邪鬼に変化する者
鉄心の案内で三人は十五分とかからずに入ってきた入口に辿り着いた。どうやら感覚を狂わされ同じところをグルグルと回っていたらしい。
「さて、ちょっと待った。この冷温庫の中には監視カメラがついてるはずだ。鉄心の姿が写ってしまう」
「別にいい。写っても構わない」
「俺たちが困るんだ、鉄心。お前は今はただの侵入者で、俺たちは侵入者の手助けをしたことになる。邪鬼を捕まえないといけないんだ。そうすればお前の罪は帳消しになり褒賞を貰える。新しい人生を始められるんだ」
鉄心は澄んだ大きな目で城太郎と京を交互に見る。
「俺もう山には帰れない。ととも死んだ。行くところがない。俺も一緒に行く」
京が遠慮がちに言った。
「邪鬼の話を詳しく聞かなきゃいけないし。何とか宿坊に一緒に行けないかな?ジャガイモの袋にでも入ってさ」
京にしてみれば鉄心の境遇に同情するところもあるのだろう。
「お前の気持ちも分かるが。今まだ七時前か。人の目もある。それに宿坊の受付を通るんだ。簡単には誤魔化せんぞ?」
「宿坊ってどこだ?この城のどの辺だ?」
「あぁ、王宮の東側、東南だ。二つの建物があって二階のところに渡り廊下があって二つの建物を繫いでる」
「片っぽの建物の屋根がノコギリみたいになってるやつか?ノコギリの一番端に煙突が一本ある?もう一つの建物はガラスでできててキラキラしてる、あれか?」
「それだ」
「どっちの建物だ?どっちの部屋にいる?」
「ノコギリの方だ。古い旧館の方だ」
「何階だ?」
「七一五だ。七階の一番西側だ。煙突のあるのと逆の方、一番端の部屋だ」
「分かった。嫌だけど一旦地下道に戻って地下から行く。部屋で待っててくれ」
「地下からって部屋は七階だよ?宿坊の入り口の前で待たなくていいの?」
京の言葉が聞こえたのか聞こえていないのか、鉄心は急ぎ足に地下道の奥に消えていく。
「とにかく一旦戻るぞ」
城太郎と京は冷温庫に通じる穴を下りる。穴を塞いでいたフェンスを元に戻す。城太郎がフェンスのピンロックをまじまじと見る。ロックの根元に微かなオイル染みがある。
「確かに俺たち以外にもこれを外した奴がいそうだな」
梯子代わりにした台車を伝って床に降りる。京と二人で台車を押して元に戻す。二人は足早に場内を横切り入ったときとは逆の入口に辿り着く。城太郎がドアの脇のリーダーに入場証をかざすとピッと電子音がして緑のランプが灯る。カシュッと音がしてロックが外れた。二人は自然と急ぎ足になる。エレベーターに乘って地上へ。仕事帰りらしい鬼人たち数人と擦れ違うが誰も二人に気を止める様子もない。二人は鉄心の姿が見えないかと周囲に視線を投げながら宿坊に入る。「お帰りなさい」と声を掛けるフロントの職員に挨拶をして、ロビーのソファに座り込むと城太郎は薄くて細長い紙に事の顛末を記してクルクルと丸める。ロビーで伝信管を借りて文を入れ封緘する。夜目の効く特別な鴉を使うので特別料金がかかったが伝兵衛宛に鳩電を出す。
「さて、とにかく部屋に上がって待ってみるか」
二人はエレベーターに乗り込んだ。部屋に戻ると明りを点け、分かりやすいようにカーテンを開けておく。
「さて、部屋で待てって、一体どうするつもりだ」
「ボーイにでも化けるのかな」
時折アルバイトや実習訓練で予科の生徒たちが仕事を手伝うこともある。
「フロントの目を誤魔化すのは難しいぞ。あいつらはセキュリティを兼ねて配置されてる連中だからな」
窓は嵌め殺しになっている。どうやってこの部屋に来るつもりなのか。京は立ったり座ったりしながらしきりにドアの覗き穴を覗き込んでいる。
不意に部屋の奥に気配があった。城太郎と京がハッとして身を硬くする。
「おい、来たぞ」
平然とした顔で鉄心が城太郎たちの部屋に入ってくる。
「どこから入ったの⁉」
