王太子の婚約者
ちちち、と早暁に鳴く鳥の声がして、寝台のなかのディオーネはゆっくりと目を覚ました。微睡みながら寝返りを打てば、じんわりと心地の良い温かみが伝わってくる。
このままもう少し眠ろうかしら。安堵感から温もりに擦り寄ると聞こえてきたのは穏やかな寝息で、思いもかけずディオーネは覚醒した。
隣でアルフレッドが眠っている。ディオーネの寝顔を朝晩に愛でることがもはや日課となったアルフレッドは遅寝の早起きで、無防備な寝姿を晒すのは稀だ。物珍しさからディオーネはまじまじとその横顔を眺めた。
伏せられたまつ毛が長い。やや深い造形の目元に筋の通った鼻筋は彫刻品のようで、つい手を伸ばして触れてみたくなる。
「ん……」
無意識下にも視線を感じ取ったのかアルフレッドが身じろいだ。その拍子に寝具が乱れて、夜着のはだけた胸元から得も言われぬ色気が漂ってくる。
ディオーネは伸ばしかけた手を一旦止めて躊躇した。脱いだ状態よりも、はだけた布地から垣間見える素肌のほうがよっぽど艶かしく感じるのだから何とも不思議だ。
そうこうしているうちに隣の居間から朝の支度を担当する女官たちの気配がして、ようやくディオーネは伸ばしかけた手の先にある頬に触れる。本当ならば昨夜遅くに公務から戻ったアルフレッドをもう少し寝かせてあげたかったが、残念ながら間もなく声がかかりそうだ。
起床の時刻である。
「ん……おはよう」
「おはようございます、アルフレッド様。え、きゃっ」
頬に当たる細い手を握り締めたアルフレッドは、もう片方の手でディオーネの腰を引き寄せると、密着したまま力業で反転させてごろんと自分の上に乗せた。
不用意に声を漏らしたディオーネが、隣室を気にして赤くなる顔をアルフレッドの胸に埋める。もうこうなってくるとはだけた肌に対しての気恥ずかしさなど二の次で、ふっと目を細めたアルフレッドはその白銀色の頭を優しく撫でた。
「今朝はディオの寝顔が堪能できなかったな」
「そんなの……昨日の夜も見られたのではないですか」
昨晩は視察からの帰城が遅れたアルフレッドを可能な限り待っていたディオーネだったが、とうとう睡魔に負けてソファーで眠り込んでしまったのである。気づけばアルフレッドに寝台へ運ばれていて、今日はもう遅いからおやすみと告げられたのだ。
そうして迎えた朝であった。
ふっと笑ったアルフレッドがもう一度ごろんと転がって、今度はディオーネを身体の下に囲う。ごろんごろんと、いくら転がっても余りある広いベッドの上でディオーネと目が合い軽く口付けを交わすと、唇をその白い首筋に這わせた。
「駄目です。隣に女官たちが……」
「少しは慮ってくれるだろう」
「それが、恥ずかしいのに」
女官たちは物音に敏感だ。優秀な女官ほど、主人たちの状況を判断するために手を動かしつつもよく耳を澄ましている。
「もう……今は駄目ですってば」
「いつならいいんだ?」
「よ、夜……ならば」
アルフレッドが執拗に首筋を責めるのは微かに媚香が漏れ出ているせいでもあるのだ。いわば依り代の性質というもので上手にあしらえるようにならなければいけない。そう理解しつつも、くすぐったさと羞恥心からついついディオーネは言質を与えてしまう。
してやったりのアルフレッドが満足気な顔をしてようやく起き上がった。
「今夜は早めに部屋に戻るよ」
まんまと罠にかかったディオーネは最後の抵抗に、今日だとは言っていないのにと口を尖らせて寝台を降りる。拗ねた様子もまたアルフレッドにとっては愛しい仕草の一つで、そのまま寝室の扉に手をかけるのを素直に見送るのだった。
「これは姫様、お目覚めでいらっしゃいましたか」
完全に寝室の状況を把握しているだろうに何事もなかった素振りで対応をするのは、王太子宮の女官を一手に束ねるナタリーだ。
「殿下、おはようございます」
次期女官長との呼び声が高い彼女は、さも当然のようにディオーネの寝室から出てきたアルフレッドにも動揺することなく丁寧に腰を折った。
年の頃は三十の半ばを過ぎた辺りだろうか。細身だが上背があり、中肉中背で柔らかい雰囲気の女官長エマと比べると、きりっと引き締まった印象の持ち主である。
ディオーネが国王ロドルフの仮の側室という立場から離れて正式に王太子アルフレッドと婚約したことで、その身の回りの裁量は女官長エマから王太子宮のナタリーに引き継がれた。
賓客扱いを嫌うナイアはこれまでと同様にディオーネ付きとして仕えるが、正式にはナタリーの下に配属され、他の女官と共に王太子宮の諸々を学んでいくことになる。
「本日の姫様のご予定ですが」
