邪鬼の影
京は薄っぺらい布団の中で目を覚ました。まだ夜が明けていない。群青色の闇の中、他の予科生の寝息が響いている。二段ベッドを二つ入れた四人部屋。机どころか荷物を置く場所すらないので荷物のほとんどを城太郎の部屋に残し、教科書や筆記具など最低限必要なものだけをベッドの枕元に置いている。そっと枕元おいた懐中時計を見る。四時十五分。起床時間までまだ一時間以上ある。先住の予科生の中に鼾のひどい者が二人いて京は度々夜中に起こされる羽目に陥っていた。一人でも凄い音量なのにそれが二人の合奏となるともうほとんど音波攻撃に近い。残りの一人はもう慣れてしまっている様子だが、京は鼾が始まるたびに目を覚まされてしまうので、無遠慮に文句を言うこともできず困っていたのだ。しかし今夜の部屋に響いていたのは、村の鍛冶屋のフイゴか若干ガタのきた人工心肺の呼吸音といったところで、これなら十分に静かだと言えた。
五時半になれば大音量の鳴子が鳴り響いて嫌でも起こされるのだ。もったいないから早く寝なきゃと京は布団を被りなおして目を閉じる。
「…?」
十秒と目を閉じていられず京は再び二段ベッドの下段で体を起こす。部屋を満たす少し下品な呼吸音の向こうに何かを感じ取ったのだ。そっとベッドを降りて窓際に向かう。両手を耳の後ろにあてがって音を拾う。
「…ん?…どした?」
鼾をかかない予科生、不動良介健太夫が布団の中から言った。
「ホームシックかぁ?少しの間なんだから我慢しろって。俺なんて帰るところないんだし」
京は起きてきた健太夫に「静かに」と囁くと窓に向かって外の音に集中する。
「何か聞こえない?」
「―ん」
健太夫も両手を耳の後ろに当てて音に集中する。「もう」と唸って寝息を立てている二人を見やると観音式のガラス窓を開く。春の空気が部屋に流れ込む。
「何にも―」
と言いかけた健太夫が口を閉じた。夜気に乘って微かな人の声が二人の耳に届いた。高いピッチのビブラート。悲鳴だ。しかもかなり逼迫した、体の芯から迸る悲鳴。
「行こう」
寝具代わりのスウエット姿のまま部屋の外に飛び出す京。走りながら京は首から下げていた呼子を鋭く二度吹く。健太夫が「先生を呼んだほうがいいって」と叫びながら後を追った。
宿坊。部屋の隅で眠っていたコジロウがピクンと耳を立てて立ち上がる。ベッドで眠っている城太郎のところへ行って顔を舐める。城太郎が小さく唸って目を覚ます。
「何だコジロウ」
部屋の中に鶴野の姿はない。眠っている間に帰ったようだ。まだボンヤリしている城太郎の顔をコジロウがバシバシ叩く。城太郎にピンとくるものがあった。
「京か⁉」
コジロウが吠えるのと同時に城太郎はベッドを飛び降りる。素早く衣服を着け刀を差すと部屋の外の飛び出していく。
声の聞こえた方へ走る。あれっきり悲鳴は聞こえない。ふと京は足を止めた。襟足辺りが妙にむず痒い。胃の中を蜘蛛が歩き回るような感触。危険信号だ。夜風に乘ってヤマニンニクの香りが届いてくる。背筋の筋肉が緊張に細かく痙攣する。まさか―
「誰?」
京の声に恐怖が混じる。少し震える手で左手首に巻いていた糸の輪を外す。京はもっとましな武器をもってくれば良かったと無思慮な自分を呪った。不意に視線を感じた京は棚田のような段地に並んだ小さな商店の屋根の上を見上げる。
「―!」
暗闇の中に人型の何かがいた。その距離五m。マントのようなもで体を覆っている。強いヤマニンニクの匂い。京は心臓が早鐘を打つのを感じながら、いつでも糸を打てるように指抜きを指にはめ糸を指に掛けると、首から下げた呼子を吹く。恐怖に強張りながらも咄嗟にこれだけのことができたのは日頃の訓練の賜物だろう。怖さで震えながらも構わず続けて呼子を吹く。京にとって幸運だったのは相手にとっても京と出くわしたことが想定外だったことだろう。影はジッとこちらを見ていたが、次の瞬間パッと身を翻して屋根の上を音もなく走り抜けると闇に溶けるように消えた。
「京!」
城太郎とコジロウが走り寄ってくる。
「大丈夫か⁉」
