占い師は告げる
「メープルバターとチョコクリームを一つずつ」
京は五円銀貨を一枚カウンターに置く。鬼士院名物の米粉の揚げパンの店だ。春休み明けの平日にも関わらず京の後ろには五人ほどの客が並んでいる。アルバイトの大学生らしい女性店員が揚げパンに包丁で切れ目を入れ、ステンレスのへらでバターをたっぷり塗りつけ、次いでチューブに入ったメープルシロップをたっぷりと絞りかける。もう一本の揚げパンにはふんわりとしたチョコクリームを溢れるほどたっぷり挟む。店員はチラリと京を見てニッコリ笑うとチーズ削りを使ってレンガのようなチョコレートブロックを削り、クリームの上に降り積もらせる。チョコ掛けは頼んでいないからサービスのようだ。揚げパンを白い油紙でくるむ。
「お待たせしました。メープルバターとチョコクリームで四円五〇銭です」
店員はカウンターの銀貨を取って五〇銭銅貨を置いた。
「ありがとう」
京は店員にお礼を言って五〇銭銅貨をカウンター脇に置かれた「あしなが育成募金にご協力を」と書かれた募金箱に入れた。
「修行頑張ってね」
「ありがとう。お姉さんも仕事頑張って」
京は揚げパンをもって少し離れた広場のベンチまで戻る。待っていた城太郎にメープルバターの方を渡す。
「削りチョコおまけしてもらっちゃった」
「へぇ。あの子と何話してたんだ?」
「修行頑張ってって。それだけ」
「ふぅん。僕はまだ正式な弟子ではないので修行も始めてませんとか、言わなかったのか?」
「言わないよ。正式な弟子じゃないのはそうだけど、修行はしてるし。兄者の身の回りの世話をしたりするのも立派な修行でしょ?」
「まぁな。ちょっとしたお使いでも心掛け次第で立派な修行だからな。鬼道の本質は日常の生活の中にあるんだ。それを見つけることが修行の目的だ」
「はい兄者。良いこと言うね。いつか僕も弟子に向かって今の言葉を言ってみたいな」
「実は俺もそう思ってたのさ。今のセリフ、俺がまだ小さい頃に師匠から言われたセリフでさ。おかげで子供の頃からの夢が一つ叶ったよ」
城太郎は揚げパンにかぶりつき、これも京が買ってきたサイダーを呷る。京は口一杯に頬張った揚げパンをちゃんと飲み込んでから言った。
「兄者は邪鬼が怖くないの?」
城太郎は虚栄を張ること率直に答える。
「怖いに決まってるだろ。邪鬼が怖くない鬼士なんていないさ。ま、院長を始め皇鬼たちや精錬鬼師団の精鋭たちはどうか知らんがな」
「じいちゃんの頼みだから断れない?」
「ん― それもあるが、師匠と辛丸様も言ってたろ。後方支援とはいえ邪鬼退治に参加する機会なんて滅多にない。普通に考えれば俺みたいに市井の執行官やってる鬼士が邪鬼退治に関わることは一生無い。確かにいい機会、いいチャンスなんだ。俺達にとってな」
京は兄者に野心は似合わないなと感じたが素直にそれを口に出すのを躊躇った。ひょっとすると城太郎は京の今後を考えて危ない橋を渡ろうとしてくれているのかもしれないと思ったからだ。二人は黙々と揚げパンを食べサイダーを飲んだ。やがて城太郎は汚れた指先と口元を包み紙で拭いクシャッと握りつぶす。京が城太郎からゴミを受け取って広場脇のゴミ箱に放り込む。空に少し夕暮れの気配が出始めている。
「さてと。宴会は七時からだったな。まだ時間あるから部屋に戻って資料見るか」
「あの映像、また見るの?」
京が気乗りのしない声で尋ねる。
「何度か見ておくほうがいい。確かにあまり気持ちのいい映像とは言えないがな。少しでも邪鬼の、邪鬼狩りの現場の雰囲気に慣れておくんだ。万が一、邪鬼と出くわした時に恐怖と緊張で体が固まっちまうとアウトだからな」
「やっぱり、僕らも出会うかもしれないよね?邪鬼に」
城太郎は直接その質問には答えなかった。
「揚げパン一つじゃ宴会まで腹がもたんな。どうせ会が始まればお偉いさん達のご挨拶を長々と聞かされるんだし。それが終わったと思ったら次は師匠の知り合いに挨拶だ。やれやれだな。京、握り飯かサンドイッチか、何か軽く腹に入れる物を買ってきてくれ。ちゃんと喰うことが体力の源だ。そして体力は勇気を生む。勇気は鬼虫を活気づけ、俺たち鬼士を強く、速く、賢くしてくれる。怖い時や落ち込んだ時は何か腹に入れろ。できれば暖かいものをな」