京の質問に鉄心は全く表情を変えずに部屋の奥を指さす。城太郎と京は奥の部屋へ。クローゼットの扉が開いたままになっている。近づいて確かめるとクローゼットの奥の壁に隙間がある。城太郎が手をかけると壁は驚くほど滑らかに横にスライドした。中に顔を突っ込んでみると建物を縦に貫くトンネルになっている。
「なるほど」
城太郎は感心したように呟く。鶴野も、女忍者もここを使っていたのだろう。
「よし。まずは卵だ」
城太郎は持ち帰った卵を鉄心に確かめさせる。鉄心は卵を鼻に押し付けて獣のようにフンフンと臭いを嗅ぐ。
「うん。あいつの匂いだ。蘭の花に汗の臭いを足したみたいな匂い」
城太郎はもう一つの卵を鉄心に渡す。鉄心は再び鼻先でフゴフゴやってから首を振る。
「こっちは匂いがしない」
京の言った通りだなと城太郎が呟く。鉄心が京に向かって言う。
「分かるのか、この匂い」
「君みたいにはっきり分かるわけでもないけど。なんかちょっと臭うなって」
「お前、鼻がいいな」
城太郎は二つの卵を見比べて諦めたように箱に戻す。
「邪鬼の匂いは山百合に汗を垂らした匂い―か。面白い情報だ。で、鉄心邪鬼を見たのはいつだ?」
「昨日。昨日の朝早く」
「何時頃だ?場所は?」
「分からない。俺時計とか持ってないから。陽が出るずっと前。今日俺たちが会った場所からもう少し北へ、一キロの半分、五百mくらい?その辺だ。俺はそこから少し離れた岩の影に隠れてた」
「邪鬼に見つからなかったのか?」
「俺たち野人は気配を消すのが得意だ。獣を狩ったり、狩人から隠れたり。毎日毎日そうやって暮らしてるから」
狩人。野人を狩る者。あるものは奴隷狩りのために。あるものはスポーツとして。またある者は単なる暗い衝動の捌け口として野人を狩る。弓で、銃で、槍で狩るのだ。
「邪鬼はどんな姿を?」
堪りかねたように京が質問を変えた。
「でかい。あの入り口に頭と両肩がつかえるくらい。体中が赤い。赤黒い―だっけ?ちょっと柘榴の色に似てる」
「なるほど。服は着てたか?髪の毛はどうだ?」
「着てなかった。赤黒くて大きな筋肉が動くのが見えたから。髪は― 無かった気がする」
「なるほど。他に何か気付いたか?声とかは?吠えたりしたか?」
「変な声だった。喉の奥で雷が鳴るみたいな。でもちゃんと聞こえた。日本語でしゃべってた」
「日本語を話してたのか⁉」
「うん。本当に、本当にか?って言ってた」
城太郎は思わず鉄心の腕を掴む。
「日本語で、誰かと喋ってたのか⁉」
「そう。一緒にいた人間、鬼類と喋ってた」
やはり邪鬼使いがいたのだ。まだコントロールの効く半邪鬼を使って事件を起こしているのだ。
「もう一度そいつを見れば分かるか?」
「顔を隠してた。匂いも分からない。ニンニクの匂い袋みたいなのつけてて。鬼風も殺してたから分からない。男だった。城太郎と同じくらいの背だ」
京が昨日見たのと同じ人物かもしれない。まだ邪鬼になりきっていない半邪鬼なら、今頃普通の鬼人の姿に戻ってどこかで息を潜めているのだろう。邪鬼使いがついているのも厄介だ。邪鬼は圧倒的なパワーで荒れ狂うだけだが、半邪鬼も邪鬼使いも頭を使ってくる。ある意味邪鬼よりも面倒な相手と言える。
「なぁ、俺腹が減った。山を出て二日間、ずっとちょっぴりの干し肉を齧って我慢してたんだ。何か食べさせて」
「軽く何か腹に入れるか」
「ジイちゃんが持たせてくれたおやきがあるよ。温めようか?」
「おやき?ととから聞いたことはあるが食べたことない。食べさせてくれ。さっきの卵も」
京は卵を持って立ち上がる。部屋には小さなキッチンが付いている。鉄心が興味深々といった感じで付いていく。
「あの卵は食べないのか?」
「邪鬼の匂いがついてるし」
「俺は平気。腐ってるわけでも毒が入ってるわけでもない。喰える」
