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嘘も百回言えば真実になる、という言葉がある。それを正とするならば、僕の重ねた小さな嘘はいつの間にか記念すべき百回目の佳節を迎えていたらしい。
「はじめまして、卯野浜世愛です。よろしくお願いします」
と彼女に折り目正しく頭を下げられたとき、僕はどうしてあの嘘を九十九回目で止めておかなかったのかと後悔した。だって僕はあくまで死神で、英語の教師のまねごとなんて未だかつてしたことがなかったから。
「母の波絵です。この度は父が無理を言って申し訳ありません。どうぞよろしくお願いします」
ついには隣に座った婦人にまでそう言って頭を下げられてしまい、僕はどうやら自分のついた嘘からは逃れられないらしいと観念した。
逃げるもなにも栄一さんの娘さん夫妻が暮らすお宅の玄関をくぐった時点で、逃げ道なんてものはとっくに閉ざされていたのだけれど。
そこは市の中心街からほんのわずか東へ逸れた閑静な住宅街。栄一さんの実の娘、卯野浜波絵さんがご主人とお子さんの三人で暮らす一軒家は、そんな住宅街の一角にあった。広い前庭と切妻屋根が特徴的な北欧風の瀟洒な家だ。
建てられてからまだあまり時間は経っていないようで、洒落たアイアンワークの小窓がついた玄関をくぐると、さわやかな木材の香りが鼻孔をくすぐった。
内装にも細かな気配りとこだわりが垣間見えて、さすがは栄一さんのご息女のお宅だと内心舌を巻いたほどだ。
『ギャラリー・マキノ』で唐突に家庭教師の依頼を受けた翌週。
栄一さんの前で一度は引き受ける意思を見せてしまった手前、引くに引けなくなった僕は仕方なく教師に扮して教えられた住所を訪問した。
教師に扮して、とは言っても格好はいつものドレスシャツと黒いベストのまま。
手荷物はなにを持参すればよいやらよく分からなかったので、古本屋で見つけた古い和英辞書を一冊と気に入りの万年筆、そしていつもふところに入れている手帳だけだ。わざわざ使い込まれた辞書を買ったのは、余所でも家庭教師をしているという設定なのに、ピカピカの辞書なんて持っていたら怪しまれそうな気がしたから。
けれど僕はいざ栄一さんのお孫さんと対面してみて、そんな偽装工作はまったくの無意味だったことに気づかされた。
卯野浜世愛、十四歳。中学二年生。そう自己紹介してくれた彼女は飴色のテーブルの向こうで母親に寄り添われたまま目を開けない。
つまり彼女は目が見えないのだ。波絵さんの話によれば世愛は先天性の全盲で、今はこの家からほど近い視覚支援学校に通っているのだという。
ところがふたりの挨拶を受けて僕が口を開こうとした矢先、激しい鳴き声に出鼻を挫かれた。ふと目をやればそこにはワックスのきいたフローリングの上で四つ足を突っ張り、威嚇の感情をあらわにした柴犬がいる。
くるりと巻かれた尻尾が特徴的な赤毛の成犬だった。首には赤い首輪がついていて、整った毛並みや汚れていない四肢の様子から室内飼いされているのだろうとひと目で分かる。彼──または彼女──は自分の縄張りに突如現れた冥府の使いが許せないのか、先ほどからことあるごとに僕を睨んでは吠え立てた。
「こら、ベッキー! あなた今日はどうしたの? さっきからずっと興奮しっぱなしで……すみません、先生。いつもはおとなしくてあまり吠えたりしない子なんですけど」
「いえ、構いませんよ。犬は鼻のきく生き物ですからね。僕も猫を飼っているので、もしかするとそのにおいに反応しているのかもしれません」
「まあ、そうだったんですか。本当にすみません。今、外に出してきますので……少しお待ちくださいね」
黒くてまっすぐなセミロングの髪を揺らした波絵さんは、何度も謝りながらベッキーと呼んだ犬を抱えてリビングを出ていった。とても控えめでおとなしそうな奥さんだけれど、さすがは一児の母と言うべきか、廊下に摘み出されてなお吠え続けるベッキーを毅然と叱責している気配が伝わってくる。隅々まで手入れの行き届いた家の様子を見ても分かるとおり、しっかり者の奥さんなのだろう。面立ちはあまり栄一さんに似ていないが、ちょっとした仕草や表情に父親の血を感じる。
