王太子の恋煩い 前編
どさどさ、と大量の書籍が机から雪崩落ちる。執務中のテオドールが目を向けると、不注意を引き起こした張本人が席を立とうとする場面だった。屈んで一冊ずつ拾う動きは緩慢で、およそ機敏とは言えない。
ふむ、この視線にも気づいていないのか。心に記録するべく、テオドールは目先の従弟をじっと観察する。
休暇が終わってからというもの、アルフレッドの様子がおかしい。いや、休暇を取ると宣言した辺りから余裕のなさは感じていたが、帰城後、執務に鋭意邁進する姿を見て、無理をしてでも休日を調整した甲斐があったとテオドールは悦に入ったものだ。
だがそれらの休暇の効力は、二、三日であっさりと切れた。アルフレッドは鍛錬中には瑣末な傷を負い、机仕事においては以前に比べて処理速度が落ちている。端的に言えば集中していないのだ。よくよく注視してみたところ、対処すべき事柄とは違うところへ思いを馳せているようで、決済の書類を前にしても目が文字を追っていない。時には思い詰めすぎたのか、放心していることもしばしばだ。
それが一過性の症状ではないのだから、質が悪いとしか言いようがなかった。
珍しいな、とテオドールは思う。アルフレッドは幼い頃から優秀で、一つ上に指標となる従兄がいて、一つ下の弟には追い越されまいと、帝王学に並々ならぬ努力を費やしてきた。やればやるだけ成果が上がるものだがら、周囲はさすがネヴェルネスの第一王子だと持て囃す。だがそれに慢心することなく、実力で王太子の地位を得たと言っても過言ではない。
いくら身内の間柄とはいえここまで呆然とし、取り繕いも忘れたようなアルフレッドの姿をテオドールは見たことがなかった。
何をそんなに悩んでいるのか。そろそろ救済しなければ、不健康である上に執務も滞るというものだ。
「アル」
試しに従弟の名前を二度ほど呼んでみる。床に散らばった本をようやく片付け終え、執務椅子に座り直してペンを持つアルフレッドだが、やはり聞こえていないのか反応は薄い。
「おーい、アルフレッド」
「……言葉が乱れているぞ、テオドール」
ようやく返ってきた言葉は全く可愛げがないもので、口を開けばこれか、とテオドールは肩を竦めた。
「何度も呼んだのだけど、アルフレッドが気づかないようだからさ。最近、どこか体調でも悪いのかい?」
「別に普通だが」
「では、やはり精神面ということかな。休暇中に何かあっただろう?」
僅かにアルフレッドの眉が跳ね、ああ、これは当たりだな、とテオドールは確信する。
「私はアルより一つ年上だからね。ほら、身内のお兄さんに相談してみるといいよ」
「は? いや、遠慮する」
「もう少し考えて!」
断っても関与したがる従兄を睨めつけながら、アルフレッドは言われた通りに思案する。そこは素直なんだなと、うすら笑いするテオドールを視界の隅に置き去ることにして、本能の赴くままに離宮での記憶を手繰り寄せた。
とにかく会いたい。想いが募る分だけ、胸の奥底がチリチリと焼け焦げるように痛かった。恋い焦がれるという表現は揶揄でもなく、実際に起こり得るものだったのだなと胸を押さえては、身を持って痛感している自分がいる。
この切実な想いを、今はまだ一人に縛られたくないと自由恋愛を謳うテオドールに打ち明けるのか。答えは、否だ。
「……執務に集中できていないことは申し訳なく思っている」
「そうか。うん、まあ自覚があるのなら、いいのだけれどね」
本心を明かすように持ちかけたところで気安く語ることはないだろうと、アルフレッドからの返事は折り込み済である。テオドールは自らの執務机を離れて従弟に歩み寄ると、その肩にぽんっと手を置いた。
「終業時刻には少し早いけれど、残りの執務は私が引き受けるからさ。アルフレッドは明日に備えて、気分転換でもしておいでよ」
思わぬ言葉にアルフレッドが軽く目を見開く。いいのか、と半信半疑で聞き返しつつも、その手はさっそく見開きの書類を閉じかけているのだから、テオドールは苦笑気味に了承するしかない。
「……いつも助かる、テオドール」
