授業
「おはよう兄者、昨日はさ、その、どうなったの?あの後」
京が興味を抑えきれないといった風情で尋ねる。
「どうもしないさ。一杯だけ飲んで占い師は自分のねぐらに戻った。俺もベッドに入った。それだけさ」
さりげなくかわす城太郎。京はまじまじと城太郎の顔を覗き込んでいたがやがて話題を変えた。
「ねぇ、あの鞭さ、無くさないでよね?僕のだよ?」
「分かってる。ちゃんと荷物の奥にしまってあるさ」
城太郎は朝食会場の受付にルームカードを見せ空いている席に向かう。
「あの人ってさ、本当に占い師なの?」
「なんでそう思う?」
「何となく― さ」
二人はトレイに皿を並べ、料理を盛って回る。城太郎はご飯にアオサの味噌汁、焼き鮭、海苔、メカブオクラ。京はハムとキュウリ、チーズとトマトのサンドイッチにワカメスープ、カットフルーツ、グレープフルーツジュースにパック牛乳。
「なんだそれだけか?肉と卵はどうした?喰わないのか?背の高いイケメンになりたいんじゃなかったのか?」
「大丈夫だよ、カルシウムとマグネシウムのサプリ飲んでるし、ここの卵美味しくないんだ。それに今日は朝から結絡縫の授業だから。先生がさ、女の人なんだ。須寺先生。匂いのきつい物を食べないほうがいいって」
「ほう。寮長様のアドバイスか?」
「たまたまクラスに御苑流の子がいてさ。教えてくれたんだ」
御苑流は紫苑流の兄弟流派だ。城太郎は「あぁ、そういや神薙の次男坊が錬成院に受かったって話聞いたな」と呟く。鬼人にとっての錬成院出身の経歴はブランドだ。千年続く鬼道修習所であり、エリート中のエリートの集まりなのだ。予科三年、本科四年、予科の定員は各学年四十名、本科は八十名。三月始めの受験シーズンにはこの狭き門をくぐらんと全国から入学希望者が押し寄せるのだ。予科は二日間、本科は四日間に渡って行われる選抜試験は受験というより科挙のイメージに近い。
席について食べていると宗円が一人で現れた。「ご一緒していいかな?」と断って同じテーブルに着く。義信は寮の方で朝食を摂るようだ。
「やぁ、昨日はあれから色々あってね、寝過ごしてしまったよ」
宗円はソーセージを切って口に運びながら笑顔で言う。城太郎はカブの浅漬けを齧りながら熱い緑茶を啜る。
「宗円さんはどのような調査を?無論差支えない範囲で結構ですが」
「うん、情報交換が必要だな。僕は現場にも、院内にも入れるから城太郎君より若干現状把握が進んでいると思う。それに、外から情報も取れるしね」
宗円はジャケットの胸をそっと叩く。内ポケットに携帯端末が入っているのだろう。院内では電子機器類の利用は制限されている。宗円には通信事業者のスポンサーがついているので院の干渉を受けない衛星回線などを使えるのだろう。
「発見時の死体の状況からして、まぁ犯人は邪鬼だと考えるのが自然だね」
「死体はご覧になりました?」
「うん、見た。防衛省に引き渡す直前にね。あまり邪鬼臭は残ってなかったな。無論防衛省には死体を清めた上で引き渡してる。その時に臭いも落ちたのかもしれないが」
「講堂の周囲には臭い消しが撒かれてたんでしょう?」
「らしいね。私が見た時にはもう掃除されていたよ」
「お話し中に失礼します。そろそろ授業ですのでお先に失礼します」
京が席を立って宗円に挨拶する。宗円は笑顔で「授業を楽しんで。寺須先生は一流の糸使いだからね」と親指を立てて見せる。「兄者、行ってきます」と京がレストランを出ていく。城太郎はカブを一切れ口に放り込みポリポリとやりながら尋ねる。
「やはり半邪鬼でしょうか」
「まぁ、そういうことになるかな」
「だとすると厄介ですよね。邪血病は初期のうちは診断が難しいですから。安静時だと外見や臭い、風合いはもちろん血液検査にも引っかからない。邪態化した瞬間を押さえないとね」
「だね。しかし邪血病の進行を待ってはいられない。完全に邪鬼化した相手を倒すのは普通の鬼士では無理だ。それこそ皇鬼様にお出まし願わないと」
