プロローグ
気づけば、自分の生きる価値を見失っていた。
毎日会社と自宅を往復する時、乗っている電車の中で生きる意義を考えては自問自答する。ある程度思考がまとまり、何か結論が出ようとするたび、なんでこんなこと考えているのだろう、と酷い喪失感と不安に襲われる。それの繰り返し。
そんな他愛のないことを続け、俺はもう肥満体型の28歳。しかも独り身。結婚は今世の内はできないだろうと思っている。
学生時代はこういった不安なんてものはなかった。
部活動では、俺の好きだったサッカーをしていた。当時好きだった子に振り向いてもらえるように勉強したりファッションをを研究したりと学校生活はかなり充実していた。
顔は並だが、サッカー部というだけで、モテる時代だったからきっと恋は実ると思っていた。ま、結局恋は成就しなかったけど。
だけど勉強を頑張った甲斐があってか、そこそこの大学に入ることはできた。
今思えば、そこが人生のピークだったのかもしれない。
なぜなら、俺は大学生活で堕落を覚えてしまったからだ。
興味があると思っていた学科の行う授業があまり楽しいと感じなかったなかったことや、周りの環境に親しいと言える間柄の人間ができなかったこともあり、気づけば大学に行かなくなっていた。いわゆる鬱だったのかもしれない。
そんな俺を、父は追い討ちをかけるように激しく罵り、叱責した。俺は、ただひたすらに謝ることしかできなかった。
最終的には3回留年し、俺は社会に出ることになるが、そこそこの大学を出ているとは言え、高校での部活動以外特に何もしていなかった俺が、まともな企業に就職できるわけもなく、たまたま内定をもらえた誰も名前が知らないような企業に就職することになった。
そして、そのまま特に大きな感情の起伏もなく、与えられた仕事を適当にこなし続け、今に至る。
時計の針はカチ、カチ、と永続的に音を鳴らし続け、8時になった。陽が落ちるのが遅い夏だが、流石に辺りには闇が広がっていた。
いつもはまだ職場にいるが最近、企業が労基から警告を出されたこともあり、帰りが早くなっていたのだ。同僚はこのことを飲みの席で、やっと趣味に時間をかけれる、と狂喜乱舞していたのだが、俺は正直そこまで、嬉しくなかった。
なぜなら、俺の趣味には趣味と呼べるものがないからだ。
8時を過ぎた頃、俺はスーパーで買った惣菜をつまみながら缶ビールを開ける。大して面白くもないバラエティ番組をつけて時間を潰していた。
夜が深くなり、適当に見切りをつけて寝た。布団をガサゴソと動かしながら。
6時になり、ジリリリ!と甲高い音が部屋に響き渡る。俺は熊のようにのっそりと起き上がり時計を止めた。それと同時に、布団の中から固まった石のようなティッシュを取り、ゴミ箱に捨てる。
その後小さい部屋の中、俺は最小限の動きでトーストを焼き、インスタントのコーヒを淹れる。
俺は、いまだに昨晩からの酔いが残っていたので、一週間前に、新しい趣味づくりの一環として買った旅の本、いわゆる旅行記を読み、実際にパリやマドリード、コペンハーゲンなどに行った気持ちになった。
「スペインやフランス…とりあえずヨーロッパに行ってみたいな。金、使わないともったいないし、普段使わないから貯金ばっかり溜まるし。ま、奨学金早めに返すのもいいけど。」
俺は独り言を呟く。
生きる価値が見つからないと、何のために生きているのかを自問自答しているとはいえ、何もしないというのはむず痒い気持ちになるので、いつか旅行にでも行ければいいな、と妄想している。
気づけばもういい時間になっていたので、そそくさと、でっぷりと出た腹を押し込みながらスーツを着て、自分の名前である“藤堂 康弘“と書かれた名刺を財布に入れ、扉を開けて会社へ向かおうとする。賃貸アパートの敷地を跨いだ。
その瞬間だったーー
勢いよく俺に向かってトラックが突っ込んできた。
俺は腰を抜かし、無様に、大きく後ろに尻餅をついた。そのおかげで、引かれずに済んだ。頭が真っ白になり、冷や汗が止まらない。異常に口が乾く。
俺は5分ほど動けなくなった。
ハッと我に帰り、急いで駅に向かった。荒い呼吸で、できる限り全速力で走った。
ICカードを改札で通し、駅のホームまで走った。電車がちょうどよく着き、結局無事に乗ることができた。
満員でぎゅうぎゅう詰めとは言え、片手でつり革を掴めたことで一段落ついた。俺は今日も自問自答するのかと思った。しかし、トラックに轢かれそうだったこともあり、まだ内心で恐怖が潜んでいた。
俺は人で押しつぶされそうになりながら、上をじっと見ていた。今日しなければいけないことを、まとまらない頭の中で、じっくりと計画を立てる。行う業務が予想以上に多いことに気づき、小さくため息をついた。
その瞬間だった。
今朝6時に聞いた目覚まし時計の音よりも遥かにうるさい金切音が電車内を響き渡らせ、車内は激しく揺れる。
それに伴い周りの乗客も悲鳴をあげる。刹那、俺は頭を強く壁に打ち、意識は深く沈んで、常闇に葬られた。