朝の支度を済ませると食堂へ向かう前に集合し、必ず互いの予定を確認する。これはディオーネが王太子宮へと移った翌日以降、アルフレッドが取り決めた毎日の約束事であった。
ナタリーの横でナイアが淀みなくディオーネの予定を読み上げる。まだまだ学ぶことの多い王太子宮での仕事であるが、新人ながら早くも熟達した風格がナイアにはあった。
「午前中は王妃陛下の居室にて執務の補佐、午後からはエミリエンヌ様との授業でございます」
「ああ、今日はエミリが登城する日か」
アルフレッドの反応に、嬉しそうにディオーネが答える。
「はい。エミリ様にお会いするのがとても楽しみです」
「仲良くなるといいな。私もあとで顔を出そう」
「まあ、お待ちしていますね。エミリ様も喜ばれると思います」
「いや、エミリは……どうだろう」
むしろ邪険に扱われそうだと眉間にしわを寄せるアルフレッドだったが、隣でにこにこと笑うディオーネに魅せられて目元を緩ませる。
ふわっふわに華やぐ王太子宮の主役たちの婚儀は、最短の半年後に控えていた。
気持ちの良い、爽やかな秋晴れの空である。今日は暖かいので外で話しましょうとエミリエンヌが提案して、授業のために用意された部屋のテラスに席を設けることとなった。
「婚約披露会での皆様の反応は痛快でしたわね、ディオーネ様」
神秘的に煌めく白銀の髪に、引き込まれそうなほど美しい濃い紫色の瞳。本来ならば雲の上の存在と言っても過言ではないカスタリア王族の姿は想像以上に神々しく、ディオーネが披露されるや否や会場中の誰もが息を飲んだ。
アルフレッドに執着していた令嬢達はぽかんと呆けたように毒気を抜かれ、後ろ盾の家門らががっくりと肩を落とす傍らで、王家と親しい貴族、例えばテオドールやエミリエンヌの母方の祖父でもある老宰相などは感激のあまり滂沱の涙を流す有様で、存在自体が神の領域だと評したナイアの言葉の真実をテオドールたちは身を持って知ったのだった。
ふふっ、と微笑んだエミリエンヌが紅茶を口に運ぶ。テーブルの上には見た目にも可愛い焼き菓子が並び、さながら女子会のような様相だ。
「それでどうやら殆どの令嬢が、ディオーネ様の信者に様変わりなさったようで、ぜひディオーネ様とお近づきになりたいという方がたくさんいらっしゃいますの。あ、もちろん最初にご紹介するのは、敵意むき出しだった俄か信者の令嬢ではありませんよ。昔から仲良くさせていただいている、私の友人達です」
「まあ、エミリ様のお友達をご紹介していただけるのですか?」
「ディオーネ様が宜しければ、ぜひ! 最初は少人数でのお茶会から始めて、ネヴェルネスの社交界に少しずつ慣れていきましょうね」
将来、ディオーネが王妃として立つには同世代の貴族令嬢達との人脈も欠かせないところで、筆頭公爵令嬢のエミリエンヌが指南するのはこうした令嬢達の人柄や家門、連なる派閥、困った時の対応策、更には流行りの装飾品やお菓子といった話題に至るまでの社交界事情である。
加えて、時には王太子妃の立場を抜きにして語り合えるような交友関係も広げてほしいと願うエミリエンヌは、ディオーネと相性の良さそうな令嬢達を見繕っては徐々に紹介していこうと、この役目に任命されてからというもの気合十分だ。
「もちろん何かありましたら、必ず私がディオーネ様の矢面に立ってお守りしますからね」
「ふふふ。エミリ様にそう言って頂けて、わたくしもとても心強いです」
ふんわりと笑って、エミリエンヌの好意にディオーネが応える。
授業といえばそうなのだが、同い年でもある姫達の会話は和気あいあいと盛り上がった。テーブルに並べられたお菓子はエミリエンヌが土産として持参した王都で流行りのもので、ディオーネは初めて目にする品ばかりである。それを二人であれこれと評価し合いながら試食するのも楽しかった。
こうしてディオーネとエミリエンヌの心の距離が一気に縮まっていく。
「あのね、ディオーネ様。私からもご相談したいことが……ご質問がありますの」
授業も終盤に差しかかったところでこれまでの朗らかな様子とは一転してまごつくエミリエンヌに、ディオーネは持ち前の純朴さから何の疑いもなく素直に頷いた。
「わたくしで良かったら、何でもお聞きください」
「何でも……」
ぼそりと反芻したエミリエンヌが、覚悟を決めたような強い瞳でディオーネを真正面から見つめる。
「ディオーネ様は、男性を陥落させるにはどのようにしたらいいと思いますか?」
「陥落、ですか」
「だってアルお兄様、毎晩ディオーネ様の寝室をお訪ねになっているのでしょう?」
「え……?」
―――だってアルお兄様、毎晩ディオーネ様の寝室をお訪ねになっているのでしょう?
