人間になりたい
「本当に、本当に、大丈夫なんですか?本当に?」
男は気弱な声で部屋にいる者たちに尋ねた。年の頃は鬼で五六十。宗円より少し年上といった感じに見える。黒い伸縮性のある機能性スーツの上下を着ており、顔と手以外はすっぽりと黒い布で覆われている。カールのかかったモジャモジャの髪の毛。少し充血した哀れっぽい目で上目遣いに室内を見回している。十二畳ほどの広さの簡素な部屋。病院の待合に置いてありそうなビニール張りの長椅子が二本。折り畳みのパイプ椅子が二脚。明るい灰色の壁には窓がなく、壁の上に換気用のダクトが取り付けられている。あとは天井に据え付けられた丸いLED照明とそのスイッチ、入口のドアがあるだけ。
「隊長からも聞いたろ?目加田。大丈夫だよ」
爪でナイフの切れ味を試していた男が面倒くさそうに答える。室内には目加田と呼ばれた男以外に男と女それぞれ三人ずつ。全員目加田と同じ機能スーツを着てその上から黒い戦闘服を着ている。目加田以外、全員が剣と銃で武装している。目加田より年上に見える者はいない。
「もし、失敗したら?私はどうなりますか?」
「だから言ってるだろ?失敗しないさ。計画は万全だよ」
男は目加田の方を見もしない。目加田は唇を震わせながら男を睨んでいたがやがて諦めたのかパイプ椅子から立ち上がった。
「すみません、トイレ―」
先程の男が少し苛立った口調で言う。
「言ったろう?そのスーツはそのままションベンして構わないって。ちゃんとションベン袋がついてて吸い取ってくれるんだ。あんたが使い方を間違ってなきゃ服や椅子をベトベトにすることはないさ」
長い足を組んでイヤフォンで音楽を聞いていた女性が眼を開ける。
「よしなさいよ蟹江。イライラの虫がこっちにも伝染するでしょ」
蟹江と呼ばれた男をひと睨みして、女は目加田を見る。
「大丈夫よ。作戦は成功するしあんたの望みはかなう。ちゃんと治療してもらえるわよ」
「そうさ。目加田。君も新鬼士院の設立者の一人になるんだ」
別の男が力強く言う。だが目加田の眼はオロオロと彷徨うばかり。
「私だって馬鹿じゃない。私は鬼士じゃない。私が大事にされることなんてない」
「そんなことないわ」
別の女が言った。
「そりゃ鬼士じゃない人をいきなり要職につけるのは無理だわ。他の鬼人たちも納得しないだろうし。だからまず事務仕事からね。事務員から始めて慣れてきたら出世させるって隊長も約束したでしょう?」
「そうさ。それになにより、お前には特権が認められる。新鬼士院設立に力を貸したんだ。星船の波動をたっぷりと浴びられるさ。戻れるんだよ。鬼人にな」
「そうよ。どっちがいいかよく考えてみて。このままだと卵の配送トラックの運転手だって長くは続けられない。そして邪鬼として処分されるのを待つだけ。あなたにはもう他に選択肢なんてないのよ。あたしたちと手を組んで今の皇鬼達を倒すの。そして治療を受けて人間に戻るのよ」
「その通りだ目加田。分かったらさっさとションベンしちまえ。他の皆だって涼しい顔してションベン袋にションベン垂れ流してんだからよ」
「ほんっとにゲス野郎ね、あんたって。モテないのも納得だわ」
「だってそうなんだからしょうがねぇだろ?なんだよ、あたくしお風呂の中でオシッコしたことなんて生まれて一度もありませんわみたいな顔しやがって」
若い鬼たちは目加田の存在を忘れて言い争った。目加田は暗い目でその様子を見ながら小尿フィルターに小便を垂らした。
京と鉄心、コジロウは地下道を一列になって進んでいる。ガイド役の鉄心が先頭だ。
「兄貴はいなくなったんだ。多分人買いに連れ去られたか、領主が売っちゃったんだと思う。めったにいないけど俺たち野人の中にも鬼人がいるんだ。俺や兄貴みたいに。うーん、生まれた子が鬼人だったってことは聞いたことない。俺はそんなやつ知らない。大抵は買ったり預かったりするんだ。大きくなるまで育ててくれって連れてくる奴がいるんだ。やっぱり仲間に鬼人がいると便利だから。病人に風を入れてあげたり、血を飲ませてあげたり。眼や耳や鼻がいいから狩りにも役立つし」