口と喉が乾いて張り付き咄嗟に喋れない。京は口から呼子を放すと二度三度と頷いて見せる。
「大丈夫―」
ようやくしわがれた声が出た。「一野ぉ― 無事かぁ⁉」と健太夫の声。教師二人とこちらへ走ってくる。京は黙って通りの奥の方を指さす。すでに人の集まる気配があった。
「間に合わなかったみたいです。とにかく行ってみましょう」
屋根の上の人影のことは言わずに人の気配のするほうに走る。道の奥、五十mほど行ったところに夜警の鬼士達が何人か集まっていた。そして鬼士達は皆夜目にも白く光る刀を手にしている。すぐ近くに敵がいる可能性があるということだ。そして道の真ん中に人が一人倒れていた。確かめなくても死んでると分かる。まるで空になったポテトチップスの袋のように体が捩じれており顔と足があり得ない方向に曲がっている。そして死体の周りが黒々と濡れてところどころ水溜まりになっている。呆然と見つめていた健太夫が「本科生の服だ」と震える声で言う。
「何?あんたら。早く帰れ」
目を血走らせた鬼士が城太郎達を現場から遠ざけようとする。離れたところから別の鬼士が「おい、現場にいた者の顔を覚えとけよ」と叫ぶ。別の者が「帰しちゃダメだ馬鹿。参考人だろうが」と叫んで寄越す。
夜警の鬼士達からすっかり余裕が消えている。邪鬼。ここにいる全員がそう思っている。邪鬼がまた鬼を襲った。そしてその邪鬼はまだそのあたりの暗がりに潜んでいるかもしれないという恐怖と緊張が鬼士達を縛り付けている。夜警たちは呼子をけたたましく吹きならしながらきょときょとと辺りを見回す。決して互いに姿の見える範囲から動こうとしなかった。
「また犠牲者が出たな」
宗円だ。解禁シャツにジャケット姿だがネクタイもしておらず髪も乱れている。
「騒ぎが聞こえてね」
宗円は警備の鬼士を捕まえると話しかける。
「我々は事件直後に現場にいたわけだ。事情聴取があるだろうから我々はここに残ったほうがいいね?彼らは錬成院の教師と生徒たちだ。私と彼は斎藤少佐殺害事件の捜査のために外部から招かれた客分でね。一応我々も聴取の対象になるのだろう?」
宗円は少し離れたところにある明かりの点いた店を指さす。
「我々はあのパン屋で待たせてもらうよ。もう応援がくるだろうから聴取の段取りができたら呼んでくれ。それとも我々も何か手伝うかね?」
鬼士は分かったと横柄に頷く。
「勝手に帰るなよ。いいな?」
「もちろんだよ。さぁみんな、お呼びがかかるまであの店で待機だ」
全員でパン屋に向かう。近づくとパンの焼ける香ばしい香りがしてくる。店の扉は施錠されていたがノックしてしばらく待つとおかみさんが出てきてドアを明けてくれる。
「実は今そこで事件があってね。我々は現場に居合わせたので聴取を受けなきゃならんのだが、申し訳ないがしばらくここで待たせて貰えまいか」
おかみさんは少し心配そうな顔付でチラと外を見たが「どうぞ」と全員を中に招き入れる。ありがたいことに店の奥がイートインコーナーになっているのでそこで待たせてもらう。
「おかみ、不運にも災難に巻き込まれた我々にパンと暖かいココアを恵んで貰えまいか」
宗円はポケットからマネークリップを取り出して紙幣を一枚おかみに渡す。
「すみません。慌てたもので金入れも持たずに来てしまいました」
「いや何、私も引っ掴んできた上着にたまたま金が入っていてよかったよ」
しばらくしておかみさんが焼きたてのパンとマグカップに入ったココアを運んでくる。パンの入った籠をテーブルの真ん中に置き皆にマグカップを配る。おかみさんは宗円にお釣りを渡そうとしたが宗円は「迷惑料だよ」と断った。
外は応援の鬼士達が到着したせいで随分と賑やかになっている。車のヘッドライトや赤い回転灯、投光器、鬼士達のフラッシュライトが入り乱れてロックコンサートのようだ。
京は湯気の立つカップを両手でくるんでココアを啜っている。カップの縁からチラチラと城太郎に視線を投げてくる。何やら言いたいことがあるらしい。
