邂逅
「あっ!」
手に鬼化細胞活性剤の注射器を持ったまま、城太郎は暗闇に呑み込まれていた。耳元でゴォと風が鳴り、頭の方に血が上ってくる。落ちている。今自分は穴の底へ落ちている。城太郎にとって幸運だったのは、この落とし穴がとても長かったことだ。そのお陰で自分の状況を理解する時間があった。重力と空気抵抗に逆らいながら懐に手を入れる。先に三叉の鉤爪のついた縄を取り出す。手を伸ばして周りを探る。手は虚しく空を切るのみ。城太郎は必死に周りを探る。突然、手の先でパッと火花が散った。壁だ!ここまでの時間、僅か二秒少し。しかしアドレナリンと死の恐怖から城太郎には十秒近くに感じられた。暗闇にオレンジ色の火花が散り、ガチッ!と音がして城太郎の手の中のロープが飛ぶように伸びていく。ピンとロープが張り、城太郎の体がガクンと揺れる。一瞬中にフワリと宙に浮いた城太郎だが、鉤爪はチリンと虚しい音をたてて外れた。再び落ち始める城太郎。
ダメか―
城太郎がそう感じた瞬間、城太郎の体は何かにぶつかり、砂浜のような柔らかな砂に突っ込んでいた。
助かった―
城太郎は安堵のせいでかなり情けない溜息を漏らす。ゆっくりと体を起こす。右ひざが痛い。骨は折れていないようだが捻ってしまったようだ。ペンシルライトを取り出して辺りを照らす。城太郎の体はこんもりと盛り上がった三角形の砂山の半ば埋もれている。痛む右足をかばいながらそっと砂山から抜け出す。右膝以外は体も無事のようだ。背の刀も無傷だ。頭の上を照らすと自分が落ちてきたらしい穴が見えた。下から見上げてもトンネルが微妙に曲がっているのか、落とし戸が閉じているせいか分からないが明り一つ見えない。穴の縁からツタのようなもので編んだネットのようなものがぶら下がっている。城太郎はネットを突き破ってこの砂山に落ちたようだ。
「鬼神様、幸運に感謝します」
城太郎は胸の前で指先を合わせて感謝の言葉を口にした。穴の深さは恐らく五十m以上。穴の途中で鉤爪を引っ掛けて減速できたこと。穴の出口にネットが張られていたこと。そして穴の真下に砂山ができていたこと。どれか一つ欠けていたら城太郎はこんなものでは済まなかっただろう。死ぬか少なくとも重傷を負っていたに違いない。
「しかし、しかしだ」
城太郎は声に出して言った。直径三十メートル、天井の高さは十mほどのドーム状の空間。四つの地下道がぶつかる結節点になっている。
「さて、どうしたもんか」
城太郎の声が地下ドームに小さく反響する。とにかく地下道を目当てもなく歩き回るのは禁物だ。ここは京に無事を知らせる手だ。鉄心もいるし何とか探し出してもらえるだろう。城太郎は首に下げていた呼子を取り出す。
「⁉」
城太郎は手を止めてトンネルの奥に眼を凝らす。ポツンと白い点。明りだ。小さく揺れながら近づいてくる。城太郎は砂山の後ろに回り込んで誰かがやってくるのを待つ。敵か味方か分からないが、どのみち右膝を痛めた状態では逃げられそうにない。やがてトンネルの中に人影が浮かび上がった。
「甲陽さん―?」
明りをかざしてやってくるのは甲陽だった。甲陽は薄笑いを浮かべながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
「甲陽さん― ここで、何を?」
城太郎の問いに甲陽は答えずにただ薄く笑って城太郎を見つめ返している。甲陽は城太郎が手に持った呼子を指さす。
「いけないな、城太郎さん。この地下道は音が良く響く。誰かに聞かれてしまいますよ」
「甲陽さん―」
城太郎はひどく喉が乾いて声が上手く出ない。甲陽はニッと笑み崩れると右手で左顎の肉を掴む。顎の肉がピザのチーズのように伸びる。甲陽は構わずメリメリと顔の顔を剥いでいく。剥ぎ取られた甲陽の面の下から覗いているのは悪戯っぽく笑う宗円の顔だった。
「そ、宗円さん!」
ガクガクと膝を揺らしながら思わず後退る城太郎。宗円は皮肉っぽく尋ねる。
「おや、そんなにまずいのかね?私に出会うのが」
「宗円さん― あなた―」
宗円は両手を広げて害意はないことを示す。
「落ち着き給え、城太郎君。君を傷つけたりするつもりはないよ」