「邪鬼化を上手くコントロールできるんでしょうか。半邪鬼の気配がふっつりと消える理由が分かりません。邪血の匂いを完全に消すのは難しいはず。やったのが半邪鬼として、まず邪態化して斎藤副団長を殺し、その後不活剤を使って鬼態に戻って逃げる。言葉にするのは簡単ですが鬼虫が暴走している騒乱状態の中で、果たしてそんな理性的な行動を取れるでしょうか」
「うむ。確かに疑問だね」
「逆にです、理性的に行動せざる得なかったのかもしれません。邪態化をといて鬼態に戻る必要があった。つまり半邪鬼が内部の人間の場合です。邪態化が収まれば半邪鬼の特定は困難だ」
「正論だね。でも政府の連中の前では言わないほうがいい。この中に半邪鬼がいるかもなんてね。政治的に利用されてしまうよ。もっとも院も政府の連中も腹の中ではそれを考えてるだろうな。院にとっては最悪、政府の連中にとっては最高のシナリオだからね」
宗円は器用に片目を瞑って見せ、煎り卵を口に運ぶ。二三度噛んで口の動きが止まり考え込むような表情になる。
「宗円様、どうかされました?」
「ん?あぁいや、何でもないさ。卵料理はシンプルゆえに調理人の腕がはっきり出るなと思ってね」
「で、他の可能性としてですが、秘密の通路というのはどうでしょう」
宗円は卵を脇にどけておいてベーコンを一口、バター付きのライ麦パンをひとちぎりして頬張る。
「可能性としてはあるだろう。ただ問題がある」
「どんな問題です?」
「ありすぎるんだ、秘密の通路や出入り口が。鬼士院の建物はこの千年増築を繰り返してきた。その間に様々な鬼人の様々な思惑で至る所に秘密の小部屋や戸棚、通路に出入口が作られた。当然公式の記録には残らないものばかりさ」
宗円はフレンチフライを突き刺したフォークで宙に輪を描いた。
「院内ツアーでガイドが説明するような有名なものを除けば、鬼士院の中にどれくらい隠し通路や隠し部屋があるかなんてもう誰にも分からないんじゃないかな?」
「とりあえずはあの講堂の周りに限って探して見ることはできませんか」
「やってみよう。だが厄介なのは地下だな。ご存じの通りこの鬼士院の下には地下迷宮が広がってる」
「はい。地下の迷宮に関しては私も当たってみます」
宗円の瞳がスッとすぼまり、眉間に強い気が漂い始める。宗円はライ麦パンにナイフで切れ目を入れるとそこに残ったソーセージを挟む。バターをたっぷりと塗りつけ、皿に滴った油をパンで拭き取ってそのままかぶりつく。
「ふむ― ふむ― 面白そうだ。調べてみようじゃないか」
「私も何か分かればお知らせします」
城太郎は「お先に失礼」と挨拶をして席を立つ。宗円はすでに頭の中で思考の輪が回り始めているのか、遠くを見つめるような表情のまま即席のホットドッグを噛みしめながら小さく手を上げて挨拶を返した。
教室の隅にぶら下げられた鳴子がガラガラと鳴る。小さなお椀をカスタネットのように合わせたものが十ほども巨大な葡萄の房のように天上からぶら下がっている。時間になると天井裏の巻き上げ機が動き鳴子を揺さぶって授業の開始や終了を知らせる仕組みだ。物珍しそうに鳴子を見る京に隣の席の女生徒が話しかけてくる。
「十年くらい前までは当番の生徒が引っ張って鳴らしてたんだって」
「面白いね。僕も引っ張ってみたかったな」
「凄く大変なんだよ?引っ張る紐の端っこは各階に一つずつしかないから、もう重たいのなんのって― あっ、シッ―」
教室がシンと静まって教室の引き戸が開く。教諭用の袴を身に着けた須寺理教諭が入ってくる。まだ若い。「起立!」と声がかかり全員がバネ仕掛けのように素早く立ち上がる。誰も椅子を引きずって床を鳴らしたりしない。京は礼をしながら「兄者と同い歳くらいかな」と考えた。再びコマ落としのように素早く全員が着席する。
「お早う。全員揃ってるわね」
と、理が京の顔に視線を止める。