「はい兄者」
京が店の方へ駆けていく。城太郎は京の後姿を見送りながら顎の先を指先で撫でた。何事か思案する際の城太郎の癖だ。邪鬼退治の話は乘るしかない。京が言った通り師からの依頼を断るのが難しいというのもあるが、城太郎とて功名心が全くないわけではない。邪鬼に恐怖を感じながらも邪鬼討伐隊の一員となる魅力には捨て難いものがあった。上手くいけば自分と京の鬼士人生はより豊かなものになるだろう。特に孤児である京は自分を始めとする紫苑流神戸西道場の仲間以外に頼るべき親類も縁者もいない。京にとって邪鬼討伐隊の名前は、自身の鬼士人生を切り開いていくための大きな武器になるだろう。とはいえリスクがあるのも事実だ。正確な数字は公表されないが、討伐隊に参加した鬼士が全員無事に帰還するなど皆無だと聞いている。怪力で叩き伏せられ、骨折したり内臓を損傷したりといった程度ならまだいい。手足をもがれたりするといくら力のある鬼士でも再生には数年かかる。邪鬼の放つ強力な鬼風、鬼嵐を浴びて全身の鬼虫が死滅してしまうこともある。鬼嵐を浴びて鬼力を失った鬼士はまるで玉手箱を開けた浦島太郎のように一瞬で老け込んでしまうという。その後手厚い処置を施し続けなければ、全身の細胞が癌化し一年と持たずに死んでしまうらしい。師の伝兵衛が言う通り後方支援であればリスクは低いだろう。だが邪鬼は誰が討伐隊で誰が後方支援かなどとは考えない。手当たり次第に人や鬼や牛や豚、生き物を喰い漁るだけだ。
思い悩んで小さく溜息を吐いた城太郎に突然声がかかった。
「よい師匠とよい弟子がいて何をそんなに悩む?」
城太郎はハッとして振り返る。占い師が立っていた。淡いレンガ色の細身の装束。爪先が尖って反り返った手縫いの布靴。そして大きな赤地に白い丸が描かれた蛇の目傘。首と手には水晶の数珠飾り。傘の骨の先には真鍮色の鈴がずらりとぶら下がっている。院のお抱えではない、観光客相手に商売をする占い師。蛇の目傘のせいで顔の上半分が隠れている。占い師は傘をクルリクルリと回しながら不意に小さくジャンプする。まるでコマ落としの映像を見るように、城太郎のすぐ前に占い師が着地する。石畳の上だというのに木靴はコツンとも音を立てなかった。木靴だけではない。数珠飾りも、傘の鈴も全く音を立てなかった。仄かに甘ずっぱいフルーツの香りがふわりと漂う。占い師が傘をクルリとやる。シャラーンと鈴が鳴った。
「―!」
城太郎に緊張感が走る。身のこなしも、全身に纏う雰囲気もただの占い師のものではない。ゆったりとした声音、傘の動き、鈴の音、香りなどからすると幻術師かもしれない。先程の不思議なほど滑らかで素早い動き、あれはひょっとすると自分がもうすでに相手の術中に嵌っているせいなのかもしれない。
「師と弟子に恵まれる。これほどの幸せがあるか?師から受け継ぎ弟子に託す。お前は連綿と続く鬼門の歴史の一部というわけだ。ん?違うか?」
占い師は傘を肩に預けて小首を傾げる。その目元は孔雀を象ったらしいマスクで隠されている。紅の差された唇が蠱惑的に蠢きながら甘い香りを漂わす。麻の装束を通して豊かな胸と引き締まった尻の質感が伝わってくる。
「その朝日と鶴丸の紋、紫苑流であろう?つまりお前は紫龍公孝伝兵衛殿の弟子である可能性が高い。そしてあの少年。私は先程弟子と言ったが、彼の振る舞いは師に対するものではない。つまりまだ正式な弟子ではないのだ。少年の力不足のせいではない。お前がまだ弟子を許されぬ立場なのだろう。紫苑流の主だった鬼士の顔は頭に入っているがお前は知らん。まだ院に噂が届くほどには活躍していない鬼士だ。となると年の頃からして憲真か正雪か― うむ、紫龍正雪城太郎だな?どうだ?」
城太郎は呼吸を整え鬼力練り上げながら、いつでも素早く立ち上がれるように足を組み替える。
「良く分かったな。さぞかし有名な占い師様なんだろうな」
「そう身構えるな、正雪。お前をたぶらかすつもりなどない。お前がここに来ることは知っていた。どこの誰が誰に会いに来るか。それぐらい事前に知っていなければこの院内では生きてはいけぬからな」
