やるせない思いの向かう先 国王夫妻編
寝台で浅い眠りを繰り返しながら、はっ、とディオーネは目を覚ました。視線だけで辺りを覗い、ここが王妃の寝室であることに安堵すると、しっとり汗ばんだ額に手を当て無理に体を起こす。
誰かが隣の居間に入った気配がして、女性の足音が近づいてきていた。幾重にも重なったドレスの衣擦れは、王妃であるベッティーナのものだろうか。
「起こしてしまいましたか、ディオーネ姫」
予想通り寝室に姿を見せたベッティーナが、枕辺に置いた椅子に座る。気にしないでほしい、と浮かべたディオーネの微笑は、どこか虚ろげだ。
「無理にこちらに来てもらいながら、わたくしの予定が空かず申し訳ありませんでした。急ぎの執務は終わらせました故、明日は姫とゆっくり過ごせそうです」
そう言って、横目でちらり、とベッティーナが寝台脇のテーブルを確認する。食事もままならないとの知らせに、少しでも食べやすいようにと、柔らかく消化のいい果物や具なしのスープなどを配膳させたが、やはりほんの一口程度しかディオーネは手をつけなかったらしい。
だがそれを責め立てるような、ベッティーナではない。
「少しは食べられましたか。明日のデザートは、ゼリーも良いかもしれませんね」
強要するでもなく優しく目を細め、そっとディオーネの頬を撫でる。本来ならば今頃は笑って、離宮での土産話に花を咲かせていたはずなのに、触れた頬は王城を発つ前と比べ、随分と痩せたように感じる。
不可思議な現象に包まれ、庭園が見事に蘇ったと、里山離宮を管理する老夫から謝辞を連ねた手紙が届いたばかりだ。ディオーネが澱んだ神力を駆使し、広大な庭園を復活させたことは疑いようもない。
体内の澱みが無くなれば、体の不調も解消される。それを信じて送り出したはずなのに、何故こんなにもディオーネはやつれているのか。
「神力を大きく使うのに、これほど心身が削られるとは思いもよりませんでした。安易に立案した、わたくしの落ち度ですね」
「……それは、ちがい、ます」
首を振って否定するディオーネの声は、か細い。どうにかやっとという発声を、ベッティーナはますます不憫に思う。
「神力の解放が原因ではない、と?」
だとしたら、他に心を乱す何かがあったということだ。辛い出来事を振り返らせるのは本意ではないが、ベッティーナには王妃として夫のロドルフに真実を報告する義務がある。
一方でそれとは別に、愛しいディオーネを苦境から救い出してあげたい、その手助けができればという善意が、本音の大部分を占めていた。
「離宮で何があったのか、わたくしに話してみませんか」
逡巡するディオーネの瞳が揺れる。次第に潤んでいくのを、抱き寄せることでベッティーナは許容を示した。
「姫がネヴェルネスに来て、早くも四年が経ちますね。わたくしは貴女を実の娘とも思い、大切に導いてまいりました。その母にも言えぬことですか?」
泣いて甘えていいのだと言われた気がして、途端にディオーネの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。腕のなかで嗚咽するのを、ベッティーナは殊更丁寧に抱きしめた。
焦らず、ゆっくりと背中を擦る。やがて、しゃくり上げながらも、ぽつ、ぽつ、とディオーネが鍵となる言葉を紡いだ。
「……おう、たっ……でんか……が」
辛うじて聞き取れた単語を、ベッティーナは表情ひとつ変えることなく、急速かつ正確に頭の中で組み合わせていく。
……おう、た、でんか? 殿下? おう、た……王太子、殿下。
幾度目かの反問で唐突に閃いたベッティーナは、これ以上もないというほど、琥珀色の目を大きく見開いた。つい、冷ややかな低音の声が口をつく。
「……王太子殿下、と言いましたか。アルフレッドがどうしたのです」
