探索
謁見が終わると、邪鬼捜索と院内警備の任務は午後からということになり一旦解散となった。
「何だかのんびりしているね。僕たちお客様扱いだし」
「ああ、そのほうがいいのさ。本当は俺たちなんか院内に入れたくないんだから。警備事務局の連中は死体発見直後から血眼で捜索を続けてるさ。俺たちに邪鬼を発見されたんじゃ面目丸つぶれさ」
「僕らに邪鬼を見つけて欲しくないんだね?でもある意味楽じゃない?ジイちゃんも言ってたよね、他の鬼士達を見張ってくれてればいいって」
「そうだ。邪鬼探しは院の連中に任せておけばいい。彼らなら邪鬼を相手にするときのノウハウも持ってるんだし。俺たちは外部の鬼士達の動きを見張るとしよう。特にロシア鬼士の二人は要注意だ。あの二人、防衛省の推薦らしいからな」
「弁慶と須佐之男は?」
「うーん、あの二人なぁ。裏で動き回れるタイプには見えないが― まあ先入観は禁物だ。目を離さないようにしよう」
「みんなを同時に見張るのは無理だよ。僕たち別々に行動するほうがいいかな?」
「バラバラに動くのはやめよう。ちょっと見え透いてるしな。それに京、お前俺と行動しないんなら授業に出なきゃなんないだろうが」
「げっ― そうだった」
「台湾チームと組めるといいが。様子を見て話してみるか。とにかくちょっと何か腹に入れようぜ。それから午後に備えて資料を見直そう」
「え、またぁ?」
「まただ。準備にしすぎるってことはないぜ?出来のよい弟よ」
京は他の者には見せない不満顔を浮かべながらも城太郎に従った。
午後。城太郎たち外部鬼士達はそれぞれ院の警備事務局の鬼士達と組んで邪鬼の探索と院内の警護に当たることになった。城太郎達が組んだのはまだ若い葉村という鬼士だった。背丈に僅かに満たないぐらいの短槍を持っている。この若さで院に職を得ているのだから相当な実力の持ち主か、あるいは有力者にコネを持つ名鬼門の出身なのだろう。
「葉村甲陽と申します。紫苑流には何人か友人がおります。正雪殿と組めて光栄です」
「こちらこそよろしく。葉村殿は流派は?」
「はい、一文字流です」
一文字流は宝蔵館流と並ぶ槍術の二大流派の一つだ。荒々しい力技が特徴の宝蔵館流に比べ、一文字流は流麗な槍捌きが真骨頂だ。名鬼門の槍遣い達はどちらかというと一文字流を好む傾向にあるようだ。
他の外部鬼士たちもそれぞれ院の鬼士達と顔合わせを行っている。山田鈴木の二人はお仕着せらしい黒革のバトルスーツ姿だ。よくあのサイズがあったものだと城太郎は感心する。
「あの二人、邪鬼と聞いて気持ちが引き締まるといいんだが」
城太郎のさりげない独り言に甲陽は声を落として笑った。
「だといいのですがね」
甲陽の口調や顔付には皮肉の影が滲んでいる。山田鈴木をどう思っているか、外部鬼士を院内に入れることをどう感じているか、甲陽は本音を隠さず表に出したように見える。城太郎を身内と認めたうえでのことなのか、あるいは若い甲陽がついうっかり本音を見せてしまったのか。感覚に優れた鬼人は相手の表情や声音一つで本心を察するため、鬼門に育った鬼人たちは幼いころから瞬きや眼球の動き、表情や仕草をコントロールすることを学びながら育つ。里に生まれ育った城太郎は最初これがなかなか上手くできずに苦労したものだ。今でも時折京から「兄者、顔に出ちゃってるよ」と言われることがあるくらいだ。
城太郎は話題を変えた。
「そういえば、宗円様の姿が見えませんね?」
「ええ、宗円様は偶然院内に逗留されていただけの、いわばお客様でして。事件を知ってご自分から協力を申し出てくださったのです。何しろ有名な探偵ですからね。上からは自由に院内を調査していただけとの指示です」
「そうですか」
