菜花さん。
よかったのだ。
あれで。
だって、自分はそんなに読みたい本でもなかったから。
ただ、目に入ったから手に取ってみたいと思っただけだ。
あの人は、本当に嬉しそうに本を借りていったのだ。
なんだか、申し訳のない気持ちでいっぱいになった。
すると、ふと肩を掴まれた。
はっとして振り返ると、そこには大橋が本を抱えて立っていた。
「なにしてんの?かんとく?珍しく本借りる気?」
不審げな視線にどう返答しようか迷っていると、「ご予約の方どうぞ」と男の声が響いた。
「予約?」
大橋は更に不審そう。
だが、小針は咳払いをしてカウンターに歩み寄った。
男は頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありませんでした」
「い、いえ。別に」
「それではご予約の手続きをとらせていただきますので、カードをお願いします」
「か、カード?」
目を瞬かせると、隣に立っている大橋は小針の横腹を肘で突いた。
「普通、貸し出しカードってあるでしょうが」
「は?そんなの知ってるし」
「嘘だ〜。知らない顔じゃん。ってか、図書館のカードもないなんて、カッコわる」
「うるさいな」
言い合いになりかけたその時、男の隣から中年の女性が顔を出す。
「こらこら。大橋くん。静かにね」
「あ、志田さん。すみません。こんにちは」
「こんにちは。また来たんだね」
彼女は、男と同じように緑の名札をぶら下げている。
それから、男を見る。
「菜花くん、何事なの?静かにさせないと。高校生はこれだからね」
彼女は顔をしかめる。
小針は目を輝かせた。
そうか。
男の名前は『菜花』というのか。
可愛らしい名前だと思った。
「すみません。志田さん。あの。借りたい本を譲ってくれたんです」
菜花はそう言うと、小針を見る。
「え?読みたい本なんてあるの?」
大橋は目を丸くするが、最後まで言い終わらないうちに彼の口を塞ぐ。
「え、ええ。それで予約処理をしてくれるというので……でも。すみません。おれ、図書館は……いえ。ここの図書館は初めてなものですから。カードがないんですよ」
志田は、菜花と小針を交互に見つめてから苦笑する。
「じゃあ、菜花くん。新規登録やってみようか」
「は、はい」
「やってみようかって……実験ですか」
小針は思わず突っ込むが、志田はしらっとしている。
「うるさい高校生くん。ここの図書館は初めてのようだから教えて差し上げますけど、図書館ではお静かにね?」
彼女は愛嬌たっぷりに笑顔を見せる。
志田は肩下まで黒上をくるりんと巻いてふくよかな女性だった。
年の頃は40くらいだろうか?
左の薬指に光る指輪は既婚であることを示している。
そんな彼女に押されて、菜花はおろおろと紙を取り出す。
「あの、こちら、こちらに必要事項を記載していただけますか」
「あ、はい」
「おいおい。緊張しすぎだろう?」
志田はツッコミを入れた。
「だって……初めてのお客様です……」
菜花は嬉しそうに頬を染める。
そんな様子に、小針も赤面した。
「初めてのお客様」なんて言われたら、ドキドキして心臓が口から飛び出しそうだ。
「じゃあ、こっちは菜花くんに任せてと。大橋くんのは私が処理してあげましょうか」
「お願いします」
「そうそう、面白い本入ったんだけど、どうする?」
大橋は目を輝かせる。
「ぜひ、お願いします」
「そう言うと思って、特別に取り置きしておいてあげたんだから」
大橋は完全なる常連らしい。
小針はそんな二人の会話を横目に記載事項を埋めていく。
なんだか緊張して字も下手だ。
いや、そもそもが下手なのだ。
大橋たちには「ミミズ文字」と呼ばれているが、どうにもこうにも下手なものは仕方がない。
本当に恥ずかしい。
こんなことなら、字の練習をしておけばよかった……。
そう思うが、菜花は笑うことなく、じっとその用紙を注視しているだけだ。
余計に緊張する。
そんなプレッシャーの中、やっとの思いで、氏名や住所、電話番号などの基本情報を記載し終わる。
「ありがとうございます」
いつもありがとうございます。