王太子の恋煩い 後編
「あ……兄上、正気でいらっしゃいますよね」
肩口で切り揃えた髪を強い風に乱されながら、マリユスは驚愕の瞳をアルフレッドに向けた。顎元に手を当てて一考するような素振りを見せたアルフレッドが、自嘲気味に首を傾げる。
「正気の沙汰、ではないだろうな」
マリユスは焦った。兄の発言が不穏すぎる。
「ちょっとこちらへ、兄上!」
二人の他に誰もいないことは明らかな屋上だが、案外にも上層の声は階下に拡張されて響くものである。兄の衝撃告白を受けて意味もなく辺りを見回したマリユスは、急き立てるようにアルフレッドを自室へ押し込めた。
「いいですか、兄上。大人げないとは分かっていますが、今から根掘り葉掘り聞かせてもらいます」
立ったままというのも不調法な気がしたが、長椅子に座ってお茶を飲みながら気楽に話すような内容でもない。執務机の背後にある窓から夕焼けを眺め、どこか感慨深そうにしている兄に向かってマリユスは距離を詰めた。
「兄上は、父上の幻のご側室とお会いになったのですか」
「ああ、そうだ」
「一体どちらで?」
「具体的には明かせないが、たまたま立ち寄った場所にあちらも出向いていた。……王城の外だ」
「王城内ではないのですか? 父上が、掌中の珠を安易に晒すとは意外です」
アルフレッドが、じとっと半目でマリユスを見る。どうやら父の掌中の珠という表現がいけなかったらしい。
「えーと、つまり兄上はそこで初めて姫君と、ひと言ふた言、話をされたのですね」
実際にはひと言ふた言どころではない関係まで進んでしまったのだが、この年子の弟は割と古風な貞操観念を持っていることをアルフレッドは知っている。いわゆる、深い男女の仲になるのは婚儀を終えてから、という考えの持ち主だ。
この辺りの相談はテオドールが適任だっただろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、アルフレッドはここで弟に全てを曝け出すのは避けようと心に決める。
「……まあ、そういうことだ」
「どのようなお話を?」
「色々とな」
怪しい。マリユスはどこか白々しい兄を訝しんだが、まさか恋愛初心者のアルフレッドが強引に色々とすっ飛ばしたとは思いもよらない。
せいぜい、口付けでも迫ったのではないか程度の思考に至るものの、いや、父の側室に対してそれも大問題だな、と深く追求することをやめた。
「そうして兄上は、姫君を見初められたのですね」
「そうか、あれは……」
あの不思議な現象は何だったのだろう、とアルフレッドは思う。錯覚と片付けてしまうには、あまりにも鮮明な出来事である。だがその後からだ。元々その美しさに目を奪われていたところに、もっと近づきたい、どうしても今すぐ自分を刻みつけたいという情動が芽生えたのは。
自分でも驚くほどの激情は、懸想などという綺麗な枠組みには収まらない気がする。今でさえ渇望し、ひたすらに追い求め続けている。
世の中の恋人ないし恋人未満は皆、このような醜い欲を抱えているのだろうか。
黙り込んでしまったアルフレッドを事情は分からないなりに、初恋に戸惑っているのだろうとマリユスが結論付けた。
「恋煩い、と先ほど兄上は言われましたので。そういうことになるのだと思いますよ」
「……ちなみに確認なのだが」
「はい?」
顔だけ向けていたのを、アルフレッドは体ごと弟に振り返る。
「マリユスはエミリのことを考えると、いても立ってもいられなくなる時があるのか」
「は、ええっと……」
あまりにも直裁な言葉にマリユスは面食らった。それも至極、真面目な顔つきで問うものだから違和感が半端ない。
だが目の前にいるのは、何事にも自分より一歩秀でる成績を残してきた尊敬する兄なのだ。例え恋愛相談であろうと、それが初心者向けの程度の低い内容だろうと、相手として頼られているのだと思えば出来るだけ真摯に対応したいと、弟もまた律儀に答えた。
「そうですね。そういう時期も確かにありましたね」
但しそれは、物心がついた時から後ろを付いて歩く妹のようなエミリエンヌを、特別で大事な存在だとある日ふと気がついた、十代初めの思春期の頃の話だ。