鉄心は京にだけ聞こえる小さな声で話している。足音もほとんど立てない。山で狩りをしながら生活していたので自然とこうしたことが身についたのだろう。京は鉄心は捨てられたのか預けられたのか知りたいと思ったがその質問を口にするだけの勇気はなかった。
「どう?もう体はほぐれた?」
京も息を吐くような小声だ。鉄心はぐりぐりと首と肩を回す。
「うーん、もうちょっとかな。あったかい風呂にザブンと入りたいな」
「山ではお風呂とかどうしてるの?」
「五右衛門風呂。ととが作るのを兄貴と俺も手伝ったんだ」
「ととって、鉄心のお父さん?」
京は「とと」は「父」のことだろうと思って尋ねた。
「違う」
鉄心はあっさりと答える。
「ととは兄貴と俺にいろんなことを教えてくれた。風の吹かせ方や、鬼力の練り方だけじゃない。狩りの仕方、釣りの仕方、罠の仕掛け方、弓やパチンコの使い方、食べられる草や実、毒キノコの見分け方。全部ととから習った。あと空手に杖術も」
「え、鉄心杖術を使うんだ?杖持ってないね?」
「狭い穴を通る時に邪魔だし置いてきた。大事な荷物も一緒に。出る時に持っていく」
「ととは杖術上手かったの?」
「うん。すごく。練習で一回も勝ったことなかった。もっと習いたかったな」
「確か― 死んじゃったって言ってたよね?」
「うん」
鉄心はそれ以上答えようとしないので京もそれ以上聞かなかった。しばらく無言で歩いた後、鉄心が尋ねる。
「俺さ、人間になれるかな?戸籍、買えるかな?」
「戸籍を買わなくても鉄心は人間だよ」
「いや、違う。俺たちは人間じゃない。警察も領主も俺たちを助けない。野人が街に行っても誰も喜ばない。店の人は店から出て行けっていう。子供たちは石を投げてくる。それをみんな笑って見てる。俺たちが人間じゃないから可哀そうだと思わないんだ」
まだ子供の京にも鉄心の痛みが良く分かった。
「なぁ俺、人間になったら働いてお金稼いで店で買い物するんだ。ハムとかソーセージとかラーメン食べて、ちゃんとした家に住んで、毎日風呂入って。ふかふかの布団で寝て起きて。なぁ、できるかな?」
「うん。きっとできるよ」
京はじんわり温かいものを感じながら歩みを進めた。不意に鉄心が立ち止まる。京とコジロウにもその理由がすぐに分かった。音だ。地下道の向うから人の声が聞こえてくる。地下道は音が反響するので音のする方向を特定しにくい。鉄心と京、コジロウはじっと動かずに声に耳を澄ます。十秒ほどジッと聞いていると声が近づいてくるのが分かった。鉄心が京の袖を引っ張って誘導する。暗闇の中、少し地下道を進んで脇道に入る。しばらくすると声が何とか聞き取れるようになってくる。
「ったく― な野郎― ってやる」
「お前― やって― かもな」
「ははっ― もう十分― だもんな」
声がじりじりと迫ってくる。正面から来ると思っていたのに、近づくにつれて声は後ろから聞こえるようになった。誰かが京たちが通ったのと同じ道を後ろからやってくるのだ。
「よぉ、何か飲むもの持ってねぇか?喉乾いちまってよ」
「出がけに一杯ひっかけたろうが?いや、二杯か?」
「二杯つってもビールだぜ?水みてぇなもんだろ?」
「でもよ、ありゃ腹に溜まるんだよ。動きが遅くなっちまうんだ。ビール腹でよ」
「何がビール腹だ。お前も飲んでたじゃねぇか」
「ま、いいさ。こうやって運動してんだから。すぐ消化するだろ、ビールぐらい」
山田弁慶と鈴木須佐之男だ。黒い戦闘服姿。山田はハンマーを、鈴木はスパナを背負っている。腰のホルスターには自動拳銃。ごついワークブーツでガシガシと小石を踏み潰しながら歩く。
「しかしよ、本当にあいつらをぶっ殺せば金貰えんのかな?」
「払わせるさ。無理やりでもな」
「終わったら俺たち鬼士様だぜ?」
「あぁ。袴を仕立てねぇとな。上等の奴をよ」
「もう街のゴミなんて呼ばせねぇ。須佐之男様と呼びやがれってんだ」
山田と鈴木は京と鉄心の潜む脇道を無視して真っすぐ通り過ぎる。
あいつら出て来たんだ―
京が声に出さずに口を動かす。二人が十分離れてから鉄心が囁く。