「一野京君だね?みんな、結絡縫初級のクラスが一人増えて二桁になったわよ。一野君、挨拶挨拶」
生徒数が二桁になると配当される備品費が増えるので理はご機嫌だ。京はちょっとドギマギしながら立ち上がる。
「紫苑流神戸西道場から参りました一野京です。兄が院で仕事をする間お世話になることになりました。よろしくお願いします」
全員が「よろしくお願いします」と唱和する。理も「よろしくねー」笑う。
「さてと、今日は二回目ね。じゃ、これをひとつずつ取ってね」
教室の最前列に並んでいる四人の生徒に理が輪にまとめた糸を配る。
「一つ取って後ろにまわしてね」
教室には十名の生徒がいる。前列から四、四、二の並びだ。女子生徒が七名、男子生徒が京も入れて三名。京の席は最後列の窓際から二つ目。前の席の生徒が糸を後ろの京に渡す。糸が行き渡ったのを見て理が話始める。
「先生が紡いだ糸よ。一定の太さと撚りを保って糸を紡ぐのは結構難しいのよ。結絡縫の技は糸に始まり糸に終わると言っていいくらいだわ。今は自分で紡がなくても質のいい糸を手に入れることができるけど、みんなもぜひ自分用の糸を自分で紡いでみて欲しい。指のかかりも鬼力ののりも既製品とは一味違うものになるわ。二限目では実際に糸車で糸を紡いでもらうわ。みんな指抜きは持ってきた?簡単に指捌きの練習をしてみましょう。先生の指先をようく見てて?」
理は指先で糸の輪をほぐして床に垂らした。糸の端を右の人差し指に嵌めた指抜きに引っ掛けて、親指と中指で糸を押さえる。理は人差し指を上下させながら糸を巻き上げてく。巻き上げられた糸は輪になって束ねられていき五秒と経たずに元のように輪にまとめられていた。
「片手でこれができるようになったら糸繰の実技に入れるわ。コツはね、指の腹を上手く使って糸を少し捩じってあげること。それとリズム。指をリズミカルに動かすこと。はい、じゃぁやってみて」
生徒達は椅子から立ち上がると、理がやったように糸を床に垂らして懸命に指先を動かし始めた。さすがに錬成院の生徒たちだけあって皆それなりに形にはなっている。ただ早さ、正確さは理の手技に遠く及ばない。
「いきなり早くやろうとしないで。指の動きを一つ一つ確実にね?人差し指で引っ張る。親指と中指で外に軽く捩じる。基本、これの繰り返しよ?あっ、梅小路さんさすがね」
最前列窓側の女子生徒が綺麗に輪にまとめた糸を指先に摘まんでいる。梅小路と呼ばれた生徒は自分の優位を確認するかのようにチラと後ろを振り返った。
「あれ⁉」
理が素に戻ったような声を上げた。
「一野も早いじゃない、ワオ」
理は分かりやすく驚いて見せ、「はーい、一野前に出て。梅小路も前に出た出た」と指をひらひらさせながら少々下品な手招きをする。梅小路はピンと背筋を伸ばしたまま理の横に立つ。今日はさり気なく梅小路を観察しながら教室の前に移動する。背が高い。京と同じ一三歳のはずだがスラリとした長身の理の耳の高さを僅かに越えている。一六五㎝前後か。京が一六三㎝だから京より僅かに高い。手足が長い。ツンとした鼻と顎。力強い大きな目は京の方を決して見ようとしない。
「さぁ、じゃぁ競争してみましょう。さぁ、糸を垂らして」
他の生徒たちは目を輝かせながら固唾を飲む。
「先生の合図で始めるわよ、いい?」
京と梅小路が糸を持った指先を見つめたまま小さく頷く。
「GO!」
理がパンと手を打つ。京と梅小路の指先がゼンマイ時計の車輪のように規則的に素早く動いて糸を巻き取っていく。
「はいっ!」
ほんの一瞬早く梅小路の手が上がる。
「早ーい、二人ともメチャクチャ早いね!でもほんのちょっぴり梅小路が早かったなぁ」
理は二人の指先を見てうんうんと頷く。無表情だった梅小路の顔にほんの少し安堵の色が浮かびジワジワと勝者の余裕に変わっていく― と、理が「ふーん」と呟いた。
「でも輪の揃い方は一野が綺麗だなぁ」
梅小路が反射的に京の手元に顔を向ける。