城太郎は宗円や錬成院の教師たちの目を気にしながら紫苑流神戸西道場で使っていたハンドサインを送る。京がサインを返してくる。「見た」「見られた」「悪い」「犯人」。どうやら現場から逃げる誰かと鉢合わせしたようだ。黙っていていい内容ではなさそうだった。逃げる相手に顔を見られたなら今後京に危険が及ぶ可能性もある。
「宗円さん、先生方と生徒さんですがショックを受けておられるようですし、このまま残っていただくのもどうかと」
宗円は口の中のパンを飲み込んで大きく頷く。
「そうだね。子供には少々ショックな事件だからね。少し顔色も悪いようだ」
宗円は窓から外を覗く。
「幸いなことに斜め向かいの定食屋が開店準備を始めたようだよ。あそこには小上りがあってね。横になれるはずだ。私が頼んでこよう」
宗円は口を挟ませずに素早く立ち上がってパン屋を出ていく。しばらくして戻ってくると宗円は健太夫と二人の教師に言う。
「休ませてもらえるそうだよ。行こうか」
教師たちは「じゃぁ」と答えて立ち上がる。健太夫も席を立つ。
「ごめん。迷惑かけちゃった」
「いいよ、俺が勝手についてきたんだから。じゃ、また後でな」
「うん。後で」
宗円に付き添われて三人は斜め向かいの定食屋へ。宗円が小走りに戻ってくる。
「いやいや、今日はこの辺りの店は商売にならないかもな」
宗円は椅子に腰かけて城太郎と京に向かって両手を広げて見せる。
「さて、何の話だい?」
「京が何か見たようです。京、話してくれ」
城太郎が京を促す。京は「はい」と答えて数舜頭の中を整理する。
「錬成院の寮で眠っていたんですが、夜中に、ふと目が覚めたんです。四時十五分でした。窓の外から何か聞こえた気がして。気になって耳を澄ますと悲鳴のようでした。女の人の」
「起きてすぐか?」
「うん。せいぜい一分とか二分?」
「悲鳴で目を覚ました可能性があるな。優秀だ」
京は「いえ」と謙遜して続ける。
「その後すぐ健太夫も起きてきて。窓を開けてよく聞いてみると僕にも健太夫にも悲鳴が聞こえました。すぐに寮から出て声の聞こえた方へ走りました」
「真っ直ぐここにか?」
「うん。寮を出て大通りを走って銀杏通りを折れてそのままこの路地を走ってきんだ」
「時間がどれくらいだい?」
「寮を出て― 二分、くらいでしょうか」
「途中で誰かに会ったか?」
京が一瞬言い澱む。
「この路地に入るまでは誰にも。でもこの路地に入ったところで、もう少し手前の雑貨屋さんの辺りで― 気配を感じて立ち止まった」
「どんな気配だい?邪鬼の気配?」
「いえ― 強い視線というか、見られてる感じで。変だと持って上を見上げたら、雑貨屋の屋根の上に人― 人の影が」
「邪鬼、かね?」
「…分かりません。フード付きのマントを着てて。頭から足元まですっぽりと」
「匂いはどうだ?邪鬼臭は?」
「ヤマニンニクの凄い匂いがしてて― 他の匂いはちょっと」
「相手は何か言ったか?仕草とか?」
「何も。ただじっと見合ったって感じ。向こうもハッとなった感じで」
「で、その後は?」
「とにかく誰か呼ぼうと思って。呼子を吹いて。そしたら少しして大通りの方へ走って逃げていった。そのあとすぐ兄者が走ってきて。少し遅れて健太夫と先生が」
城太郎と宗円はしばらく黙って考え込んだ。宗円が城太郎に尋ねる。
「半邪鬼だと思うかね?」
「奥の死体はそうでしょう。ただ京が出くわしたのが半邪鬼かどうかは分からないですね。半邪鬼にしても少し理性的に過ぎるような気がします」
「同感だな。半邪鬼単独の仕業ではないのかもしれん」
城太郎は残りのココアを飲み干す。
「京、その人影と見合ったときに呼子を吹いたのはよかったぞ。結果的にそれがお前を救った可能性もある。呼子で敵は倒せんが敵を遠ざけたり味方を呼ぶことはできるんだ。でも次から危険に飛び込もうとするときはそれなりの準備をしてからにしろ?今回は幸運だったということを肝に命じるんだ」
「うん、城太郎君の言うとおりだな。少し無謀で、少し無計画だ。だが、よく気付いたし、よく行動した。おかげで事件解決に向けて大きなヒントを掴めたわけだ」