調味料が塩、コショウしかないので凝った料理は作りようがない。京は鍋に水を張りクッキングヒーターに鍋を置く。電子レンジにおやきを入れ温め、鍋の中に卵を放り込む。おやきが温まった。六つのおやきを二つずつ分ける。餡は野沢菜と茄子が一つずつ。鉄心は息もつかずに二個を食べ終える。食べ終えてから「うめぇ」と溜息を吐く。京は実は少し苦手な茄子の方を鉄心に差し出す。
「ありがとう」
鉄心はちゃんと礼を言って受け取り瞬く間におやきを胃に収める。
「おやきって美味いな」
卵が茹で上がる。指先が熱いのを我慢しながら殻を剥き塩をかけて食べる。鉄心は邪鬼臭の付いた二個と合わせて三個を平らげる。途中でむせてミネラルウォーターをラッパ飲みする。
「さて、後でたらふく食べさせてやるから今はこれで我慢してくれ」
「この後どうするの?」
「まずジイさんのとこに行く。誰が半邪鬼で誰が邪鬼使いか分からない以上下手な相手には話せないしな」
「あのさ」
京が遠慮がちに言う。
「卵のことだけど、皆に聞いて回ったわけじゃないけど、卵のこと気付いてるの、もう一人いるよね?」
「宗円さんのことか?」
「うん」
京は少し言い辛そうだ。
「宗円さん、卵の臭いに気付いてるみたいだし、それに全然鬼力を使わないよね?」
邪血病になると鬼風の香りが変わってしまうという。
「それにお肉とかばっかり食べるし。全然野菜や海藻食べないんだ」
「そりゃまぁ、邪血病患者は鬼虫を活性化させないために食事制限をしたり、不活剤を打ったりって話は聞くが」
城太郎も若干歯切れが悪い。「まさかそんなことがあるわけない」という先入観と好人物である宗円を疑うことへのうしろめたさがある。そもそも卵の匂いと食事の内容だけでは何の決め手にもならない。
「それにさ、ほら」
京は伝兵衛から借りた古地図を示す。
「宗円さんの部屋にも地下道に通じる秘密の入口があるんだ」
「うん、まぁあるだろうな。今回の一件で良く分かったが、外部から来た要注意人物はそういう外から忍び込めるような部屋を割り当てられるようになってるんだろう」
美味そうにサイダーを飲んでいた鉄心が口を開いた。
「宗円って、風祭宗円のことか?あの鬼人探偵の風祭宗円?」
「知ってるの?」
「あぁ。俺たち野人でもたまにはネットニュースぐらいは見る。雑誌や新聞も読む。古いのだけど。俺はととから里や鬼門のことを良く勉強しろって言われてたし、人間になるって決めてからは見て読んで書いてを毎日やってたから」
「そうなんだ」
「とにかくだ、ジイさん家に行くぞ。準備しろ」
鉄心がサイダーの瓶の口を舐めながらさらりと言う。
「地下道で見た」
城太郎と京が弾かれたように鉄心を見る。
「風祭宗円の顔は知っている。見た。地下道で」
「いつだ⁉」
「昨日。ヤバい鬼を見る少し前に」
「どんな?どんな様子だった?宗円さんは⁉」
「何か急いでる感じ?慌てて走っていった」
城太郎と京は顔を見合わせる。二人の中で宗円への疑念が黒雲のように湧き出してくる。
「こいつは―」
城太郎が顎先を撫でながら何か言おうとした瞬間、ドアのチャイムが鳴った。城太郎と京はビクンと体を揺らす。城太郎は素早く人差し指を唇に当てて「黙れ」のサインを出す。京とコジロウはすかさず口を閉ざす。鉄心もサインの意味を察して黙っている。相手がそれなりの鬼士であればドアに近づくだけで気取られてしまう。京は用心のためにドアの隙間から廊下に伸ばしておいた糸の先にそっと触れる。もう一度チャイムが鳴る。京がそっと親指だけ折った左手を示す。客は四人か。城太郎はハンドサインで「奥の部屋へ行け」と指示を出す。城太郎は手で口元を覆ってわざと間の抜けた声をだす。
「はいよぉ、何用だい?こっちは今シャワー浴びて水も滴るいい姿でよ」
返事はない。もう一度チャイムが鳴る。
