第三十二話『魔獣の行動は不可解です』
左頬は痛いという感覚を通り越してもう無くなってしまったような――そんな感覚も通り越して、一周回ってファントムペインのほっぺた版のような苦痛を感じる。だけど、痛みを感じるってことは。
「生きてるっ!」
「ビンタで殺せたら苦労しないわよっ!」
「何に?」なんて質問は恐らく返ってくる解答が怖いだけだからしない。
そんな一生にするかしないかの会話をしながら歩き出す。運がいいのか悪いのか。
地面が、だんだん柔らかい土からごつごつした石ころや岩に変わっていく。道の傾斜も急になっていく。
ここで俺が思うことはたった一つ。装備が邪魔すぎる。
「なんだかハイキングって感じね」
こいつの体はなんて軽そうなんだ。暑いので兜を脱いであの鞄に入れつつ、反論する。
「俺は今十三階段を登ってる気でいるけどな」
「上手いこと言わなくてもいいの、ニーヴェなんだから」
表現くらい自由にさせてください。
そんなことを話しつつ約一時間が経ったろうか。疲れたので一度立ち止まって、眼下に広がる景色に目をやると、あの森が広がっていた。木々の一つひとつが判別できないくらいに細かく見える。さらに遠くには、小さな小さなナリアトの街が見える。
「綺麗……!」
「だな」
こんな世界に、俺たちは生きているんだ。
「って、感傷に浸ってる場合じゃなかった! 最終回かっ! ちゃんとエリュトロン倒すまでは俺たちの物語は終わらないぜっ!」
「……誰に言ってんの?」
「すまん、なんか使命感に駆られた」
景色を見る目を閉じ、前に向き直って、ゆっくりと目を開ける。ターニュの町が雲の間から小さく見える。
「……行こう」
正直、疲労と不安で足は重い。けれど、行かなきゃならないんだ。
一歩、また一歩と、少しずつではあるけれどターニュに近づく。
遠くの空には、恐怖の魔獣エルレクドが群れをなして飛んでいるが、こちらに向かってくることはないだろう……フラグとかじゃなくて。
――ポン。
空を見ながら歩いていたので、それが脚に当たることを回避することができなかった。
俺の膝の丈ほどもない、小さな小さな、人間の形というよりかは、縫いぐるみのように四肢の関節が省略された――魔導士。うん、魔導士だと信じたい。
だってアズと同じような帽子被ってるし、俺と同じようなローブ着てるし。まぁ、色は紫でサイズはミニチュアだけど。
そして顔はおじいちゃんである。
「おい、そこのチビ! ちゃんと前を見ろ! 真っ白いローブなんか着やがって!」
後半からわかる通り、このセリフは俺じゃなくてミニチュア魔導士コスプレイヤーのものである。
「立場わきまえろや! どー考えてもお前のがチビだろ! そんでお前死ぬほど声高ぇな!」
最初、耳が千切れるかと思った。
「可愛い……!」
なぁアズ、顔面クソジジイだぞ? まだあのサルが牙剥いた時のが可愛かったぞ?
「可愛くねぇわ! ワシボクチンへの侮辱かお主?!」
え? え、え? 今なんて?
「リピートアフターミープリーズ」
「は? 『侮辱』もわからんのかお主?」
「わかるわハゲ! 侮辱すんな! ほら使えた!」
こいつハゲてないけど。
「じゃあどこをもう一度言えばいいんじゃ? ワシボクチンの予想が外れるとは思ってもみなかったぞ」
「それだよボケジジイ。自分の一人称がオンリーワンなの少なくとも五十年前には気づいとけ」
なんだよ「ワシボクチン」って。魔獣にすらそんなクソダサい名前付けられねぇぞ。名前ですらだぞ?!
