第88話 鉄の揺り籠
僕はニック10歳。英雄の逆鱗で両親が死んでしまい、孤独で貧しい日々を過ごしていた。
だが、僕は今日生まれ変わるんだ。
工場で1年間勤務すれば金貨10枚。贅沢しなければ一生暮らしていけるお金だ。
衣食住があり、内容は鉱石や鉄を運搬するだけの簡単な仕事。
子どもの僕が雇ってもらえる、最高の仕事だ。
説明してくれた人はとても親切で、僕にもできる工場を選ばせてくれた。
工場まで運ぶ魔獣車も豪華で、周囲の目を引いていた。
家族のために働く人や一攫千金を目指す人。目的は様々だが、皆、期待に顔を輝かせていた。
色々な工場を経由し、人が少しずつ降りていく。
そろそろ僕の番かな。緊張してきた。
魔獣車が止まると、名前を呼ばれた。
「ニック君。来たまえ。ここが君の働く工場だ」
見上げても上が見えないほどに、巨大な工場だった。
扉が開くと、そこには大柄な男が立っていた。
「よく来たね。さあ、中に入って。私は看守のジーだ」
「ありがとうございます。これからよろしくお願いします!」
「そんなに固くならずに。親だと思って接してくれればいいから」
ニックは嬉しくて笑顔になった。良さそうな人で本当によかった。
魔獣車が去っていく音が遠ざかると、中に案内された。
分厚い鉄の扉がいくつもある。進むたび、背後で看守が重々しい音を立てて鍵を閉めていく。逃げ道を一つずつ消されていることなど、ニックは気づきもしなかった。
その先には別の看守がいた。ジーと同じようなガタイのいい男だ。
「ようこそ、楽園に。私はワイだ。よろしく」
ワイは握手を求めてきた。ニックも握手をし、すっかり安心していた。
「じゃあ、さっそくだが身体検査をする」
部屋に連れていかれ、服を全て没収された。
ジーとワイの二人は、ニックの体の隅々を、値踏みするようなねっとりとした目で見つめてくる。
「あの……これはどういう意味があるのでしょう?」
「あー。不純物を持ち込ませないための検査だよ。魔導列車の部品は繊細だからね」
ニックは辱めを受けている気分だったが、仕事のためだと割り切った。だが、二人の男が交わした卑俗な含み笑いの意味までは、まだわからなかった。
作業服に着替えて向かった作業場には、凄まじい熱気が渦巻いていた。
そこでは、自分と同じくらいの子供たちが、幽霊のような顔で巨大な溶鉱炉に鉱石を投げ入れている。
「なぜ手作業なんですか? あんなに重いもの、僕には持てません」
ニックが言うと、看守の態度は一変した。
「あぁん? 知らねえよ、ガキが! 持てと言われたら持つんだよ。出来なきゃ連帯責任で飯抜きだ!」
いきなり現場に放り出された。
ニックはとりあえず、周囲と同じように重い箱に鉱石をスコップで詰め始めた。
スコップ一杯でかなりの重さがある。本当に持ち上がるのか。
ニックは全力で箱を持ち上げたが、バランスを崩して転んでしまった。
鉱石がバラバラと転がった瞬間、周囲の突き刺さるような視線がニックに集まった。
「何やってんだガキ! お前のせいで俺たちの飯までなくなるじゃねえか!」
「ごめんなさい! すぐに拾います!」
急いで拾うニックに、一人の老人が手を貸した。
「大丈夫かのう。今拾ってやるからのう……」
「ごめんなさい……」
情けなくて泣きそうになるニック。そこへジーが歩み寄り、老人を思い切り蹴り飛ばした。
「おい! 何してやがる。作業時間がもったいねえだろうが!」
老人が踏みつけられ、ニックは泣きながら謝った。
その時、ボロボロのローブを着た人物が、ジーにわざとらしく軽くぶつかった。
「おい、ローブ! 何回言わせるんだ、前を見て歩けって!」
標的がローブに移った。ジーは容赦なく殴りつけ、殺す勢いで暴力を振るう。
ローブの人物は、一切抵抗しなかった。しばらくしてジーが冷静になると、吐き捨てて作業場を去っていった。
「ごめんなさい、僕のせいで……」
「気にするんじゃないわ。わしはこの中で一番の年寄りなんじゃ。若者を救えるならそれでいい。ほれ、作業に戻るんじゃ」
やがて一日の労働が終わるブザーが鳴り、皆が檻の中へと収容されていく。
ニックだけは、ワイに肩を叩かれた。
「お前はこっちだ」
その夜、ニックは暗い部屋で全裸にされ、ワイとジーに犯された。
巨大な肉棒が自分の内側に無理やり割り込んでくる痛み。
大男二人の興奮した獣のような息が、部屋の空気を汚していく。
「おいワイ、俺の分も残しておけよ。前のは壊しちまったんだからな」
「そんなこと言われてもよ、ここでの楽しみなんてこれくらいしかねえだろ」
ニックはただ、感情を殺した。時間が過ぎるのを、石のように固まって待つしかなかった。
檻の中へ放り込まれたニックは、涙が止まらなかった。
「ほら、今日の飯だ」
ジーがコッペパンを一つ投げ入れる。
下を向いて泣くニックに、あの老人が話しかけた。
「大丈夫か。ほら食べるんじゃ。他の者たちも、分け合おう」