「ほら、見てごらん」
理が京と梅小路の手首を掴んで生徒たちに見せる。
「ね?一野の方は輪が綺麗に揃ってる。これだと次の糸を繰り出しやすいの。梅小路も綺麗なんだけど、ほら、一野と比べると乱れてるよね」
梅小路は彫刻のように硬い表情で、視線は教室の後ろの壁の一点を見抜いたまま。
「うん。これは引き分け。引き分けだね。はーい、二人に拍手ぅ!」
京は照れ笑いを浮かべて席に戻る。生徒たちがワッと拍手贈る。京は皆の拍手の中に梅小路が負けたことに対する快哉が混じっているのを感じ取った。理は何事もなかったかのように授業を続けた。
鳴子がガラガラと鳴って一限の終了を告げる。二限目も結絡縫・初級の授業だが教室が変わるらしい。教室の場所も分からず戸惑っている京に隣席の女生徒がトンッと軽くショルダータックルをしてくる。
「凄いね!梅小路はクラスで一番上手いんだよ?」
女生徒は笑顔で挨拶した。まるで照れたところがない。
「美馬ヶ原時緒だよ。流派は春嵐式。よろしくね」
「よろしく。一野京です。流派は紫苑流です」
「敬語じゃなくていいよ?次は結絡縫・初級Ⅱだよね?一緒に行こ」
嬉しそうに喋りまくる時緒と教室を出ると梅小路が立っていた。強い目でこちらを見ている。京が何か当たり障りのないことを言わなきゃと考えていると、梅小路が先に口を開いた。
「清真流、梅小路蘭子」
「あの、僕は―」
蘭子は「知ってるわよ、一野京」と京を遮り、手に持ったペンケースを突き付ける。
「あたしに勝ったなんて迷惑なこと考えないでよ?あたしは負けてない。来週のこの授業でもう一回勝負よ。いいわね⁉」
「いや、あの―」
「逃げたら承知しない。後ろから矢を射かけてあんたを串団子にしてやる」
「あ、あの―」
「あのその言ってんじゃないわよ!いいわね⁉それまでせいぜい勝った気でいるがいい!」
京はダッシュで駆けていく蘭子をただ見送るだけだった。時緒は「怒ってたねぇ、蘭子。蘭子はプライド高い高いバァだからなぁ。桑原桑原っと」と楽しそうに笑っている。気を取り直して次の教室に向かおうとすると、廊下を曲がったところで理が待っていた。
「一野はあたしが案内するから。先に行ってなさい」
と時緒を先に行かせると、理は少し前かがみになって京に顔を近づける。
「いけないなぁ、あんなことしちゃ」
京は黙って理の顔を見返す。
「さっきの勝負、最後に少し手を抜いたでしょ?わざと梅小路に勝たせようとしたね?先生には分かるんだよ?」
「どうせ、僕は少しの間いるだけですから。クラスで一番の秀才を負かしても何の意味もないし」
「ワォ、大人ぁ。ある意味梅小路なんかよりずっと大人ねぇ。でも本当は年相応が一番なんだよ?そういう意味では美馬ヶ原を見習って欲しいな。うん。いいかもね、美馬ヶ原と付き合うのも」
「え、別に― 付き合うとか、そんなんじゃ」
「まぁまぁ気にしない気にしない。ひと夏の、というかまだ春だけど、旅先の恋というのもいいものよ。子供らしい生き方を学んでみたら?美馬ヶ原からさ。あ、あとね」
理は教室に向かって歩き出しながら言った。
「来週は結絡縫・初級Ⅱの授業は出なくていいわ。同じ時間に結絡縫・中級Ⅰをやってるからそっちに出なさい。梅小路と一緒にね。担当教諭は先生の師匠だから話しておいてあげる」
理は「心配しないで。初級Ⅰには残ってもらうから備品費は増えるから」と真顔で言った。
「城太郎さん、お疲れさまでした」
「いいんですか?甲陽さんは引き続き夜警でしょう?私も手伝いますよ」
甲陽は声を落として「いえいえ」と首を振る。
「上からきつく言われてますから。客分の皆さんを夜まで働かせるなと」
甲陽が察してくれというように苦笑いを浮かべる。
「確かに我々があまり張り切り過ぎてもかえってご迷惑でしょうが― そうですか。ではお言葉に甘えてこれで」