抱きしめる腕を緩めたところでディオーネを見下ろしてみれば、首元や鎖骨の周辺に薄っすらと赤い痕が点在しているのが目に入る。
一見しただけでは分からない、離宮の庭園で虫に刺されたのだと言われれば、それを鵜呑みしてしまうほどの小ささだが、よくよく見れば、人工的につけられた内出血の治りかけだとはっきり認識できた。
まさか、とベッティーナは絶句する。
王家所有の里山離宮は歴史が古く、王家を尊崇する地元住民たちはその存在に愛着を持っている。里人が無断で乱入するとは考えられなかった。
では仮に侵入者が盗人の類だとしたら、管理人の夫婦も無事では済まないだろう。そもそもディオーネには少数精鋭の護衛が従っており、たかだか盗っ人風情に近衛師団の者が負けるとも思えない。
となると、残された可能性は一つである。老夫婦が離宮の滞在を認め、かつディオーネの護衛を制することができる人物、その対象は王族ということだ。
いくつもの符号が重なり合う。導き出した結論に、ベッティーナは目眩いがした。
何ということを。長い睫毛を伏せて息子の軽率な行為を悔んだベッティーナが、もう一度、ディオーネの震える体を強く抱きしめる。
「許されるとは考えておりません。ですが、まずは息子に代わり、心からの謝罪をさせて下さい」
「……へい、か」
「姫の意思に反し、無体を強いたのでしょう? 王妃の名においてアルフレッドを糾弾します」
今度こそ激しく首を横に振ったディオーネは、微かに、違う、と乾いた唇を動かした。
「ディオーネ姫。例え媚香のことがあろうと、庇い立ては無用です」
「……ちがい、ます。違う……のです」
「姫?」
ベッティーナの胸から脱したディオーネが、寝具の上で両手を強く握り合わせる。
「お願い、します。誰も……お責めにならないで……! 殿下も、護衛の者も……」
無理に声に力を入れたせいか、くらり、とディオーネの体が傾く。急いでそれを支えたベッティーナは、力尽きるままにディオーネを横たわらせ、寝具を整えた。
罪を犯した者に処罰は必要だという考えを、ベッティーナが訂正することはない。だがそれを今この場でディオーネに伝えることは、悪手だという判断に至る。
分かりました、とひと言だけ告げて、ディオーネの目元をハンカチで拭った。
「姫が困惑するのも無理からぬこと。……さあ、今夜はもうお眠りなさい」
とんとん、と幼子をあやすように胸のあたりで拍を刻む。よっぽど気力を消耗したのだろう。すんなりとディオーネは微睡みのなかに落ちていった。
ふわふわと体が浮く感覚がする。まるで神泉の水中をたゆたっているようだと、目を閉じたままのディオーネは思う。
ふわふわとした空間では気分が和らぐはずなのに、ここに漂うのは嫌だと、直感的にディオーネは拒絶した。
嫌だ、思い出させないで。そう思えば思うほど、離宮での記憶が鮮明に顕現する。
灯りのない部屋の寝台に、窓から月の光が差し込んでいた。自分を捉える逞しい腕と、上から滴り落ちる汗。まるで恋人に告げるかのような、甘い吐息で繰り返し名前を囁かれて、心が疼く。
やめて。媚香の影響を受けたこの行為に、愛や情などは微塵も存在しないのに。
苦しくて切ない。辛くて悲しい。それなのに、新たに湧き出る神力が満ちて、体は快感を拾う。
この人の、特別にはなれない。矛盾した感情が席巻する。熱を何度も打ちつけられ、耳元で懇願されて、最後には縋るように相手の名前を呼んでしまうのだ。
これから自分はどうしたいのだろう。感情が分からない。はっきりと言えることは、恨めしいとも、憎いとも思っていない事実だけだ。
こぽこぽ、と水のなかに空気の泡が漏れる。
いつもの、目覚めの合図だった。
「……何だと?」