「あいつら知ってるのか?」
「今回の邪鬼事件の解決のために院の外から何組か鬼士が呼ばれたんだ。あいつらはあんまりたちの良くない裏鬼士だよ。院内で乱暴を働いて捕まったんだけど出てきたんだ。あの恰好は多分院と取引して出してもらったんだと思う」
「悪い奴らか?俺達の敵か?」
「そうさ。あいつらをぶっ殺すってのは邪鬼のことじゃないよ。多分兄者のことだ。あいつら邪鬼使い側に雇われたんだよ、きっと。ねぇ鉄心、この先に兄者の落ちた穴があるんだろう?」
「うん。まだもう少しかかるけど」
「後をつけよう」
二人は脇道を出て山田と鈴木の後を追い始めた。しばらくして後ろから鉄心が言った。
「なぁ京、あいつら本当に鬼人なのか?山でこんなにうるさくドタバタ歩いたら獲物なんて捕れないぞ」
鉄心はそう言って、そのままバタリと前のめりに倒れ込んだ。驚いて振り向く京。
「そうね。確かにうるさくて下品。おまけにあたしのことすごくいやらしい目で見るし」
李美玲。ニッコリ笑いながら電撃銃をこちらに向けている。
「彼は大丈夫。ちょっと気を失っただけ」
いつの間にか山田と鈴木の声が止んでいた。と、暗闇からヌッと二人の巨体が現れる。
「どうだ?美玲ちゃん、上手くやったか?」
「お前ら本当に馬鹿だな。囮と狩人。基本だろうが」
「まったく。嘘みてぇに上手くいったな。ガキ相手は楽だぜ」
山田と鈴木はニタニタと笑いながら京と電撃を喰らって伸びている鉄心を見る。京はカッと体が熱くなるのを感じた。ものの見事に囮役の山田鈴木に喰いついてしまったのだ。目立つ二人と少し距離を置いて動く狩人。確かにもっとも基本的なやり方だ。
「ごめんね。少し休んで」
美玲の声が聞こえて京の意識がとんだ。
「君の部屋も私の部屋も監視されてる。戻れないな」
「どうします?」
「邪鬼を待ち伏せる」
宗円はそう言って腹に巻いた袋からビニールケースに入った細長い棒を取り出す。組み立て式の吹き矢だ。
「矢には不活剤が仕込んである。相手は半邪鬼だ。暴れる直前に活性剤を打って邪鬼化するんだろう。こいつで邪鬼化を抑えるんだ」
「待ち伏せといっても、邪鬼がどこに現れるか分からないのでは?」
「地下道だ。邪鬼と邪鬼使いたちは地下道を通って移動する」
そう言って宗円はニヤリと笑う。
「目的地は恐らく王宮」
「王宮ですって⁉」
「あぁ」
宗円はあっさりと肯定して片目を瞑る。
「白状するが論理的に推理した結果じゃない。忍者的情報収集によるものだよ。なんせ私は邪血病治療のために日々王宮内に潜っていたわけだからね」
「なぜもっと早く言わなかったんです?」
「本当にすまない。分かってくれ城太郎君」
言葉とは裏腹に宗円はあまり悪いとは思っていない様子だ。
「私は自分の邪血病を治したいだけだ。王宮の混乱や争いなどに興味はないからね。ただ邪鬼が出てくるとは予想していなかった。邪鬼をどうにかしなければ私の身が危うくなるからね」
困った顔で話を聞いていた城太郎が手で宗円を制して地下道の奥に眼をやる。こく僅かな空気の震え。誰かが近づいてくる気配だ。
「邪鬼ではなさそうですね。それに気配を殺してない」
「隠れるかい?」
「多分ここに我々がいることを知ってるんでしょう。隠れても無駄だし、この足では逃げ切れません」
近づいてくる足音。それと共に聞こえてくる歌声。
おいらの名前はドブネズミ
どぶに暮らしてどぶに死ぬ
汚く貧しいドブネズミ
どぶに生まれてどぶで喰う
素早くずるいドブネズミ
どぶで愛してどぶで泣く
おいらの名前を呼んでみろ
どぶどぶどぶどぶどぶねずみ
寝てるお前を齧って殺す
「いよぉ、誰だっけお前。犬の口に手を突っ込んだ奴だよな。あんたは探偵だよな?そう、お上品で財布を札束で膨らました探偵様だ」
山田弁慶だ。肩に背負っていたものをドサリと地面に下ろす。鉄心だ。後ろ手に手錠を嵌められている。後ろから鈴木須佐之男が現れる。
「札束じゃねぇよ。最近は電子マネーなんだぜ?何でもスマホのアプリでやり取りすんのさ。金でも株でもコンビニの割引券でもよ。クスリくらいじゃね?現金なのは」