遅れて思考に到達した言葉がディオーネの顔に、ぼぼぼぼっと火をつける。
「え、あのっ……」
「私、絶対にアルお兄様はご結婚するまで貞操を守られると踏んでいましたのに。毎晩、寝室がご一緒ということはお二人はその……一線を越えられている、ということですよね?」
ばっ、とディオーネが赤面した顔を両手で隠す。それがエミリエンヌの質問に対する答えの全てであった。
「何故それを……」
王太子宮の女官に気配を探られるだけでも恥ずかしいのに、まさか社交界にまで噂が流布しているのだろうか。恐る恐るディオーネが両手の隙間から問うと、そうではないとエミリエンヌは首を横に振った。
「私が独自に入手した情報ですの。もちろん外部に漏らしたりはしませんわ、ご安心くださいませ」
「そう……なのですね」
安心、していいのだろうか。何故なら今後も王太子宮のあれやこれは、全てエミリエンヌに筒抜けということではないのか。だが表情から察するにエミリエンヌは至極真面目に言っていて、どう反応していいのかディオーネも判断に迷うところである。
このどこか外れた姫君達の会話には、背後で控えるナイアとミラベルも内心で苦笑するしかない。
「それで、どのようにしてアルお兄様に迫りましたの? いえ、きっとお兄様がディオーネ様に迫ったのでしょうね。どのような雰囲気でそこへ持ち込んだのですか?」
「あの……エミリ様? マリユス様と何かありましたの?」
気迫の籠ったエミリエンヌの問いかけに、赤面から回復したディオーネが優しく見つめ返す。アルフレッドとディオーネの婚約が正式なものとなり、いよいよ次は第二王子マリユスとエミリエンヌの婚約発表に向けて佳日を選定中のはずであった。
「何も、ないのです。……なさすぎです!」
「何も、ない?」
「手を繋いだりはしますけど、ずっとそれだけで……口付けも子供の頃に頬にしたくらいです。それも私から……」
言いながら、ネヴェルネス王家特有の茶色の瞳に浮かんだ涙をエミリエンヌはぐっと堪える。
「きっとマリユス様は、私のことをいつまでも妹のような存在だと思っているのです」
ぼそぼそと、婚約前なので一線を越えたいわけではないが恋人としての関係がもう少し進展してもいいのでは、と消え入りそうな声で悩みを打ち明けるエミリエンヌに、ディオーネは自身の刺繍が入ったハンカチを手渡した。涙を拭うのを見届けてから、立ち上がって優しくエミリエンヌを抱きしめる。
「ディオーネ様……」
「愛しい想いが重なっていくと、相手に求めるものも強くなってしまいますわね。実はわたくしも、同じような経験をしたことがあります。すれ違いがどうにもならなくなって、本当に愛されているのか自分に自信が無くなっていく。でもあとから、それは殿下がわたくしのことを大切に想って下さっていたからだということを知りました。きっとマリユス様も同じです。エミリ様のことを大事になさりたいだけなのです」
「本当に、そうなのでしょうか」
「はい。薔薇園での集まりの時も、マリユス様がエミリ様を見つめる瞳はとても愛おしそうでしたよ」
ぎゅっと無言でエミリエンヌがディオーネを抱きしめ返すと、ほのかに漂う甘い花の匂いをより身近に感じて、落ち込んだ心をやんわりと癒やすようだ。
「ありがとうございます。明日からまた元通りに、元気になりますね」
エミリエンヌが笑ってみせて、ディオーネが微笑む。今後は宣言通り、ディオーネに何かあったら全力で尽くそうとエミリエンヌの直感が働き、ディオーネのほうも同い年ながら姉妹のような関係になれたらと信頼を置いた。
若い二人の絆がまた一段と深く結びついた瞬間だった。
更新時間が遅くなりました。
ディオーネがようやく父親の後宮から出たことに、さぞかしアルフレッドはほっかりしていると思います。
お読みいただき、ありがとうございます(*^^*)