「分かった分かったって。何か引っ掛けてくるから待てって」
城太郎は背に刀を差し奥の部屋のクローゼットを指さす。京も鉄心も瞬時に意味を察したようだ。城太郎は「おーい、俺のシャツ取ってくれ」と言いながら床に芳香剤の粒を撒き散らし掃除ロボットのスイッチを入れる。カシャカシャと小さな玉を集め始めるロボット。ロボットの動く気配と香りを使った即席の遁走術だ。コジロウを肩に背負うとクローゼットの奥のトンネルに飛び込みそっと戸を閉じた。
できるだけ気配を消したまま、素早く竪穴を降りる。城太郎の肩からコジロウの緊張が伝わってくる。城太郎は今にも頭上の隠し戸が開き、雨あられと矢が降ってくるのではという恐れと闘いながら手足を動かす。先頭を行く鉄心の動きは京とほとんど遜色がないほど見事だった。蜘蛛のように音もたてずスルスルと滑るように穴を降りていく。山中の生活で鍛えられただけのことはある。
暗闇で先が見えない中、京が城太郎の足を軽く叩いて底が近いことを知らせる。しばらくして足が地面を捉える。無言のまま全員揃っているのを手触りで確かめ一列に並ぶ。先導する鉄心の肩に京が掴まり京の肩に城太郎が掴まる。コジロウは城太郎たちの匂いを頼りに付いて来る。空いた手で地下道の壁を確かめながらゆっくり進む。まだ誰も喋らない。城太郎はゆっくり静かに呼吸しながらただ安全に歩を進めることだけに集中する。一点の明りもない真の闇が圧倒的な密度で迫ってくる。鬼人でもパニックを起こしそうな圧迫感だ。永遠に続くかと思われた歩みが不意に止まった。ポツンと地面に丸い光球が浮かぶ。京のペンライトだ。
「ここなら小さな声ならさっきの部屋には聞こえない。この光も見えない」
鉄心が言った。城太郎と京、コジロウまでもがホッとした表情になる。
「部屋に来た連中、どんなやつらか分かるか?」
「四五人って感じだったけどドアから離れて立たれてたら分かんないな」
「衛士か?」
「そこまではちょっと。でも何か迫力があったな。甲陽さんとかよりもずっと」
「俺たちが地下に潜ったのはすぐに相手に知れる。追手がかかるぞ。急がないとまずいな」
城太郎は口には出さなかったが鉄心の存在もある。冷温庫の監視カメラ映像には地下道に潜り込む城太郎と京の姿が写っている。それに院外からの不法侵入者である鉄心の存在が知れれば厄介なことになる。部屋に来たのが邪鬼使い側の人間であれば問答無用に犯人にされてしまうかもしれない。
「入場証は本物だし、冷温庫の中には人感センサーとかは無いはずだ。リアルタイムの場内監視なんてするわけない。盗難とか事故があって初めて録画映像を確認する程度のはずだが。動きが早すぎるな」
「じいちゃんとこ、行く?」
「いや。多分相手もそう考えて網を張ってるさ。概要は鳩伝で知らせてるんだ。ジイさんはジイさんで動いてるはずだ」
城太郎は右手を懐に入れ左手で顎先を撫でる。城太郎の「只今思考中」のポーズ。
「よし。宗円さんの部屋に行く」
「危なくない?もし宗円さんが―」
半邪鬼だったら―という言葉を京は呑み込む。
「部屋で邪鬼化すると思えない。昨日人語を話しているなら邪鬼化が進んで制御できなくなるにはまだ間があるはずだ。それに宿坊内で邪鬼使いと接触しているとも思えない。部屋では一人のはずだ」
「わかったよ」
城太郎は地図を広げる。
「鉄心、この宿坊に行きたい。部屋は三〇一、ここだ。この部屋も中に地下道への入口があるな?案内できるか?」
「あぁ、できる。行こう」
鉄心はできるだけ地下道の滞在時間を短くしたいようだ。鉄心を先頭に壁際に一列になる。
「さっきより少し早くて大丈夫か?」
「いいよ」
「よし、出発しよう。コジロウ、ちゃんとついて来いよ」
コジロウがクンと返事をする。三人はまた隊列を組んで地下道を歩き始めた。
