第59話 迫る魔の手
クロとヒメは魔力が充満する森の中を、猛烈な速度で木から木へと飛び移っていた。視界の遥か下には、大型や小型の魔獣の群れがひしめいているが、今は相手にする暇はない。クロは鋭敏な嗅覚を頼りに、急いで匂いの元へと向かっていた。ヒメは桃色の髪をなびかせ、白いフリルのスカートを揺らしながら、その背中を追う。
数時間前。クロはカウンター席でのんびり寝ていた。黒いローブを軽く羽織ったままだった。ヒメは隣の席で飲み物を飲んでいた。
その平和な時間を破るように、「ドゴン!」と音を立ててクロの頭にロウの拳骨が落ちる。「痛って。なんだよ、じじい。たまには寝てもいいだろ」クロは不満を露わにした。
「小僧!お前さんは、いつも寝てるか飲むかしかしておらんだろ。少しは働け!」ロウは鼻息荒く怒鳴った。
「何で好き好んで働かないといけねえんだよ。やる時はやるよ」
「ほう。じゃあ、今働いてみるんじゃ」
「嫌だ。働いたらいざって時に動けないだろ」
「そう言って、いつもいつも寝ているのは、どこのどいつじゃ」
「ちゃんとこないだ、リンゴ酒納品したろ。あれの売り上げは、誰のおかげでしょうか?」クロは得意げに言った。
「バッカもん! ほとんど小僧が一人で飲んだじゃろが! 次の納品まで先だっていうのに、そのせいでリンゴ酒目当てで来た客足、退いたろうがこのアホが!」ロウは本気で腹を立てていた。
「うるせえ!味見くらいで文句言うな。酒場のマスターが味知らないでやってられないだろうが」
「接客もしないくせに、味だけ覚えてどうするんじゃ!」
「いざって時があるだろ!」
クロとロウがいつものように激しい口喧嘩を繰り広げている最中、ギルドの受信機から緊急の依頼が流れ込んできた。
ヒメは内容を確認した途端、表情は一変し、急いでクロに報告した。「マスター。赤紙の依頼書だよ。内容は娘が魔獣の森に入り込んでしまったので、急ぎ捜索してほしいって!」
「ほら、じじい。仕事来ただろ。行くぞ。ヒメ」クロは一瞬で真剣な顔に戻った。「わかった」ヒメは飲み物を一気に飲み干し、クロの後に続いた。
森の入り口で泣き叫ぶ母親から娘の私物を借り、クロは匂いを手がかりに追跡していた。状況は最悪だ。魔獣がいる以上、急がないと間に合わない。匂いが続いている今なら、まだ間に合うかもしれない。
クロは一旦木の枝で止まった。嗅覚が二つの匂いを捉える。右には古く微かな匂い、左には濃い匂い。
「ヒメ。二手に別れよう。左に濃い匂いがある。そっちを探してくれ。俺は右側の匂いを追って、回り込む」
「わかった。でも気を付けてね」ヒメの言葉に不安が滲む。二人は二手に別れて捜索を開始した。
クロは先に進むと、感覚的な違和感を覚えた。そして、目で見てわかるほど、この一帯の魔獣が減っていることに気づいた。匂いが近い。この辺なのか。「魔獣が少ないなら無事なはずだ」と、クロは安堵しかけた。
クロは女の子の小さな後ろ姿を見つけた。地面に降り、駆け寄った。「おい、大丈夫か」クロは女の子の肩に手をかけた。
次の瞬間、女の子は素早くクロの手首に、鈍い銀色の手錠をかけた。クロは一瞬思考が停止した。これは旧式の能力者用の手錠だ。なぜ。片手だが、急速に魔力が吸われるのがわかった。早く外さないと。
女の子は振り返り、クロに息を吹きかけた。激しい痛みとともに目が見えなくなる。毒か。感覚が薄れていく。「こんな手に引っかかるなんて甘ちゃんなんだから。今よ。捕らえて」近くから聞こえる甲高い声がした。
ガタイのいい男が地面に魔力を流すと、クロは足元から現れた黒い鎖で両手と両足を縛られた。両手は上に吊るされ、身動きが取れない。クロは屈辱に歯噛みした。「クソ、何人いる!?」
「こうなったら奥の手だ!」「ヒメ~。こっち来てくれ!」クロは全霊の力で叫んだが、声は響かない。この空間の感じ、魔術か。
「キャハハ。こいつ私の魔術の空間にいるのに、叫んでるよ。聞こえないよ。魔獣も来ないのに、気づかないなんてお人よしさんなこと」魔法使いの格好をした女が嘲笑した。
クロはもがくが、鎖が邪魔で手錠を外せない。これだけの連携、事前に用意された罠だ。
そこに、筋肉質な男がクロの腹部を容赦なく殴った。強化系か。意識が飛びかけた。何度も殴られ続ける。サンドバッグ状態だ。
クロは身体の痛みと、不安定な魔力制御への苛立ちに耐えながら、生き残るために最後の魔力を絞り出す。「魔力よ、俺の目になれ!」(【魔力制御】が使えないなら、全身全霊で撃ち込めばいいだけだ!)クロはすべてを懸けた一撃を叫んだ。
「魔撃連弾!」
しかし、その拳は空を切った。「キャハハ。毒で魔力の感覚失っているのに気づいていないし、笑える」女魔法使いは嘲笑した。
クロは力尽きてぐったりと垂れ下がった。魔力を使い切った。
後ろから魔法使いの女が近づき、クロの黒いローブを無造作に外し、投げ捨てる。シャツをめくられると、ナイフで彼の胴体に魔術の刻印を刻み始めた。力が入らない。抵抗できない。
「キャハハ。じゃあ、エレメントコア頂くわよ」魔法使いはゾッとするような笑みで言った。
クロの魔術が刻まれたサイズ分、彼の胴体に穴が開き、大量の血が流れ出た。魔法使いは切り取った胴体を縮め、掌サイズのガラスボトルに赤黒い塊をしまった。「ヒヒヒ。用は終わった。撤収するよ」謎の四人は跡形もなく消えた。
クロは鎖の能力が解けると、自分の血だまりの中に力なく倒れた。
「なんだ……おれ……負けたのか……」身体の感覚がない。意識が闇へと向かって行く。痛みも感じない。肺が無くなったから呼吸もできない。「ひとって……こうやって……しんで……いくのか……」
クロは生きることを諦めた。




