帰郷 後編
「……第一神殿の御神体とな」
「はい。正確には神木と足元の神泉、この二対をもって御神体と呼んでいます」
案内されるがまま水際まで近づいたアルフレッドが、その全貌を俯瞰する。
半露天の室内に自然のあるべき姿で整備された神泉は煌々として広い。どこまでも清く澄み渡った水面からは水草が生い茂る地底までもが明瞭に見えた。
その水草の合間を縫って、こぽこぽとあちらこちらで小さな気泡が上がり続けている。地底から豊富に水が湧き出ている証拠だ。
「こちらの神泉は国内に二つしかない大水源の一つでして、もう一つはカスタリア王城内にて祀られています。国内の数多ある泉は全て、この二つの大水源の支脈なのです」
「何とも美しい光景だな。この神木は……」
ひと通り泉を見渡したアルフレッドの目が今か今かと待ちわびたように、中央の湿原に根を張る大樹へと吸い寄せられる。
身の内が不用意にざわめくのは何故だろう。
うねり入り組んだ滑らかな幹、天井に向かって果てしなく伸びた枝ぶり、薄く色づいた葉。どこにでもある品種のようでどこにもない。それなのに懐かしい感覚がする、何とも魅惑的な大樹だった。
「王城の大水源にも神木が根付いていまして、そちらは大陸を創造するにあたり原初の女神が初めて降り立った地とされています。そしてここは、創造を終えた女神が人類の祖を生み出された場所。この神木からネヴェルネス王家の始祖がお生まれになったのですよ」
神木を見上げるディオーネに倣って、アルフレッドもまた豊かな枝ぶりの行き先を仰いだ。
口を開きかけたものの言葉が出ない。目の前にあるのは誰もが子供の頃に絵本で触れたような、殆ど神話の域の遺物なのである。まさかそれが現実に存在していようとは。
加えて、カスタリア王国以外の人間で直に目にした者など、大陸中を見渡しても恐らく自分だけではないだろうか。何しろ他国の王族の訪問自体が過去に王女が攫われて以降、二百数十年ぶりという話だ。
「神木の近くまで行ってみますか?」
「……渡れるのか?」
「ここからは見えませんが神木の裏側に回ると、保全のため浮島へ桟橋が架けられているのです。ですが、内緒ですよ」
まるでいたずらっ子のようなあどけない笑みを浮かべて、ディオーネが口元に指を立てる。それでようやくアルフレッドの過度な緊張もほぐれるのだった。
二人はゆっくりと神泉を周回した。
神木の裏側に架けられた桟橋は細長く、所々の継ぎ目に僅かだが段差もある。大人一人分の身幅ほどしかない桟橋を前に、繋いだ手を一旦離したアルフレッドはディオーネを抱き上げた。
「アルフレッド様、前後に並べば二人で渡れますよ」
「このほうが早いだろう?」
普段から剣術で体幹を鍛えているアルフレッドにしてみれば、身軽なディオーネを抱えたところで細い桟橋を渡るのに支障はない。そう考えてのことだったが軽快な足取りのなかには段差であわやという場面もあり、最後は二人して笑い合いながら浮島に着地した。
さわ、とあたかも歓迎するかのように、吹き抜けの天井から舞い込んだ風に神木が葉を揺らす。
ディオーネを降ろしたアルフレッドはその太い幹に手を当てた。ここからネヴェルネス王家の始祖が生まれたのかと思えば感慨も深い。
懐かしい感覚そのままに触れた幹は存外にも冷たく、絶対的な生命体でありながら無機質な彫刻のように覚えるのだからやはり不思議だ。
知れば知るほど謎めく神秘に目を奪われ続けたアルフレッドは、ややあって隣に立つディオーネへと視線を戻した。
「ディオはネヴェルネス王家とも縁のあるこの場所を私に見せたかったのだな。連れてきてくれてありがとう」