二十分後、城太郎達は宗円が泊まる宿坊の地下に到着した。
「ここか。三つ目の扉を入ればいいのか?」
「うん。多分内側にも参〇壱って書いてある」
肩にコジロウを担いだ城太郎を先頭に竪穴を登る。参〇壱と書かれた扉の前に到着する。城太郎は中の気配に耳を凝らす。そっと扉の留め金を外す。音を立てないようゆっくりと扉をスライドさせる。すぐに宗円の体臭が香った。クローゼットに宗円の服が入っているのだ。ジリジリと身を乗り出しクローゼットの中へ。隠し穴があるせいか頑丈な作りになっているらしく城太郎が体重をかけても軋むこともなかった。クローゼットの扉には床との間に僅かに隙間がある。城太郎は五感を研ぎ澄ませて隙間から音と匂いを拾う。全く人の気配が感じられない。城太郎はクローゼットの戸をゆっくりと開く。コジロウに「静かに」とサインを出してそっと室内に入る。室内には香葉の香りが残っている。室内には誰もいない。城太郎はクローゼットの床から顔を覗かせている京に入って来いと手招きする。
「留守らしいな」
室内はきちんと整理されている。テーブルの上に置かれた水パイプとアルコールランプ、香葉入れ。部屋の隅に置かれたブリーフケース。小さな文机の上に開いたまま置かれた革表紙のノート。ほんのりと黄色い紙に青いインクの文字。書きかけて上から塗りつぶされている。僅かに開いた抽斗。そっと抽斗を引く。中には使い捨ての注射器が六本。そして無色透明な液体を満たした小さなアンプル。鬼化細胞不活剤だ。邪血病の治療に使われることが多い。京が寝室から出てくる。
「寝室は何にもないよ。綺麗にベッドメークされてる」
「あったぞ、不活剤だ」
城太郎はそう言いながら小さな違和感を感じている。何か腑に落ちない。城太郎は違和感の正体を見破ろうと室内を見回す。微かな香りが鼻腔をくすぐる。城太郎は匂いを辿って入ってきたのと反対側のクローゼットを開く。黒い鬼士袴。城太郎が顔を近づけると薄っすらとヤマニンニクが香った。クローゼットの中に置かれたブリーフケース。中を確かめる。薬液充填済みのペンシルタイプの注射器が三本。こちらは鬼化細胞活性剤だ。
「兄者、何があったの」
近づいてくる京に城太郎は注射器を示す。
「活性剤だ。こいつを使って邪鬼に―」
突然足元を支えていた床が消え、城太郎は闇の底へと落ちていった。
「あっ!」
突如として城太郎が立っていたベージュ色のカーペットが消失し、黒く四角い穴が城太郎を呑み込んでしまった。四角い穴は京が駆け寄る間もなく消えて元のベージュに戻る。落とし穴だ。慌ててカーペットを調べる。よく見るとカーペットに切れ目が入っているのが分かる。
「まったくもって間抜けだね」
突然の声に京と鉄心が振り返る。
「プティプリンス!」
こちらを指弾するかのように人差し指を突き出す義信がいた。義信の目から赤いフラッシュが迸る。反射的に顔をそむけながら横に飛ぶ京。コジロウは反対側に飛んでいる。
「―グッ」
呻き声を上げて床に倒れる鉄心。
「鉄心!」
京は視線を伏せて視界の端に義信の足元を捉えながら鉄心の様子を確かめる。
「へぇ、ゾンビでも一人前に名前があるんだ」
義信の声は静かだが嘲笑を帯びている。
「君たちの様が可笑しくって気合が乗らなかったよ。本来なら三匹まとめて石になってるはずなんだけどね」
義信は愉快そうに鼻で笑う。コジロウが鼻の脇に皺を寄せて歯を剥きだす。
「大丈夫、僕のプティプリンスは自律神経までは麻痺させないさ。呼吸はできるし僕らの声も聞こえてるよ」
プティプリンス。どうやら義信の必殺技のようだ。全身硬直系の眼術。師の宗円と同じで眼術系の技が得意らしい。
「コジロウ!後ろだ!」
京の声にコジロウが唸りながら義信の背中側に回り込む。眼術である以上正面と背中側を同時には見ることはできないはずだ。義信がククッと笑う気配が伝わってくる。
