第55話 オニの目にも涙
早朝、森の中にて
クロは目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ませていた。拳に魔力を込める動作は、もはや無意識のルーティンだ。彼は、周囲にある木の魔力を、空気中に漂う微細な魔力を感じ取っていた。目を閉じても、魔力そのものが視覚の代わりとなり、周囲のすべてが鮮明に見える。あとは、自分の身体に流れる制御不能な魔力の奔流を、完全に手中に収めるだけだ。集中しなくても、ただ感覚を研ぎ澄ませるだけでそれが可能になる境地を目指していた。
クロが低く唸りながら、拳を不可視の空間に向けて振るうと、周囲に凄まじい爆裂音が響き渡った。
森の近くにいた鳥たちは、その衝撃波で一斉に逃げ散り、クロの周囲、半径十メートルほどの木々は、まるで巨大な竜巻でも通過したかのように根元からなぎ倒されていた。
「はあ~。まだダメだな。繊細さが足りねえ」クロは深く息を吐き、未だ魔力制御が完璧でないことに苛立ちを覚える。「久しぶりに帰るか」
クロは一週間ぶりに店に帰ることにした。店ではヒメとカゲが初開店に向けての最終準備に追われていた。張り紙が貼られ、テーブルは磨き上げられている。
「あ~。マスター、やっと戻って来た。散歩は済んだ?」ヒメはクロの少し荒れた様子を見て、すぐに彼の目的が特訓だったことを見抜いていた。
「主、任されていた受信機の取り付けは完了しております」カゲは、主人の心情に余計な詮索はせず、ただ仕事の報告をした。
「悪いな。一週間も空けてしまった。ギルドの依頼書、届いているんだな」
クロは真新しいボードに張り出してある、ギルドからの依頼書を眺めていた。やはりこの周辺のダンジョン素材の依頼が多いようだ。その中で、一枚の依頼書がクロの目に留まった。『鬼討伐』。「鬼の肉か……どんなだろうな。気になるな」クロは迷わずその依頼書を取り、自分のギルド証に近づけた。
ギルドの依頼は、ギルド支部に登録されたギルド証を依頼書にかざすだけで受注できる仕組みだ。クロはギルド支部の申請で「ブラディー・プリンセス」のメンバー全員が受付できるようにしていた。
基本的に、冒険者は依頼を受ける際、契約金として報酬の三%を払い、成功すれば依頼書の報酬額が支払われる。依頼主の場合は、冒険者への報酬額のほかに、ギルド支部に報酬額の五%、中央ギルド国家には十大な魔獣が出た時は中央ギルド国家の判断で依頼を出す、特別な依頼、通称「赤紙」もあった。
「悪いが、またしばらく店開けるかも。依頼受けてくる」
「うん。マスター、いってらっしゃい」ヒメは穏やかな笑顔でクロを送り出した。
「主、お気を付けて」カゲは丁重に頭を下げた。
二人に見送られながら、クロは少し急ぐように店を後にする。
「ヒメ様。主だけで行かせてよかったのですか?」カゲは心配そうにヒメに尋ねた。
「いいの。今は悩んでいるみたいだし、一人にさせた方がいいかな」
「そうですか。主は何を悩んでおられるのでしょう?」
「マスターはね。ものすごく魔力はあるの。でも、能力にうまく使えてないの。いつもくっ付いて魔力を操作してみたけど、そう簡単にはいかないぐらい、おかしくなっているの」ヒメは真剣な表情で説明した。
「そうなんですか。だからいつもお傍に……」カゲが無邪気に尋ねた。
「そ、そそそうよ!別に近づきたいとかじゃないんだからね!」ヒメは急に顔を赤くし、慌てて否定した。
数時間後、クロは依頼の出された村に到着した。建物が十軒ほどしかない、簡素で寂れた村であった。クロは村に入り、人を探す。皺だらけの一人の老人がいた。