「またとない機会ですもの。お目にかけることが出来て良かったです」
意図が伝わり微笑むディオーネの左手を、さり気なくアルフレッドが掴んだ。こてり、とディオーネが首を傾げる。
凝った演出など何もない。透き通った大水源たる美しい神泉と、人類の祖を生み出した神木と。最も神聖なカスタリア王国の秘事の中枢で、アルフレッドはディオーネの左手を戴きながら跪いた。
上衣の隠しから取り出したラピスラズリの指輪を、そっとその薬指にはめる。
「遅くなったが……この場所で改めて幸せにすることを誓うよ。どうか私の妻になってほしい、ディオーネ姫」
まさか正式に求婚されるとは思ってもみなかったディオーネの目に、じんわりと涙が浮かんだ。カスタリア王室の高貴な紫色の瞳が宝石のごとく輝いて、数粒の涙が頬を伝う。
返事を促すように、アルフレッドが指輪の上から口付けを落とした瞬間だった。
「アルフレッド様……!」
ついに感極まったディオーネが片膝をつくアルフレッドに勢いのまま抱きついた。受け止めたその頬に、承諾の意を含んだ唇を寄せる。
「もう一度、返事は唇に貰えると嬉しいのだが」
アルフレッドの低く艶っぽい声がディオーネの心に響いた。恥ずかしがりながらも小さく頷き返すと、アルフレッドの実直な眼差しを正面から捉える。
唇同士が僅かに触れて、離れた。
離れ難いとアルフレッドの唇がそれを追う。次第に深くなる口づけは止めどなく、互いに幾度も息を継いだ。
ざわ、と再び神木が葉を揺らし、神泉の水面には絶えず湧き口から小さな気泡が浮かんでいる。恋人たちが過ごす甘い時間を、それぞれの御神体も粛然と見守り続けるのだった。
どれほど時が経過したのか。立ち入り禁止区域から出た廊下でディオーネとアルフレッドを見つけて、イェスタが駆け寄ってきた。
「ああ、こちらにおいででしたか」
陽気で泰然とした印象のイェスタである。その慌てぶりにディオーネ達は顔を見合わせた。
「何かあったのか?」
どうやら方々で捜索をさせてしまったようだ。弾む息を整えながらイェスタが状況を報告する。
「王女殿下のご帰還を聞きつけた領民らが眼下の広場に集まっております。一目お姿を拝見するまでは解散しないと、収集がつかない有様でして。王女殿下にはぜひ神殿前まで足をお運び頂きたく存じます」
びくっ、とディオーネが小さく身体を強張らせた。イェスタに悟らせない程のほんの僅かな動きであったが、間近にいるアルフレッドはそれを見逃さなかった。
「大丈夫だ。私も後ろについている」
以前のヘルメスの話から察するに、ディオーネが想像するような領民達の反応は起きないのではないだろうか。アルフレッドが気遣うようにディオーネの背中に手を当てる。
「ありがとう存じます、アルフレッド様」
背後に触れた大きな手が心強い。ディオーネは意を決して神殿の正面入り口へと向かった。
奥にいては分からなかった騒音が、足を進める毎に大きくなっていく。別方面を探していたというナイアとも途中で合流し、やがてディオーネ達は神殿の外に出た。
男性の野太い声が聞こえる。甲高い声は女性か、はたまた子供か。とにもかくにも驚くほど大きなどよめきに、竦みそうになる足を叱咤激励しながらディオーネは眼下を望む丘先に立った。
わぁぁぁ、と大地を破るほどの歓声が辺りを支配する。
「姫様……っ」
後方に控えるナイアの言葉尻から早くも感涙の気配がした。若者の、年寄りの、男性の、女性の、子供の、声、声、声。それに後押しされて顔を上げたディオーネが目を見開く。
約五年前。ナイアと二人きりで立ったこの場所には、絶望しかなかった。