「うん? 何だか素直に感謝されると面映いものだね。本当にアルフレッドはどうしてしまったのだろう」
テオドールが首筋をかく間に離席の準備を整えたアルフレッドは、従兄の気が変わらないうちに執務室を出た。
あてもなくしばらく歩いたところで、中庭に面した回廊へと差しかかる。吹き込む風はひんやりとして心地が良く、存外に体が火照っていたことをアルフレッドに知らしめた。足を止めると、中庭に咲いた名も知らない花に目が留まる。
……そういえば、水辺に咲く花を見つめて微笑んでいたな。
記憶のなかの美しく白銀色に輝く髪に手を伸ばそうとして、はっ、と現実に返ったアルフレッドは思わず周囲を探った。自分の息遣い以外は何の気配もなく、麗しい残像はただの陽だまりとなって霧散している。
ついに白昼夢まで見るようになったのかと、アルフレッドは自らの異常さを嘲笑した。
「はぁ。……限界だな」
誰かに相談しよう。だがその誰かはテオドールではない。そう考えて、閃いた。一途な恋愛の先駆者として、相談にうってつけの人物が身近にいるではないか。
目的地を定めてしまえば、アルフレッドの重かった足取りが自然と確かなものになる。執務区画と一般区画とを隔てる大扉をくぐり、警備の近衛兵士たちへ労いの言葉をかけたアルフレッドを待っていたのは、たまたま居合わせた貴族令嬢たちの甲高い悲鳴だ。
まさか出待ちをしていたわけでもないだろうに、揃っての熱狂ぶりにアルフレッドは思わず腰が引けそうになる。冷ややかな視線をもって令嬢らを黙らせると、足早に突き進んで次の通路に姿を隠した。
ただただ、深いため息しか出てこない。万が一にも食指が動いたとして、あの場にいる令嬢たちの身分では王太子の正妃にはなれないのだ。側室として陰で生きる未来しかないのに、何故あそこまで熱心に後宮の地位を狙おうとするのか。
以前のアルフレッドならば、それを哀れだと蔑んでいただろう。苛立ちもしたし反発心も芽生えたに違いない。だが今は、呆れ以外の何の感情も沸かなかった。はっきり言ってしまえば、どうでもいいの一言に尽きる。
たった一つ、望むものが出来ただけで、こうも心の在り方が違うものだろうか。そう思うにつけ、ますます幻の姫のことが恋しくなるのだった。
この先はネヴェルネス王城と王都の警護を担当する軍部の花形、近衛師団が管轄の建物が続く。すれ違いざまに近衛兵士からの敬礼を受けながら、アルフレッドは幹部が詰める管理棟へ足を踏み入れた。
通常であれば夕方前のこの時刻は、書類整理に当てているはずだ。
「あれ、兄上?」
最上階にある近衛師団団長の部屋まで辿り着くと、予想通り在室のマリユスがにこりと笑ってアルフレッドを迎え入れた。
「この時間に管理棟へ足を運ばれるのは珍しいですね」
健康である限り独身の若いうちはキリキリ働け、というのが国王ロドルフと王弟ラウルが推し進めるネヴェルネス王家の家風である。それに従い、テオドールが調整する王太子の公務予定も容赦が無い。みっちりと毎日が過密だ。
「息抜きでもしてこいと、テオドールの承諾済だ。久々にお前と体を動かしたくなってな」
「へえ。効率の鬼のテオにも人の心があったのですね」
「あれで年長者として、よく気遣っているほうではあるのだ」
「あはは、知っていますよ」
柔和な笑みを浮かべたまま、マリユスが執務机から立ち上がる。昔からよく笑う弟に口元を緩めたアルフレッドは、内壁に立てかけられた訓練用の剣を二つ手に取り、そのうち一振りをマリユスに投げ渡した。片手で小気味よく受け取ったマリユスが、部屋と接した屋上バルコニーへ兄を誘導する。
「ここなら人目も気にならないでしょう?」
「そうだな。広さも二人だけなら十分だ」
綿毛のような雲が浮いた青空の下、アルフレッドとマリユスは向かい合って剣を構える。
先にアルフレッドが仕掛けて、マリユスがその剣先を避けた。続いてマリユスが繰り出した剣をアルフレッドが受け止める。しばらくは二人の剣戟の音が屋上に響いた。