「悪いが、鬼の討伐依頼を受けてきた。鬼はどこにいる?」
「鬼!鬼じゃと!貴様鬼を倒してくれるのか!」老人は鬼と聞いて、恐怖と興奮で震えながら話していた。
「ああ、どこにいるか教えてほしい」
「鬼が出たんじゃ!鬼がな出たんじゃ!」老人は興奮しすぎて、話が通じない。
「出たのはわかったから、どこに出たんだ」クロは声を抑える。
「鬼が出たんじゃ!鬼がな出たんじゃ!この村に鬼が出たんじゃ!」
「鬼が出たのね。それは良かった」クロは聞く相手が悪かったと深く後悔した。
「良いわけがないじゃろ!鬼が出たんじゃ!」
「最後に聞く。特徴を教えてくれ」クロは我慢の限界に達していた。
「鬼なんじゃ!鬼が出たんじゃ!」
クロは老人からお礼の言葉も聞かずに、早々とその場を去った。「これ以上はジジイを討伐してしまう」とクロは心の中で毒づいた。鬼がいることはわかったが、何の情報もない。村を見ても、襲われた痕跡もなく、村の中ではないのは確かだ。
「人が少ない村だ。どうしたものか」クロは苛立ちを抑えながら、他に情報を探した。
クロが歩いていると、五歳ぐらいの女の子が野花を摘んでいた。クロはダメもとで話を聞いてみた。
「お嬢ちゃん、俺はクロっていうんだ。お名前は?」
「クロ?村の人じゃないんだ。私はマア。冒険者さん?」
「マアか。そうだ。冒険者だ。鬼について知っていることはあるか?」
マアは鬼という言葉を聞くと、さっと黙ってしまった。さっきの老人とは真逆の反応だ。
「えっと……。鬼さんを殺すの?」マアは不安そうに、クロの顔を見上げてきた。
「ん~。そうだな。悪い奴ならそうするが、いい奴なら殺さない」クロは真摯な目でマアに答えた。
マアはクロの言葉を信じ、話を始めた。この子が鬼を見た人物のようだった。外で遊んでいた時、大きな狼の群れに襲われた時に鬼が出て来て、助けてくれたそうだ。だが、村人は鬼を怖がり、いつ襲われるかわからないと恐怖し、討伐依頼を出したという。
「そうか。鬼は良い奴なのか」
「そうだよ。村の人はみんな怖がっているけど、助けてくれたの。本当だよ」マアは必死に訴えた。
「わかった。ありがとうな。じゃあ、討伐はなしだな」
「本当に。鬼さん、何もされない?」マアは期待に満ちた目で尋ねた。
「悪いことしてないのに、何もしないよ」クロはマアの柔らかい頭を優しく撫でた。
マアは満面の笑みで喜んだ。摘んだ花を鬼に渡すと言っている。やはり悪い奴ではないらしい。
その時、遠くで村人の叫び声が聞こえた。クロは不穏な予感を感じ、急いで向かうと、赤黒い肌で、額に角が二本ある、三メートルもの巨体の男が、そこにはいた。
村人は鬼を見て、悲鳴を上げながら急いで自宅に入った。
クロは鬼の正体が魔獣ではなく、人間が獣化した姿だと見てすぐにわかった。
「なあ、なんで獣化を解かない?」クロは警告するように声をかけた。
鬼はクロの問いかけを無視し、いきなり巨大な拳を殴りつけて来た。クロはギリギリで避けたが、地面が轟音とともに深々とえぐれ、直撃の危険性を物語っていた。
「おい、聞こえているのか?」
「ウガアア」鬼は理性のない唸り声を上げた。
鬼はクロを拳で叩き潰そうと猛攻を仕掛けてきた。マアから聞いた話と違う。完全に理性がない。魔力で能力が暴走している状態だ。
クロは鬼の拳目掛けて魔力を込めた魔撃を打ち込んだ。だが、クロは力負けした。それなりの威力で打ったにも関わらず、まるで岩にぶつかったように弾かれる。「どんなバカ力だ」力だけなら、今まで会って来た中で最も強い相手だと感じた。