つまり城太郎たちは自由に院内を調査できる立場にはないということになる。あくまでも甲陽の補佐役というのが与えられた役目らしい。城太郎は宗円への扱いに少し引っかかるものを感じながらもそれ以上は尋ねはしなかった。
甲陽との院内警護はかなり退屈なものだった。観光客のいるエリアもあるためコジロウは首輪とリードを着けなければならず居心地悪がそうだ。城太郎は防衛省武官の殺された講堂周辺を調べてみたかったが、甲陽は屈託のない笑顔を浮かべて院内を歩き回り、観光客に挨拶をしたり、道を教えたり、一緒に写真に収まったり、子どもたちに鬼士カードを配ったりした。
「これも鬼士の仕事ですからね。里はもちろん海外からの観光客の皆さんにもよい印象を持ってもらわねば」
鐘の音が鳴って時を報せる。
「おっ、三時か。おやつにしましょう」
公務中であってもおやつ休憩はしっかり取るらしい。こういうところをみるとやはり何不自由なく育った名鬼門のお坊ちゃんなのかも知れない。手近の茶店に入る。店の奥のテーブルに座ると甲陽は「私が注文してよろしいですか?」と断って、町娘姿の店員に「抹茶とバームクーヘンを三つ。伝票でね」と注文する。どうやらここは警備事務局の経費で落ちるらしい。
「ここの抹茶、院内では一番美味いんですよ」
しばらくすると茶を点てる甘い香りが漂い、立派な碗に入った茶が運ばれてくる。甲陽は片手で椀を掴むと一口ガブリとやる。仕草が堂に入っている。城太郎と京も茶を飲む。自然の甘さとほろ苦さが丁度良く、熱過ぎずぬる過ぎず絶妙の温度で供された茶は舌と喉にとても心地よい。京が思わず「美味しい」と呟く。甲陽が「だろ?」と笑う。
「茶も美味しいですが、この椀もよいですね」
「分かりますか?椀もここの主人が焼いたものなんです。丹波に立杭焼の窯を持っておられて」
「私は無骨もので焼き物の善し悪しなど分かりませんが、手にしっくりくるというか、とても自然な佇まいですね」
「私もそう思います。初めてここの茶を飲んだときに、ああ一本取られたなって思ったんです。我々鬼士はすぐに剣だ槍だと大きな顔をしますが、ここの茶を飲んでみて、一服の茶と椀にこれはやられちゃったなと。後から知ったのですがここのご主人は丹波にその人ありと謳われた名鬼士だったそうで。生涯武器を持つことなく鬼士人生を終えられ、今はここでこうして茶を点てておられるわけです。道を究めるに剣も茶もないと思うようになりました。そこでこうして週に二三度は店に通いながら、俺も頑張ろうと自分を励ましているわけです」
茶を飲み終えるとバームクーヘンの皿と普通の緑茶が運ばれてきた。甲陽は砕けた調子で店員に礼を言い、城太郎と京を簡単に紹介する。店員は城下に住む鬼人でアルバイトらしい。店員と話すときの甲陽はとても楽しそうで、どうやら足繫くこの店に通うのは茶と椀だけではないらしい。
これも店の奥で焼いているというバームクーヘンを食べ終え、店を出て院内の見回りに戻る。しばらく院内をグルグルと歩いていると人の騒ぐ気配があった。三人が早足になる。
「あっ」
京が声を上げる。人だかりの向こうに黒い塊が二つ。山田弁慶、鈴木須佐之男だ。ニワトリのように体を膨らませて陰険な目つきで院の鬼士を威嚇している。全身から漂う鬼気は廃ビルの地下室で小銭を賭けて闘う喧嘩ファイターのそれだ。まるで品格というものが無い。悪意を剥き出しにする獣だ。三人は急いで人垣に走り寄る。
「よさないか!二人とも!」
両者の間に割って入ったのは二人と組まされていた左近次という務局の鬼士だ。鬼目線で八〇前後に見えるが体は引き締まっており声にも張りがある。
「見っともない真似をするな!警備に戻るんだ!」
