プロローグ
困った時の神頼み。
仮にそれが通じるならば、何を頼む?
必勝祈願、学業成就、病気平癒、家内安全。
願意を求めれば、いくらでも頭の中で咲く。
だけど、これと言って、本当に欲しい物は浮かばない。
本当に欲しい物は、願う前に手を伸ばす物。
手が届く場所に、神は一切介入しない。
神は命を作る。しかし剣は作らない。
神は世界を作る。しかし家は作らない。
服も、食も、筆も、本も、勝利だって。
人は弛まぬ努力の末に、自力で手に入れた。
『――予言を、しよう』
誰かが言った、その言葉。
なんの変哲もない、ただの夢だと思った誰かの声は、夢にしては珍しく、俺の頭の片隅に残り続けた。
『近い将来、今際に瀕する』
なんの話だ、と疑った。
夢の話だ、と興味も持たず。
疑問にも思わず、一蹴さえした。
……恐らくそれが、間違いだったのだろう。
陰陽、式神、妖怪異。
普通に生きてれば、文化史以外では聞くこともない言葉の羅列が、俺を油断たらしめた。
それが、すべての始まりであり――
『その時に我は、必ずや器へと収まろう』
――終わりだった。
◆◇◆◇◆
――なんで、こうなったんだっけ。
込み上げてくるのは、どうしようもない敗北感だった。
尻に石畳の固い感触を感じながら、カタカタと歯が鳴る。交感神経が暴走して暴れ回っているのに、肝心の体はまったく動かない。
まるで時間の流れが遅くなっているかのよう。
俺は、恐怖で狂ってしまったのだろうか?
なのに、頭だけは妙に冷静なのが腹立たしい。
背後の鳥居よりデカい狼が、ぐるると喉を鳴らしながら俺を見下ろしていた。
黄色い双眸が爛々と輝かせる怪物は、ポタポタと涎を垂らし、獲物を味わうようにジリジリと距離を詰めてくる。
普通の状況なら奇声のひとつでも上げて、逃げることが出来ただろう。
だが、現実というのは非情なものだ。命の危機に晒されると、人間は意外と理性的ではいられない。
「――っ! ――!?」
狼を挟んだ向こうで、学生服姿の女が必死に叫んでいる。その声は悲鳴のように甲高くも聞こえた。
だけど最早、俺の耳には届かない。
視界は狼に釘付けで、音も匂いもすべてが薄れていく。五感は凍結され、氷の中にでも閉じ込められたかのようだ。
さながら金縛り。狼の威圧に屈し、俺は心から屈服していた。
感覚が凍りついていく中で、心臓がやたらと生き急ぐように鐘を打ち続けており、最早痛く感じるほど。
檻に放り込まれた餌のように、俺は身じろぎも出来ないでいた。
息が荒くなり、熱がこもり、指が小刻みに震え始める。目の焦点が合わなくなり、一度ぐっと目を開閉する。
吹き付ける寒風が頰の汗を撫で、背筋がひやりとする。すると、体が冷えた故だろうか。喉の奥で声帯が擦れ、潰れた蛙のような声が出てきた。
「ぐぅ……ぅあ……!?」
掠れた声が、空へと吸い込まれていく。
白い息がふわりと消えた。それを目で追う余裕もなく、俺はまた大きく息を吐く。
と、その時。
体がようやく状況を理解したのか、膝がぴくりと動いた。
その微かな動きに頼りに、俺は情けなくも這うように手足を動かしてみる……動いた。
「あ、に、逃げ――」
――遅かった。
足の感覚が、急に消えた。
次の瞬間から襲う、焼きつくすような激しい痛みに、俺は状況を理解する。
「あ――がァァアああ!!?」
パチパチと火花が散る視界の端に、“俺の足だった肉塊”を咥えている狼の姿が映った。
……最悪だ。見なきゃよかった。
恐怖が身体を支配した。
脳から、首を通って、肺に伝わり、下腹部から右と左の腿へと播かれて、足の爪先までを支配した。
手も、腕も、感覚は麻痺している。
顎は外れ、舌は垂れ――その瞬間、かろうじて残っていた理性が、音を立てて崩れ去り、完全に消失した。
――なんで、こうなったんだっけ?
俺は、近所の神社に来た、だけなのに。
裏の世界も、化け物も、本来は関わるはずがなかったのに。
なんで俺がこんな目に、合わなきゃいけないんだ?
詰まった言葉を掻き出すように……或いは余計な情報を消していく。
俺は必死になって頭の辞書を捲り、見つけては消え、取っては捨て、ようやく適当な台詞を見つけ、弱々しくも呟いた。
「た、たすけて……」
みっともない言葉だとわかっている。
みっともない姿をしている自負もある。
けれど簡単な言葉も、声も、俺にとって藁より重い希望だった。
汗と涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、残った両腕だけで冷たい地面を這いながら、喚き散らすように声を張り上げる。
「だ、れでも、いい! たす、たすけて!」
そうだ、近くに学生服の女がいたはずだ。あの人は――
俺がそちらに目を向けたと同時に、狼も同じ方向に一瞥をくれた。
その圧だけで、彼女の足が止まる。
茶色のローファーで地面を踏み鳴らしながら、悔しさを顔に滲ませながら立ち止まっている。
……無理もない、誰だって、命は惜しい。
だから俺は、這う。
一秒でも早く、少しでも遠くへ。残った両腕で必死にもがく。
――生きたい……死にたくない!
現代日本では無駄な物だと思っていた生存本能が、必死になって俺を生かそうと働いた。
「ひぃ……ぐ……うぅ……!」
痛い。痛い。痛い。
でも動け。動かないと、本当に死ぬ。
力強く歯を食いしばり、匍匐になっても体を動かす。
赤い液体が地面に広がり、俺の這った跡をなぞるように濡らしていく。
その上を狼がゆったりと俺に向かってくる。さながら狼のためのレッドカーペットだ。
追い詰める獣の足取りで。ペタペタと粘っこい赤を踏み鳴らし、こちらに近づいてくるのがわかる。俺はそれを知覚しながら、必死になって腕を動かした。
「ぅ、が、ァァアああ……!」
喉が震える。
脳髄が刺激され、逆流してきた苦々しい胃液が口内を満たし、撒き散らした体液が服を汚す。
――それでも、這う。
なりふり構っていられない。死んでたまるか。服がなんだ、命が掛かっているんだ。
こうなったら、最後の一秒まで逃げてやる。この狼から、いつまでも、何処までだって――
「あ、あ、ぁぁァァアアア!?」
もしもの時の神頼み。
顎が外れて言葉は作れず、けれど確かに心からの頼みは、天へと高らかに願われた。
――もしも神様が、いるのなら。
俺は、きっと、こんな辛い思いをして……
「くふふ、惨めだのぅ童」
コツン、と。
逃げる俺の頭に、細く固い何かに当たった。
焦点を合わせると、女性の素足と思わしき物が視界を覆った。
素足のはずなのに、不思議なほど一切の汚れを許さない彼女の足だ。
「よぉ生きた、よぉ足掻いた――後は、わしに任せぃ」
カラカラと、鈴のような軽やかな笑い声を聞き、急に俺は緊張の糸が一気に緩んだ。
……本当は、まだ危険なはずなのに。
その安堵に逆らえず――
高原天は、意識を手放した。