鬼の猛攻は止まらない。クロは最小限の動きで避けながら、隙を見つける。力はあるが、素早さはそこまでない。避けるだけなら余裕だ。クロは鬼が大振りした瞬間、懐に潜り込み、拳に全身の魔力を溜めた。
「まだ未完成の技だから加減はできねえぞ。『魔撃連弾!』」
クロは一撃腹部を殴ると、鬼の全身が一瞬で魔力の塊に包まれ、内部から殴られたような衝撃を受けた。鬼は吹き飛び、クロはゆっくり立ち上がるのを待った。
「少しは効いたろ。一回で十か所以上は直撃したはずだ」
鬼はよろめきながらゆっくり立ち上がると、クロの攻撃など効いていなかったように再び突っ込んで来た。
「面白い。耐久力も化物クラスだな」クロはピンチにも関わらず、不敵に笑ってしまった。
鬼が再び大きく振りかぶると、クロは瞬時に股下にスライディングし、背後に回った。そして、手招きして「かかってこい」と挑発した。
鬼は雄叫びを上げると殴りかかった。クロは避けたが、拳が地面を叩き、地面が大きく揺れた。クロはローブを鬼の分厚い手首に巻き付け、さらに挑発した。鬼は殴ろうとするが、クロはローブで宙に浮き、一定の間隔を取った。鬼の苛立ちは加速して、ローブを掴み、引きちぎろうとする。しかし、ローブは鬼が力を込めても伸びるだけで、破くことが出来ない。
「ウガアアァ!」鬼は絶叫を上げ、息を切らし始めた。
クロは一瞬でローブを収縮させると、強烈な遠心力を利用し、鬼の顔面目掛けて膝蹴りをくらわす。鬼は力なくそのまま倒れた。
「おい、話できるか」クロは静かに問いかけた。
「やめて!」
マアが村人に抑えられながら、クロに向かって叫んだ。
マアの悲痛な声に反応して、倒れていた鬼がゆっくりと起き上がった。「まだやれるのか。いくら何でも硬すぎるだろ」クロは驚愕する。鬼はゆっくりと、まるで夢遊病者のようにマアに近づく。途中で村人は怖くなって逃げてしまった。
クロはまずいと思い、マアの方へ駆け出す。鬼はマアに向かって、その巨大な手を差し出した。
「はい。これあげる」
マアは恐れることなく、摘んだばかりの小さな花を、鬼のごつごつした巨大な手に乗せた。
鬼は動きを止め、その赤黒い目から大粒の涙を流した。マアと鬼は目を合わす。鬼はただマアに会いたかっただけだったのか。クロは安堵し、二人に近寄った。
「なあ、マア。少しだけ鬼としゃべっていいか?」
「うん。もう殴っちゃダメなんだからね」
「わかったよ。なあ鬼、話せるか」
「オデニ、ナンカヨウカ」鬼の荒々しい声が響いた。
「獣化を解けるか?」
「デギル」
鬼は獣化を解くと、人間の姿に戻った。それでも二メートルの身長があり、身体は岩のように筋肉質、顔は強面だが、体中は泥だらけで弱々しい。
「すまない。迷惑をかけた」男はか細い声で謝った。
「この子に会いに来たのか?」
「そうだ。でも、意識が無くなった」男は悔しそうに俯いた。
「行く当てはあるのか?」
「ない」
「お前、うちに来い。鍛えてやる」クロは唐突に言った。
「いいのか。暴れるかもしれない」男は不安そうに答えた。
「な~に、うちの連中は強いから大丈夫だ。俺はクロだ。マスターと呼べ」
「マスター?わかった。俺は名前がない。ずっと一人」
「じゃあ、オニって呼ぶ。マアもオニでいいよな」
「うん。オニはオニだよ。また来てくれる?」
「来る」
マアとオニは約束の握手をして、村を後にした。討伐依頼は村人の了承を得て、無事に取り下げて貰えるようになった。帰ったらみんな驚くかな。力自慢ができる強靭な仲間が増えたことに、クロは満足そうに笑っていた。




