第87話 星を隠す帳(とばり)
クロとアクスは青の国へと足を踏み入れていた。
広がる水路を流れる水は、一見すると透き通り、何の違和感もない。クロは膝をつき、水を手ですくって一口飲んだ。
「んー。……特に問題ねえな」
アクスはクロに呆れていた。
「当たり前でしょう。青の国は私が常に浄化しているから、周辺はきれいなままよ。問題なのは、水路から少し離れた場所なの」
アクスの案内に従い、歩くこと三十分。青の国の都が遠く小さく見える距離まで来た。
「この辺りからよ。汚染が深刻なのは」
「……おい。ここって、俺が直接取引してるリンゴ酒の農園の近くだろ。ふざけんな、俺の楽しみを奪う気かよ」
クロは農園の土を手に取り、指でこすって匂いを嗅ぐ。どこかで嗅いだことのある、鼻を突く嫌な臭いだ。彼はためらうことなく、その土を一舐めした。
「なっ……何を、汚いですよ!?」
アクスが悲鳴のような声を上げる。
クロはペッと土を吐き出すと、鋭い目で地平線を睨んだ。
「……まずいな。だが分かった。この味と匂い。魔導石が燃えカスになった時の、あの独特な硫黄の臭いだ。魔導列車の排気と同じだな」
「本当ですか? ですが、この辺りに魔導列車は走っていませんけど……」
「悪いが、一緒に来てもらうぞ。確かめたい場所がある」
二人は一度、青の国の『ディスカラー』へ戻ると、転移魔法を使ってグレーゾーンへと向かった。かつて「英雄の逆鱗」と呼ばれた戦いの跡地。そこに店舗を作っておいて正解だった。
「……っ、これは」
転移した瞬間、アクスが口元を押さえた。
大気を震わせる地響きのような重低音。新時代の鼓動とも呼べる工場の稼働音が、夜の静寂を塗り潰している。
外の空気を吸った瞬間、クロも確信する。農園の土を食べた時の、あの「焦げた魔力」の匂いが充満していた。
クロはアクスを連れ、巨大な工場の群れへと歩みを進める。
深夜だというのに、工場には不気味な明かりが灯り、高くそびえる煙突からは絶え間なく黒い煙が吐き出されていた。
「監視塔がありますね。……警戒されているようです」
「ああ、あの監視は『視る』能力に長けてるな。これ以上近づけば、ネズミ一匹逃さずバレるぞ」
「じゃあどうするのですか? このままじゃ、何もわかりません」
「工場はあそこだけじゃねえ。……ついてこい。もっと監視の緩い場所を探す」
クロは監視の穴を探し、工場の側面を隠密に移動する。ちょうど、疲れ果てて居眠りを始めている監視員がいる工場を見つけた。
「あそこなら調べられそうだな。……おい王様、走れるか? いや、めんどくせえ」
クロはアクスをひょいとお姫様抱っこすると、一気に走り出した。
「ちょっ、な、何を……!?」
「静かにしろ。バレるだろ」
アクスは恥ずかしくて顔を隠しながらも、クロの腕の中で口を噤んだ。
工場の側面に辿り着くと、そこには太い排水パイプが地面を這っていた。
「これですか……?」
暗がりで見えないアクスが手を伸ばそうとするのを、クロが片手で制し、代わりに自分が触れた。
パイプから漏れ出す水は、ドロドロとした泡を立て、鼻が曲がるほどの激臭を放っている。
「これだな。土の匂いと同じだ。手も簡単に溶けるぞ。……自然には悪いものだろうな」
アクスはその惨状に、自身の浄化の力が及ばない恐怖を感じ、唇を噛んだ。
「……ひどい。こんなこと、許されるはずがありません! 乗り込みますか?」
「いや、一度引くぞ。お前は中央ギルド国家へ戻って掛け合ってくれ。王が言った方が効果あるだろう。……太陽が出る前に離れるぞ」
クロは遠ざかる工場の明かりを振り返った。
「こんなことまでして国を発展させたいなんて、私は思いません……」
「王としては正しい判断だな。……ここからは俺の仕事だ」
「何をする気ですか?」
「誰がこの毒を流して、誰がそれを隠してるのか……元凶を突き止める。中央のあのガキ、イリアにも釘を刺されてるからな。『余計な真似はするな』ってよ。あいつも急激な変化に頭を抱えてるんだろうが、俺に指図するたぁ威厳もクソもねえ言いぐさだったな」
夜が明け始めるとともに、空から雨が降り出した。
だが、それは恵みの雨ではない。空の煙を吸い込んだ、どす黒い『黒い雨』だった。
クロは黒いマントを広げ、アクスを雨から守るように包み込んだ。
「ジウジウ」と雨粒がマントを焼く音を聞きながら、二人は黒い雨に濡れる巨大な工場を、ただ静かに見つめていた。
「アクス。お前は国に戻って、あのガキ(イリア)に頼れ。これはもう、一貴族や一商人の仕業じゃねえ。……『時代』そのものが毒を吐いてやがる」
「……っ。わかりました。信じてみます、彼を」
雨は激しさを増し、工場の黒い輪郭だけが、怪物の牙のように闇に溶けていった。