「気を抜くと、つい相手のことを考えて姿を求めてしまうことは」
「う、ん? まぁ……ありますよね」
やはりそれも、マリユスにとっては十代そこそこで経験済みの出来事である。二十歳の今では恋人のエミリエンヌと穏やかな関係性を築いているし、余裕があるためか感情が不安定に揺れたりしない。
とても兄に言える雰囲気ではないが。
「心の臓が早鐘を打ち、体が熱くなって眠れなくなる」
ああ、つまり眠れないほど煩っているという話ですね、とマリユスは兄との会話に笑顔で終止符を打った。
「兄上。それはもう重症です」
「重症、なのか」
僅かに目を見開いたアルフレッドに、マリユスがしっかり頷く。
「姫君に対する兄上の想いが、本気だということは十分に理解しました。それで……この先はどうなさるおつもりですか? 確かにネヴェルネス王室の長い歴史には、後宮のご側室が臣下に下賜された例や、国王の死後に王太子の後宮に入られた例もありますが」
直近の事例で言うと、父のロドルフが王太子時代に迎えなければならなかった二人の側室は、ロドルフの即位後、功績を挙げた将軍や高官の元に本妻としてそれぞれ再嫁している。
下賜にあたっては側室本人の意向も考慮されたというが、それとは別で、王太子の後宮へ譲られた場合の殆どは王太子の正妃として認められず、やはり側室待遇止まりであったとマリユスは記憶していた。
「分かっている。改めて文献を調べたさ。国王の側室が王太子の正妃に立った事例は、王家の歴史を古代まで遡らないと散見できなかった。だが……それでも一応、前例があるとは主張できる」
「有職故実にこだわる、古い家柄の貴族もいますからね。ですがあの父上が、寵姫を簡単に手放すとは思えません」
「そのことだが……」
何かを言いかけて、アルフレッドは口を噤む。
「いや、何でもない」
「……。父上にはまだ打ち明けられていないのでしょう?」
「ああ。この連日、謁見を申し入れているのだが、侍従長からの返事はご多忙につき時間が取れないの一辺倒で一度もお会いできていない」
「え……」
マリユスのなかで何かが引っかかる。直感でこの話には齟齬があると思った。
「おかしいですね。この先、予定されている大きな行事は、国際的な要人を招いて父上の生誕五十年を祝う祝賀ですが、半年も後の話です。今はまだ官吏たちの調整期間で、父上には余裕があるはず。格別にお忙しいとは思えません」
となると、父は意図的にアルフレッドを避けているということになる。
だがこれまでの話から察するに、兄が父の側室に対して一方的に懸想をしている段階ではないのか。何も知らない父がアルフレッドを拒む要素はどこにもないし、そもそも息子からの面会願いを無下に扱う父でもない。
つまり。兄は決定的な何かを隠している、ということだろうか。先ほど言い淀んだ、何かを。
「あの……肝心なことを聞きそびれていたのですが、兄上がお会いになった折の、姫君の反応はいかがだったのですか? 仮に父上がお許しになったとして、最終的に姫君がご納得しなければ成り立たない話でもあります」
しばらく何かを考え込んでいたアルフレッドが、マリユスの問いかけに顔を上げた。そして何とも寂しく笑う。
「……泣いていたな。好かれてはいないだろう」
「泣いて? 姫君とは偶然に、初めてお会いしたのですよね?」
そうだ、と認められてはマリユスは狼狽するしかない。
「初対面で何を言ったのですか、兄上。そもそも、大切な存在であろうと無かろうと、女性を泣かせてはいけません」
「反省はしている」
「もし次にお会いする機会がありましたら、誠心誠意きちんと謝罪をしてくださいね」
まさか恋愛に関して兄に説教をする日が来ようとは。深くため息をついたマリユスだったが、全てを打ち明けられていないにしろ、アルフレッドの恋を応援したいと芽生えた気持ちに嘘はない。王子という特殊な環境で生まれ育ち、重責を分かち合うたった二人きりの兄弟なのだから。
「次回、か。次があればいいのだがな」
「兄上」
「ただの愚痴だ。仕事の邪魔をして悪かったな」
珍しく弱音を吐いたアルフレッドの背中を追い、マリユスが扉の前で見送る。扉を開けた瞬間の、物憂げなアルフレッドの横顔がマリユスの脳裏に酷く印象に残った。
