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ウグイスの鳴く季節が過ぎて、街の空をツバメが飛び交うようになった。
抜けるような青空からひゅうるりと舞い降りてきた一羽のツバメが、僕の眼前を横切って古いビルの軒先へと滑り込む。
賑やかな鳴き声にふと目を上げれば、ガラス張りのドアの真上にツバメの巣がかかっていた。生後二週間くらいだろうか、泥と枯れ草でできた巣の中では、身を寄せ合った雛たちが黄色いくちばしを限界まで開いて親鳥に餌をねだっている。
巣のふちにとまった成鳥は尾羽の長さを見るに母親らしい。間もなく巣立ちを迎える子らのため、甲斐甲斐しく世話を焼く母鳥の姿から僕はそっと目を逸らした。
タイル張りの狭い車道が伸びる駅前の繁華街。僕は現在その表通りから横道に入ったところにいる。次の仕事まで中途半端に時間が空いてしまったからお決まりの暇潰しだ。こんな風に時間を持て余すと、僕はいつもここに足を向ける。
繁華街の裏道にひっそりと佇む古さびた雑居ビル。
周囲の建物に比べてひょろりとした印象の外観は何度きても頼りなげに見えた。
建物と建物の間の狭い土地に押し込められているせいで、どうしても肩身が狭そうに見えてしまうのだ。外壁を覆うウォーターグリーンのタイルは色味が褪せて、それらをつなぐ白い目地も重ねた年月の分だけ汚れている。扉を入ってすぐのエレベーターホールはとても狭かった。設置されているエレベーターは大人三人がかろうじて乗れるサイズのものが一基だけ。表に看板はなく、入居しているテナントを知りたければ奥に見える非常階段手前の案内板を見るしかない。
入っているのは実態があるのかないのか定かでない財団のオフィスと隠れ家的なスナック・バー、患者の姿を見たことがない鍼灸院に、とても小さな民間画廊だ。
僕はビルに入ると迷わずエレベーターへ乗り込み四階へ向かった。
稼働中、ガタガタと不安な音を立てる機械仕掛けの箱に揺られながら右手に提げた紙袋の中身を確認する。老舗和菓子店の箱が傾いたり崩れたりしていないのを入念に確かめたところで、時代を感じる音色がチンと頭上から降ってきた。
顔を上げれば、途端に視界へ飛び込んでくるのは一面の緑。
この時期の木々がまとうあのまぶしいばかりの新緑ではない。むしろホビットたちが暮らす闇の森を彷彿とさせる、深く落ち着いたテールグリーンだ。
「いらっしゃい……おや、誰かと思えば君か」
エレベーターの到着音を聞きつけたのだろう。深緑の壁紙が続く通路の奥からひとが現れ、僕を見るなり年代物の丸眼鏡をわずかに上げた。
僕も彼に向き直って黙礼し、いつものように微笑みかける。
「お邪魔します、栄一さん。少しご無沙汰をしておりました」
「確かにここしばらく姿を見にゃあっけね。病気でもしとっただか?」
「ええ。病気というか、怪我を……幸い大した怪我ではありませんでしたが」
「おや、そりゃあ大変だったら。まあ、とにかくお上がんなさい」
訛りのある口調でそう言って奥へと促してくれた彼は画廊のオーナーである牧野栄一さん。僕が日本へきてはじめて親しくなったひとだ。栄一さんは長年この街で画商をしているご老人で、知る人ぞ知る中堅画家の絵を好んで取り扱っていた。
彼が契約しているのはいずれも写実的な絵を得意とする日本人画家ばかり。
奥の事務所へと伸びる細い通路には、精緻を極めた風景画や静物画が大切に展示されている。日本に赴任してきてまだ間もない頃、僕は暇さえあれば画廊や美術館を探して街を歩き回っていた。そんなときに出会ったのが『ギャラリー・マキノ』だ。先に立ち寄った画廊喫茶で親切なご主人からここの存在を教えてもらった僕は、ひと目でこの空間を気に入ってしまった。必要最低限の照明と絵の具のにおいの他は、窓ひとつない秘密の展示室。『ギャラリー・マキノ』にはそういう特別な空気があって、狭い通路に飾るべく厳選された絵画たちもいちいち僕の心を奪った。以来こうして足しげく絵を見に通っているというわけだ。
画廊をひとりで切り盛りしている栄一さんは、毎度絵を眺めるばかりで買いもしない僕に不審の眼差しを注ぎつつも、最初の数回は黙って放っておいてくれた。