幼い頃から剣術や馬術などの運動と学問の全ての分野において、年子の弟マリユスより優位に立っていたアルフレッドである。それがいつからだっただろう。王太子として執務漬けの毎日を送るアルフレッドと、近衛師団に所属し鍛錬を続けるマリユスとでは、当然のことながら武術の力量が逆転した。
激しい応酬の末、ぴたっと胸元に剣を突きつけられたアルフレッドが、息を弾ませながら降参だと剣を下ろす。
悔しいとは思わなかった。王太子である自分と、いずれは叔父ラウルから軍部元帥の職務を引き継ぐことを期待されているマリユスとでは、目指す未来が違うのだから。
「また剣の腕が上がったな、マリユス」
「今日の兄上の剣筋には、迷いがあるようです」
同じく弾む息を整えながら、マリユスが兄の手から模造の剣を受け取った。
「私で良かったら、話を聞きますよ」
そのためにここに来たのでしょう、と弟の笑顔が言外に伝えてくる。アルフレッドは近くの外壁に背中を預けて腕を組み、空と建造物の間にある虚空を眺めた。
「ここだけの話だ」
「ええ、勿論」
少し離れた場所でマリユスも同じように背を預け、兄に倣って同じ方向を見遣る。
「……テオドールやエミリにも内緒だ」
「ええ。分かっていますよ」
「恋煩い、らしい」
「テオドールならば、いつものことではないですか」
「……煩っているは私だ」
「ええ。あにうえがこいわずらい……えええっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げたマリユスが、がばっと勢いよく体を起こして隣のアルフレッドを見た。
「兄上が、ですか」
「他に誰がいる」
十五歳で正妃は当分必要ないと公言してからというもの、女性嫌悪症のきらいもあった堅物の兄が恋をしているのだと言う。驚きで丸くなった琥珀色の目に映るのは、何の気負いもないアルフレッドの姿だった。
マリユスの中で状況がすとん、と腑に落ちる。あ、兄上は本気だ、と。
「……念の為に確認しますが、お相手は女性ですよね?」
「正妃に望む、姫がいる」
「流石にそうですよね。正妃に望まれる姫が……」
兄の恋愛対象が女性であったことに安堵したのも束の間、ん、待てよ、とマリユスは嫌な予感に顔色を変えた。
「まさか……兄上。この期に及んで、エミリを正妃に望むとか言うのではないでしょうね」
現時点のネヴェルネス王国で、王太子妃にもなれる血筋の姫といえば、王弟公爵家の一人娘であるエミリエンヌしか存在しない。
二十歳になったマリユスが未だに婚約を結べずにいるのは、兄に先んじることが忌避されてのことだけではない。その相手が国内で唯一、アルフレッドの正妃資格を持つエミリエンヌだから、可能性を潰せないでいる重臣らが時期尚早だと声を揃えているのである。
「ははは。今更、お前の恨みを買うつもりはないよ」
「ですが、そうなると国内に兄上の正妃資格を持つ姫君はいらっしゃいません。他となれば……傍系王族や高位貴族の姫君でしたら、ラウル叔父上の猶子になるなどの裏手続きで、正妃に立てることも可能かもしれませんが」
それでも、実子のエミリエンヌを差し置いて王太子妃にということになると、やはり世論的には難しいのかもしれない。
壁から背中を離したアルフレッドは、従妹のことが絡むと格段に疑り深くなるマリユスを正面から見つめた。その気持ちも今なら分かる。
「……もう一人、いるだろう。王太子の正妃、つまり将来のネヴェルネス王妃の資格を持つ姫が」
「あとはもう、他国の王族の姫君しか……」
返答したところで、はっ、とマリユスは息を飲んだ。
他国の王族の姫。いるではないか、このネヴェルネス王城内に一人だけ。
まさか、と呟いたマリユスは、以降の言葉を見失って口をパクパクとさせた。
「そのまさか、だ」
「……父上が寵愛の、ご側室の姫君」
びゅっと音を立てて、風がマリユスの栗毛の髪を巻き上げる。泰然と佇むアルフレッドの背後で、西日を差す太陽が雲間に傾き始めていた。
お読みいただき、ありがとうございました!
堅物くんが初めての恋に翻弄されています。媚香のことがありますが、アルフレッドははっきり恋だと認識している模様。
次話は、マリユスとの話し合いの後編です。




