第9話 研究棟の記憶
研究棟にて、深夜。
クロは実験室の床に座っていた。ガラス越しに研究室を眺めていると、なんだか昔を思い出す。そっと目を閉じ、12年前のことを回想していた。
自分が拾われたのは、今日と同じような深夜のことだった。
ディーテが眠そうに寮へ帰ろうとしていると、物陰から小さな獣の唸り声が聞こえた。恐る恐る確認すると、そこにいたのは、獣化した四つん這いの、黒い赤ん坊だった。研究棟に威嚇するように唸っている。
ディーテは驚きで眠気が吹き飛んだ。赤ん坊を抱きかかえ、大急ぎで研究室に駆け込む。
「大変です!研究所の外に赤ん坊がいました!早く獣化を解かないと、魔力欠乏症になってしまいます!」
魔力欠乏症とは、魔力がなくなると死に至る病である。特に、生まれてすぐに能力を発動した赤子は、無理にでも止めなければ、死亡するまで魔力を使い切ってしまうケースがある。
「エレメントコア実験は休止し、ディーテ君はその子を実験室へ。データ君は赤子の魔力量の変化を調べてくれ。ブラッド君はポーションを取ってきて飲ませるんだ」
ゼース所長が指示を出すと、研究員たちが一斉に動き出した。
ディーテが実験室に入ると、ガラス越しのデータに赤ん坊を見せた。
「これは面白い。所長、確かに獣化していますが、魔力放出量は微々たるものです。このままでも問題ありません」
所長はデータの頭がおかしくなったのかと思い、自分の目で確かめないと信じられないと考えた。データのそばに行き、魔力を確認する。ゼースの目は輝きに満ちていた。
「これはすごい。成人した能力者と同等の安定性ではないか。では、安定したまま、なぜ獣化した姿なんだ?これほど興味深いのは初めてだ」
ブラッドがポーションを持って実験室に入り、すぐに飲ませようとした。
「待つんだ、ブラッド君。信じられないかもしれないが、その状態で魔力が安定しているんだ」
「そんな話、信じろっていうんですか!このままでは死んでしまいます。ディーテ、こっちに寄こすんだ」
ブラッドがディーテの腕の中から赤ん坊を抱きかかえると、赤ん坊の視線は実験室の中にある実験中の機械に向けられた。赤、青、黄の3色に光るエレメントコアに小さい手を伸ばす。
無邪気な赤ん坊はエレメントコアに手を伸ばし、その光に触れるたびに、獣化していた時の魔力の安定感を無意識に思い出すようだった。
笑顔になると、獣化が解けて、黒い毛がなくなり、肌が見えた。
「何が起きた?エレメントコアを見て喜んでいるのか?」
赤ん坊をエレメントコアに腕を伸ばし、近づけてみた。すると、満面の笑みをこぼした。
「ブラッド君、だめだ。まだ停止したばかりで何が起きるかわからない」
ブラッドはすぐに赤ん坊を胸元に戻し、あやし始めた。先ほど獣化していたとは想像できないほど、赤ん坊はすやすやと眠り始めた。
「寝たのか。ディーテ、毛布か何かあったか?」
ディーテは頷くと、急いで取りに向かう。
「所長、この子、ここで預かってもいいですか?」
「馬鹿を言うな。ここは養護施設じゃないんだぞ」
「僕が面倒を見ます。所長もこの子に興味があるんじゃないですか?」
所長は返す言葉が見つからなかった。確かに、赤ん坊で成人と同等の魔力の安定感は、研究者としての血が騒ぐ。道徳心と研究心を天秤にかければ、答えは分かっていた。私たちは研究者なのだから、研究心を捨てることはできない。心の天秤が傾いた。
「分かった。研究対象として、この研究所で預かることを許可しよう。データ君、あの子の服を作ってやってくれ」
ブラッドは所長の言葉を聞きながら、胸中で強く誓った。(研究者としてではなく、一人の人間として、この子を守れるだろうか。研究の好奇心が、いつかこの子の未来を奪う気がしてならなかった)
