「愛している」は、もう
黄金の薔薇のような王妃がいた。
気高く聡明で美しい王妃は人望もあつく、国王からも愛されて輝かんばかりであった。
しかし数年後、王妃は自害をした。
国王が愛妾の虜となり国政にまで影響がでた為、王妃がそれを諫めたところ、国王が激怒して王妃を憤りのままに切ってしまったのだ。
場所は王座の間であった。
重臣も騎士も使用人も、大勢の者がいた。
純白の新雪を切り裂いたような深い傷を負った王妃は彼らにむかい、
「……私の死因は自害です。王が王妃を手にかけたなどという醜聞は王国に必要ありません……」
と、最後の力で髪から簪を引き抜いて自分の喉に突き刺しーーーー死んだ。
愛国の王妃、麗しの黄金の薔薇と王妃の名は後世に語られ、そして、夫である国王は愚王として名前を地に墜とした。
うむ、私の前世だわ。
あの時、もう助からない傷だとわかっていたから、瞬時に国王にとって一番ダメージになる方法を考えたのよね。
醜聞なんてどれほど隠しても、ましてやあれだけの目撃者がいたのだから、広がるのはわかっていたし。
最後まで国を思って死んだ王妃の美談、こういう話は皆大好きだし。
あのまま切り殺されるだけだったならば、それこそ隠蔽されて死因は病死とかにされてしまう可能性も高かったし。
効果はバツグンだったようだけれども、バツグン過ぎるのは、重臣たちが色々と盛って操作したからでしょうね。
愛国の王妃と愚王って小説や劇にかかれるアレコレを、重臣たちが操り動かし、国王の名前を貶めて貴族の力の向上を図ったみたいね。
私の死をチャンスとして、貴族たちは国王から権力を奪い立場を逆転させたのね、見事に勢力図が塗り替えられているもの。
で、何故そんなことを考えているかというと、目の前に前世の夫がいるから。
私は、今世は小さな領地の下級貴族の娘として生まれた。
16歳で王宮の侍女となり、信用を重ねて国王付きの侍女となった。
そう、前世の夫。
今、目の前で豪華なベッドに横たわり、老いて死にかけている孤独な国王の侍女に。
老王の側には誰もいない、私以外には。
愛妾もその息子も取り巻きたちとパーティーをしながら、老王の死の報告を待っていた。
貴族たちは、変化する権力バランスの椅子取り合戦に忙しい。
使用人たちは国葬の準備に走り回っている。
権力を失った老王に侍っても旨みも甘みもない故に、死にゆく王に祈りを捧げる者も嘆きの火の穂を燻らす者も悲しみの音色に泣く者もいない。
…………今、心臓が苦痛の吐息を漏らして止まりつつある彼は、若くして国王となり、よき王となろうとして失敗した。
完璧であろうとして、迷う時も間違った時もそれを自分で認めることができなかった。泣きたい時や誰かに甘えたい時に、劣等感から並び立つ私に頼ることができずに、自分よりも劣る愚かな愛妾に安堵してすがってしまった。
自分で自分に呑み込まれて、苛立ち気難しくなってパサパサに乾いていって。
即位した時には王国の全権を保有していた国王だったのに、貴族たちにむしり取られ、王国はどんどんと貴族たちが掌握し支配するようになって、今やお飾りの老王として弱々しく息をするだけの存在となってしまった。
やせ細り、肉体というよりは枯れた棒のようになって、もう目も見えず動くこともできず、皮膚の底には澱んで消すことのできない、どす黒い、死の匂いが溜まっている。
私はそっと夫の手を取った。私の手は白く瑞々しく、夫の手は皺だらけでボコリと血管が浮き出ていた。
私の姿は前世とは違う。
絶世の美貌の主ではないし、黄金を溶かしたような麗しい金髪でもない。けれども、ひとつだけ前世と同じものがあった。