ニックは泣きながらパンを口にした。だが、そんな一口分では腹は膨れない。
「チッ。ここは見ていてもつまらねえな」
去り際にワイが吐き捨てた。
「つまらないって……どういうことですか?」
ニックが聞くと、老人は悲しそうに目を伏せた。
「奴らはな、わしらが争う所が見たいんじゃよ。少量の食事を投げて、どう醜く奪い合うかを楽しんでおる。だが、わしらの牢屋ではそんなことはせん。人であるために……平等に分け合うんじゃ」
まだここは、人の世界なんだ。
ニックの目から、再び涙があふれ出した。
泣き止むまで寄り添ってくれた老人は、静かに自己紹介をした。
「わしは長老と呼ばれておる。一番の古参じゃな。他に、この色黒がブレンド。ガリガリなのがソウ。そこの端にいるのは『ローブ』と呼ばれておる者じゃ。言葉を話せないようでな。……ローブはここに来て間もないが、検閲で服を脱ぐのを拒否したせいで、見せしめに手足の指を全部切り落とされておる。他にも一人いたが……今日、作業中に死んで溶鉱炉に落とされた。ここでは、死ねば存在ごと消されるんじゃよ」
なぜ逃げ出さないのか。ニックの疑問にソウが答えた。
「先月、集団で脱走しようとした。だが、扉はどうやっても開かなかった。この壁は魔導列車と同じ素材で、魔獣ですら傷がつかない。俺たちは、ここが詰みだと知ったんだ」
ブレンドが震えながら続けた。
「捕まった脱走者は……俺たちに殺すよう命じられた。拒否した者も殺し合いに参加させられた。思い出すだけで……あああああ!」
発作を起こしたブレンドを、長老が摩って落ち着かせる。
ニックは、このままここで死ぬ未来を想像して震えた。
翌日、再びブザーが鳴り、過酷な作業が始まった。
ニックは疲労で、またしても鉱石の入った箱を落としてしまった。
周囲が怯えた表情で見守る中、駆け寄った長老をジーの拳が襲った。
何度も、何度も。抵抗しない老人をジーが殺そうとする。
これ以上、誰も失いたくない。
ニックは落ちていた鉱石を拾うと、ジーの後頭部へ力一杯投げつけた。
「おい! ニック、貴様……!」
「もう誰かを失うのは嫌なんだ……『ヴォルク』!!」
ニックの叫びとともに、全身に動物の毛が生え、鋭い牙と爪が伸びる。ライオンのような獣人の姿へ。
「獣化系の能力者か。面白い、教育してやる!」
ニックは踏み込み、一瞬でジーの顔面を切り裂いた。
噴き出す血に逆上したジーの声が、工場内に響き渡る。
「うああああああー!!!」
咆哮は衝撃波となり、ニックを襲う。
さらに騒ぎを聞きつけたワイがライフル銃を手に現れた。
ニックは物陰に隠れるが、地面を叩いた跳弾が頬を掠める。
「弾を跳弾させる能力……! なら、音だ。音で場所を把握してる!」
ニックは勇気を出して走り出し、周囲の木箱を次々と壊して音を攪乱した。
ワイが狙いを定められず、ジーが息を整える。
「これで、終わりだ!」
ニックがとどめを刺そうと跳んだ瞬間、ジーが溜めていた咆哮を一気に吐き出した。
直撃を受けたニックは吹き飛ばされ、獣化が解けてしまう。
ワイがニックの頭に狙いを定め、引き金に指をかけた。
だが、放たれた銃弾はわずかに外れた。
「なっ……なぜ外れた!?」
その隙に、絶望していたはずの労働者たちが一斉に看守たちに襲いかかった。
「今だ! 動きを止めろ!」
「ガキ一人にいい格好させるかよ!」
「これを逃したら次はないんだ!!」
数十人の人間がのしかかり、看守二人を抑え込む。
そこへ、入口の重い扉が蹴り破られた。
「そこまでだ。全員動くな」
武装した集団を率いて現れたのは、眼鏡をかけた知的な男だった。
「私は中央ギルド国家の大臣、マルコスです。違法労働の取り締まりに来ました。労働者の諸君、君たちは保護される」
その言葉を聞いた瞬間、工場内は歓喜と安堵に包まれた。
「助かった……本当に、終わったのか……?」
「ああ、もうあんな重い石を担がなくていいんだ!」
「生きてる……俺たちは生きてここを出られるんだ!」
「ありがとう……ありがとう……!」
ジーとワイは無様に錠をかけられ、引き立てられていった。
ニックは力尽き、地面に倒れ込んでいた。
長老が駆け寄り、ボロボロの体でニックの手を握る。
「ありがとう。あんたのおかげで、助かったんじゃ……」
その喧騒の陰。入口とは反対側の壁際で、誰にも気づかれずに立ち上がる「ローブ」がいた。
その人物が壁に手を触れると、強固なはずの魔導壁が飴細工のようにドロドロと溶け、穴が開いた。
風に煽られたフードの下から、不機嫌そうな赤色の瞳が覗く。
切り落とされたはずの手足の指は、淡い光とともに元通りに再生していた。
「……ったく、一足遅えんだよ、あのガキ(イリア)も」
クロはだるそうに肩を回すと、一度だけ、背後でヒーローとして囲まれているニックを見やり、小さく鼻を鳴らした。
「ま、合格点だな」
彼はそのまま、夜の闇へと溶けるように消えていった。