「はい!もちろん喜んで。じゃあ、作ってきますね!」
8歳のデータは椅子から降りると、大きく手を振って研究室を出ていった。
「ブラッド君。とりあえず今夜の実験は中止だ。明日はヘファイストス君に頼んで、子供部屋や必要な部屋を作ってもらうといい。ああ、名前はどうするんだい?」
「ああ、確かに名前が必要ですね。黒い獣化した赤ん坊か…。クロ……。クロっていうのはどうですか?」
所長はセンスのなさに頭を抱えた。だが、寝ていたはずの赤ん坊が「クロ」と聞くと喜んでブラッドの顔を見る。クロの誕生によって、研究所は賑やかで慌ただしくなっていった。
3歳になったクロは、子供部屋で一人で遊んでいられないやんちゃな子になっていた。誰かと遊んでいてもすぐに研究室に行き、エレメントコアを眺める。そのたびに実験が中止になったが、研究が進展していなかったこともあり、誰も文句を言わなかった。
「データ、おもちゃほしい」
クロは学習能力が高いのだろうか。研究所に来て半年で普通に歩き、大人たちと普通に会話をした。精神年齢が年相応なのが、唯一の救いだろうか。
「クロ、昨日作ってあげたばかりだろう。ブラッド、ちょっと相手して。私は今忙しいから」
ブラッドはクロを抱きかかえ、研究室を出て子供部屋に連れて行った。子供部屋と言っても、資料室の床を子供が転んでもいいように柔らかくしただけで、殺風景な部屋だ。
「じゃあ、クロ。歴史の勉強でもするか?」
ブラッドは笑顔で言った。とても子供が喜ぶような話ではないが、クロはブラッドの笑顔が好きだった。歴史や魔獣の誕生の仕方、能力の使い方など、3歳相手に真剣に教えていた。クロは嫌な顔一つせず話を聞いた。
夜になると、ディーテとデータに研究棟内の浴場に連れていかれた。クロが来るまではシャワー室しかなかったが、ディーテがヘファイストスにお願いして作ってもらったのだ。ディーテがデータとクロの頭から身体まで洗うのが、日課となっている。慣れた手つきで2人の頭を洗う。
「データ、あんたも女の子なんだから、少しは自分で手入れしなさい」
「私は研究にしか興味ないの。手入れなんてしてどうするの」
「そうだ、そうだ。お風呂なんか入らなくてもいいじゃん。遊んでいたい」
「もう、クロはダメなお姉ちゃんの真似をしなくていいの。きれいにしないと将来モテないよ」
ディーテは洗い終えると、2人にお湯を頭からかけ、湯船につかるように指示をした。そして、長い髪を洗い始めた。クロはデータに抱きかかえられるように湯船につかるのが、毎度の恒例だ。湯船で過ごす暇な時間は研究の話ばかりだが、聞いていると飽きなかった。
「クロもずいぶん大きくなったな。将来は研究者になるのか?」
「うーん、わかんない。でもね、話を聞いていると面白いよ」
「じゃあ、将来は私と結婚でもするか?」
「えー、でも男同士は結婚できないって、ブラッドが言ってたよ?」
「私も女ですけど」
「ディーテと違って、おっぱいないから男でしょ。ほら、ぺったんこだ」
クロは振り返り、データの少ししかない胸を両手で叩いて、無邪気に笑っていた。データは気にしていることを言われ、カチンときて、殺意を湧かせた。
「こら、クロ。女の子に失礼なこと言っちゃいけません。ほら、こっちにおいで」
ディーテは洗い終えて湯船に足をつけると、クロに呼びかけた。
「はーい」
クロは素直にディーテの方に向かい、抱き寄せられる。
「データも子供の冗談、本気にしないの」
「別に本気にしてないし。いつか大人の魅力を見せてやるんだから」
静かに湯船に潜った。こうして、まったりとした時間が流れていった。次の年までは…。