その時、サイレンを鳴らしながら赤と緑色の回転灯を回した電動バギーが店の前を走り過ぎた。
「おや、今の王宮のバギーだぞ」
宗円と城太郎が店の外に出る。バギーは遺体のすぐ手前で停まる。警備の鬼士が慌ててバギーのドアに駆け寄るがドアは内側から弾けるように開いた。中から女性が一人飛び出してくる。傍目にも高価なものと分かる空色の衣装。助手席から男が一人飛び出して女性を押し留めようとするが。女は後ろ手に掌底を男に突き出す。掌底が男に触れる直前に白いスパークが飛んで男は車のボンネットに叩きつけられた。とてつもない鬼力だ。
「なんと、青の宮じゃないか」
宗円が思わず口笛を吹いてしまい慌てて「失礼」と謝る。四人の皇鬼の一人であり青の宮の王鬼。その名を新鷹てふ。皇鬼に就いて十五年。弓の達人。鬼力の強さだけなら赤の宮、つまり鬼士院院長にも引けを取らないと噂される。その青の宮が遺体に取りすがって泣きじゃくっている。青の宮の取り乱しようは、取りも直さず路上で捩じくれた姿でビニールシートを被せられている遺体が青の宮の肉親、恐らく娘であろうことを示している。
「青の宮様にはお気の毒だが、事件の早期解決のためだ。城太郎君、行こう。京君、君も来たまえ」
宗円が城太郎の肘の辺りを掴んで引っ張っていく。宗円の意図が分からないまま京も後ろから付いていく。号泣する青の宮。路上の遺体を取囲む人垣の手前で宗円が城太郎に耳打ちする。
「不躾なお願いだが、この間のアレをやってもらえないか?」
「―? あれとは?」
「あれさ。ほらあの怪物犬を手懐けてしまったヤツ」
「…」
城太郎は苦笑しながら宗円を横目に見る。宗円は大真面目だ。
「頼む。こんなところで院の警備鬼士相手に眼術を使うわけにもいかん。君のあの必殺技なら人垣を抜けて青の宮に直接話を聞けるんだ」
「困りましたね」
城太郎が困り顔でコリコリと頭を掻く。と、大きな鳴き声が響いた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん」
京だ。人垣を作っていた鬼士達が驚いて一斉に振り向く。
「うわぁぁぁ― 東野原先輩ぃぃぃ―」
大粒の涙をポロポロこぼしながら人垣を掻きわけて前へ。屈強な鬼士達も思わず気圧されたように道を開けた。城太郎はすかさず調子を合わせる。
「京、大好きな先輩を失った気持ちはよく分かるが皇鬼様の前だ。別れを惜しむのは後にしなさい」
「東野原先輩ぃぃぃ― あんなに僕を気遣ってくださったのに― 僕が― 僕がもっと早く着いていれば」
さぁ、それぐらいにしなさいと遠慮がちに声をかける警備鬼士を青の宮が止めた。
「よいのです。少年、お前は水穂の知り合いですか?」
「はい。先日予科に入ったばかりで― 僕のような者にまで予科でいじめられたら私に言いなさいと優しく声をかけてくださって」
「そう― 水穂は誰にでも優しく分け隔てのない子でした」
城太郎がさり気なく割り込む。石畳に膝を着いてお辞儀をしながら、
「この者の兄でございます。弟は予科の寮で悲鳴を聞きつけ駆け付けたのですが間に合わなかったようです。兄弟揃っての力不足。お許しください」
宗円がその横に膝を揃えて座る。
「青の宮様、犯人を一刻も早く捕まえねばなりません。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「いい加減にせんか!」
バギーを運転してきた鬼士が言う。見ると初日の宴会で司会をしていた総務事務局の平子課長だ。しかし青の宮は「構いません」と凛とした声で告げた。
「なんでしょう?」
「はい。最近青の宮様の身辺に変わったことはありませんでしょうか。誰かの視線や、気配を感じたりとか」
青の宮は少し考えてきっぱりと言った。
「心当たりはありません」
平子が強引に宗円の腕を取って立たせる。
「まったくどういうつもりか!青の宮様を不安がらせるようなことを!青の宮様を始め皇鬼の皆様は王宮守備隊がしっかりお守りしておるわ!」
