16話 子犬は狗に転じて――
目の前の狼は巨大だ。
ぐるると唸って俺を見据えている。まるで獲物を見つけた肉食獣だ……いや、そのものか。
まぁ、なんだっていい、
どうせ俺は此処から逃げられない。
狼に喰われて死んだって仕方ない。
気分はまさに、お腹を空かせた虎に身を捧げるお坊さんだ。
何も成せないなら、何かの糧になることだって……
……
…………
………………
……やっぱり嫌だ。
痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。
狼に喰われて死ぬなんて、もっと嫌だ。
『死にたいか?』
死にたくない。生きたい。
俺はそう言って、この狼から逃げたはずだ。
『助かりたいか?』
助かりたい。生き残りたい。
足掻いた末に、あの人に助けられたから。
『再び、子犬に戻るつもりはないのだな?』
ない。戦って、狼に勝ちたい。
でも、どうやって? 俺には、何も……
『あるとも。その魂が。器が。不幸を寄せつけ、何度も苦しめられた其方の人生が、其方にとって変え難い武器となる』
俺の、体が?
意味がわからない。俺の体は、普通の物だ。
『普通なものか。そう造られている。さぁ、心を開け。八百万を受容せよ』
心を開く? なんのために?
俺には、何もない。やり方も……
『心を開け、我を受け入れよ。それだけでいい。其方は、神秘の受け皿。天津餓狼など比ではない、神をも飲み込む”受容”の完全体である』
俺に、勝てるんだろうか。
ビジョンも、自信も、何も湧いて来ない。
『約束しよう。多くの者に導かれ、いまこの戦場に立つ者よ。今度は、我が其方の導き手となって器に収まり、勝利まで連れて行こう』
……わかった。頼む、俺を勝たせてくれ。
「心得た。予言通り、我は其方に力を貸そう」
◆◇◆◇◆
ぐるる、と再び狼は唸った。
相対する少年は鎖に繋がれ、身動きが取れずに微動だにしない。
狼は激怒していた。己を封印したあの狐。
かつては侍の背に隠れていたくせに、いつの間にか己よりも強くなりやがって、と。
だが、天啓を得た。
目の前には弱った小僧が一匹。しかも、黒環に咀嚼を邪魔された極上の獲物。社に初めて来た時から狙っていた、呪いの器。
コイツを食うために封印を破ったのに、忌まわしき黒環によって邪魔された。これを食らえば回復が早まり、あの狐への意趣返しが出来ようと。
ならば、食わぬ理由はない。
これが神の思し召しだというのなら、ありがたく頂戴しよう。さぁ苦しめよう。あの狐の余裕の笑みを、屈辱と後悔で染めてやろう。
「心得た。予言通り、我は其方に力を貸そう」
だが、現実はそう上手くは行かなかった。
小僧が何か言葉を発したと思った次の瞬間、バチンッ! と音を立てて鎖が解かれた。血だらけの腕をだらんと下ろし、しかし開かれた目は凛と開かれている。
「さぁ、始めよう。三千年ぶりの天孫降臨ぞ」
◆◇◆◇◆
「それで? 何をするのよ」
「足を治すだけだ。黙って見ておれ。邪魔するでないぞ、小娘」
セーマンを描き終わり、中心に天を置いた境内の中で、遠方から黒環に問うた明美に対して黒環は苦い顔をして返答する。
「そもそも確実に成功する術ではないのだ。集中させよ」
「成功しない術って何よ。……というか治療術って、アンタ……」
「黙れ。確率成功、焦点が合いずらい、そもそも面倒臭い。……後はわかるな?」
「なるほど確かに。黙って見てるわ」
羅列された単語に顔を顰めた明美も、同じく神秘使いとして通ずる所があったのか、黒環の説明を受けて黙り込んだ。
そしてようやく静謐を手に入れた黒環は、目の前に眠る少年に術の焦点を合わせ始める。しかし合わない。ふらりふらりと体が揺れる。
……なるほど、”力”の使用量が多いから、体に力が入らず、加えて集中力にも影響が出ていそうだ。
何か手伝えないかと思ったが、ここで下手に手伝いに入ったら、それこそ邪魔になるだろう。大人しくしていることにする。
「……ふぅ。では、ゆくぞ」
すでに余裕のある顔はない。汗を垂らしながら心を落ち着け、ゆっくりと再び焦点を合わせる。確率は神に祈り、黒環は術を起動する。
「【狐魂還元】――受け取れ、テン。わしからの、最初で最後の贈り物じゃ」
強烈な橙色の光が、星隠社を埋め尽くした。
◆◇◆◇◆
狼は苦虫を噛み砕いたような気分でいた。
諦めたような顔をしていた小僧が、両足を噛みちぎったはずの小僧が、両腕だけを頼りに脅威の身体能力を見せ、爪と牙から逃げ回っているのだから。
数百年の封印、黒環の炎、この二つを受けて弱体化しているとはいえ、さすがに納得がいかない。
この天狗の如き身体能力を有する”敵”が、あの小僧と同一存在だと思いたくない。
猿か、アイツは!?
「……」
煽り、逃げ、しかし隙は見逃さない。
まさに逃げのプロフェッショナル。この小僧の今まで何処に、こんな余裕があっただろう?
ぐるる、と唸って【威圧】する。
しかし効果はないようで、またもや自身から遠ざかっていくことに憤りを覚える。
ならば、と。さらに強力な【威圧】を使ってみる。
今度はその場に座り込んだ。
……ようやく落ちたか。手間取らせやがって。
餓狼は小僧に向けて爪を向ける。そして刹那の間にも思える僅かな時間を労し、小僧へと肉薄に成功した。
「ふたつ、お前は間違えている」
刹那の、はずだった。
餓狼の動きよりも早く……まるでスローモーションの世界の中で、小僧は餓狼を睨みつけ語りかけてきた。
「ひとつ、お前が我に速さで勝てることはない」
片手を軸にむくりと起き上がると、飛びかかる餓狼の爪に手を伸ばした。
「もうひとつは、我は生きるために逃げ回っているのではない――」
カッ! と小僧の足元が光る。
忌々しい狐の炎を思い起こさせる橙色だ。目が眩むほどの光が収まったのちに――餓狼は天に腹を向けて飛んでいた。
「――ッッ!!?」
「この通り、贈り物の到着を待っていたのだ」
やはり、あの狐の仕業だった。何処までも忌々しい。
膝小僧から途切れていた二本の足が、完全に復活している。二本の足で地面を踏み鳴らし、みっつめの訂正を行う。
「そして、我は小僧ではない。……ああ、すまん。ふたつでは、なかったな」
「正しくは三つだった」と背中の方から聞こえてくる。
上と下がひっくり返ったかような浮遊感。
天津餓狼の巨躯は、餓狼ですらも目で追えぬ速度で、小僧によって投げられていた。
「天孫降臨起こりし際に、八岐のほとりにて天津神を導きし道士」
無くなったはずの足をさすり、感触を愉しむように頷いて、小僧――否、老練な敵はこう名乗る。
「我が名は猿田彦。天地を照らす天狗である」




