17話 天と狗
猿田彦。
日本神話に登場する”道案内”の神である。
交通安全・学業成就・縁結びなど多岐にわたる現世利益をもたらすとされている。
だがしかし、その本質は史上類を見ないほどの、厄除けの神としての資質である。
神すら恐れる厄を退け、天津神を葦原中つ国へ導いた。
その胆力、その気力、その剛腕。
戦神には勝らずとも、その力は一騎当千。
そして何より……天照以前の太陽神としての神格。
八岐の道を照らしていたことから、天地を照らす太陽の神格を得たという話がある。
季節風の影響で雨季が多いことから、太陽信仰が深く根付く日本において、地を照らす星に役割を充てがわれるほど、猿田彦は強かったと思われる。
すなわち彼は――皇紀以前の太陽神である。
――『日本の神々図鑑』より一部抜書。
◆◇◆◇◆
困った時の神頼み。
手ぶらで狼と相対した時なんかは、間違いなく人は神に縋ることになるだろう。
成功するかは神の匙加減。大抵の場合は失敗し、神の不在証明が完了されることになる。
逃げられない、生き残れない、助からない。
そんな心理的圧迫を和らげるための、心の防衛装置みたいな物だ。効果があるかは不明だが。
では、成功した時の話をしよう。
手ぶらで狼と相対した時。神頼みが成功したなら、どんな事が起こるのか?
「――ッッッ!!!」
狼の遠吠えが、俺の認知している物より遥かに高圧感を伴って放たれた。
だが恐怖を感じる機能が麻痺したらしい、俺の体は怯む事なく突貫する。
無数の鳥肌を立ったことを感じながら、俺は体の支配権を預けた者へと問いかける。
『そんな前に出て大丈夫なんですか!?』
「仕方なかろう。攻撃手段が身一つしかないのだ。なにゆえ、護身具のひとつも身につけておらん?」
『深夜とはいえ、現代日本でそんな物、必要になるとは思わないじゃないですか!』
「だが人が怖いと言っていたろう?」
『肉体的脅威と精神的恐怖は、まったくの別物です!』
肉体的に危害を加えてくる世紀末なら兎も角、精神的に参ってる時に近くに来るのは、心配してくれる優しい人だ。
例えパニックに陥っていたとしても、そんな人に目潰しスプレーとか吹きかけたくない。
とはいえ餓狼も一筋縄ではない。
俺の突貫に対して、その余りある質量を誇る巨躯でカウンターの突進を仕掛けてきた。
「ないのなら仕方ない。そも其方にとって、この戦いは夢なのだ。殴る蹴るしか出来なくとも、問題はなかろう」
『……うぐぅ』
言いながらも餓狼の突進を避け、腹部に数回殴打を叩き込んで引き下がる猿田彦。
さすが有史以前からの猛者。殴る蹴るだけとは言っても、戦い方がトリッキーだ。
「だが一撃でも喰らえば即死。我が技量を以てしても、其方の肉体の耐久性を上げることは出来ん。ならば、どうするか?」
『……どう、するんですか?』
「すべて避けてしまえばいい」
『根本的解決ではないと思うんですけど!?』
攻撃が当たる可能性を微塵も考えていないとか、常軌を逸してる気がするんですけど!?
とはいえ相手は常識から掛け離れた存在なわけだし、何を言っても通じない気がしないでもないが――
『――ん?』
なんかピリッとした感覚がしたような……
多分、手の先っちょあたり。突き指でもしたか? というか、感覚が繋がってるのか?
『いたっ……いっ、だだだだ!? あの、指が、手が痛いんですけど!?』
「む。しまった、少し時間を使いすぎた。腐敗霊力が吸いすぎたようだな」
『なんですか腐敗霊力って……足が! 顔がぁ!?』
「書いて字の通り、有機物の腐敗を促す“力”だ。吸えば血流に乗って全身を巡り、体の内側から腐敗・溶解を始める。その先に待つのは死だ」
『死!?』
死ぬの!?
絶対嫌だ、せっかくココまで生きたのに! 死にたくない!
だからさっきから餓狼は距離を取っているのか。この空間にいる限り、長期戦になれば不利なのは此方だ。
餓狼は、逃げるだけで勝てる。
だが猿田彦は顔を顰めることもせず、淡々と俺に告げた。
「胸を撫で下ろせ。何のために我がいると思っている」
『……勝つため』
「願意を無駄に費やすな。必勝祈願に心を揺らせ。困った時はいつでも――」
縮地。本当に俺の身体か? と疑問に思うほど、目が追いつかない速度で肉薄する。
そして握った拳を振りかぶり――餓狼の尖った鼻先に強く振るった!
「――我は力を貸そう」
顔面に拳をめり込ませるほどの一撃を見舞い、吹き飛んでいく餓狼を見て、俺は唖然とする。
……俺、そんなに筋力なかったはずなんだけど……その力、どこから取り出したの?
「さて、そろそろ片を付けようか。いつまでも戦うわけにもいくまい」
『お願いします……助けてください』
「心得た。天狗の兵法、その一角をお見せしよう」
天狗の兵法。実際に聞くと頼もしさが段違いなのだけど……
今のところ脳みそが筋肉なのか、と思える解決法ばかりなので、少し不安が残る。
「殺せず、反骨心の塊で、かつ厄介な力を持つ敵を相対した時、其方ならばどうする?」
『俺ですか……? どう、するんでしょう。屈服させるのは……反骨心の塊なら、無理でしょうし』
「そうだな。正解は……」
言葉を途切った猿田彦は、両手で印を結ぶ。
両手の指を組み合わせる形。微かに感じる手の感覚から、何となく力を溜めていることがわかった。
「存在を跡形もなく消す、だ」
『……は?』
組み合わせた両手指を、ぐいっと引っ張る。
パリ、と何かが裂けた音がした。ピシ、ピシと亀裂は拡大していき、やがて世界は裂けんばかりに暗転する。
「反転総図【光道標旗】」




