしまった信仰を持つ神社は、深夜ということもあって人がいない。
静謐。無人。黄金比にも似た斉一性。俺が気持ちを落ち着かせるために、十分すぎる要素を持っている。
「ふぅー……」
拝殿の縁側に腰を下ろす。
冬の寒さも相まって、夜の境内は背筋が凍る。こしこしと手のひらを合わせて動かすと、摩擦で少し暖かくなった。
だけど心は落ち着いた。
人がいない、車がない。それだけで、俺は気丈に振る舞える。幽霊なんて怖くない。人の方が怖い。
――なんて、言ってみたものの。
やはり深夜の境内は怖い。灯りは照明ただ一つ。神主も管理者もいないこの神社はさながら、冬の冷気を凝り固めたような薄寒さを持っていた。
そろそろ帰ろうか、と五分もしないうちに思い始めた頃。
――反転総図、
「……えっ?」
それは起こった。
ぽぅ、と背後で灯る淡い光。
照明とはまた別の、橙色の光が本殿の中で灯る。
穴が空いた障子の向こう側。
まさに、火を見るよりも明らか。視認出来ない本殿の中で、ゆらゆらと火が蠢いているのがわかった。
「だ、誰か、いるんですか?」
お堂の中へと問いかけるが、ただの一つも答えはない。
「……え?」
まさか深夜の神社の中に、それまで灯りを付けずにいたとは思えない。
俺が来たから灯りを点けた、とも思えない。俺は声を発していない。中の人も気付けない、はずだ。
「……」
警戒心を最大にして、縁側から立ち上がる。
逃げよう、とも思ったが。この神社は木造。万が一引火して火災が発生し、本殿が消失してしまったら、きっと俺は、この時のことを悔い続けてしまう。
「――すぅ、ふぅ……」
深呼吸して、気持ちを整える。何が出てきてもいいように、そろりそろりと身を屈めて、逃げる準備を整えながら本殿へと近づいた。
障子に手をかけて、スーッ、と静かにスライドさせた。
中には誰もいなかった。
人の気配はない。影形どころか、人の温もりさえも感じないほどに冷め切った部屋の中に、俺は靴を脱いで上がり込んだ。
本来なら決して入ることは出来ない神域。二本足で立つ、阿修羅のように険しい顔をした犬面の像が目についた。
幸い、中は整理されており、木の片や鉄屑なんかで足を痛めることはなかった。しかし俺は目についたモノを拾い上げ、感じた違和感ごと口にする。
「動物の毛?」
濃い黄色……色合いとしては、オレンジ色に近い。
着色料が使われていないことから、人間の毛ではないことはわかる。じゃあ何の毛か、と問われれば、思いつく動物はひとつ――
「――きつね、か?」
この、閉め切られた本殿の中に?
俺は顔を上げて、周囲を見渡す。
「え?」
無くなっていた。
……いや、この言葉は正確ではない。
その場のすべての物。敷かれていた畳や、犬面の像、俺が開け放った障子に至るまで、元からなかったように無くなっている。
本殿は完全に吹き抜けとなり、冬の冷たい夜風が、蝋に灯った火を消した。
「な……!?」
その様は、まさに伽藍の堂。
俺は急に消えた光を探して、本殿からの外へと飛び出した。
月明かりだけが頼りの本殿は、俺を状況が飲み込めずに独り、零の世界へと置いてけぼりにした。
「なんだ、これ……!?」
今まであった物がない。さながら狐に化かされたような、強烈な恐怖心が……、狐――?
「――何者か」
――その声が、重々しく脳裏に響いた。




