死の匂い
城太郎と京は宿坊に戻ると手早くシャワーを浴びベッドに横になる。しかし気が立っているのか京はなかなか寝付けそうになかった。城太郎は冷蔵庫から缶の野菜ジュースを取り出して飲んでいる。
「僕もジュース貰おっと」
京は起き上がって冷蔵庫から野菜ミックスジュースの缶を取り出す。城太郎が「あぁ、あのサラダだけじゃな」と相槌を打つ。鬼人は鬼虫に活力を与えるためビタミンやミネラルの摂取にとても敏感だ。城太郎と京も食事に生野菜や海藻類が付いていないと何となく落ち着かなくなってしまう。鬼虫が元気をなくして動きを止める様が反射的に頭に浮かんでしまうのだ。
城太郎はメールやSNSを使えなくした館内専用のタブレットを指先でなぞっている。
「なぁ、知ってるか?最後に邪鬼が現れたのはいつか」
「うーん、五年ぐらい前に確かあったよね、邪鬼事件」
「うん、青森の事件だろ?赤き死のねぶた事件。実はあれは鬼士院が公式に認めてないんだ。邪鬼って呼んでいいのは鬼士院が公式に認めた場合だけ。それ以外は躁血病患者とか邪血病疑患者とか、とにかく邪鬼って言わないんだよ。で、最後に鬼士院が邪鬼と認めたのは三十五年前だ。ちなみにこれまで鬼士院が邪鬼と認めた例は百件ない。八四件だけだ。千二百年の歴史の中で、だぜ?」
「へぇ、以外に少ないんだね。最近は治療法も進歩してきたしね」
「それも少しはあるかな。でも一番大きいのは反鬼人団体かな。邪鬼が出ると奴らが活気づく。政府も院に役人を入れろとか、監視体制を強化しようとしてくる。今回のようにな。今回も政府の連中は大っぴらに邪鬼が出たと言ってるが院は公式に認めてない。ま、状況証拠だけだしな。時期尚早といや時期尚早なんだが」
「今回は認めるのかな?」
「さぁな。そもそもそのイカれた鬼人を捕まえて― 死体でもいいんだが、血液検査と細胞検査をする。慎重な上にも慎重にな。で邪血病だと認定されて初めて邪鬼事件になるわけだ」
「うん。公平なやり方だね。いいんじゃない?それで」
「ところが良くないんだ。京、お前赤き死のねぶた事件がどうやって解決したか知ってるか?」
「うん。確か精錬鬼士団と軍の合同作戦で倒したんでしょ?」
「そうだ。鬼士チームが邪鬼を足止めしておいて軍の特殊部隊が止めを差したんだ。対戦車ロケットを二発ブチ込んでな。血液検査も細胞検査もあるもんか。全部吹っ飛んでまる焦げさ」
「そういうこと?で、邪鬼とは確認できませんでしたって?」
「そうだ。ここ最近邪鬼が少ないのはそういう事情もあるんだ」
「ふぅん。まぁ少ないに越したことないけど。やっぱり怖いしさ」
「あぁ。正直、師匠から見せられたあの記録映像、ちょっとビビったぜ。俺本物の邪鬼ってやつを見たのは初めてだしな」
「うん。凄い物見たって感じ。あれが目の前にワァッて出てきたら怖いどころじゃないよね」
「で、思ったんだがな」
城太郎は野菜ジュースを最後の一滴まで飲み干して部屋の隅の屑籠に放り込む。缶は屑籠を揺らすこともなく綺麗に中に吸い込まれる。
「こういう言葉を聞いたことないか?死の匂い。邪鬼は死の匂いを放っているって」
「うん、ある。淀川憲報の少年鬼士団シリーズとかによく出てくるよ。死の匂いを放つ邪鬼の生温い息が漆村少年の顔にかかりました―とかさ」
城太郎は頷いて尋ねる。
「死の匂いってどんなだ?」
「どんなって― こう、生臭くて、鼻にツンとくる感じ―?」
城太郎は今度はマルチビタミン配合のパックゼリーを飲み始める。京が「あっ、いいなそれ」と自分も冷蔵庫から一つ取り出す。
「要はさ、誰も知らないんじゃないか?邪鬼の匂いなんて。この鬼士院にだって邪鬼退治に直接かかわった人間なんて僅かしかいない。本当の邪鬼の匂いをはっきり嗅いだことのあるやつなんてここにはいないんだよ」
「確かに言われてみればそうだけどさ。でもほら、最初の死体を発見した人は講堂に入ると邪鬼臭がしたって言ってたんじゃなかったっけ?」