色とりどりの花が咲き乱れる庭も見事だったし、家のあちこちに飾られている小物や絵画のセンスもいい。彼女の研ぎ澄まされた美的感覚もきっと栄一さん譲りなのだろうなと思いながら、僕はテーブルに乗った湯飲みへ手をかけた。
家の内装はどう見ても洋風なのに出てきたお茶は日本茶。しかもこれは栄一さんがいつもご馳走してくれるあのお茶だなと推理しつつ舌触りのよいまろやかな甘味と渋味を味わう。少しぬるめのお湯で淹れられているところまで栄一さん譲りだ。
この地方が日本でも有数の茶の名産地だからか、栄一さんはことのほか緑茶にはうるさい。おそらくは波絵さんもそんな栄一さんから厳格な教育を受けて育ったのだろう……などと得意のプロファイリングを胸中で並べながら、僕はふと斜向かいの席に座るひとりの少女へ目をやった。
母親が中座し、見知らぬ外国人といきなりふたりきりにされたものだから緊張しているのだろうか。世愛という西洋風の名を名乗った少女は顔を伏せ、華奢な肩をこわばらせていた。ともすると眠っているようにも見える彼女の顔は、常にまぶたが閉ざされていることを除けば健常者と変わりない。
僕の第一印象としてはどこにでもいる普通の女の子、だ。
ただこれは欧米人から見たアジア人全般に言えることだけれど、十四歳にしては少々面差しが幼い気がした。彼女の場合、小顔でまろみを帯びた鼻はやや低く、唇も幼子のようにふっくらとしているから余計にそうした印象を抱きやすい。けれど全体的に見れば愛らしい顔立ちをしていると言って差し支えなかった。ほんの少し色素が薄いように見えるショートヘアも、ご両親が選んで着せてあげているのだろうプルオーバーのブラウスと並んで、清楚で落ち着いた印象を演出しているし。
「『小公女』?」
しかし今日から教師と生徒という関係を築いていくのに、ファーストコンタクトが気まずいだけというのも困りものだ。ゆえに僕の方からそう切り出せば、顔を上げた世愛が「え?」と不思議そうに小首を傾げた。
「フランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』。あの作品の主人公の名前も確か〝セイラ〟だったね。飼い犬の名前はそこから取ったのかな?」
質問の意味を図りかねたらしい彼女に続けてそう尋ねれば、途端にぱっと世愛の頬が上気した。まるで春陽を浴びた蕾が開いたようなその反応を少し意外に思っていると、世愛は軽く身を乗り出し、ひどく弾んだ声を紡ぐ。
「すごい……! 先生、『小公女セーラ』を知ってるんですか? ベッキーの名前の由来を言い当てられたの、はじめてです!」
「ああ……バーネットはアメリカの小説家として有名だけど、生まれは僕と同じイギリスだからね。ついでに言えば、僕の家の猫とネーミングが似ていたからピンときたんだ」
「先生のおうちの猫ちゃんはお名前なんていうんですか?」
「チャールズだよ。彼の名前は『長靴をはいた猫』で有名なシャルル・ぺローから取ったんだ」
「シャルル……? シャルルなのに〝チャールズ〟なんですか?」
「シャルルというのはフランス語の名前でね。これを英語に直すとチャールズになるんだ」
「へえ……! 先生、すごい物知りですね! でもどうして〝シャルル〟じゃないんですか?」
「それは彼が大のフランス嫌いだから」
「彼?」
「ああ、うん……チャールズはフランス製のキャットフードが大嫌いなんだ」
まさか猫本人が仏国批判を嗜みにしているとはさすがに言えず、とっさにまた当たり障りのない嘘を重ねた。僕の答えを鵜呑みにしたらしい世愛はガラス玉が触れ合うような声で「贅沢な猫ちゃんですね」と笑っている。
彼女の笑った顔は天窓から注ぐ陽光で満たされたこの家の明るさにぴったりだった。目が不自由なことへの気後れなど何ら感じさせない、十四歳の少女の笑顔だ。
「だけど先生、ものすごく日本語が上手ですね。おじいちゃんから話は聞いてましたけど、全然訛ってないし……まるで日本人と話してるみたいです」