宗円は城太郎が落ちてきた天井の穴を指さす。
「ここから落ちてきたということは、私の部屋を調べたね?」
「はい、宗円さん」
宗円はうんうんと頷く。
「しっかりとロックをかけておいたからうっかり落ちたわけじゃないね?落とされたんだ?多分義信だね?」
「はい。すっかり油断していました。ものの見事に落とされましたよ」
宗円は笑って視線を伏せた。
「じゃぁ、何か見つけたわけだ。私の部屋で」
「はい。抽斗の中の不活剤とクローゼットの中の活性剤も」
宗円はちょっと意外な顔でこめかみを撫でる。
「私がそんな間抜けに見えるかい?あの部屋にはベッドメークや掃除をしに従業員が入ってくるんだよ?バレないところに隠していたに決まってるじゃないか」
「バレないって、どこです?トイレとか?」
「はは、違うよ。君が落ちた穴さ。袋に入れて落とし穴の下に紐で吊るしておいた。ちょっと見ても分からないくらい深いところにね。義信が取り出して使ったんだな。君たちを罠におびき寄せるためのチーズとしてね」
「そうでしたか」
京が寝室が綺麗にベッドメークされていると言ったときに感じた違和感はこれだったのだ。清掃係が入ってくると分かっている部屋にあんなものを無造作に置いておくはずがないのだ。やはり自分は師匠が言うように相当な馬鹿者だ。
「そうだ。私は邪血病だよ。初期のね」
「はい。残念です、宗円さん」
宗円はもう一度両手を広げて見せてから、両手を自分の胸に当てる。
「城太郎君、これまで私は周りに嘘をついてきた。邪血病であることを知られたら終わりだからね。今更言っても信じてくれないかもしれないが」
宗円の顔付が真剣なものになる。
「私じゃない。私じゃないんだ。武官を殺したのも、錬成院の生徒を殺したのも。私はやっていない」
宗円の顔付は真剣そのもの。城太郎の眼にも嘘の気配は感じられない。
「確かに私は邪血病だが、活性剤も不活剤も治療のためだ。そもそもこの鬼士院に逗留しているのだって治療のためなんだ。邪鬼は他にいる。もう一人いるんだ」
「もう一人、ですか?」
城太郎は困った顔になる。が、宗円を捕縛しようという気がすっかり失せてしまったのも事実だ。
「そうだ。膝を痛めたね?ちょっと座って話そうじゃないか」
不意にヒュウッと空気を切り裂く音がして砂山に何かが突き刺さった。宗円は落とし穴を見上げて他に何か落ちてこないか注意しながら砂に埋まった物を取り出す。
「丁度いい。甘いものが欲しかったところだ」
城太郎にフルーツドロップの缶を示す。
「多分京でしょう」
「だろうね。誰が聞いているか分からないから返事はしてあげられないがね。院の連中が今私を見つけたら言い訳など聞いてもらえないだろうからね」
再び空気を切り裂く音。礫のようなものが砂山に穴を穿つ。宗円は砂山を指で崩して何かを摘まみ上げる。五銭銅貨だ。
「しばらくここで休もう。金持ちになれそうだ」
宗円は壁際の比較的平らな岩の出っ張りに雑誌ほどの大きさの段ボールを置いた。城太郎にも段ボールを手渡してくれる。
「地下道を移動するときはこれが必須なんだ。枕と座布団の代わりさ」
二人は並んで腰かける。宗円は缶の蓋を開けドロップを一粒口にすると城太郎に缶を渡す。
「当たりですね、葡萄味です」
「私は微妙だな。薄荷味だ」
宗円は両手を揉みしだき、どこから話そうかと悩んでいる様子だったが、やがて静かな声で語りだす。
「私の生家は忍者の家系でね。特に名鬼門というわけではないが、曾爺さん、爺さんと二代続けて王宮付の忍者頭を務めてね。その頃は弟子も十人以上抱えて院外に道場を持ったりと、結構羽振りが良かったらしい。ところがだ、爺さんの代になって紅白大戦が起った」
皇鬼同士の小競り合いは日常茶飯事だが、今から百五十年前に起った、この紅白大戦と呼ばれる王宮内の権力抗争は鬼界を二分する争いに発展した。赤の宮、つまり当時の鬼士院院長と白の宮が争ったのである。若さと圧倒的な鬼力で白の宮が優勢であったが、鬼界の疲弊とそれにつけ込んだ政府の介入を恐れた青の宮と緑の宮が院長側に付いて一気に勝負がついた。
「王宮の忍者頭だからね。当然赤の宮様についていたわけだ」