山田が反吐が出そうな笑いを浮かべて左近次ににじり寄る。
「散歩なら爺さん一人でやりな。邪鬼を見つけたら呼んでくれや」
「そもそもそいつが俺たちを馬鹿にしたんだ。土下座して謝んな。そしたら身ぐるみ剥ぐだけで勘弁してやる」
注意を分散させるためか鈴木が左近次の斜め前から近づく。
止めなくては―
人垣を割って近づこうとした城太郎の肩をそっと掴む者がいた。ハッとして振り向くと宗円が立っていた。宗円は城太郎と甲陽に囁きかける。
「嫌だよね、ああいうのは。だがもう少し様子をみよう。左近次殿にも院の鬼士としてのプライドがあるはずだ。裏鬼士風情に院内で絡まれた挙句、外から来た鬼士に助けてもらったのでは顔が立たんだろう。それでは助けたことにならんよ」
山田がハンマー手をかける。使い込まれて飴色になった木製の柄。その先に嵌め込まれ たビールジョッキほどもありそうなハンマーヘッド。ヘッドの打撃面は使い込まれてピカピカに光っており、すさまじい怪力で何度も何度も標的に叩きつけられてきたであろう証拠に、四角い打撃面の縁にバリができている。戦槌のようにハンマーヘッドの打撃部分が山型に尖っているわけでもなく、威圧的な彫刻が施されているわけでもないが、その無骨で飾り気のない武器は本物の悪意を感じさせた。山田が指無しの皮手袋を嵌めた手で柄の先を持つ。指先で回したり、ヌンチャクのように振り回したり、かなりの重さがあるはずのハンマーを器用に操る。
「よさんか!その道具を仕舞え!」
山田はニィと歯を剥きだして笑う。
「あんたも俺っちを馬鹿にすんだな?え?こいつは道具じゃねぇ、武器だぜ?おいらの愛用の得物さ。剣や槍でないと武器じゃねぇのか?ハンマーやスパナは貧乏人の道具か?え?」
チャッと微かな金属音。鈴木もスパナを手に取った。
「こいつは俺たちの武器だぜ。これまで何十人という糞野郎を沈めてきたとびきりの武器さ」
「さあ、鬼がこうして武器を取ったんだ。それでもあんた俺たちをゴミ扱いすんのか?道具を仕舞って仕事に戻れだと?糞喰らえだ、おっさんよ」
「あんたも抜きなよ。鬼士なんだろ?ブルったのかい?本当は怖いのかい?」
左近次が「止むを得ん」と呟くのが聞こえた。腰に差した刀をスラリと抜き放つ。人垣からホウッと溜息が漏れた。
「弁慶、本当にやっちまうのか?良い金になる仕事だったんだがな」
「鬼士院なんざ糞喰らえだ!このジジィぶちのめしてさっさとおさらばしようぜ」
「しょうがねぇなぁ、やるか」
山田はスウッと息を吸い込むと体内で鬼気を練り上げる。山田の顔から一瞬馬鹿にしたような笑みが消えた。
「西国鬼士連合、山田弁慶が必殺技、大地鳴動」
山田が気合と共にハンマーを振り下ろす。左近次との間合いは三m。届くはずもなくハンマーは地面に叩きつけられた。
「おっと⁉」
宗円が驚いたように声を上げた。地面がグラッと揺れたような感覚があり、同時に静電気放電を喰らったようなショックを感じる。
「ムッ―⁉」
左近次が視線を落として足元を見る。人垣の中にいた城太郎ですら足の痺れを感じたほどだ。左近次は下肢にかなりのショックを受けたはずだ。同時にバンッと火薬の爆ぜる音。鈴木がショットガンを撃ったのだ。さすがに実弾ではなく岩塩弾を使ったようだが、それでも近距離から、鬼力を乗せて撃たれた塩玉にはヘビー級ボクサーのパンチ並の威力がある。左近次は真後ろに吹っ飛び両手で腹を抱えてのたうち回る。鬼士でなければ内臓が破裂して死んでいてもおかしくない。
「キャッホーイ!」
山田と鈴木は歓声を上げてジャンプしながら体をぶつけ合う・
