*
日本の夏は儚さで溢れている。たとえば線香花火。この国では夏と言えば花火を思い浮かべるひとが多くいて、中でも線香花火はいっとう儚い。
あの小さな火花が精一杯輝き、やがてふっと闇へ落ちていくさまは何とも言えない感慨を引き起こす。ああいうものを日本人は〝侘び寂び〟と称するのだろう。
それから窓の外でしきりに鳴いているアブラゼミ。彼らは幼虫の姿で何年も土の中を這いずり回ったあと、やっとの思いで翅を得て、陽の下での自由を謳歌する。
されど寿命はたったの一週間。彼らは子孫を遺すためにいのちを燃やして鳴き続け、使命をまっとうするや力尽き、短い生を終えるのだ。
まるでほんの束の間輝いて消える線香花火。儚いものはいつの世も美しい。
僕は今日もセーフハウスのアトリエでせっせと絵を描いていた。
イーゼルに立てかけた真っ白なカンバスを青色で埋め尽くしていく。
パレットに載っている青は海の青。昨年の夏、海で亡くなったダイバーからもらった魂のかけらを膠液で溶いたものだ。
ひたすら同じ青を塗りながら、気まぐれに濃淡をつけていく。するとまっさらだったカンバスに次第に夜が降りてきて、チラチラと星が瞬き出した。どうせ死神の時間は無限大だ。だから面倒がらずにひとつずつ夜空に星を描いていく。
極細の絵筆の先端で繰り返し点を打つのだ。ときに繊細に、ときに大胆に。
「天の川かい?」
やがてカンバスが無数の星で埋め尽くされた頃。満足げにそれを眺める僕の背後からからかうような声が聞こえた。今、この英国風セーフハウスにいるのは僕だけだ。だから突然の闖入者に一瞬驚き──されどすぐに声の正体に思い当たった。
「おかえり、チャールズ。今回は長旅だったね」
誰の声だか分かってしまえば別段取り乱すことでもない。
僕は右手にパレット、左手に筆、そしてドレスシャツの上には作業用のエプロンという格好で無防備にそう答えた。振り向いた先、開け放たれたままの入り口にちょこんと座った客人は黒猫だ。彼の名前はチャールズ。
見た目は猫だが僕が英国にいた頃からの友人であり、優秀な使い魔でもある。
早い話が僕の補佐役だ。僕が死神として目覚めたとき、上司から最初に与えられたのが彼だった。彼はちょっとばかり気取り屋で、なにかにつけて皮肉を言う欠点があるけれど、そこさえ目を瞑れば頼りになるいい相棒だ。
僕がまだ駆け出しの死神だった頃、チャールズはことあるごとに呆れながらもあれこれと世話を焼いてくれた。死神のABCは彼から学んだと言ってもいい。
そして今も虫の知らせを届けたり居残り人を探してくれたりと、死神業務には欠かせないサポートに徹してくれている。
もしベテラン使い魔という言葉があるとしたら、まさしく彼がそうだろう。
「ああ。まったくこの時期は毎日がパンケーキ・デイだよ。熱中症に台風に水難事故……とにかくイベントが多すぎる。日本じゃこういうとき〝猫の手も借りたい〟と言うらしいけれどね。猫の姿を借りている僕からすれば犬の手も借りたいよ。なんならネズミの手でもいい」
「まあ、気持ちは分かるけど、これが僕らの仕事だ、仕方ない。今日の午後は非番だからお互いゆっくりしようじゃないか。ドールたちにご馳走を用意させるよ」
「ぜひそうしてくれると嬉しいね。腹ぺこで死にそうだ」
もう死んでいるくせにずいぶん贅沢だな、という言葉を飲み込んで、僕はパチンと指を鳴らした。するとアトリエの隅で絵筆を洗っていたビスクドールたちがキッチンへ向けて行進を開始する。
隊列を組んで進むのはケピ帽を被った赤服の兵隊。薄桃色のエプロンドレスを着込んだメイドたち。中にはヴィクトリア王朝期の貴族令嬢みたいな少女もいた。
彼らは我が家の家事手伝いだ。僕が集めた魂のかけらを人形に埋め込んで一時的に使役しているだけの存在だけど、これがなかなか役に立つ。
僕が絵描きに没頭している間にも彼らは気をきかせて紅茶を淹れたり、家の中を掃除したり、チャールズのブラッシングをしたりしてくれるから。言葉を話せないという難点はあれど、お互い身振り手振りである程度の意思疎通は図れるし。
「で? 君は君の使い魔が炎天下を走り回っている間、ひと足先に休日を楽しんでいたというわけだ。相変わらずいいご身分だね。身の回りのことは全部ドールに任せて、自分は優雅に宇宙旅行かい?」