「そうだね。確かに後ろに眼はないなぁ」
ゆったりした口調から一転、義信が京を視線で牽制しながら後ろ手に何かを放る。コジロウが跳びすさるのと同時に鋭い音をたてて床に黒い物が突き刺さる。星型の手裏剣だ。
「おっと外れたね。君たち相手だとどうも調子が狂うなぁ。逃げ足だけはちょこまかと素早い。あれだ、ゴキブリなんかと同じなんだ、きっと」
コジロウは威嚇の唸りを上げながら上手く左右にステップを使って的を絞らせない。コジロウの動きに合わせて京も横に動く。義信の顔に苛立ちが浮かぶ。京は床に視線を落としたまま口を開く。
「宗円先生は地下道かい?散歩でもしてるの?」
義信の顔が分かりやすく歪む。
「君たちは余計なことを知ってしまったね。ただの無能で嫌な奴なら無事でいられたのに」
「邪血病はいつからだい?なんならいい医者を紹介するよ。コジロウがいつも予防注射を打ちにいく先生なら大型動物も診てくれるからさ」
義信は無理やり笑みを作る。京とコジロウは動きを止めない。京は黒い絹糸を義信の顔に飛ばす。義信は軽くスウェイバックして避ける。同時にコジロウが義信の足元を狙う動きを見せる。義信が踵を後ろに蹴り上げる。コジロウが素早くジャンプして避ける。義信の靴の踵からこれも黒く艶消しされた刃先が飛び出ている。京が再び糸を飛ばす。義信が顔をそむけて糸を避ける。
「ふんっ!」
目を吊り上げて今度は京に向かって手裏剣を投げる。京が左手を薙ぐように振ると一枚の若葉色の板が現れ手裏剣を空中でふわりと包んでしまう。鶴野から貰った風呂敷だ。手品のように風呂敷から滑り落ちた手裏剣は京の手に。
「返すよっ!」
京は義信の足の甲辺りを狙って手裏剣を見よう見まねで投げる。意外にも手裏剣はいいところに飛び義信は不格好な声を上げて跳びはねた。体術の方は案外苦手なのかもしれない。
「お前らのようなクズどもに、邪魔させるもんか。僕の邪魔はさせない」
目付きがイッている。切れやすい子供の眼になっている。
「邪魔なんてしないよ。一緒に地下道に降りようよ。薬をもってさ。きっと宗円先生には不活剤が必要だろ?」
「うるさいっ!」
義信が両手を広げて独楽のように回ると数枚の手裏剣を同時に放つ。が、あせりのせいか手裏剣の回転が乱れてスピードが無い。京は落ち着いて風呂敷で搦め捕る。コジロウも空中で器用に身を捻ってかわす。京は奪った手裏剣をすぐには投げず、口に咥えかけた手を止め袴の帯に挟む。義信の性格からして毒でも塗ってあるかもしれない。
「お前達になんか、絶対邪魔させるものか。風祭宗円を、風祭宗円を貶めることなど絶対に、絶対に―」
「落ち着けよ、義信。誰も宗円先生を貶めたりしないよ。宗円先生に必要なのは適切な治療だよ」
「違う!」
義信がヒステリックに叫ぶ。
「あんな奴どうなったって知るもんか!大事なのは風祭宗円の名だ!あの名は僕のだ!」
顔を伏せていても義信が凄い表情になっているのが分かる。踊るように、酔ったように体を揺らして地団駄を踏む。
「あの恰好つけのおっさんに貸してやってるだけだ!風祭宗円の名は僕のものだ!僕が継ぐんだ!傷つけたり汚したりさせるもんか!三代目鬼人探偵風祭宗円の名を汚すやつは許さん!お前もあの穴へ行け!」
義信がコジロウの方を剥いて右手の人差し指を高くかざす。しかし京の動きの方が一瞬早かった。帯に挟んだ手裏剣を壁に嵌め込まれた姿見鏡に投げる。鏡の砕ける音。義信の動きが止まる。
「その鏡にプティプリンスを反射させるつもりだった?その姿見の角度からするとほら、あの小さなテーブルミラーに反射して、その後はこっちのカップボードのガラスに反射する。いろんな角度から君の眼光が襲ってくるわけだ。義信って意外に冷静に計算してたんだ。怒ったふりして僕が反射した視線上にくるように動いてたんだ?人が悪いなぁ」