鈴木が肩に担いでいた京を下ろす。手に持っていたスティックタイプのLED灯をドームの中に転がす。
「断っとくがな、さっきのドブネズミの歌、盗作とかじゃねぇから。俺らが作ったんだ。俺らアーティストだから。な?」
「そうさ。ついでに言っとくとドブネズミってのは自分たちを卑下してるわけじゃねぇ。
そこら辺のクズども全部、お前らも含めて全部のことだから。俺らはもうドブネズミじゃねぇし。鬼士様だし。免状もらって本物の鬼士になるんだし。な?」
山田と鈴木はニタリとねちっこい笑みを浮かべる。
「お前らを傷つけるつもり満々だしよ、手荒な真似をする気も満々だがよ、金のために我慢してやってもいいぜ」
城太郎はそっと宗円に囁く。
「後ろにも回り込まれてますね」
「みたいだね。前後を挟まれ人質まで取られてる」
追い込まれた状況でもなぜか宗円には余裕が感じられた。
「美玲、入って来いや」
山田鈴木と反対側の地下道から李美玲が姿を表す。
「ちょっと馴れ馴れしいわよ。李さんって呼びなさいよ」
両手に電撃銃。アーマライトは狭い地下道では使い勝手が悪いのだろう。
「安心して。あたしはちゃんとわきまえてるから。大人しく捕まってくれるならそれ以上は望まない」
宗円は城太郎の背後からそっと宗円の袴のポケットに何かを落とし込む。閃光弾だ。
「君が前、私が後ろにそれを一個ずつ投げるというのはどうかな?」
「いや、待ってください」
山田が鉄心を、鈴木が京の襟首を掴んでまだふらついている二人を立たせる。
「相談は終わったかぁ?」
山田の声に呼応するように地下道の一つから地鳴りのような音が響いてきた。
「なんだよ⁉」
鈴木が足元と天井を見上げる。地鳴り、地震かと思ったのだろう。
グォルルルル―
「おい、この声は―」
宗円が思わず身構えた瞬間、地下道の一つから巨大な灰色の塊が飛び出してきた。アリッサだ。アリッサは疾風のように駆けて美玲に突進すると電撃銃の攻撃をものともせず美玲に体当たりを喰らわす。美玲は吹っ飛んで壁に激突する。
ガグォッッッッッ―
「ひゃっ!」
恥も外聞もなく山田が壁際に逃げる。鈴木は地面に腹這いの態勢で銃を抜く。しかし銃を握った手が見えない透明な手に引っ張られたように天井に向く。パンッと銃声がこだまして天井から砂煙が立った。鈴木の後ろで京が糸を操っていた。後ろ手錠がいつの間にか体の前に移動している。京はそのまま力強く糸を引く。
「っああああ―」
腕の肉をリング状に切り裂かれ鈴木が悲鳴を上げる。戦闘服が無ければ骨まで引いていたかもしれない。不幸中の幸いと思ったのも束の間、血の匂いを嗅ぎつけたアリッサが瞬間移動のような鋭いフットワークで鈴木に向かってダッシュし、銃ごと右腕をパクリとやった。バキッ、グチッ、バリッ、バリッ、クッチャクッチャ―
「グゥワラララァァァァ―」
鈴木は派手なうがいのような悲鳴を上げ白目を剥く。口をモグモグやっていたアリッサが銃をプッと鈴木に向かって吐き出す。
「アリッサ!ダメじゃないの!口の中で暴発したらどうするの!」
イルクーツォの声。主人に叱責されてアリッサはションボリした表情になる。イルクーツォとイシグロ、そして喜んで尻尾を振るコジロウ。どうやらコジロウが近くにいた二人を引っ張ってきたらしい。
イシグロが壁際でオロオロしている山田の腹に鉄球棒の柄で一撃を入れる。山田はウシガエルのような声を上げてうずくまる。背後から首筋にトンとチョップを入れると山田はあっけなく昏倒した。
「ちょっとあんたたち何をやったの?二人とも院内で手配されてる。邪鬼事件への関与の疑いでね」
「何もしていないさ。邪鬼と邪鬼使いは他にいるんだ。俺と宗円さんはそいつらを追っかけてる。邪鬼使いたちが俺たちに罪をなすりつけようとしてるんだ」
イシグロがイルクーツォに何か囁く。
「分かってるわよイワン」
イルクーツォがアリッサの頭を撫でながら城太郎と宗円を見比べる。
「あのデブ二人をやったのは単にあいつらが嫌いだからよ。あの李って女をやったのはアリッサの判断。アリッサは気取った女が嫌いだから。それにお友達のあんたに銃を向けてるから。あたしとしてもみすみすあいつらに稼がせてやる必要もないし。あんたたち二人には賞金がかかってるの」