「ありがとう。栄一さんにもおどろかれたよ。外見は白人なのに中身はまるきり日本人だって」
「先生のお顔って、日本人とそんなに違うんですか?」
「そうだね……一番大きく違うのは肌の色と顔の骨格かな。髪の色は黒いから、後ろ姿は日本人とあまり変わらないと思うけど」
「へえ。ってことはお母さんとおんなじ髪の色かあ。いいなあ。わたしの髪はお母さんのよりちょっと〝茶色〟っぽいらしいんです。父方のおばあちゃんが生まれつき〝茶色い〟髪をしてたから、遺伝だねって言われました」
自分の分の湯飲みを手探りで引き寄せながら、緊張が解けたのか世愛ははにかんでそう言った。そうして器用に湯飲みを持ち上げ、両手で包み込むようにしながら緑茶をそっと口へ運ぶ。僕は彼女の細い指が織りなす一連の動作にわけもなく見惚れた。彼女の所作には全盲であるがゆえのぎこちなさを一切感じない。
それだけ長い間──この世に生まれ落ちた瞬間からずっと、色も光もない世界での生活が彼女にとっては当たり前だったということだろう。
「あ、ところで先生、お名前まだ聞いてませんでしたよね。何先生って呼べばいいですか?」
と、彼女を縁取る陽光の輪郭に目を奪われていたところで不意に現実へ引き戻された。そう言えば僕の自己紹介は忠犬に遮られたのだったなと思い出し、束の間の逡巡の末に答える。
「そうだね……では僕のことはどうか〝赤眼〟と」
「アカメ、ですか?」
「うん。日本ではみんなにそう呼ばれているんだ。だから名前よりそちらの方が呼ばれ慣れているし、君も呼びやすいだろうから」
「アカメ先生、ですね。分かりました! でもどうして〝アカメ〟なんですか?」
「それは僕の瞳が赤色だから。みんなこの色を珍しがって〝赤い眼〟──〝赤眼〟と呼ぶんだ」
「赤色の眼って珍しいんですか? どんな色だろう……」
「よく言われるのは血の色、柘榴の色……あとは落日の色だと言われたこともあったかな」
「落日?」
「ああ。僕の瞳は沈みゆく太陽の色をしていると」
「へえ……! なんだか素敵ですね! 太陽とおんなじ色かあ」
再び湯飲みを掴もうとした僕の手が止まった。
太陽の色と聞いて、その色がどんな色なのか無邪気に夢想する世愛の笑顔が、痛みを伴わない刃のようにスッと胸へ入り込んでくる。
落ちゆく日の色の眼。ゆえに〝赤眼〟。
この呼び名は実のところ、死神界隈での僕の通称だった。死神というのは個々の名を持たず、おかげで同業者同士で呼び合うのに難儀する。
だから仲間内だけで通じる通称を設けて呼び分けるのだ。そして通称というのは死神ごとの性格や嗜好、あるいは身体的特徴からつけられることが多い。
僕を最初に赤眼と呼んだのはチャールズだった。そもそも死神として生まれたとき、すでに眼球を失っていた僕に今の眼をくれたのもチャールズだ。
あのとき彼はシニカルに笑って言った。君にはとても似合いの色だ。失われゆくいのちの色、かつて人肉の代わりとされた果実の色、あるいは死にゆく太陽の色。いかにも死神にふさわしい滅びの色じゃないか。それはアルビノ先天性色素欠乏症と呼ばれる稀少な人種から譲り受けた目玉だから大切にするように──と。
同業者の大半も彼と同じ意見だった。
死を運ぶ死神には黒の次にぴったりな色だと、誰もが口を揃えて言った。
だから僕もいつしか赤とは死と滅びを意味する色だと思っていたのに。
〝色〟を知らずに育った世愛は、髪型と同じくらいふうわりとした口調で言う。
「でもお日さまの色ってことは、きっとあったかい色なんでしょうね。いいなあ、わたしもいつか見てみたいなあ」
瞬間、僕を襲った感覚をなんと形容すればよかったのだろう。視覚的にたとえるならば、蜘蛛の巣だらけの僕の胸中にまでぱっと陽が照ったような。そうして陽の光を浴びたそれはあたかも天蚕糸のアートのように、瞬きながら僕の内側を満たしていく。蜘蛛の巣がこんなにも美しいものだったなんて僕は知らなかった。
これが僕と卯野浜世愛の三ヶ月に渡る交流の始まりだ。