声が同じなのだ。
「アンソニー、クラム草の栽培に成功したわ」
私の声に反応して、夫の眼球がぎょろりと動く。見えぬ目が私を見ようと、溺れる者が空気を求めるように必死に声の方を見つめる。
「口から出た言葉も失った機会も、過去も、かえってこないけれども、アンソニー、貴方に会うために来たの。栽培に適したクラム草の新種を発見して、クラム・アンソニーと名付けたのよ。とても効能がいいのよ」
クラム草は、王国の風土病の特効薬だ。栽培が難しく、野生種の採取のみだった為、数量が足らず毎年多くの死者をだしていた。
夫は即位してすぐにクラム草の栽培に着手したが、成果を得られず、これが王の政策の一番最初の躓きとなった。
夫が、王としての資質に欠けていることに苦しんでいることは知っていた。だからこそ私が夫を助けるべく王妃となったのに。けれど夫は、そんな自分を許すことができなかった。
あがいて失敗して、さらに失敗して。
私は夫に寄り添い支えようとしたけれども、夫が失敗して放棄した仕事と王妃の公務でいっぱいになって私たちは時間とともにすれ違ってゆき……そして夫は私以外の女性を愛した。
「クラム・アンソニーはたくさんの国民を救うわ。アンソニー、成功したのよ」
夫の目から涙が溢れる。
「 」
何かを言おうとして言葉にならず、息だけがか細く吐き出された。
もう死神は枕元に立っていて。最後に、私の手をあえかに握り返して、緩み、力を無くして垂れ下がった。
私は、豪奢な天蓋のベッドの天井に画かれた、美しい幾人もの天使を見た。金糸の髪がきらきら輝き、優しい微笑みは祝福を与えているようだ。
「……おやすみなさい、アンソニー……」
誰もいない、夜の底深く沈んだような暗い部屋に、ポトリ、と首を落とした花のような涙が一粒だけ零れた。
夫の国葬後、愛妾とその息子は牢屋に入れられた。
複数の医師の証言と、死後に発見された夫自身の遺言書に、夫には子種がないことが記されていた。そして優秀な甥である、筆頭公爵の嫡子を次代の後継者として指名していたのだった。
その後、私は王宮を辞めて領地へ帰り、父のあとを継いで女領主となった。
王都では、新たな国王のもとに権力闘争が熾烈を極めていたが、私の辺境の権力とは無縁な小さな領地はのんびり穏やかだった。
雪が雨に変わる雨水に、やや垂れ下がった枝に黄色の花が咲き乱れる黄梅が花開き。
穀雨の恵みをうけて、菜の花の黄色と蓮華草の紅紫色が鮮やかに広がり。
緑雨は、新緑を艶やか光らせ。
冷え冷えとした冷雨には、多彩な花色の秋桜が風に揺れ。
寒雨に濡れた玉簪のような冬珊瑚は、天を仰いで実り美しい。
貴方は薄濁りの豪華絢爛な函のような暗い王宮で、王座と男性としての矜持にずっとしがみ付いていたけれども、雨の降る音の雨声を聞くことも、冷たい宝石ではなく生きた宝石のような花を見ることも、春も夏も秋も冬も世界はとても綺麗なのだと感じることもなく、偽物の遺言書でそのしがみ付いていたものすら失ってしまった。
「 」
声は聞こえなかったけれど唇は読めたから、貴方が最後に何を言ったのか私は知っている。
でも、
前世の私を貴方が殺したのよ。
今さら言っても遅いの…………「ありがとう」なんて。
アンソニー、
皆が貴方を愚王と呼んでも、私は、私だけは、貴方が希望を握り締めていた頃を忘れないわ。
国王を夫と呼んでも「愛している」は、もう言わない今世の主人公。
自身の罪から「愛している」は、もう言うことができない国王。最後に伝えたかった言葉は言えなかった「 」
読んで下さりありがとうございました。