四年後の密(みそ)かごと
神力を発揮するにあたり、降り続く大雨に、ディオーネたちが離宮の奥まったところにある貴賓室にてしばしの休息を取っていた間、敷地の片隅では管理人の老夫が厩の世話に夕餉の下準備と、忙しなく動いていた。
「じい」
懐かしい呼称で声をかけられた老夫が、振り返りざまに相手の男を確認する。たちまちに皺で埋没した目を大きく開けた。
「これは……アルフレッド様ではありませんか!」
「うん。じいやも息災のようで何よりだ」
かつては夏ごとに訪れ、探求し尽くした離宮の内部である。じいやを探して無断でここまで来てしまった、と詫びるアルフレッドに、大きく首を横に振った老夫は感激のあまりむせび泣いた。
「なんとお懐かしや。最後にお会いしたのはいつでありましたかの」
老夫の記憶に残る少年姿のアルフレッドは、まだあどけない。立太子する以前の王子殿下として、あれは何だこれは何だと、もの珍しげにまとわりついてきた可愛い盛りの頃だ。それから毎年の夏に二人の王子の成長を目にするのが、管理人の老夫婦の楽しみだった。
「最後は確か、八年前の夏だったか」
「このようにご成長されて……今では立派な王太子殿下じゃ」
身長にも恵まれ、好青年へと変貌したアルフレッドを、老夫は眩そうに見上げて涙目をこする。ひとしきり再会を喜んだところで、はたと現実に立ち戻った。
「この雨のなか、お一人でいらしたのですか? 供の者はどうしたのです、ずぶ濡れではありませんか」
「供は置いてきた」
「ははぁ、相変わらずのやんちゃぶりで」
「久々に遠駆けに出てみたら、昼過ぎからこの大雨だ。今日中に王城へ帰り着くのは難しいし、この辺りに宿もない。さてどうするかと考えていたら、じいやの離宮を思い出してな。馬は管理小屋の横に繋いであるので世話を頼む。一晩だけ泊まらせて貰えると有り難い」
「ここは王家の離宮でございますぞ。アルフレッド様がお使いになるのに、何の遠慮がいりましょうか」
昔の癖で本棟へと足を向けるアルフレッドの後ろを、やや腰の曲がった老夫が小刻みな歩幅で追従する。
「まずは何か、お体を拭くものをお持ちしましょう。しかし本日は」
「ん?」
老夫の言葉を遮るように、アルフレッドは歩みを止めた。広く、入り組んだ離宮ではあるが、本棟の方角に複数人の気配を感じたからだ。
「誰か来ているのか? ここ数年は滅多に使う者もいないと記憶していたが、珍しいことだな」
「王都より、ゆかりの方々が」
「……面倒だ」
父、母、弟、叔父一家と、自分の知る身内の範囲で該当者が見当たらないことから、おおかた閑暇を持て余した傍系王族の子女か、その辺りで紹介を得た貴族の婦女子が退屈しのぎに滞在しているのだろう。
傍系王族の子女といえば、家の勢力は名門貴族に劣るものの、血筋の良さだけを頼りに自らを売り込んでくる令嬢が多い。
つい余計なところにまで思考が及んだアルフレッドは、老夫に詳細を求めることも億劫で、回廊の突き当りを曲がり別の方向へと進んだ。
「私がここにいることは、先方には伏せておくように。挨拶も不要だ、騒ぎ立てられても困る」
「宜しいので?」
「構わぬ」
何か言いたげな老夫を躱して辿り着いた先は、本来ならば従者が泊まるような小部屋が並ぶ区画である。試しに近くの扉に手をかけると、来客に備えた換気のためか、幸いにも鍵はかかっていなかった。
「他に供回りの者はいないようだな。離宮の端だ、本棟から気づかれることもあるまい。明日の朝にはここを出る。部屋を借りるよ」
老夫は申し訳なさそうに、眉根をひそめて頭を下げた。
「……すぐに寝具をお持ちしますので」
「うん、よろしく頼む。今日はじいも忙しいのだろう? 携帯食を持っているので、あとは私に構わなくて良い」
横なぐりで激しく打ち付けていた雨は、少し小降りになったか。吹き放しの回廊から、ちらりと庭園の様子を窺ったアルフレッドは、恐縮しきりの老夫を帰して小部屋に入った。
雨水を含んで重たくなった外套を無造作に、椅子の背に脱ぎ掛ける。なかの衣服は思ったほど濡れていないことに安堵すると、アルフレッドは帯剣したまま、もう一つの椅子で足を組み微睡んだ。
雨音が聞こえなくなった。いつの間にか止んだのだろう。浮上する意識の中で、何かしかの気配が揺れる。
「じい、か」
若干の気だるさを引きずりながら、瞼を開けたアルフレッドは辺りを見渡す。灯りのない室内は既に薄暗く、見通しが悪かったが、老夫が訪ねた形跡はない。
……気のせいだったか。
