第86話 大地の水
クロは絶望していた。
なぜなんだ……。
何で今日に限って……。
「こんなに客が多いんだよ!!!」
今日は最悪のタイミングが重なっていた。
ロウとカゲが、新人のシノブとシンを連れて「買い出しのルートを教える」と出かけ、残ったヒメとウィッチも「おやつを買いに行く」と連れ立って出ていってしまったのだ。
(カゲのやつ、分身の一体くらい残しておけよ……!)
客は途切れず、クロは一人で戦場のようなキッチンを回していた。次から次へとフライパンを振り、酒を注ぎ、カウンターへ叩きつけるように出す。
「今日は珍しくマスター一人か」
「女の子がいないのは寂しいけど、今日の料理、妙に気合が入ってて美味いな」
「おいマスター! こっちも追加だ!」
クロはぶち切れ寸前だった。好き勝手頼みやがって、今すぐ閉店にしてやろうか。
いつもは昼間にこんなに来ねえくせによ……。
そこへ、さらに新しい客が踏み込んできた。
その姿を見た瞬間、店内の喧騒がピタリと止まり、客たちが息を呑んだ。
「……あれって」
「ああ、間違いねえ。青の国の王だ」
現れたのは、青の国の王アクス・ミリアだった。子供ながらカラーズの一角を担う少女王。豪奢なドレスを纏った彼女は、煤けた酒場ではあまりに浮いていた。
「クロ。久しぶりです。今、話せますか?」
「見てわかんねえのか。忙しいんだよ」
「こちらも急ぎの用があります。王の命令です」
クロは怒りを通り越して、急速に冷静になった。そうだ、こいつを使えば……。
クロはキッチン裏から予備のエプロンを掴み、アクスに向かって投げつけた。
「用は後で聞く。……注文取ってこい」
「……はい? ちょっと、私、こんなことしたことがありません!」
「おいお前ら、注文はこいつに言え。今日だけの臨時店員だ。王様に運ばせるんだから、一粒も残すんじゃねえぞ」
客たちは震え上がった。王に配膳させるなど不敬の極みだが、クロが「店員」だと言い切る以上、この店ではそれがルールだ。客たちは恐縮しながらも、必死に注文を口にし始めた。
アクスは動揺しながらも、持ち前の生真面目さで注文を確認し、慣れない手つきで料理と酒を運び始めた。
二時間後。
ようやく客が引き、クロとアクスがカウンターでぐったりしているところへ、ロウたちが帰ってきた。
「遅えよ、じじい」
「何が遅いんじゃ。客もおらんくせに……」
クロが毒づくより先に、アクスが弾かれたように立ち上がった。
「あの! 何なのですか、この店は! いきなり訪ねてきた王を接客に使うなど……!」
アクスの剣幕に、ロウも思わず後ずさる。
「ああ、すまんのう。こいつは昔から人使いが荒いもので……奥でゆっくりしていってくだされ」
ロウたちは逃げるように裏へ荷物を運んでいった。
「で? 王様直々の注文はなんだ?」
「……食事をしている暇はありません」
「働いたら飯くらい食え。それがうちの決まりだ」
その時、アクスの腹が可愛らしく「ぐーう」と鳴った。
彼女は真っ赤になって顔を手で覆う。
「……オムライス。あと、オレンジジュース」
「はいよ。ちょっと待ってろ」
クロは手際よくチキンライスを炒め、黄金色の卵で包み込んだ。
「ほれ、食え」
差し出されたオムライスを前に、アクスは王の威厳をかなぐり捨てて食らいついた。
「……おいしい。本当に魔獣の肉なのですか? 臭みも全くない」
「下処理が違うんだよ。で、それどころじゃない話ってのは?」
アクスはオレンジジュースで口を潤すと、真剣な眼差しで切り出した。
「……今、青の国の水が汚れ始めています」
彼女が語る現状は深刻だった。キャンバス大陸の水の循環を担う青の国。その水源が急激に汚染され始めたというのだ。
水に触れた者は皮膚が爛れ、飲んだ者は激痛にのたうち回る。農園にはどす黒い斑点の浮き出た異常な野菜が育ち、それを食べた者にも被害が出ているという。
「手伝ってもらえますか? あなたのその、真実を見抜く『目』が必要なのです」
「嫌だね」
クロの即答に、アクスはジュースをむせ返しながら詰め寄った。
「ゴホッ、ゴホッ! 話を聞いていましたか!? キャンバス大陸の危機なのですよ!」
「そんなの大層な奴らに任せりゃいいだろ。俺はただの酒場のマスターだ」
「……私もそうしたいです。ですが、出所がわからないのです。王宮の学者たちも、汚染の原因も、どこから流れてきているのかも特定できない……。まるで、意図的に隠されているかのように」
クロは空になったグラスを見つめ、少しの沈黙の後、溜息をついた。
「……野菜が無くなるのは困る。水が腐って、じじいの作る飯や酒が不味くなるのはもっと困るからな。探せる範囲でだけだぞ、王様」
「! ……では、すぐに行きましょう!」
アクスはクロの手を強く掴み、店を飛び出した。
「おい、今からかよ!?」
「当たり前です! 一刻を争うと言ったでしょう!」
夕闇に包まれ始めた街を、青の国の王と、黒いマントを翻す男が駆け抜けていった。
その行く先——。
遠く地平線には、新時代の象徴であるはずの工場の煙突が、墓標のように立ち並んでいた。
そこから立ち上るどす黒い煙が、夜の帳に紛れて星の光を塗り潰していくことに、まだ誰も気づいてはいなかった。