どうやら随分と院内の事情に通じた占い師らしいが、それにしてもこの鬼気はどうしたことか。はったりや虚仮威しではない体の裡から滲み出るような迫力に城太郎は気圧されるのを感じた。
「何か売りたい情報でもあるのかい?」
占い師は軽やかに笑うと傘をクルリと回す。鈴が鳴って笑い声に重なる。
「私が何に見える?」
占い師は一歩前に出て開いている右手を広げる。
「占ってやろう。お前の悩み事を解決する手助けをしてやる」
「残念ながら町の貧乏鬼士でね。見料を払えそうにない」
「ふふ。金など要らん。お前を知りたいだけだ。さぁ正雪、手を」
断る間もなく占い師に左手を掴まれていた。無意識のうちに手を差し出してしまったらしい自分に驚く前に、占い師の手の感触、手から流れ込んでくる静かな鬼風に目が覚めるような思いがした。静かな吐息のような鬼風だが、深くて、濃密で、熟成されたワインのようだ。才能ある鬼人が修練を積むことで初めて発揮できる鬼風だ。
「ふうむ― なるほどな。公孝殿がお前を呼んだ理由が分かったぞ。ふん。そうかそうか。それであの少年を― ふむ、興味深い。お前はなかなかに興味深い奴だな」
占い師は城太郎の手を離すと指先を口元に当てて形良い顎を少し上げ半眼になる。
「お前は剣士だな?しかし剣を抜くよりも剣を収めるほうが得意だ。お前は剣を収めるために剣を振るう鬼士だ」
「さぁな。剣術が得意じゃないことは確かだね」
占い師は城太郎の言葉を聞き流して続ける。
「お前の強さは剣とは別のところにある。お前にとって剣はある意味飾りに過ぎん。いや、飾りというよりは杖。魔法使いの杖のようなもの。闘わぬことこそがお前の強さ。それを忘れるなよ?」
「なぁ、それって占いかい?」
「助言であり忠告。つまり占いだ。うむ、うむ。お前は強い。見かけよりもずっとな。公孝殿はそれをちゃんと分かっているのだ。そしてあの少年もそれを知っている。そうとも、お前の強さに憧れ尊敬しているのだ。はて、はて、しかし― しかしだ」
マスクの下の占い師の瞳が熾った炭火のように光る。
「しかしお前の強さ、お前を待ち受ける敵に通じるかどうか― うむ。うむ。ふうむ。そうか。そうなのか」
リズミカルに石畳を蹴る靴音に城太郎は我に返る思いがした。京が駆け寄ってきて茶色い紙袋をガサガサと振ってみせる。
「兄者、買ってきたよ。山菜おこわ。蒸したてだったから」
「あぁ― 戻って部屋で喰おう」
「まぁ待て。少年、お前も占ってやろう」
止める間もなく占い師が京の手を取る。京はキョトンとした表情で占い師を見つめ返していた。
「ふむ。これは占わずとも分かる。この指先、お前結絡縫を使うな?ふむ。年の割によく修練しているな。きっとよい結絡師になるに違いない。そうだ、良いものをやろう」
占い師は懐から畳んだ布を取り出す。大きな若葉色の綿風呂敷だ。白く般若の顔が染め抜かれている。
「結絡師は糸や紐、鞭などを能くする者が多いが、中には布の扱いを疎かにする者もいる。結絡縫の縫は包むの包をあてる場合もあるくらいだ。特に防御に回ったときに布ほど勝手の良いものはないぞ。扱いに熟達すればの話だが」
風呂敷を京の手に握らせると占い師は雲を踏むようにフワリと後ろに跳んだ。傘の鈴は
チリとも鳴らなかった。
「二人とも、あまり簡単に他人を信用するな。この城にはお前たちを陥れようと穴を掘るものが大勢いるぞ」
占い師はそう言って二人に背を向けると薄っすらオレンジ色に染まりつつある西の空の方へ立ち去っていく。
「それで占いはどうなったんだよ⁉」
城太郎が声を張る。占い師は振り返らずに答えた。
「占いなど頼るな。自分の未来は自分で切り開け」
やがて占い師は夕暮れの空に溶けるように見えなくなった。京は不思議そうな顔で占い師の去った方向を見つめていた。
「兄者、今の人、誰?」
京は占い師がくれた若葉色の風呂敷を大事そうに握りしめたまま、しばらくの間そこに立ち尽くしていた。
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