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その日、天使サリエルはひとりの死神をとある邸宅へ導いた。
目覚めたばかりの死神はひどくからっぽでまっさらで、身につけている黒いベストと白いシャツ以外、名前も記憶も魂さえも持たなかった。
ただ、幸いなことに彼は目玉を持っている。だから自力で歩けるというのに、何故だか彼は冥府の門をくぐる直前で目隠しをされ、今、天使に手を引かれていた。
「あの、天使サリエル。僕はいつまで目隠しをしていればよいのでしょうか?」
まるで底のない穴を泳ぐような感覚に、生まれてはじめての戸惑いを覚えた彼は思わず尋ねる。天使に意見するなんて不遜だとは知りつつも、このままではどうにも落ち着かない。ところが天使サリエルは絵の具のにおいの真ん中で立ち止まり、静かに微笑うばかりだった。実のところ目が見えていない死神には、たった今自分の手を引いているのが本当に天使なのかどうかも分からない。
「大丈夫。あと少しの辛抱ですよ」
男性とも女性ともつかない声がやわらかく鼓膜を震わせた。ほどなく音の反響の仕方が変わって、死神は己の靴が硬い床を踏み締めたのを感じ取る。
ガイ・フォークス・デイはとっくに終わったはずなのに、どこからともなくパッと花火の上がる音が聞こえた気がして、唐突な幻聴は彼の心に細波を生んだ。瞬間、なにかの映像の断片がまぶたの裏をよぎりかけ、しかしそれを遮る声がある。
「いらっしゃい」
知らない男の声だった。淡いおどろきとともに立ち止まれば、右手を預けていたはずの手袋の感触がするりと逃げる。
おかげで死神は唐突にひと雫の光もない闇の中で立ち尽くす羽目になった。
口を噤んで次なる沙汰を待ってみるも、沈黙が降り積もるばかりで変化がない。
「天使サリエル?」
虚空へ向けて放った呼びかけに、天使はもう答えなかった。
「僕はサリエルではないよ」
代わりに返ってきたのは、先ほど闇を震わせたのと同じ男の声だった。
「……あなたは?」
「そうだね。今度もチャールズと名乗っておこうか」
堂々と偽名であることを宣言しながら、声の主はけろりと答えた。
ほんの一瞬、その声に聞き覚えがあるような気がしたものの、死神となった彼の感情や記憶の揺らぎはすべて生まれた傍から目の前の闇に食べられてしまう。
「新米くん。今日からここは君の家だ。そして僕は君の使い魔。君を一人前の死神に育て、あの世とこの世の調律を託す者……なんて言えたらかっこいいんだけど、実のところはただの物好きさ。こんな窮屈な肉体とはさっさとおさらばしたいと思ってたはずなのに、どうしてこうなっちゃうんだか。でもきっと、今の僕でもフランケンシュタインよりはしあわせだろうね」
なんだか満足げに彼は言い、やがてどこかから降り立った。
響いた足音の異様な軽さに、死神は耳をそばだてる。
「ところで、君。なんで目隠しなんかしてるのさ。今の君は五体満足、至って健康で業務にもまったく支障はないと聞いてたんだけど?」
「さあ……僕も理由を知りたいよ。ただ先代の天使サリエルが、僕を送り出すときはこうするようおっしゃっていたと聞いたけど」
「ははあ、なるほど。つまり僕以上の物好きがいたわけだ。あのひとも今頃は現世に降りてるはずだけど、生まれ変わった拍子にそういう性癖が芽生えていないことを祈るばかりだね」
チャールズの声は、今度はずっと低い位置から聞こえた。けれどからっぽの死神は返すべき言葉の持ち合わせがなく、行儀のいい人形のように佇むばかり。
「まあ、とにかく。今日は記念すべき始まりの日だ。始まりがあるということは、いつか終わりがやってくるということでもあるけれど、だからと言って嘆くことはない。だってひとも使い魔も死神も、みんな生まれ落ちた瞬間から終わりに向かって歩いているんだ。そう思えば少しは寂しさもまぎれるだろう? 道が違えど、歩幅が違えど、僕らはやがて狭き門の向こうで巡り会うのだから」
ところが刹那、人形の脳裏をなにかがよぎった。
それは先ほど彼の心に細波を起こした、七色の断片に似ていた。
だから死神は顔を上げ、目隠しの向こうの彼に尋ねてみる。
「……僕らの上司は不条理を好むくせに、変なところで公平だから?」
死神の問いかけを聞いたチャールズは、急に黙って見えなくなった。
かと思えば彼は唐突に笑い出し、再び闇より現れる。
「ああ、そうとも。よく分かっているじゃないか。ではもう一度始めようか、君と僕とのセンチメンタルジャーニーを」
「その前に、チャールズ。そろそろ目隠しをはずしても構わないかな?」
「ああ、そうだった。だけどはずす前にひとつだけ質問に答えてくれるかい?」
「なにかな?」
ずっと足もとを移動していたチャールズの声がついに止まった。恐らく彼は今、正面から死神と向き合っているのだろう。黒い尻尾が白い床を撫でる音がする。
「あのさ。君は目覚めてから一度でも鏡を見たことがある?」
「いや……そう言えばまだ一度もないよ。僕の肉体は若い英国人の遺体だと聞いているけれど」
「そうか。それはいい。じゃあ早速目隠しをはずしてごらんよ、赤眼」
何故だかひどくなつかしい名で呼ばれた気がした。
チャールズに導かれるままに、死神はそっと頭の後ろの結び目を解く。
黒い目隠しが床に落ち、彼のまぶたが開かれた。
次に死神が見たものは、星の数ほどの色彩が飛び散った白い壁と白い床。
棚いっぱいのきらめき。
一匹の黒猫。
そして彼が背にした落日の──
「ああ、やっぱりね。何度見てもその目は君にお似合いだよ。そう、とてもお似合いだ」
なつかしむような黒猫の声を聞きながら、死神は自らの目もとへ手をやった。
ああ、まぶしい。目がくらみそうだ。
だって、世界はこんなにも色で溢れている。
「さあ、早く鏡を覗いてごらん。果たして君はその赤を、何の赤だと呼ぶのだろうね」
(了)
【参考・引用文献】
『アンナ・カレーニナ』レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ著、木村浩訳、新潮社、1998年
『赤毛のアン』ルーシー・モード・モンゴメリ著、松本侑子訳、集英社、2000年
『赤毛のアン』ルーシー・モード・モンゴメリ著、村岡花子訳、新潮社、2008年
『シェイクスピア全集』ウィリアム・シェイクスピア著、小田島雄志訳、白水社、1983年
『Gospel of John』Bible Society、2015年
『口語訳聖書』日本聖書協会、1955年
『リビングバイブル』いのちのことば社、2016年
『幸福の王子』オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド著、結城浩訳、2000年
【参考サイト】
http://www.milord-club.com/index.htm
https://eigokotowaza.net/
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=190872&page=1&id=40247403