「血や体液の臭いはもちろんだが、そこに被害者の失禁や脱糞、たっぷりの汗、吐瀉物の臭いが加わる。強烈な匂いさ。邪鬼事件の現場はどこも似たようなものだから、みんなこれを邪鬼臭、邪鬼事件現場特有の臭いとして認識してしまってるんじゃないか。本当は残っている邪鬼の匂いを見逃してるってことはないかな」
「ん― そりゃまぁ― そうだけどさ」
「匂いってやつは目に見えないからな。嗅いだことのある匂いなら、例えば熟した林檎の匂いなら皆が知ってて話が通じるが、初めての匂いを嗅いでそれが何の臭いか当てるのはまぁ無理だ。嗅いだことのない相手にどんな匂いかを説明するのもな」
「そうだね」
「お前も言ったろ?生臭くて、鼻にツンとくる。例えばあの講堂に籠っていた臭いについて説明しようとするとそうなるんだ。言葉に置き換えた瞬間に抽象的になってしまう」
城太郎は空になったゼリー容器を丸めると狙いをつけて屑籠に投げる。容器は見事に籠に収まり城太郎は小さく「よしっ」と呟く。
「さて、夕飯までひと眠りするか」
「そうだね」
京は窓のカーテンを引くとベッドに横になった。
「正雪様、紫龍課長補佐より鳩伝が届いてます」
夕食のためにロビーに降りた城太郎と京を受付の職員が呼び止めた。院内では訓練した鴉をメッセンジャー役に使うことが多い。伝書鳩が使われることは全くないのだがなぜか鳩伝と呼ばれる。職員から鴉が運んできた通信管を受け取る。管のキャップを開け中からおみくじのように小さく巻かれた文を広げる。
「今晩飯を食いに来いとよ」
城太郎と京は三度コジロウに道案内を頼み伝兵衛宅へ。伝兵衛宅では辛丸も待っていた。家に上がると早速伝兵衛が奥から出てくる。
「京や、邪鬼の件聞いておるぞ。お手柄だな。ジイも嬉しいわい」
と相好を崩す。いつものように城太郎には素っ気なく「うむ」と頷くだけ。
「二人ともご苦労だったな」
辛丸が座ったまま二人に声を掛ける。辛丸の横には細身の袴に開襟シャツ姿の男性が座っている。
「広島錬成館時代の同期でな。警備事務局警備管制課の課長やってる柚子原莱漢だ」
「柚子原です。よろしく」
緑派の仲間なのだろう。男は笑って頭を下げる。城太郎と京も名乗ってお辞儀を返す。
「早速だが、喰いながらでいいから話を聞かせてくれ」
「はい」
杉の一枚板で作られた大きな座卓には今日は鍋ではなく猪のハム、腸詰、ベーコン、牛肉のたたき、鶏手羽の唐揚げ、穴あきチーズにクリームチーズ、エビとザリガニ、ざく切りにした米粉パン、おにぎり、ワカメや海葡萄たっぷりの海藻サラダの皿が載っている。
「時系列でお話するほうがいいでしょう」
城太郎はまず京に悲鳴を聞いてから現場に駆け付けるまでを話させ、後を引き継ぐ形で京の後を追って現場に着き、聴取を受けるまでを一通り三人に話して聞かせる。辛丸が気にせず食べろと言うので京はワカメスープを啜りながら城太郎の話が終わるのを待つ。
城太郎の話が終わったと思ったらすぐさま辛丸から京に質問が飛んでくる。
「京、そのお前が見た人影だが、半邪鬼だと思うか?」
京は慌てて口の中のワカメを飲み下す。
「分かりません。何となくですが、普通の鬼人みたいな感じでした」
柚子原がハムに野菜スティックを巻いたものに辛子マヨネーズを搦めながら言う。
「京君の言っていた店の屋根、警備事務局で調べたんだが確かに痕跡が残ってたよ。微量のヤマニンニクの粉、微かな足跡。ただ個人の特定は無理だな。しかし一つはっきりしたことがある。靴を履いていたということだ」
辛丸は茹でザリガニの殻をバリバリと剥がしガーリックソースをつけて口に放り込む。
「つまり京が出会ったのは邪鬼ではない可能性が高いということだ」
鬼人が邪鬼化すると体が一・五倍ほど膨張すると言われている。シャツやズボンはゆったりしたサイズのものを身につけていれば破れないかもしれないが靴はそうはいかない。邪鬼化の現場には靴が残ることが多いのだそうだ。