もうこれくらいでよいだろうと警備棋士が城太郎と京を引き離す。そこへ別の鬼士がやって来て城太郎たちに「何やってんだ!勝手に出歩くな!探したろうが」と罵声を浴びせた。とりあえず警備事務局の本部で聴取をするので車に乘れという。指示された車は警備局員や精錬鬼士団の団員輸送用のごつい車体の機動車だった。定食屋で横になっていた健太夫たちも一緒に夜警明けで疲れた表情の鬼士達と同乗して移動する。鬼士の一人が朝飯代わりのサツマイモ入り蒸しパンに齧りつきながら話しかけてくる。
「乗り心地はよくはないが、これなら邪鬼に襲われても安心だろ?」
「だといいがね」
宗円の皮肉な物言いにその鬼士は笑顔を消して「まさか、大丈夫だよな?」と仲間に問うが誰も返事をしない。鬼士は気まずい雰囲気の中黙ってひたすら蒸しパンを口に押し込んだ。
警備事務局本部で一時間待たされた後、ようやく城太郎たちの聴取が始まった。城太郎は聴取の担当者から同じことを二度も三度も質問されうんざりしたところに、交代した別の担当者からも同じことを聞かれたりするのですっかり閉口してしまった。城太郎が聴取質を出ると宗円が長椅子に腰かけて待っていた。
「早いですね」
「私もついさっきさ。教師と京君のルームメイトは先に帰ったよ」
宗円が立ち上がって近くの自動販売機で甘い缶コーヒーを買うと「小銭を持ってないだろう?」と言って城太郎に手渡してくれる。城太郎は礼を言って熱い缶コーヒーを啜る。甘さが身にしみる。京はなかなか聴取から戻ってこない。城太郎は宗円に先に帰ってくれるよう言ったが、宗円は「なに、待つさ。一緒に飯を喰おう。作戦会議だ」と近くのラックに並んでいた鬼士院の季報を読み始めた。
結局京が聴取から戻ったのは昼少し前だった。果てしなく続くかのような聴取のせいか、ただでさえ白い顔が青白くなり、眉間の辺りに険しい表情が貼り付いてる。
「なにさ、あれ⁉本っ当にもうっ!同じこと何回言わせるんだよっ!」
「そう怒るな。向こうも仕事だ」
京はプリプリ怒りながら「無実の人が嘘の自白をしたくなる気持ちが分かった」と肩をいからせる。
「とにかくエネルギー補給だ。さぁ行こう。京君のおかげで重要なヒントを掴めた。ご馳走させてくれ」
三人は警備事務局を出て近くのビアレストランに入る。宗円はステーキサンドイッチ、城太郎はクラブハウスサンド、京は鹿肉のミートボールサンドイッチを頼む。宗円が「今日はもう一仕事終えたようなもんだから飲んでもいいだろう?」と言うので白ビールのグラスを二つ頼む。宗円が「それじゃ足りんだろう」と言って京のためのミートパイとレモネードを頼んでくれる。飲み物が運ばれてきて宗円と城太郎が乾杯する。二人とも一息にグラス半分ほど飲み干す。
「美味い」
宗円は口の端についた泡を舐めながら呻く。サンドイッチが運ばれてくる。長時間の聴取で三人とも腹が空いていた。早速大口開けても入りきらないほどボリューミーなサンドイッチにかぶりつく。ソースが溢れて指を汚したが気にせずガッついて指のソースを舐める。サンドイッチと付け合わせのフレンチフライとグリーンサラダがあらかた片付いた頃、宗円が白ビールのお代わりを二杯頼む。宗円が京に「フライドチキンでも食べるかい?」と尋ねたが京は恥ずかしそうに「大丈夫です」と答えた。
十五分後、料理の皿はすでに下げられていた。宗円と城太郎は三倍目の白ビールを小口に空けている。京の前にはカフェオレの鉢が置かれている。
「さて、分かったことを整理しておこう。頭の中のキャビネットにね」
宗円が自分のこめかみを突きながら言う。
「まず、あの死体だ。東野原水穂。錬成院本科の三回生だ。そして青の宮の娘でもある。もちろん大勢いる中のね。水穂が死んで院内で育てられているのは現在四人。錬成院の本科生が一人、予科生が一人、後の二人は十歳に六歳。無論全員女子だ。一方で院の外に出されてる女子もいる。数は分からない。実力があれば水穂のように錬成院に入学を許可される。ま、皇鬼の娘なんだ。実力はあって当たり前だがね」
「先日の日向丘君のように皇鬼の子だと知っていたんですか?」