場所が場所なら冷やかしは帰れと言わんばかりに睨まれるのに、彼は玳瑁の眼鏡の向こうから時折こちらを覗くだけで、あとは事務所を出てこようともしなかったのだ。今にして思えば、あまりにも外国人然とした客を前に言葉の壁を感じていたのかもしれないけれど、とにかく栄一さんは寛容だった。
朝を迎えるたびにここでの感動を忘れ、時間を見つけてはそれを確かめに来る僕を、彼は新聞を読んだり帳簿をつけたりしながら見守ってくれた。
けれど忘れもしない去年の今頃。
いつものようにここで絵を眺めていた僕に彼ははじめて声をかけてくれたのだ。
「あんた、最近よう来るっけね。何度きたって同じ絵しか飾っとらんのに、ずいぶん熱心に見に来るもんで。なんか気になる絵でもあるだか?」
と。そこで僕も趣味で絵を描いていることを伝えると、栄一さんは英国人が紡ぐ流暢な日本語におどろいたあと、あれこれ話を聞いてくれた。
聞けば栄一さんもかつては画家を志し、自ら筆を取っていた時期があったのだという。しかし夢破れて画商へと転向し、苦労の末この画廊を開いた。
そんな彼の来歴を聞いた僕は、ただ絵を鑑賞するためだけにここを訪れていたことを申し訳なく感じて、売りものを買い取ろうとした。それまでそうしなかったのは端的に言ってお金がなかったからだが──何せ僕は看取り業務の代償に金銭ではなく魂のかけらを要求してしまう──栄一さんが『ギャラリー・マキノ』に懸ける想いを知った以上「今後もタダで絵を見せてください」とはとても言えない。
だから毎日の紅茶を少し安いものに替え、チャールズにも当分日本製のキャットフードで我慢してもらおうと決意して口を開いたところ、栄一さんは「お金はええから、今度来るとき君の絵を持ってきなさい」と言った。
言われたとおり僕が後日自分の絵を持参して訪ねると、彼はいくつかの作品をためつすがめつ眺めたあと、商品として買い取ってくれた。
もちろん買ってもらえたとは言っても、ついた値は無名の新人にふさわしいものだったけれど、それでも「見どころがある」と言って栄一さんは僕の絵に投資してくれたのだ。以来僕はこうして絵の売れた売れないにかかわらず、時折彼を訪ねては感謝の贈り物を届けるようにしている。彼がいなければ今頃セーフハウスの地下倉庫は、行き場を失った絵画たちで足の踏み場もなかったろうから。
「これ、いつものですが」
と言って僕が菓子折りの袋を差し出せば、栄一さんは目尻の皺をほころばせて「おお、悪いね」と受け取ってくれる。上司からたびたび業務時の態度を叱られている僕が言うのも失礼な話だけれど、栄一さんは決して愛想がいい方ではない。
普段は寡黙だし、面と向かって話していても表情豊かとは言えないひとだ。
けれど彼は決まった店の決まった和菓子を前にしたときだけあからさまに相好を崩す。「この店の菓子が好きだ」とは何故だか絶対に言わないものの、彼が今し方手渡したばかりのどら焼きをこよなく愛していることは誰の目にも明らかだ。
だから僕もここへ来るときは大抵同じ店の同じ菓子を持参するようにしていた。
彼が時折絵を買い取ってくれるおかげで、僕も毎日の紅茶を気に入りの品から変えずに済んでいるわけだし。
「ですがしばらくご無沙汰している間に、少し品揃えが変わりましたね。春先まで展示されていた紅梅の絵と港の絵がなくなっているようでしたが」
「おう、さすがめざといやぁ。港の方はついこないだ売れたっけ。梅は季節に合わにゃあなったもんで、一旦裏に下げたんだわ」
「では梅の方は来年もまた見られるんですね。よかった。あの絵の梢にとまっているアオゲラの色使いが、僕はいっとう好きなんですよ」
「確かにありゃあ、梅とケラの色の対比が見事でずっと見てたくなるけどもね。売れてくれんとぼくが困るだら」
栄一さんはそう言って笑いながら、狭い通路の先の狭い事務所で日本のお茶を淹れてくれた。もともとは少し広めの給湯室だったのではないかと思われるその部屋は『ギャラリー・マキノ』の応接室も兼ねていて、栄一さんの事務机とミニキッチンが同居する奇妙な景観を楽しめる。ただし定員はせいぜいふたりまで。
机と書棚、そして小さな冷蔵庫が場所を取っているせいで、ここにはキャスターつきの事務椅子がふたつ並べられる程度の余白しかなかった。