焼け落ちる村。殺気を放つ敵国兵。散々に踏みつけられ荒らされた田畑。遠くに眺望できたカスタリア王城からは、明らかな黒煙が上がっている。
大陸一の歴史と伝統を誇る聖地カスタリア王国の終焉なのだと、ディオーネとナイアは辛い現実を突きつけられたのだ。
だが今はどうだ。押し寄せるのは歓喜に沸く神殿領民で、周囲の田畑は実り豊かに輝いている。再建された街並みはディオーネの知るそれよりも少しばかり立派だ。霞の向こうではカスタリア王城が変わらない姿で悠然と鎮座している。
見渡す限り、戦の爪痕はどこにもない。美しい祖国がそこにあった。
「直系王女殿下だ!」
「ご無事のお戻りだぞ!」
広野に集まった民の数はどれほどだろうか。ざっとアルフレッドが見渡しただけでも三百人は下らない。しかも続々と増え続けている。
そのうち五歳程の男の子を抱えた青年が、丘の上のディオーネに向かって声を張り上げた。
「王女殿下! あのとき赤子だった子供が、こんなに大きくなりました!」
びゅうっ、と空っ風に木の葉が舞う。続いて声を上げたのは先程の男の子よりも小さく、舞う葉にきゃっきゃっと戯れる子供を抱いた母親の集団だ。
「この子らは戦の後に生まれました!」
「今の暮らしがあるのは、王女様が私達を山中に逃してくれたお陰です」
「田畑にも豊かな実りが戻っております」
「カスタリアを守って頂き、ありがとうございました!」
次々と沸き起こる感謝の言葉に、ディオーネは滂沱の涙を堪えきれない。これまで一歩下がった場所で事態を見守っていたアルフレッドが隣に並んで、良かったな、とディオーネの耳元で囁いた。
群衆のなかでも長老格の爺が、物知り顔で周囲に語る。
「あれはネヴェルネス王国の王太子殿下じゃそうな」
「隣国の王太子殿下だって!」
「あの方が……」
アルフレッドの素性が驚くほど素早く伝播し、わぁぁぁと再びの大歓声が領民に沸く。手前にいた大柄な中年男性が思いっきり声を張り上げた。
「王女殿下、ご婚約おめでとうございます!!」
この声を皮切りに、歓声がディオーネの婚約を寿ぐ祝いの言葉一色に染まる。
「ご婚約、おめでとうございます!」
「ネヴェルネスでお幸せに!」
「どうか末長く、お幸せに! 姫様!」
「王女殿下のご多幸を、領民一同、お祈りしています!」
どうにか涙を拭って、大歓声に応える形でディオーネが領民達に手を振った。その薬指にはネヴェルネス王国の王太子妃の証である指輪が鈍く光る。
あの時、命を奪われる覚悟で最期の見納めにと神殿領を眼下に眺めた。王族として生を受けた以上、領民の盾となることに悔いはなく当然の使命だと疑念さえ抱かなかった。
だけど、死にたかった訳ではない。
生きたいと強く願った。最後の最後まで生きることを諦めたくはなかった。
「……アルフレッド様」
ようやく絞り出したその声は感情に揺れて震えていた。
「うん」
「わたくし今、とても幸せです」
きっとどうしようもなく酷い顔をしているのだろう。だがそれも人間味があって仕方のないことだと、涙でぐちゃぐちゃになりながらもディオーネは可憐に笑った。
優しく頷き返してくれる婚約者が隣にいて、命を賭して守った神殿領民達が祝福を贈ってくれる。隣国で幸せになってもいいのだと認めてくれる。心のなかのわだかまりは晴れ、憂いは何も感じられない。
過去に絶望を呑み込んだ少女は成長し、同じ場所で心からの悦びに満ち溢れていた。
更新が遅くなりましたm(_ _)m
ついにアルフレッドの念願が叶いました!
ディオーネの母国に対する不安も解消です。良かった。
次回、最終話となります。
皆様いつもお読み頂きありがとうございます。