夕刻、城太郎は頭を下げて甲陽と分かれる。甲陽たち院の鬼士はシフトを組んで、日中の警備だけでなく夜警、深夜警を行っている。人手は多いに越したことはないはずだが、城太郎たち客分鬼士は夜警から外されている。客分鬼士を極力この件に深入りさせたくないという鬼士院の意図が見て取れる。
伝兵衛が報告をしろとうるさいのでまず伝兵衛の部屋に寄ることにして、一旦宿坊前に戻ったがそこで待っているはずの京の姿が見えない。こういう時に携帯電話がないと本当に不便だ。院内で呼子を吹くのも躊躇われてどうしたものかと弱っているところに京が戻ってくる。連れが一緒だ。錬成院の女生徒らしい。
「ごめん兄者、遅くなっちゃった」
「いいさ」
と言って城太郎は女生徒を見る。女生徒がペコリと頭を下げる。
「錬成院予科一年 美馬ヶ原時緒です」
「紫龍正雪城太郎です。京がお世話になったみたいだね」
時緒はクスクス笑って京を見る。
「いえ、私が糸の繰り方を教えてもらってて。京はすごく上手だから」
「そんなでもないけどさ」
京は気恥ずかしげだ。
「じゃぁまた明日ね」
「うん。明日」
時緒は京に手を振ると寮の方へ駆けだしていく。その後ろ姿を見送って、城太郎は顎先を撫でながら笑いを噛み殺す。
「へぇ。明日は授業出るんだ?」
「い、いいじゃない。せっかくの機会だしさっ」
「まぁ、そういうことにしとくか。ところで今からジイさん家にいくぞ。報告に来いってうるさいんだ。宿坊のロビーやら鬼士の詰所やらあちこちにメッセージが届いててな」
城太郎は宿坊のロビーから伝兵衛の家に電話を入れる。伝兵衛の連れ合いが出てまだ職場から戻っていないが家で待ってくれという。城太郎は一度行っただけでは道を覚えられず再びコジロウに案内を頼む。京は「時緒のことジィちゃんに言わないでよね」と念を押す。
コジロウの道案内で無事伝兵衛宅に着いた城太郎たち。部屋に入れてもらい茶を飲みながら待つ。三十分ほどして伝兵衛が帰ってくる。
「おう来たか。京、どうだ?錬成院の授業は」
「うん、何とかついて行ってる」
「そうかそうか。焦らず慌てず真剣に取り組むことじゃな。うんうん」
伝兵衛の連れ合いが「晩御飯にしましょう」と呼びに来る。居間の大きな座卓に食事が用意されていた。湯気の上がる鍋には金色の出汁がたっぷり張られている。京は大皿に盛られた軟骨入りの鶏肉団子を放り込み、次いでキャベツを手で鷲掴みにして鍋に投入する。肉団子に火が通るの待つ間、城太郎と京はライスペーパーをボウルの中のお湯に潜らせ柔らかくするとピリ辛挽肉や蒸し鶏、茹でた海老、細切りの野菜をくるんで味噌だれや辛子醤油を付けて食べる。伝兵衛はビールを飲んでいる。城太郎と京は交互に伝兵衛のコップにビールを注ぐ。
しばらくして肉団子に火が通った。城太郎と京はジューシーで滋味たっぷりの肉団子をすっかり柔らかくなったキャベツと一緒にハフハフ言いながら頬張る。肉団子があらかた無くなったころ辛丸がやってきた。座布団を外して挨拶する城太郎と京。伝兵衛は辛丸の到着を合図にビールから焼酎に切り替える。
京が卓と台所を往復して空いた皿を下げ新しい皿を運んだ。鍋に出汁を継ぎ足し骨付きの鶏もも肉と白菜、ネギ、ニンジン、椎茸、豆腐を入れる。
「どうだ城太郎、院内警備の様子は」
辛丸が少し赤い顔で尋ねる。
「我々は警備のエリアも巡回経路も決められていて様子をさぐる機会が全くありません。何もしてくれるなということでしょう」
辛丸が苦笑する。
「だろうな。言われる通りにしておけ。何でもいい。気付いたことがあれば教えてくれ」
「そうですね、ロシア系の二人は意外と話せます。交渉できる余地があるように感じます。逆に台湾の二人は難しいかも。腹を見せてくれないので単なる勘ですが」
「うん。他には?」
「風祭宗円さんは誰が呼んだのですか?」
「誰も呼んどらん。偶然院内に居合わせただけじゃ」
「ま、院にも政府にも手づるを持ってるからな。上手く乗っかってしまおうというところだろうが― 確かに偶然滞在中だったというのも都合のいい話だ。何か裏がありそうか?」