何気なく立ち上がって部屋を出た。回廊に立つと、先程までの横なぐりの雨から打って変わり、茜色の夕空が庭園を染めていた。これなら明日の早朝に出立したとしても馬足に問題はないだろうと、アルフレッドが部屋に戻りかけた刹那の出来事である。
不可解な音はなく、ただ、ざわざわと庭園の植物だけが騒いでいる。一瞬だけ後背から圧倒的な光が射して、アルフレッドの影が回廊に伸びた。
「なん、だ……?」
今のは何だ。反射的に剣の柄に触れて振り返ったものの人っ子一人なく、変哲もない景色が広がるばかりである。ひとまず警戒を解いたアルフレッドは、回廊の下り口から庭に足を踏み入れた。
幼い頃、この離宮に連れられるたびに弟のマリユスと駆け回った懐かしい庭だ。護衛に付き従う大人たちの目を盗み、二人で発見した抜け道や近道も全て覚えている。アルフレッドは昔の感覚を頼りに道なき樹木の隙間を進み、切り揃えられた生垣を掻き分けた。
もう少しで、中央にある池泉まで突っ切れるだろうか。そう記憶を手繰ったところで、足が止まる。
誰かがいる。
木々の合間にうっすらと、人影が映った気がした。
アルフレッドは足音を殺して近くの樹幹に忍び寄り、その木陰に身を隠す。身構えながらも再び木立ちの間から覗いてしまったのは、ネヴェルネスでは見かけたことのない色合いを視覚的に捉えてしまったからだ。
池泉の側で足元の花を眺めて穏やかに微笑む令嬢の、何と清白で可憐な姿なのか。
完全に好奇心が勝った結果だった。思わず一歩、茂みから踏み出してしまったことを後悔するほどの衝撃がアルフレッドを襲う。
「え……?」
艶やかな輝きを放つ白銀色の髪の令嬢が、驚きに振り返って見開いたのは、濃い紫色の瞳である。この二つの色合いは大陸国間で唯一、原初の女神の血を引くカスタリア王族にしか発現しない。
そして、このネヴェルネスに存在するカスタリア王族は、たったの一人だ。
「……っ!」
初めて女性に興味を抱いた。心から純粋に美しい人だと目を奪われた。だがそれは。
……父のものだ。
見つめ合いながらも、アルフレッドの体から力が抜ける。そのせいもあり、どこからか漂う淡い花の香りがむせ返るほどの甘い匂いとなって、強烈にアルフレッドの鼻腔を刺激し始めたことに気づくのが遅れた。
目の前から、濃い瘴毒でも含んだかのような色の大気が、投網に似た形状に変えて、おどろおどろしく襲いかかってくる。獲物は明らかに己だと、咄嗟にアルフレッドは腰に帯びた剣の柄に手を回したが、間に合わない。
「くっ!」
瘴毒が体に纏いつき、ずんっ、と全身に重力がかかる。抵抗も虚しく、ざわざわと体の内部を何者かに隅々まで撫でられるような不快感に苛まれた。
蹂躙、といった言葉が正しいだろうか。それは長い時間のようで、ほんの一瞬だったのかもしれない。
苦し紛れに息を吐けば、全てを吸収してしまった後だ。何事もなかったかのような庭園の景色に、手足は毒に侵されたわけでもなく自由に動く。先程までの不愉快な感触とは裏腹に、不思議と心が凪いでいた。
あの姫は無事だろうか。動かしたアルフレッドの視線の先で、小刻みに震えているその顔色は青白い。いや、元来から色白なのだろう。細くしなやかな体つきに、整いすぎた容貌は誰よりも高貴で、儚げな雰囲気を醸し出している。
至高の存在を見せつけるかのように、今更ながら輪郭がはっきりと目に飛び込んできて、アルフレッドの心臓を大きく跳ねさせた。どくんどくんと、音が聞こえるほどの心拍数に比例して、うねった熱が体内を駆け上がる。
ざぁっ、と夕山風が吹いた。
巻き上がる落ち葉に視界を奪われたアルフレッドが、反射的に顔を腕で庇う。ようやく視界がひらけた時には、目の前にいたはずのカスタリア王族の姫は姿を消していた。
「……待て!」
どうして。どうしてこうなったのだろう。
離宮の建物のなかへディオーネは逃げる。側を離れたくないと哀訴するナイアを諭して王城に残し、警護のミラベルをも理由を付けて遠ざけたのは自分だ。
そして今まさに、皆が待機している正門に向かえば良いものを、混乱に次ぐ咄嗟の判断で、より近い貴賓室のほうへと足を運んでしまっている。当然ながら本棟には人の気配がない。ディオーネは自らの迂闊さを悔やんだ。
無人の回廊を追われるまま、できるだけ足早に奥へと進む。だが普段から走る機会がないディオーネと、執務の合間にも鍛錬を続けるアルフレッドでは、歩幅や体力に差がありすぎた。
貴賓室に辿り着いたディオーネが、肩で息を弾ませる。そこに余裕で追いついたアルフレッドは扉での攻防も難なく制して、押し入る形で部屋に侵入した。これ以上は逃げられないように、後ろ手で密かに扉の鍵を閉める。
対峙しながら後退するディオーネと、遠慮なく詰めるアルフレッドの距離が、じわり、またじわりと縮まっていく。