「日本には七夕伝説と呼ばれるものがあると聞いてね。ほら、ついこの間、どこへ行っても笹の葉が飾られている奇妙な時期があったろう? あれは天の川に願いをかける日本の風習らしいんだ。いや、もとは中国の神事だったかな?」
「それくらいは僕も知ってるよ。天の川を挟んで輝くこと座α星とわし座α星をロミオとジュリエットに見立てた夢見がちな話だろう? 確か日本じゃロミオは〝ヒコボシ〟、ジュリエットは〝オリヒメ〟とか呼ばれるんだったかな」
「シェイクスピアの戯曲ほど悲劇的ではないけれどね。引き裂かれた恋人たちの一年に一度の逢瀬を願う日なんて、素敵だと思わないかい? もし織姫と彦星が実在するとしたら、彼らの魂は何色をしているんだろう」
「君の頭の中にはいつも虹の谷が横たわっているようだね」
やれやれと言いたげに嘆息しながら、チャールズは尻尾を立てて僕の絵に歩み寄ってきた。そうしてカンバスの中の天の川を眺めたかと思えばフンッと軽く鼻で笑い、得意気に踵を返す。
「まあ、相変わらずよく描けてはいるけれど、やはり君の絵にはなにか足りないな。絵の具の材料にしている魂の輝きに頼りすぎているんだよ。美しさと精巧さに関して言えば確かに評価に値する。だけどこの絵にあるのはそれだけだ」
「君の言いたいことは分かっているよ。でもこればかりはどうしようもない。僕には魂がないのだから。魂がないということは、感情の受け皿である〝心〟が存在しないということだ。いかなる喜びも悲しみもただ僕の中を通りすぎていくだけで、あとにはなにも残らない」
死神というのは総じてそういうものだ。心のゆりかごである魂がないために、起こった出来事や学習した知識等の事務的記憶は残っても、感情の記憶は残らない。
ひと晩ぐっすり眠ってしまえば、眠る前まで覚えていた感情はすべて夢のかなた。これは死者の魂が持つ記憶の奔流に揺さぶられないための機能的措置だ。
僕らという名の黄泉比良坂を通って冥府へ至る、幾人もの死者の魂。
死神とはいわばあれらの濾過装置。呑み込んだ魂から不純物を取り除き、持ち主の本質だけを残して冥府へと送り届ける。そのときに見るのがいわゆる〝走馬灯〟──魂の持ち主が死んだ瞬間から、この世に生まれ落ちた日までの記憶の巻き戻し。そこで見たものすべてを背負い込んでいたのでは死神たちは早晩潰れてしまう。だから僕らは眠ることであらゆる感情の記憶を手放すようにつくられていた。
魂を持たぬからこそ務まる職業──それが死神。
おかげで僕らはからっぽだ。だからこそこんなにも人間が持つ魂の輝きに魅せられる。色とりどりの魂のかけらを全部小瓶に閉じ込めているのは、あれらを美しいと感じたことくらいはせめて覚えていたいから。僕が絵を描くのも、たぶん同じ理由だ。顧みたアトリエの書棚では、今日も色とりどりの魂が綺羅星のごとく瞬いている。さながらここは小さな天の川。もしやチャールズはそこまで考えて僕の道楽を〝宇宙旅行〟とたとえたのだろうか。だとしたら彼は皮肉の天才だ。
「だけど僕は、あの桜の絵は好きだったな」
「え?」
「今年の春、君が取り憑かれたように描いていた桜の絵だよ。何日も仕事をほっぽりだして、とても大きなカンバスに描き殴っていたじゃないか。僕はああいう絵が見たいね」
「確かにあの絵はこれまで僕が描いた絵の中でも一番の出来だったけれど……人間の中にはただの絵の具で、あれより美しいものを描くひとがたくさんいるよ」
「君は変なところで謙虚だね。いや、鈍感と言うべきか」
「どういう意味だい?」
「つまり、僕が見たいのはね──」
呆れ顔のチャールズが僕にまたお小言をくれようとしたときだった。
突然キッチンへ向かったはずのドールがまろぶように駆けてきて、ぴょんぴょんとなにか訴える。どうしたのかと目をやれば、メイド服を着た彼女の腕の中で聞き慣れたマザーグースが鳴っていた。
『やあ、君。非番のところすまないのだが』
一抹の予感とともにスマートフォンを受け取った途端、受話器の向こうから聞こえてきたのはいやに朗らかな上司の声だった。
『ちょっと人手が足りなくなってね、応援を要請したいんだ。場所は先ほどメールしておいた。もちろん代休は後日取得してくれて構わない──だから四の五の言わずに、今すぐ急行してくれたまえ』