事態を詳らかにされたロドルフの目に、ほの暗い闇がかかる。怒りを通り越して鉄仮面を被る様は、ロドルフがまだ王太子だった若かりし時代に父王から側室を迎えるよう命令された、在りし日の反応と全く同じである。
ただただ静かに、ロドルフは憤激していた。
「侍従長のオーバンはいるか」
夜分にいったい何事だろうと、呼び鈴に従い参上した侍従長が、ただならぬ怒気を察知して体を硬直させる。
「アルフレッドをここに呼べ。今すぐだ」
「……はっ」
「お待ちください、陛下」
厳命を受け、踵を返そうとする侍従長をベッティーナが制止した。
「何故止めるのだ、ベッティーナ」
「しばし、わたくしにお時間を下さいませ。侍従長には都度の指示で申し訳ありませんが、一旦、控えの間へ下がるように」
愛妻のベッティーナを前にして、不機嫌な感情を剥き出しにするロドルフは大変珍しい。交互に顔色を窺った侍従長が、短い了承の言葉と共に部屋から退出する。それを見届けると、ベッティーナは改めて夫の執務机の正面に回った。
「アルフレッドの肩を持つのか?」
「そのつもりはございません」
「姫の日常は軟禁状態にも等しい。だがそれに、姫がひと言も文句を言ったことがあるか? ないであろう? 姫を離宮へと遣わしたのはやむを得ない事情であったし、人目を避けることにも万全を期していた。神力を解放させたのち、少しでも姫に自由があればと思ったのだ。そこに何故、アルフレッドが現れる。離宮を訪れる旨の届け出があったのか?」
「ありません。王城から出ることさえ、周囲には知らせていなかったようです」
「ならば完全に、アルフレッドの身勝手ではないか」
媚香の問題があったとはいえ、予定にない行動をしたアルフレッドに非があるとロドルフは処断を下す。
「ええ、それについては同意いたします」
「ならば、アルフレッドを糾弾するのに文句はないだろう」
「陛下。わたくしはこれでも、陛下と同じくらいには怒っているのですよ」
ここでようやく、ロドルフに妻を観察する余裕が生まれた。日頃からあまり動かない表情ではあるが、じっ、と顔を覗けば、凍りつくほどの冷徹な瞳と出会う。
「ですがこの夜分に騒ぎ立てては、親子間の醜聞を晒すようなもの。王家を快く思わぬ者たちに、足元を掬われる事態は避けねばなりません」
目の奥に憤怒を宿しながら、あくまでも冷静さを見失わないベッティーナに毒気を抜かれ、ふぅ、とロドルフは肩の力を抜いた。
「……そうだな、王妃の判断は正しい。何より、ディオーネ姫の名誉を守らねばならぬ。姫のことだ。元凶は媚香にあると自ら責を負い、アルフレッドを恨んだりはしていないのだろう」
「アルフレッドや警護の者たちを、どうか責めないで欲しい、との言葉でした」
「何といじらしいことか」
執務机に両肘をつき、組んだ手を前にロドルフは思案する。
「姫の意思もある。穏便に済まそうと思えば、簡単にもみ消す事は出来よう。……だがな、姫に泣き寝入りなどさせるつもりはない。どのような形であろうと、アルフレッドには制裁を加えねば気がすまぬ」
確かにアルフレッドには、ディオーネの心を掴んでほしいと渋々ながらも期待を寄せていた。だが、何もかもをすっ飛ばしたこの結末を願ったわけではない。
「そうだな……姫を手中に収めんとするならば、アルフレッドには覚悟を見せて貰おうか」
「御意にございます。わたくしたちに無断で姫に手を出すとはどういうことなのか、真髄まで味あわせたいと存じます」
ははは、ふふふ、と笑う声こそないが、国王夫妻の間で真っ黒い笑顔が飛び交う。
さあ、一介の侍女であるナイアよりも更に強大な、ネヴェルネス王国最大の権力が動き出す!
お読みいいただき、ありがとうございました♪
次から二話ほど、アルフレッドの回です。
基本は堅物なので初恋に疎く、やや呆然としています。
※いいね、やブックマーク、とても嬉しいです(*^^*)