「邪鬼の足跡はどうです?」
「うん。今回はそれらしき跡がいくつか残ってるんだが素足じゃないようだ。伸縮性のある靴下みたいなものでも履いてるのかな」
「鬼人と邪鬼。仲間でしょうか?」
「儂らもそれを懸念しておる」
「半邪鬼を操る邪鬼使いがいるとすれば少々面倒だな」
京は耳をそばだてながらこの隙に米粉パンにレタスとスライストマト、ハムと穴あきチーズを挟んで齧りつく。ハムもチーズも一級品らしく素晴らしく美味い。
「院の内部にですか?」
城太郎の問いにすぐには誰も答えない。辛丸が言葉を選びながら言う。
「城太郎、前にも言ったが鬼士院の平穏は微妙なバランスの上に成り立っている。院内には四つの派閥がある。つまり赤青緑白の四つだ。互いに押したり引いたり牽制し合いながらバランスを保っている」
辛丸はちぎったパンに牛肉のたたきを一切れ乗せる。その上におろし山葵とオニオンスライス。
「もしどこかの色が邪鬼を使って院を掻きまわそうと考えてるなら、他の色もそれに対抗しなければならなくなる。つまり放っておけば王宮は戦争になるわけだ。王宮の戦争は院の戦争。院の戦争は鬼界全体の戦争だ。内戦状態になれば国力は弱まり、政府はなお一層鬼界への介入を強めようとしてくるだろう」
辛丸は手に持ったパンに醤油ドレッシングを垂らすと一口に頬張る。柚子原が言葉を継ぐ。
「赤、青、白。相手が何を考え何をしようとしているのか。どんな小さな情報でも重要だ。目と耳を研ぎ澄まして小さなことでも我々に知らせてくれ」
城太郎は分かりましたと答えてビールのグラスを手に取る。ふと思いついて尋ねてみる。
「風祭宗円さんも赤青白のどこかが雇ったのですか?他の色の動きを探るために」
「かもしれん。儂らが調べた限りでは繋がりは見えてこんな。本当に偶然という可能性もある」
「院内にも色々と手蔓を持ってるからな。油断のならない相手だよ。注意しておいてくれ」
辛丸の言葉に柚子原も頷く。
「随分と院内の事情に通じているようですね」
伝兵衛が顔をしかめる。
「三四郎のことはまぁ知る人ぞ知るといった情報だが。それにしても風祭宗円と言う探偵、少し覗き趣味が過ぎるようじゃな」
城太郎は苦笑交じりに宗円が自分に必殺技の発動を迫った話をした。
「状況からしてRBFについて何となく見当がついている様子でしたね。あのロシア系鬼士の犬を相手にしたときに使ってしまいましたから」
「うむ。目敏い奴―というか、お前も少し軽率じゃ城太郎。あっさり断ることもできたであろうに。おまけに今回は京の機転に救われておる。人が良すぎるのと格好つけたがるところがお前の欠点じゃ。無理だと断って恥を掻けばよいだけのこと。まったくお前はいつまで経っても甘さが抜けん」
「まぁまぁ。そこが城太郎の持ち味でもあるんだから。で、宗円が青の宮に尋ねたのはそれだけか?近頃身辺に不審な事はないか―と?」
「はい。最近身辺に変わったことはなかったか。誰かの視線や、気配を感じたりしたことはなかったか―と」
辛丸がふぅんと呟いて柚子原の方を向く。
「王宮に探りを入れられるか?」
「難しいね。元々ウチと王宮守備隊は折り合いが良くない上に最近の邪鬼騒ぎだ。相当ピリピリしてるからな」
「城太郎に夜這ってきた女忍者を追っ払ったせいで緑派の忍者も動きづらい状況になってるからな。ま、他の手を考えるか」
「とにかくよく目を開き耳を澄ましておくことじゃ。何かあったら鳩を飛ばせ」
「あの―」
わさび醤油をつけた腸詰でおにぎりを食べていた京が遠慮がちに声を上げた。
「じいちゃん、明日は授業、出ていい?」
伝兵衛が笑顔で頷く。
「もちろんじゃとも。京は勉強熱心じゃな。儂からも錬成院に話しておくから存分に学ぶがいいぞ」
城太郎は笑いを抑えるために腸詰とタマネギを挟んだ米粉パンを頬張った。
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