「私達の首に賞金をかけるように仕向けたんだ。邪鬼使いたちがね」
「何の証拠もない話ね。坊や、その豚野郎はどう?」
イルクーツォが京に尋ねる。
「とりあえず糸で縛って血は止めたよ」
「そう。じゃこれを三人に注射しといて。そうね、一人につきアンプルの三分の一ずつ」
イルクーツォがプラスティックのケースを京に投げる。ケースの中に使い捨て注射器と薬のアンプルが入ってる。
「記憶阻害剤よ。この一時間くらいの記憶をすっぽり忘れちゃうはず。鎮静剤としての効果もあるから」
「そりゃいい。少し大目に注射してやってほしいね」
「大丈夫。アンプル三分の一でも必要量の倍以上だから」
そう言ってイルクーツォは思案顔になる。ピカピカに研がれた両刃斧の刃を指先でなぞる。イシグロが訛のきついロシア語で何か言った。イルクーツォは「分かってるわよ」と答えて腰に手を当てて城太郎の顔をまじまじと見つめる。
「城太郎、ちょっと剣を抜いてみて」
「抜いてどうするんだい?」
「いいから」
城太郎は剣を抜く。「これでいいか?」とイルクーツォを見る。
「ちょっと振ってみて。ケンドーのメンを打ってみてくれない?」
訝る城太郎にイルクーツォがわざとらしく「お願い」と言うので城太郎は仕方なく正眼に構えて面を打って見せる。イルクーツォが微かに鼻から息を吐き出し、イシグロはもっと露骨に歯を剥き出して笑った。
「もしあんたらの言うことが本当ならさ、相手は邪鬼よね?」
「そうさ」
イルクーツォが歯を見せて微笑む。イルクーツォの前歯には小粒のダイヤが嵌め込まれていた。
「あたしを笑わせてくれたのはこの一週間であんただけよ、城太郎」
イシグロがまたロシア語で何か言った。
「その腕前で邪鬼とやるのは自殺行為だって。あたしも同感。邪鬼どころか邪鬼使いにも勝てないんじゃない?」
城太郎はムッとしながらも渋々頷く。宗円が横から助け舟を出す。
「彼が必要なのさ。半邪鬼を倒すにはね」
イルクーツォは楽しそうに笑う。
「ふん。まぁいいわ。チームモモタローに加わってあげる。犬と猿と雉に虎と金棒よ?つまりこれって最強ってやつよね?」
京は腰の帯に先日釣ったヤマドリの風切り羽根を差し、Y字の願い骨を吊している。雉とは京のことらしい。犬はもちろんコジロウ、鉄心は猿らしい。
「あんたらが言ってることが嘘だって分かったらあんたらを捕まえる。でももし邪鬼がいたら、本当にいるならだけど、悪いけどあたしらは逃げる。賞金は惜しいけど命には代えられないもの。あんたたち本当に倒せると思ってるの?」
「あぁ。問題ない。倒せるさ」
宗円が城太郎の肩を叩いて自信満々に頷く。城太郎は「え、俺?」という表情。
「分かったわ。じゃ行きましょう邪鬼のところへ。お猿さん、あなたが先頭で道案内よ。名探偵さんはその後ろを歩いて。その後ろが雉くん、君よ。城太郎はその後ろね。あたしたちは最後尾からついていく。逃げようなんて思わないでね。アリッサは時速八十キロで走れる。それにいつもお腹を空かせてる」
鉄心は「俺猿じゃないぞ」と文句を言った。宗円が「王宮へ行くぞ」と告げる。イシグロがイルクーツォに強い調子で何か言った。イルクーツォが前を行く城太郎に尋ねる。
「ねぇ、イシグロがさ、あんたがアリッサとあたしに何か術をかけたに違いないって言うんだけど。どうなの?」
城太郎は困ったように鼻の頭を掻いた。
「術をかけたというか、まぁアリッサと友達になろうとしたんだ。でも君がアリッサの近くにいたもんだから― 君も巻き込まれて友達になっちゃったんだろうな」
城太郎の分かったような分からないような説明にイシグロは露骨に警戒の表情を見せたが、イルクーツォは不思議そうな顔で「ふぅん」と答えただけだった。
お読みいただきありがとうございます。
もし拙作がお気に召したようでしたら感想など寄せていただけると励みになります。
お時間あれば他の作品も覗いてみてください。
よろしくお願いします。