「なるほど、大地鳴動で足を止めておいてショットガンでとどめか。ショットガンを撃ったほうは大地鳴動に合わせて軽く飛び上がって鬼風をやりすごしていたな。卑怯ではあるが実践では有効だ。おっと―」
一人の錬成院の学生服姿の青年が人垣の中から歩み出て尻もちを付いている鬼士の肩に手をやる。最初に山田鈴木に絡まれていた鬼士だ。
「大丈夫ですか?歩けますか?」
どうにか頷く鬼士。青年は振り返ると「二人を医務室へ」と人垣に向かって声をかける。どうやら級友らしい同じ制服姿が二人飛び出してきて左近次に肩を貸す。青年は地面に着いていた片膝をポンポンと払うと山田と鈴木に向き直ると静かに言った。
「僕は日向丘三四郎といいます。錬成院の二回生です」
三四郎は学生服のポケットから千鳥格子の手拭いを取り出し、豊かな黒い長髪を覆った。眉目秀麗という言葉がぴったりの顔立ちだ。三四郎は刀袋の口を解き木刀を取り出すと山田鈴木から目を離さずに一礼する。
「一手ご指南いただけますか」
静かな落ち着いた声。その礼節をわきまえた態度は三四郎の怒りが尋常ではないこと際立たせていた。事実三四郎のまなじり辺りには尋常でない鬼気が漂っている。山田と鈴木はチラリと目を合わせニタリと笑う。
「まずい」
宗円がそう呟いて「行こう」と城太郎の肩を叩く。城太郎は仔細は分からないながらもとにかく止め時だと判断して宗円に続いて人垣を抜けて前に出る。宗円は三四郎に笑いかける。
「日向丘君、ここは私に任せてほしい。錬成院の学生である君に醜い喧嘩をさせるわけにはいかないからね」
宗円は両手を広げて人垣を見回す。
「やあ、お集りの皆さん。ご機嫌麗しゅう、鬼士探偵風祭宗円です」
宗円は芝居ががった身振りで見物人に挨拶する。観光客の入り込まない区画でもあり見物人は院の職員や鬼士達ばかりだったため歓声はほとんど起きなかった。それでも宗円は満面の笑みを絶やさない。
「やぁ、ありがとう。おや、他の客分たちも見に来ているようだね。せっかくだ、ここで皆さんにご紹介させていただこう。さぁ皆、そんなところにいないで。入った入った」
人垣の中から陽と李の台湾コンビ、イルクーツォとイシグロのロシアコンビも人垣を割って入ってくる。イルクーツォは巨大な灰色の犬を連れている。ロシアンタイガードッグだ。申し訳程度に首輪と引き綱を着けているがこの犬にしてみれば紙のこよりのようなものだろう。コジロウは勇気を奮い立たせ尻尾を股間に巻き込みそうになるのを堪えているようだ。京がよしよしと首筋を撫でてやる。
「我々は客分扱いで院に招かれた鬼士。院の鬼士達と揉めるのはいかにもまずい」
「何がまずいもんかい。鬼士院にベタベタ色目使うんじゃねぇ、このタレント探偵が」
「お二人とも威勢のいいことだが、あれを御覧なさい」
宗円が人垣の外を指さす。精錬鬼士団の鬼士が五名、警備事務局の衛士を従えてこちらを見ている。
「あなたがたを逮捕しに来たのでしょうな。客分とはいえ院内で喧嘩騒ぎをおこし院の鬼士に怪我をさせている」
「報酬なんざ興味ないね。お望み通り出てってやらぁ」
「出ていけますかねぇ」
宗円は嬉しそうに笑う。
「詳しく、本当に細かいところまで、何度も何度も調べられるでしょうねぇ。この喧嘩だけじゃない。他のことも、色々とね」
山田と鈴木が陰険な目付きで宗円をねめつける。宗円は涼しい顔だ。そこへ義信が走り寄ってくる。鬼士団を呼びに行っていたのだろが手に何かぶら下げている。見ると二羽の鶏、羽根をむしり頭と落とし内臓を抜き下処理を済ませた鶏肉だ。
「やぁ、ありがとう義信」
宗円は義信から鶏を受け取る。義信は表情を変えずに宗円の脇に立った。
「さて、同じ鬼人同士角を付き合わす必要はないだろう。我々客分同士でゲームをしようじゃないか」
「なんだ?アイアンシェフ対決でもやろうってか?」