「どうか、お戻りください!」
「戻る? 何故?」
父のものだと諦めかけた存在が目の前にいて、小さく怯える様に、アルフレッドの庇護欲が掻き立てられる。自分のものにしたい、どうしても今すぐ手に入れたいと、生じる欲望は果てを知らない。
ようやく二人きりになれたのだ。何故、ここから引き返さなければならないのか。アルフレッドの目に浮かぶのは妖艶な熱だった。
「……わたくしの立場を、ご存じですよね」
どうにか理性を取り戻して貰おうと、きゅっ、と表情を引き締めたディオーネが、上目遣いに問いかける。アルフレッドは悠然と笑った。
「勿論。そういう貴女も、私のことが分かっているのでしょう?」
「……アルフレッド王太子殿下」
「結構」
もはや背徳感といった感情は、アルフレッドのなかに存在しない。一縷の望みをかけて、次の扉に駆け込もうとするディオーネの腕を取ると、迷わず自分の胸に引き寄せて抱きしめた。
何という芳しい香りだろうか。片手をディオーネの腰に回して体を支えると、もう片方の手でその美しい白銀色の髪を愛撫する。
「おやめ下さい……!」
腕のなかでバタバタと必死に抵抗する様も、アルフレッドにしてみたら全くの非力で、痛くも痒くもない。
……可愛い。愛おしい。手に入れたい。
「やめる気はない」
「わたくしは国王陛下の側室です。すぐにでも警護の者が戻って参ります」
「だが私は王太子だ。私の許可無く、誰もこの部屋には入ってこられない」
じわり、とディオーネの瞳に涙が溢れる。どうしよう。自分が発した媚香のせいで、将来有望なアルフレッドに瑕疵をつけてしまうのではないかと、そう考えただけでも体の震えが止まらなかった。
そして何より恐ろしいのは、ロドルフとベッティーナのどちらにも面影があるアルフレッドに対して、元からの好感度が高いという点だ。
迫る相手を嫌悪するならば、叫ぶなり叩くなり、もっと抵抗のやりようがあっただろうに、それらの手段が取れないでいることに、ディオーネ自身も戸惑いを隠しきれない。
「……ディオーネ」
ロドルフと似通った低い声で名前を囁かれて、ディオーネの潤んだ瞳が大きく開く。神秘的な紫色の瞳に吸い寄せられるように、耳元から目元へと唇をずらしたアルフレッドは、そのまま優しくディオーネに口付けた。
「やっ……」
啄むような接吻が続いて、頑なに唇を閉じたままのディオーネは呼吸が苦しい。アルフレッドが唇を離してやると、狙い通りにディオーネが口を開けて息を継いだ。そこにアルフレッドが、すかさず舌をねじ込む。
「んっ……!」
角度を変えて何度も何度も、互いの吐息が混ざり合う。貪るように激しく舌を絡み取られ、抵抗を続けるディオーネの両手からついに力が抜けた。
膝から崩れ落ちそうになるのを、アルフレッドが器用に支える。腰に回した腕はそのままに、膝を攫って横抱きに抱きかかえると、寝室がある次の間へディオーネを運んだ。
貴賓室の扉が開いたのは、夜明けも近い早朝である。暗がりの通路で片膝をついたミラベルを、帯剣したアルフレッドが一瞥する。
「近衛師団の第三分団長だな」
「その通りでございます。王太子殿下、姫様をどうなさったのですか」
「どう、とは? お前も理解しているのだろう、無粋なことを聞くな。……先程、眠りについたところだ、騒ぎ立てることは許さぬ」
改めて突きつけられた現実に、愕然としたミラベルは抗議の視線をアルフレッドに送った。何故このような無体なことを、と言いかけて、悔しげに口を結ぶ。
理由は分かっている。意図せずディオーネが飛ばした媚香を、アルフレッドはその体に受け入れてしまったのだ。ただ、その状況を作り上げてしまったのは、護衛を任されていた自分の落ち度に違いはない。
「父上に報告するのなら、すればいい。だが生半可な気持ちで、事に及んだわけではない。……私は本気だ」
「……わたくしが護るべき主は姫様でございます。お目覚めになったのち、どう姫様がご判断されるのか、それに従う所存です」
いずれ処罰される身であるのなら、出来うる限り、ディオーネの外聞を守ってみせようとミラベルは決意する。だがそれは決して、王太子の権力におもねってのことではないと、ぐっ、と力を込めた目が物語っている。
そうか、とだけ短く言い放ったアルフレッドは、ミラベルの横を素通りすると、薄暗い回廊へと姿を消した。
お読みいただき、ありがとうございました(*^^*)
次はミラベルから見た離宮での出来事、そして葛藤です。
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