紅白の勝負がついた後、数年に渡る争いに心身共に弱っていた赤の宮を青の宮が倒し、院長の座についたのだ。
「前院長の子飼いだった爺さんはもちろん即放逐されたよ。そこから我が伊祓家の苦難が始まったわけだ。警備会社の下請けやスパイの真似事なんかをしながらなんとか食い繫ぐ生活さ」
院長交代の際にはよく聞かれる話だ。宗円がカリッとドロップを噛み砕く。
「私はなんとか横浜の錬成館に入ったものの、刀はもちろん安手の現代刀だし、袴やなんかもお古でね。背に国綱を差してレクサスのバギーやプリンスのバイクに乗って登校してくるような同級生が羨ましくてしかたなかったよ。金と名誉。いつかこの二つを手に入れると心に誓った」
「私も同じですよ。里の学校教師の子ですからね。玉虫の生地で作った鬼士袴や先祖伝来の銘刀、カスタムメイドの銃にバイク。どれも縁が無かったですね」
宗円は微笑んで頷く。
「師である先代の風祭宗円に出会ったのはその頃さ。まだ探偵業専門の鬼道事務所は珍しくてね。鬼界でも里でも風祭宗円事務所のことが噂になり始めていた。風のうわさで助手を募集していると聞いてね。何人も伝手を頼って面接を受けさせてもらい潜り込むことができた。最初は助手と言う名のアルバイトでね。早朝から事務所の掃除だの靴磨きだの雑用をこなしてから館に行く。授業が終わって館から戻ると今度は捜査資料の整理やまとめが待ってる。賃金は週に百円。賃金と言うより駄賃だな。先輩の助手たちは師のお世辞を言ったりおべっかを使うのが主な仕事でね。汗を掻いて雑用をこなすのは私一人というわけさ。ただ、私にはこのチャンスしかなかった。ある時師が気紛れに迷い猫の捜索を私に任せたことがあってね。忍者と探偵業はとても相性がよくてね。その猫を上手く探し出したのが全ての始まりだ。私は正式な助手に昇格し、依頼人であった里の女社長は私のスポンサーになった」
「ネットか何かで読んだ記憶があります。幸運の三毛猫の話は」
宗円はチラと微笑んだが、すぐに憂鬱な表情になる。
「順調だった。順調だったんだよ、ここまで。人生、そう想い通りに行かないと言うことだね。自分の体調がおかしいと感じたのは半年ほど前だ」
城太郎は静かに宗円の言葉を待つ。
「何だかとても元気なんだ、鬼虫が。力の切れも持続力も増してとても調子がいいんだ。最初は修行のお陰で一皮剥けたかなぐらいに思っていた。だが違った」
宗円が気持ちを持て余すように握り拳を作って自分の足を打つ。
「ある時、クライアントの女性と話している時にね、急に虫がざわつき始めてね。体中の血がぐつぐつ沸騰して鬼力をコントロールできなくなった。相手は里人だったから気付かなかったようだが。それから以降、強い怒りや欲望を感じた時に鬼力をコントロールできなくなることがあった。明らかに邪血病の初期症状だが、私は怖かった。我々鬼人にとって邪血病を患うことは全ての終わりを意味するからね。たまたま体調が悪かったのだ、相手との風合いが悪かっただけだと自分を騙していた。だが、自分を誤魔化しきれなくなる時がきた」
宗円は視線を天井に這わせながら落ち着かない様子で大きく息を吸った。
「匂いだよ」
「匂い―ですか」
「そうだ。匂いだ。力が暴走し始めると自分の体から妙な匂いを感じるようになった。知ってるかね?邪鬼の匂いを」
「つい最近教えてくれた者がいます。蘭の花に汗を垂らしたような匂いだと」
「うん、上手いこと言うな。匂いは症状の進行に応じて変わっていくが、始めのうちは本当に花のような香りでね。私が最初に自分の体から感じたのは野に咲く山百合にほんの少し埃っぽい匂いを混ぜたような匂いでね。決して血肉の腐ったような死と恐怖の匂いなんてものじゃなかったよ」
「恐怖は感覚を狂わせますしね」
「そうだな。で、私は自分から匂ってくるその匂いで直感したわけだ。自分が邪血病であることを」
宗円は時には笑みさえ浮かべながら語っているが、これを語れるようになるまでには様々な懊悩、葛藤があったに違いない。
「で、私は決心をしたというわけだ。鬼士院に行ってこの病を治そうとね」
「何か特別な治療法でもあるんですか?」