京は少し意地悪い笑みを浮かべながら言った。京は素早く移動してテーブルの上の小さな鏡を手に取る。
「義信は自分の眼光に対して耐性があるのかい?ねぇ?答えてもらえない?ま、いっか。試してみれば分かることだし」
京は小さな鏡を盾代わりに義信の視線を遮りながら義信の周りを鮫のように回り始める。糸を飛ばして距離を測る。義信は不機嫌なブルドッグのような表情で唸り声をあげるが眼術を使ってこない。強力な眼術であれば手で目線を遮る程度では防ぎきれないのだが、やはり鏡に反射する自分の眼光を気にしているのか。
「さて、悪いけど急がなきゃ。コジロウ」
京の声に反応したコジロウが再び素早い動きで義信の足元を狙い始める。京は義信の顔に糸を続けざまに飛ばす。義信は足取りがかなり怪しくなってきている。
「さて、じゃぁ今度は僕の番だね。ハッ!」
京は気合と共に鬼風を両手に流すと渾身の一音を奏でるピアニストのように、両手の指を開いて低い位置にある見えない鍵盤に向かって叩きつける。シュッと花火の弾けるような音と共に十の緑の螺旋が瞬き義信の体に巻きついた。どう―と床に倒れ込む義信。義信の肩から足首まで黒い絹糸が何重にも巻き付いて体の自由を奪っている。京がこの一年ほど練習している大技、一野式山嵐。まだ粗削りではあるが冷静さを欠いた義信には上手くかかった。
「鉄心、大丈夫?」
冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取ってくる。腕を動かしてみると硬直はもう解けていた。背中から支えて鉄心の上半身を起こす。窒息したりしないよう少しずつ水を飲ませる。
「ぷはぁ― 何かまだ体がギシギシ言ってる」
「少し休めば元に戻るよ。鉄心、兄者の落ちた穴、どこに通じてるの?」
「知らない。あの穴、俺も知らなかった」
京はクッションを枕代わりに鉄心を寝かせると、すっかり大人しくなった義信に話しかける。
「義信、この穴どこに続いている?」
義信は薄っすらと笑うのみで答えようとしない。京は宗円の荷物の中から結束バンドを取り出して足首と両腕を胴体ごと固定する。部屋の隅に置いてあるコロコロ掃除機の粘着ペーパーを一枚剥ぎ取ると義信の顔面にベタリと貼り付ける。眼術封じだ。
「剥がすとき痛いと思うよ?まつ毛と眉毛も抜けちゃうかも」
京は隣の部屋、義信の潜んでいた辺りを探る。あった。先端に金属の輪がついたロープ。これを引くと落とし戸が落ちるのだろう。まだ動きのぎこちない鉄心に手伝ってもらって落とし戸を開ける。まったく底の見えない闇が広がっている。京はテーブルの上からフルーツドロップの缶を取って穴の底に投げる。闇に消えていく缶。まったく音が聞こえない。京は持っていた小銭を数枚穴に投げ入れる。耳を澄ます。またしても音はしなかった。京は地図を広げて鉄心に見せる。
「あの落とし穴この地図に乘ってないけど、この下には何があるの」
「ずっと下まで続いてるとすると、穴の真下にあるのは部屋というか、大きな空洞だ。でもすごく深いとこだぜ?そんなとこまで続いてんのかな」
「きっとそうだよ。音が聞こえないくらいだもの。ねぇ鉄心、案内できるかい?その大きな空洞まで」
「そりゃ、してもいいけど― でも本当に凄い高さなんだ。俺も城太郎は無事だと思いたいけど―」
鉄心は優しさから言葉を濁す。
「大丈夫。兄者は結構しぶとい質なんだ。どっちにせよ兄者一人では地下道から出られない。頼むよ鉄心」
「ん― 分かったよ。その前に熱いお茶と何か喰うものない?まだ体がガチガチなんだ」
お読みいただきありがとうございます。
もし拙作がお気に召したようでしたら感想など寄せていただけると励みになります。
お時間あれば他の作品も覗いてみてください。
よろしくお願いします。