「いいね、でもまたの機会にしよう。鬼士団の皆さんは気が短いから」
宗円は鶏を高く掲げながらイルクーツォを振り返る。
「確か犬に鶏肉をやっちゃダメなんだったかな?」
イルクーツォは微かに冷笑しながらロシアンタイガードッグの耳元を掻いた。
「問題ないわ。牛でも豚でも鶏でもね。馬とか羊とかでも大丈夫」
ほとんど訛を感じさせない日本語だった。
「アリッサは胃腸がとっても丈夫なの。本国では放し飼いにしてるから自分で狩りをして獲物を獲ってるんだけど、時々アリッサの小屋に鶏の羽根が落ちてるもの。水鳥だの、鷲とか鷹のね。鳥も獲って食べてるんだわ」
ロシアンタイガードッグの名前通り大人の虎並の体躯を持ったこの犬は女の子らしい。
「アリッサにゲームに協力してもらいたいんだが」
イルクーツォは小首を傾げて軽く肩をすぼめ「まぁいいんじゃない?」といった表情を見せた。
「さてと、城太郎君、手伝ってくれたまえ」
城太郎は「嫌な予感がしたんだ」と京にだけ聞こえる声で呟く。
「さてゲームだ。弁慶君と城太郎君がプレイヤーとして参加する。ただし、二人が争うのではない。相手は自分。自分の心との勝負だ。やってもらうのは勇気のゲーム」
「勇気って?」
「簡単。この鶏肉を手に持ってアリッサ嬢に近づく。そして手から鶏肉を食べてもらう。それだけさ」
イルクーツォの笑みが更に深くなった。
「断っとくけどアリッサはまだ子どもだからとっても甘えん坊なの。人の手をおやつごと丸飲みにして甘噛みをするのが大好き。まぁ甘噛みと言っても結構痛いかも。インフルエンザのワクチン注射くらいにはね。怖がって手を抜こうとすると手首ごとガブリとやられるわ。いい?わたし、ちゃんと言ったわよ?後でクレームつけるのは勘弁してよね」
イシグロも頷きながら歯を剥きだして笑っている。
「と、いうわけだ。このゲームに勝てば我々客分鬼士は鬼士団に対して山田鈴木両名は卑怯な行いはしておらず、喧嘩のきっかけも双方にあると証言しよう」
「で― 負けたら?」
「ありのままを話すさ」
山田はあからさまに舌打ちをしてアリッサと背後の鬼士団を交互に見た。城太郎は少し未練がましく「勇気のゲームなら私は必要ないのでは?」と目立たないように抗議する。まぁまぁと宥める宗円。
「さて、では弁慶君からだ」
宗円が放った鶏肉を憑かんだ山田。覚悟を決めたようにアリッサに向かって歩き出す。五mまで近づいたところでアリッサが遠雷のような唸り声を上げ始めた。鬼士のとってはまだ間合いの外でもアリッサには攻撃圏内なのだろう。山田が自分に向ける意識を敏感に感じ取り、そこから入ってくるなと警告しているのだ。山田がもう一歩踏み出す。アリッサの後足と腰のバネがギュッとたわんでいつでも飛び出せる態勢になった。鼻の脇に皺を寄せて犬歯を剥き出す。山田はしばらくアリッサと睨み合っていたが、やがて視線を落とすと手に持った鶏をアリッサに向かって放り投げる。アリッサは空中で器用に鶏をキャッチするとバリバリッとふた噛みほどして、後はチャッチャッと口の周りを舐めているだけ。
「残念だな。二人とも。あとは鬼士団に任せるとしよう」
「待ちなよ、さんざんデカい口きいて俺たちをゴミ扱いしてよ。そいつもやるんだろ?とっくり見物させてもらうさ」
宗円は「あぁそうだったね」とでもいいたげな表情で城太郎に鶏を手渡し城太郎の肩を叩くと、すました表情でハンカチを取り出し手を拭った。城太郎は小さく溜息を吐いてからアリッサの方を見る。アリッサの表情はおやつを貰えそうな期待というより、獲物の動きを見張るそれに近い。五mまで近づくと先程と同じように警告音代わりの唸り声を上げ始める。城太郎は高い音域の口笛を吹きながら伸ばした人差し指を高く挙げたり下げたりしながらアリッサの注意を惹きつける。アリッサの目が人差し指を追っているのを確認してそっと一歩踏み出す。アリッサが打ち上げ寸前のロケットよろしく腰を振って発進体制を整える。大抵の犬は騙されるテクニックもアリッサには通じないようだ。