「そういうわけでもないのですが。そうそう、院の隠し通路や隠し部屋の資料はありませんか。あと地下通路も」
「後で渡す。だが警備事務局も同じことを考えとる。もう調べとるはずじゃが」
「他には?院内の様子、噂話、何でもいい」
「えぇ、実は―」
京は台所の手伝いをして座を外している。
「夜這いをかけられました。咲江という王宮付の女中に」
辛丸と伝兵衛がハッとした表情になる。
「危ういところを助けられました。美人の占い師に。京も一緒でした」
城太郎は緑の宮という名を出さずに言ったが二人ともピンと来るものがあったらしい。伝兵衛が「京や」と声を上げる。やってきた京に
「すまんが下に降りたら酒屋があるでな。ワインを赤と白一本ずつ買ってきておくれ。ほら財布はその戸棚の上じゃ。店の者に聞かれたら財布を見せてわしの使いじゃと言えばいい」
「分かったよ、じいちゃん」
京は財布を持って部屋の外に出ていく。ドアが閉まるのを待って城太郎は二人に昨夜の仔細を話し始める。聞き終えた二人は難しい顔になる。
「白か。まぁありそうな話ではあるな」
「もう少ししっかりせんか城太郎。緑様の手を煩わせるとは。おまけに京にまで心配されるとは」
「申し訳ありません」
城太郎は素直に謝る。
「院内で忍者に狙われるとは思わなかったもので。気を抜いていました。言い訳ですが今から考えてみれば、ロビーの花の香りがきつかった気がします。催眠香を使われたのかもしれません。それにいくら腕の立つ忍者でも簡単に部屋に忍び込めるとは思えません。宿坊に協力者がいるのかも」
「分かった。調べさせよう」
「そういえば鶴野様もどうやって入ったのでしょう。皇鬼ともなれば警備システムを切れるのでしょうか」
辛丸と伝兵衛が妙な顔付になる。
「鶴野様か。手打ちにされても知らんぞ、城太郎。俺たち緑派の鬼達は緑様とか姉様と呼んでいる。鶴野と呼ぶのは子供や親族だけだな」
「そうだったんですか。以後気を付けます」
「白の宮様は私など取り込んでどうするつもりだったのでしょう。ロシア系も台湾系も男女のカップルですし、山田鈴木は拘留中ですからハニートラップを仕掛けるとしたら私しかいないのでしょうが」
「詳しくは分からん。が、現在の鬼士院の安定は結構微妙なバランスの上に成り立っているんだ。四人の皇鬼たち、事務局の幹部たち、政府の人間、皆それぞれに思惑がある。それぞれの思惑が上手く釣り合うことで平穏が保たれているんだ。俺たち緑派はこの平穏を守る、バランスを保つことが大事だと考えてる。少なくとも今はな。だがこの邪鬼騒動を利用して動こうとするものは今後も出てくる。白だってこのまま黙って引くつもりはないだろうしな」
玄関のチャイムが鳴った。京が戻ったらしい。
「京は鶴野様を占い師だと思っていますので」
「分かった」
辛丸と伝兵衛が頷く。
「おう、すまなかったな京」
「神戸ワインがあったからそれにしたよ」
「うむ。早速いただくとしよう。城太郎、開けてくれ」
辛丸と伝兵衛はそこからは事務総長の噂話や城下町にある製薬会社が最近発売した老眼改善薬の話などをしながら飲んで食べた。頃合いを見て城太郎は「では今日はこのあたりで失礼します」と二人に挨拶すると伝兵衛宅を辞した。またコジロウに案内してもらって宿坊に戻る。
「寮の門限は大丈夫だな?」
「うん。じゃぁおやすみ兄者」
京が手を振って寮の方へ歩いていく。城太郎も軽く手を上げ返して宿坊に入る。受付の職員が笑顔で「お帰りなさい」と挨拶してくる。愛想よく「お疲れさま」と答えておく。ロビーにはその職員以外人がいなかった。さり気なくロビー周りを観察するが不審な物も香りもしない。念のためエレベーターの箱の中では息を止めておく。エレベーターを降りて自分の部屋のドアを空ける。途端に濃厚な薔薇の香りがした。身構える城太郎に室内から声がかかった。