城太郎は院が何か秘密の治療法でも開発したのかと考えた。コネと知名度と財産を併せ持つ宗円ならその特別な治療を受けられるのだろうかと。
「ある」
宗円はキッパリと言った。
「星の船さ。星船の欠片の放つパワーを浴びる。邪血病を治すにはそれしかない」
かつて平安の都に落ちたという箒星。鬼虫を運んできたといわれるその隕石は星船と呼ばれ、その破片のうち幾つかはこの鬼国の守護物として大切に保管されており、正月の三が日だけ保管庫から出されて来院者に公開される。
「知ってるよね?星船の欠片は今でも特殊なパワーを放ち続けている。なにしろ一億年もの間鬼虫を守って運んできたんだからね。たかが千年程度でその力は尽きはしないさ」
「確かにそうですが」
長い長い宇宙の旅の間、中の鬼虫の健康を保つため隕石からは特殊なエネルギー波が出ている。鬼人にとって魔法の波動だ。
「じゃぁ宗円さんはここを通って宝物殿に通っていたと?」
「違うよ」
宗円は悪戯っぽく笑う。
「宝物殿に保管され年に数日だけ一般に公開されるあの星船の欠片はレプリカさ。それらしく見せるために公開前に皇鬼たちが四人でたっぷりと鬼風を吹き込むんだけどね。これ、他所で喋らないほうがいいよ?」
城太郎は思わず「本当に⁉」と呟く。
「でも、じゃぁ本物はどこに?」
「寝所さ。皇鬼達のね。ある意味これ以上相応しい使い方はない。鬼界の今を守り、そして未来を作り続けている皇鬼達の寝所の下に保管されてるのさ。安全なことこの上ないし、皇鬼の健康を保ってくれる」
城太郎は思わず髪の毛を手で搔きまわす。
「まさか宗円さん、寝所に?」
「はは、いくら私が優れた忍者でもそうそうあそこには忍び込めない。だが、星船の側に行くことならできる。地下道を通って秘密の通路を通ればね。君もそうやって私の部屋に入ったんじゃないのかい?王宮にもあるんだ。そういうのが。ルート的に一番忍び込みやすいのが青の宮の寝所の真下でね。都合のいいことに星船の欠片のほぼ真下までトンネルが掘られているんだ。私は星船の欠片の下に寝転んで毎日波動を浴びていたわけだ。まるで日焼けサロンに通うかのようにね」
「よくばれませんでしたね⁉相手は皇鬼ですよ⁉」
「うん。さすがの私も心配になってね。二人目の被害者の現場に青の宮が来たのをいいことに捜査にかこつけて青の宮が不審者の侵入に気付いているかどうか確かめてみたというわけさ。あれは全く気付いていない様子だったね?」
城太郎は宗円の決断力と破天荒とも言える行動力に脱帽するしかなかった。探偵としての腕は一流だが見た目は優男で口の上手いお調子者といったイメージの宗円だが、これだけの内部情報を調べ上げ、実行してみせる手腕は素晴らしいとしか言いようがない。
「しかし宗円さん、これがバレたら死罪とは言いませんが相当な罰を受けなきゃなりませんよ?聞いてしまって黙っていれば私も罰せられる」
宗円は申し訳なさそうに肩を竦めた。
「すまない、私のせいで。君は良い耳と真っすぐな心を持っている。周りの意見をよく聞き、感じたことを正しいやり方で確かめた。捜査の基本だ。そして真っすぐに真実に近いところまでやってきた。こんな言い方はどうかと思うが、真実を知るということは時には自分自身を危険に晒したり傷つけることもあるということだ。それが嫌なら最初から知らん振りをしていればいい」
宗円は城太郎を真正面から見つめる。
「さて城太郎君、君はどうする?ここから出て行くかね?出て行くなら道を教えるよ。道案内はできないがね。それとも私と一緒に本当の犯人を探すかね?」
城太郎はいつものように苦笑しながら溜息を吐く。
「私は本当に粗忽者ですね。大変な穴に落ちてしまったもんです」
「君が落ちてくれて助かったよ。薬の隠し場所兼緊急脱出用シューターとして使うつもりだったしね。もっとネットの強度を上げて砂山より効果の高い緩衝材を置かないと。あれじゃ追手を逃れても大怪我してしまうところだった」
宗円はニヤリと笑って城太郎の肩を叩いた。
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