「うーん、仕方なないか」
城太郎は呟いて懐から短刀を取り出すと、しゃがみ込んで短刀で地面をトントンと叩いた。再び歩を進めてアリッサに近づく。アリッサは相変わらずグルルと唸りながら城太郎を見上げている。三m、二m、一m、ついにアリッサの鼻づらの前に城太郎が膝をつく。ジャリッと革草履が小石を食む。アリッサがビクリと体を震わせ歯を剥き出す。城太郎は数舜動きを止めた後、そろそろと鶏を持った左手をアリッサの口元に近づける。不意に、トラバサミの弾ける速さでアリッサが動く。次の瞬間にはもう城太郎の左手は鶏ごと手首までアリッサに飲み込まれていた。アリッサが上目遣いに城太郎の様子を窺う。城太郎がそろりそろりと左手を抜く。掌が現れ、指先が見えた。アリッサが顎の筋肉をモコモコさせながらバリバリと鶏を噛み砕く。人垣から一斉に溜息とも歓声ともつかぬ声が上がった。
「いや、これはお見事だ、城太郎君!」
近づいてきて祝福する宗円の肩口を城太郎は左手で叩く。アリッサの涎でまるでエイリアンの口吻に捉えられたかのようにベトベトになった左手を宗円の高価なオーダースーツの肩口でさり気なく拭う。宗円はギョッとした表情になりスーツについた手形の染みを見つめたがすぐに苦笑を浮かべる。
「すまなかった。君なら上手くやってくれると思ってね」
「でも宗円さん、どうやって鶏なんか手配させたんです?」
「決まってるじゃないか。面倒なことになるのは予想がついたからね。あのバカでかい犬を見てね、すぐそばにある鳥鍋屋に義信を行かせたんだ」
そう言って宗円はスーツの内ポケットからスマートフォンの端末を覗かせる。
「禁止なのでは?」
「いいんだ。私達は特別に許可を得ているから。一応皆には内密にね」
縄手錠姿で連行される山田と鈴木。
「少しお灸を据えられるくらいで解放されるさ。院の連中は本格的に政府系の鬼士達を送り込まれるよりもああいう手合いの方がまだましだと思ってるだろうから」
近づいてきた三四郎が二人にお辞儀をする。
「お見事でしたね正雪殿。改めまして日向丘三四郎といいます」
城太郎も礼を返して名乗る。客分鬼士の話は院内でも広く知れ渡っているらしく、三四郎は城太郎の名も伝兵衛の弟子であることも知っているらしかった。
「先程は胸がスッとしました。しかし正雪殿、失礼ですが動物使いとは知らなかった。あの口笛を使った技、ああいうやり方は初めて見ました。どこで身に着けられたのですか?」
実は口笛と指の動きで犬を手なづけるやり方は子供の頃、山中で野犬に出くわした時に難を逃れる方法としてゾンビ達に教わったのだ。もっとも鬼犬であるアリッサには全く効果がなかったのだが。アリッサを大人しくさせた本当の方法を話したものかどうか迷っていると宗円が助け舟を出した。
「三四郎君、われら客分は院からの依頼で任務に就いている。話せないことも多いのだ。今日はこれぐらいにしよう」
「えぇ知っています。噂では邪鬼が出たとか。軍から出向中の武官が亡くなったのでしょう?」
「さぁさぁ三四郎君、我々をあまり困らせないでくれたまえ。知るべきことはちゃんと院が知らせるさ」
三四郎もさすがにこれ以上はしつこいと思ったのだろう。一礼して去っていく。宗円は三四郎が十分に遠ざかってから城太郎の肩を抱いて顔を寄せ内緒話の態勢になる。