「いや。さすがに全員知ってるわけじゃない。青の宮が来てるのを見てそうだったのかと。京君の知り合いでなかったら名前も分かってないさ。だから君の必殺技を発動してもらおうと思ったんじゃないか」
どうやら宗円は城太郎の必殺技がどのようなものかある程度見当がついているのだろう。京が機転を利かせてひと芝居打っていなかったら、強引に必殺技を使うことを迫っていただろう。
「宗円様、得意の眼術で鬼士達の行動を規制してしまえばよかったんじゃ?」
「ふふ、院内で局員に眼術をかけるって?いくら私に有力なコネがあってもそいつを不問に付してもらうのは苦労するだろうね。ましてや皇鬼にそんなことしてみたまえ。私は鬼士免状を取り消され地下牢行きさ」
「私だって同じですよ。皇鬼に必殺技を仕掛けるなんて」
「ははは、まぁそう怒り給うな。ちゃんとこの埋め合わせはするさ」
宗円は屈託なく笑ってビールを一口飲んだ。城太郎はふと思いついて聞いてみる。
「そういえば義信君はどうしているんです?」
「ん?あぁ― 義信は、勉強で忙しいのだろう。錬成院は義信の憧れでね。この機会を無駄にしたくないのだろう」
明らかに宗円の歯切れが悪くなった。必殺技の一件の意趣返しではないが、城太郎は続けて聞いてみる。
「義信君は錬成院は受験したのですか?」
「うん。残念ながら落ちてしまってね。横浜の錬成館に受かったのだが本人は不満らしい」
「そうですか」
宗円は細長いグラスに鼻を突っ込むようにしてビールを飲む。グラスを置くと指を組む。
「ここだけの話、私と義信は上手くいっていなくってね。私の指導が悪いのだろうが、義信は少し変わったところがあってね。立身出世というか、社会的なステータスを得ることにひどく執心しているんだ。恐らく私を師と呼んでいるのも私の人気や様々なコネクションを考えてのことだろう。いや失礼、愚痴を聞かせてしまったね」
宗円は給仕を捕まえるとコーヒーを二つ頼んだ。
「すみません。立ち入ったことを聞いてしまって」
「いいんだ。とにかくあの死体だ。どう見たね?」
「邪鬼でしょう。斎藤少佐と違って体液こそ吸われていませんが、黒漿水まみれになっていましたし、胴が捩じ切られそうになっていましたから」
「だろうね。大人の胴体を飴細工みたいに捩じるパワー。そして全身の鬼虫が死滅してしまうほどの鬼風。邪鬼にしかできない」
黒漿水というのは鬼虫の死骸と鬼虫の分泌液が混じった物だ。鬼虫は自分を病原菌などから守るために特殊な分泌物を出す。この分泌物は鬼虫自身だけでなく宿主である鬼士の健康を保つ役割もしているわけだが、鬼虫が死の間際に放つ分泌物が黒漿水だ。邪鬼の強力な鬼力を浴びて全身の鬼虫が一瞬で死滅してしまったのだろう。水穂の死体は頭からタール液を被ったようになっおり、石畳には黒い水溜まりが残っていた。
「京が見た人影、半邪鬼でしょうか?」
「うーん、確証はないが― 違う気がする。もし邪鬼なら、たとえ半邪鬼であったとしても京君は無事では済まなかったろう」
「ヤマニンニクの匂いがしたのは斎藤少佐の時と同じです。邪鬼が自分で邪鬼臭を消したというより誰かが消して回ってる可能性もありますね」
「まぁ確かにな。ちょっと面白いね。匂いを消して秘密の通路から邪鬼を逃がす。まるで邪鬼使いだ」
宗円と城太郎は残った白ビールをチビチビやりながら事件の意見交換を続ける。
「そうだ。宗円さんなぜあんなことを皇鬼に尋ねたんです?」
「うん。邪鬼の狙いが皇鬼かもと思ったのでね。だったら守備範囲を狭められるから」
「なるほど」
しばらくして宗円が今日はこれぐらいにしておこうかと言った。城太郎も同意する。
「京君、念のために今日は城太郎君の部屋に泊まり給え」
「はい。そうするつもりです」
「じゃ、私は部屋に戻って夕食まで昼寝でもするとしよう。では」
お読みいただきありがとうございます。
もし拙作がお気に召したようでしたら感想、評価など寄せていただけると励みになります。
お時間あれば他の作品も覗いてみてください。
よろしくお願いします。