「むむむ……! ワシボクチンのことをこれほどまで辱めるとは……ッ! 一度罰を受けねば反省しないようじゃな?」
「お前がその一人称改善するまでは俺は死んでも反省しねぇよ」
「貴様ァ! もうよい! お前にはこうじゃ! ワシボクチンの魔力を全て注いでくれるわ!」
なんかヤバそう。めちゃくちゃ長い詠唱してるし。
「アズ、逃げよう! ターニュまで走れるか?」
「うん、わかっ」
「逃がすか! ワシボクチンの滑舌は恐ろしいほど良いと評判じゃ!」
どうでもいい情報と共に、ジジイの杖がこちらに向くのがわかる。と同時に、体の中から何かを抜かれたような、気持ち悪い感覚を覚える。
「うっ、おえぇっ」
「くっくっく、ワシボクチンがお前にかけたのは、『魔法使えない魔法』! せいぜいノーマジックライフを満喫するんだな!」
ジジイは本当に魔力を使い切ったのか、腹ばいに倒れている。
魔法というものは、詠唱時に効力の続く時間を設定すると、たとえ魔法をかけた本人が途中で死んでもその時間が経つまでは消えないという。
更には、複雑に編み込まれた魔法は、魔法をかけた本人、または一万年に一人の逸材にしか解けないという。
その後、ジジイは天へ旅立った。そう、旅立ったのだ。ヤツはノーマジックライフを満喫しろって言ったよな。俺、死ぬまでずっとこの状況?
「ああっ、おじいちゃん!」
「いやそうじゃねぇだろ。今めちゃくちゃ無駄なことしたぞあいつ! 俺、白魔法すらないのにエリュトロン倒せると思うか?」
「あっても無理だと思う」
「あっても無理だね、そうだね……」
自然と涙が両眼を満たす。
「それ五十年前に気づいとこうね」
「なんなのアズさん?! そんなにジジイが死んだことに腹立ててんの?! てか俺の場合、五十年前とか生まれてねぇから!」
ずっと前から一緒に暮らしてた俺よりさっき初めて会ったジジイ魔獣の方が大事とか悲しすぎる。
「クソ! 死ね! 死んじまえクソジジイ!」
「もう亡くなってる」
そうじゃん! 既にご臨終じゃん!
「解除どうすんの……? 一万年に一人の逸材いなきゃもう死亡よ?」
「一応ターニュまで行ってみたら? なんだか山の上だから長老さんとかいて解除してもらえるかも」
「ま、そんな確率無いに等しいけど行ってみるか。ここで引き返すのは絶対嫌だし」
さて、どうしたものか……最悪剣だけで戦うとすれば、勝ち目は髪の毛にもし髪の毛が生えたとしたらその太さほどしかない。
と、頭上が少し暗くなる。雲……? いや、今日は快晴のはず。そう思って上を見ると、口が塞がらなくなった。
鮮烈な赤色の鱗に、巨大かつしなやかな体躯。羽撃き一つで街から街へと行くことができると言われるほどにしっかりした翼。その長い尾は、生まれてからの数百万年を象徴するかのようだ。
「ちょ、ちょ、ちょ」
「ねぇニーヴェ、あれって……」
山登りの疲労くらいターニュで回復させてくれよ。ここまで続いてた幸運が、ほんの二つの不運でひっくり返された。
その巨体は俺たちの前に、ゆっくりと着地する。砂埃が舞い、俺は目を細める。
「あんた、戦士か?」
赤空龍・エリュトロンが、全くもって最悪のタイミングでやってきた。喋んのかよ。
「ひ、人違いです」
俺がこう言う時はだいたい俺が該当者の時。
「ならばその胸当てとレギンスと剣は何なんだ?」
「あの、ほら! 俺白魔導士だから!」
ローブについてるフードを被る。
「ね?」
言っておいてなんだけど、何をもって「ね?」なんだよっていうセルフツッコミをしたい。
「白魔導士も戦士だと思うんだが」
あれ? 俺やっちった?
「あは、あはは、でもね、俺さっき魔法使えなくされたんだよね。だからやっぱり白魔導士じゃなくて普通の人! 一般市民! うん!」
「なるほど、ワシボクチンの仕業か」
あいつ一人称イコール自分の名前やったんかい。