「帰ったか。遅かったな」
城太郎はホッと息を吐く。
「緑様でしたか。驚かせないでください」
鶴野は口から薔薇の香りの蒸気を漏らす。手にガラス製の水パイプを持っている。火皿の上に香葉と呼ばれる花や香木を特殊な天然樹脂で固めたものがセットしてあり、熱で抽出した香気を水のフィルターを通して吸うのだ。香りに敏感な鬼人にはこれを好む者が多い。
「なんだ、師匠に報告に行ったのだな」
緑様という呼び方で察したのだろう。
「はい。部屋に忍んだ忍者のことも緑様に助けられたことも長くは隠しておけませんから」
「そうか。で、辛丸と伝兵衛は何と?」
「宿坊に白の宮様の協力者がいないか調べると」
「そうか。他には?」
「院内の平穏は微妙な力関係のバランスで成り立っていると。緑様は今の平穏を保つことを望んでおられると」
「鶴野と呼べと言ったろう。特に平穏を望んでいるわけではないし、今が平穏だとも思っていない。表面は穏やかに見えるだけでな。日々細かな駆け引きや力試しが行われている。私は誰かが一人勝ちするような状況は望んでいない。私が平穏を望んでいるといったのは栄太郎か?」
「はい。分かるのですか?」
「伝兵衛の家で鍋を食べたな?出汁の香りで分かる。それにビールに焼酎に葡萄酒。伝兵衛はビール党でな。焼酎が入ったということは栄太郎も来たのだろう」
「私は焼酎を飲んでいませんが」
「飲んでいないが栄太郎と伝兵衛の分を作ったのだろう。手から微かに梅の香りがする」
「凄いですね。あぁ、それから鶴野様などと呼ぶと手打ちにされるとも」
「ふん。で、京の様子はどうだ?」
城太郎は京から聞いた結絡縫の授業の様子を話して聞かせた。
「結構。自ら教えてやれんのが残念だが。ふうむ、しかしこのまま錬成院に入るというのも悪くないな。皇鬼たるもの選抜に口を出すわけにはいかんが京なら選抜試験に受かるのではないか?うん、側に置いて皇鬼争いなどとは無縁の男児の成長を見守るというのも楽しいかもしれん。男児であれば私が皇鬼の座を追われても巻き添えを喰うこともないしな。何なら城太郎、お前も一緒に院に引き取ってやるぞ?伝兵衛もお前も京の肉親のようなものだしな。院での宮仕えも悪くなかろう?事務局員になって観光客のためにカメラのシャッターを押してやったり、迷子の子供をあやしてやったり。そのうち見合い話でも持って行ってやろう。どうだ?」
「は。田舎でのんびりやるのが性に会っていますので」
「ふん。まぁいい。お前もやれ。寛げるぞ」
鶴野は城太郎に水パイプを差し出す。城太郎は恭しくパイプを受け取って香気を吸い込む。
「美味い。さすが皇鬼様ともなると我々庶民とは違いますね」
「さほどの違いはない。金を出すか出さないかの違いだけだ」
城太郎はもう一口香気を吸うと少し寂し気に本音を漏らす。
「京は錬成院を目指すほうがいいのかもしれません。私は糸も紐も扱えませんし、縁故もありませんから。地方の鬼道事務所の分所長がせいぜいの私にくっついているよりも―」
「くっついているよりも、何だ?」
「可能性が、開けるかと」
「出世の可能性か?」
城太郎は自虐気味に笑う。
「はい。出世への階段です」
鶴野は城太郎の手からパイプを取り上げた。
「幸運の雨は皆に平等に降るものだ。鬼士院の中にも、田舎の分所にもな。出世したくてもできない者など院内にも掃いて捨てるほどいる」
その時どこかで聞いたことのあるチャイム音が部屋の奥から響いた。
「便利な世の中だ。ボタンを一つ押すだけで風呂の湯が溜まるとはな」
「鶴野様が?ボタンを?」
「そうだ。女忍者にできて私にはできないと思ったのか?」
二人は立ち上がって湯の香りが漂ってくる湯殿に向かった。
お読みいただきありがとうございます。
もし拙作がお気に召したようでしたら感想など寄せていただけると励みになります。
お時間あれば他の作品も覗いてみてください。
よろしくお願いします。