「君の素晴らしい働きへのご褒美にいいこと教えよう。あの日向丘三四郎君だがね、実は赤の宮様の子なのだよ」
「まさか⁉」
赤の宮様。王鬼、つまり皇鬼の長であるところの鬼士院院長の別名である。
「本当さ。院内でもごく限られた者しか知らないがね」
生まれた子が女児であれば院長候補として育てられるが、男児であれば即養子に出される決まりだ。
「本人は知っているのですか?」
「さぁな。知らないのが普通だし、知らないほうがいいのではないかな。あぁこれ、絶対内密で頼むよ。さぁ、君も院内巡回を続けたまえ。私も調査に戻るとしよう」
宗円は腕を解いて軽く手を上げると義信と共に歩き去る。遠慮して離れていた甲陽が駆け寄ってくる。
「凄かったですね城太郎さん。あいつらシュンとして引かれていきましたよ」
「いや、宗円さんの無茶振りでちょっと泡喰っちゃったよ」
城太郎の裾を京がちょいちょいと引く。イルクーツォとイシグロがこちらに近づいてくる。アリッサも軽く尻尾を振りながら城太郎を真っすぐ見つめて歩いてくる。
「城太郎、なかなかやるじゃない。少し驚いたわ。だってアリッサは基本私や私の本国の家族からしか手渡しで食事を貰わないから。イワンだって怖がってやらないくらいよ」
「そうか― はは、そういうのは出来るだけ事前に警告して欲しいな。予防注射は苦手なんでね」
「予防注射どころか大抵手に穴がいくつか空いちゃうわ。向こうが透けて見えるくらいの穴がね。中には指とか手首を持っていかれた人もいるし。あ、いつもじゃないのよ?アリッサの機嫌の悪い時にたまたま、ほんの四五人だけ、ね?」
「四五人ねぇ…」
横で京が「兄者、顔が怒ってるよ」と囁く。
「ほうら見て?アリッサったらこんなに尻尾振って。城太郎、すっかりお友達認定されたわね。良かったねぇアリッサ、お友達ができて」
アリッサはすっかり打ち解けた表情で、大きなおろし金のような舌で城太郎の袴の裾を舐め回しベトべトに濡らした。
「要領は悪そうなのに運はいい。何もしないのにいつの間にかその場を切り抜けてしまう。時々そういう人がいます」
「城太郎君のことかい?義信」
宗円は歩きながら尋ねる。
「紫龍正雪は動物使いなのでしょうか?そうは見えませんし、データを調べても剣士としか分かりません。大会や立ち合いでも大した結果は残していませんし」
「義信、正雪殿か正雪様と呼びなさい。少し傲慢だぞ?」
義信はほんの少し間を置いて「はい」と答える。
「何か技を使ったのに違いないのですが。動物を操るというデータは出てきません。とすると薬か、眼術でしょうか?腕に薬を― いや、まさか、師匠が鶏肉に何か仕込んだのですか?あのクズ共を遠ざけるために?」
宗円は義信にも聞こえるように「フゥム」と溜息を吐く。
「少々品がないぞ義信。相手の鬼力や得意技を知るのは大切なことだ。特に相手が敵の場合はな。城太郎君達は敵ではない。友人になりしばらく付き合えばいつか自然と分かることだ。よく見て分析したことを頭の中のキャビネットに仕舞っておけばいい。あれこれ詮索するような真似はやめなさい。彼の身元調査をしているわけではないんだ」
義信はまた少し沈黙を挟んでから「はい」と返事をする。
「義信、データやプロフィールで相手を測るのは愚かなことだぞ」
義信は黙って聞いている。宗円は足を止めて続ける。
「実際に剣を合わせたり、顔を見て話さないと分からないことも多い。相手の風を感じて初めて相手がどのような鬼士なのかが分かるんだ。データやプロフィールは事実の一端だが、特定の項目を選んで見せることも、見せないこともできるんだ。実際、我々だってそうしているだろう?」
義信は「はい先生」と答えて、後は口を閉じたまま宗円に付き従って歩いた。