遠ざかる兄の足音と入れ替わるように鳴り始めたのは、刻を知らせる王城の鐘だ。窓から見える外の景色もすっかり日が落ちている。
もうそんな時間かと、執務机に戻ったマリユスが残りの書類に手を付け、一枚をめくったところで愕然とした。
「……兄上!」
手元にあるのは、主に女性王族の警備を担当する近衛師団第三分団からの変更届である。急遽、国王の要請により夜のお渡りをすることになった側室の姫への、新たな警備を差配する報告書だった。
お渡りの予定時刻は、今夜七時。そして鐘の音はたった今、七回目が鳴り終えたところだ。
このままでは兄が行列と鉢合わせをするのではないか。国王居住区へと続く特別な道筋を辿らなければその可能性は低いのだが、なんとなく兄が貧乏くじを引きそうな気がして、マリユスは咄嗟に室外の廊下へ飛び出した。
勿論のこと、既にそこにアルフレッドの姿はない。
アルフレッドは来た道を戻る。近衛師団が管轄する建物群を抜けて、夜勤の近衛しかいない一般区画を足早に進み、大扉をいくつか潜って王族の居住区へ入った。
自分の居室に戻るには遠回りだが、あわよくば移動中の父に目通りが叶うかもしれないとの思いつきで、国王居住区のほうへと足を向ける。普段は利用しない近道を選び、大股で暗がりの通路を突き進んだ。機会を逃したくないという焦りもアルフレッドの原動力となった。
その間にも時刻を知らせる鐘の音が七回、狂うことなく一定の間隔で鳴り響く。奥の回廊に出て、中庭を挟む向こう側に父の居住区がある建物を臨んだ時だ。
遠く、低木の合間に仄かな光が揺れている。多くはないが少なくもないその数は、人の足運びに合わせて揺れているのか。
アルフレッドは、はたと足を止めた。驚愕の眼差しを中庭の対面へと向ける。
四年もの間、定期的に続くその行列の意味を察知できない者など、この王城には存在しない。会いたいと、ひたすらに願い続けた相手がその灯りの行列の中心にいて、国王である父の元に側室として役割を果たすために渡っているのだ。
「……っ」
アルフレッドの現状では、ただ夜陰に紛れて遠目で行列を見送ることしか出来ない。何と間抜けで情けない立場なのか。屈辱に思えば思うほど、強く握り締めた両手に爪痕が残った。
離宮で初めて触れ合った時、ディオーネは確かに乙女だった。嬉しい誤算ではあったが、以来、何故どうして、という疑問は尽きない。
延々と自問を繰り返したところに思い出したのが、父とディオーネが不誠実な関係ではないと言い切った母の言葉だった。よくよく勘案し、もしかしたら父は何らかの事情でディオーネを後宮に匿っているだけではないのか、という結論にアルフレッドは辿り着いていた。
だがそれは何の確証もない、アルフレッドの希望的観測に過ぎないのだ。
何故、その不確かな自論に安堵を覚えてしまったのだろう。父が手を付けなかった理由として、単純にディオーネの成長を待ち望んでのことかもしれないし、この先もディオーネが父の後宮に在る以上、二人が深い男女の仲にならないという保証はどこにもないというのに。
目の前のディオーネのお渡りを照らす小さな灯りが、茂みの向こうで次々と消えていく。ついに国王居住区へと到達したようだ。
このまま一足飛びに中庭を突っ切って駆け抜け、行列の中にいるディオーネを攫うことができたら。攫って、逃げ延びて。だが衝動的に脳裏によぎった想いは、不幸の始まりでもある。
苦々しく眉根を寄せるアルフレッドは、冷静を取り戻そうと硬い瞼をどうにか閉じた。早鐘を打つ心臓の音がより強く体内に響く。
逃げてどうするのだ、と己に喝を入れる。そうではない。手遅れになる前に一刻も早く父を説得し、ディオーネに許しを請い、自分の気持ちを受け入れてもらうしか道はないのだ。
必ず、手に入れる。
くるりと踵を返したアルフレッドは、ディオーネがいるであろう父の居住区に背を向け、固く心に誓った。
お読みいただき、ありがとうございました!
次は国王夫妻とディオーネの話し合いです。
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