栄一さん曰く他の部屋は倉庫とアトリエとして使っているから、事務所としてのスペースはこれしか確保できなかったのだという。
「んで、調子はどうだね。怪我しとったっちゅうことは、しばらく絵の方も休んでただか?」
「ええ……ここ二ヶ月ほど新作はなにも描いていなくて。描きかけのまま手をつけていない作品ならあるんですが」
「やいやい、そりゃあ残念だ。前に君の絵を買っていったお客さんからね、新作があればぜひ譲ってほしいと言われとるっけ。あの蛍の絵をえらい気に入ってくれたみたいだや。作者の名前を教えてほしいっちゅうて、ずいぶん食い下がられたわ」
橄欖石をお湯に溶いたような澄んだ緑色のお茶を口に運びながら、微苦笑とともに栄一さんは言った。僕はあくまで死神で、画家になりたいわけではないから作品に銘を入れていない。ならばいっそ名も伏せようということで、栄一さんには文字どおり無名の新人の作として絵を取り扱ってもらっていた。
おかげで彼の顧客の中には僕の絵を、栄一さんが趣味で描いたものなのではないかと勘繰るひともいるようだ。
だけど栄一さんが自分の絵を他人に見せることは決してない。絵を描くこと自体は趣味として続けているようだけど、作品を見せてほしいと頼んでも彼は首を縦に振ってはくれないのだ。すぐそこにあるアトリエの鍵も肌身離さず持っていて、画家志望時代から連れ添っている奥さんにさえ絶対に触れさせないのだという。
「……実は今日は、その件でご相談がありまして」
と、わずか開いたスイング窓の隙間から外を眺めて僕は言う。
初夏の喧騒を乗せた風が僕の鼻先を通りすぎ、まっさらなカンバスみたいに白い栄一さんの髪を撫でた。
「せっかく僕の絵を気に入ってくださった方がいるのに、申し訳ないのですが。少し思うところあって、しばらく絵を描くのを休もうと思うんです」
「おや。そりゃなんでまた?」
「僕自身うまく説明がついていないのですが……自分の描くものに幻滅したというか、自信を失くしてしまったというか。おかげでこのところ絵を描きたいという気持ちがどこか遠くへ行ってしまったようなんです。描き残したいものは無数にあるのに、どうしても筆を持つのがためらわれて……だったらいっそ絵を描くこと自体やめてしまおうかと」
真円を描くレンズの向こうで、まぶたがやや垂れた栄一さんの瞳が静けさをたたえて僕を見ていた。実を言うと僕が二ヶ月近くもここに寄りつかなかった理由がそれだ。春先に悪魔との戦闘で負った傷は数日で癒えたものの、僕はあれ以来まったく絵が描けなくなってしまった。絵の具集めは相変わらず続けているし、僕の手に収まる魂のかけらたちは今も変わらず美しい。
けれど僕は……僕の作品にはあの魂の輝きにふさわしい価値がない。
ある日ふとそう思った瞬間から、僕は筆を取ることをやめた。こんなことは魂のかけらで絵を描き始めてからはじめてのことだ。僕は一人前の死神として働けるようになってからずっと、時間にすれば優に百年近くこの趣味を続けてきた。
自分が美しいと感じたものを忘れないために、世界でもっとも美しい絵の具を使って複製を描き残す。僕にとって絵を描くという行為はそういうものであったはずなのに、どうして突然抵抗を感じるようになったのかは自分でも分からない。
ただ悪魔と遭遇した一件以来、僕の心にはずっと憂鬱という名の蜘蛛の巣が張っていた。それが思考を絡め取り、視界を塞いで、じわじわと僕の内側を支配していく。そんな感覚が拭えない。朝、眠りから目覚めても心臓のあたりになにかが引っかかっているような感じがして、正直僕はこの感覚を持て余していた。
毎朝部屋のカーテンを開け、降り注ぐ朝日を見上げるたびに胸を満たした新鮮なおどろきやよろこびも今はない。
これは一体何なのだろう。チャールズに相談したら「君もついに人間みたいなことを言うようになったね」なんて冗談めかして言われたけれど。
「そうかい。まあ、君が自分で選んでそうすると決めたんなら、ぼくにゃあどうこう言えんがね。君は職業画家じゃにゃあだら、やめたいと思うならすっぱりやめたらええ。ただね、君の絵ぇには器があるだよ」
「器……ですか?」
「ああ。描き手の魂っちゅうもんを受け止める器さね。最近の君の絵ぇにはそういうもんが見え隠れしとったもんで、本音を言やぁ残念だけども。君ゃあまだ若ぇんだし、また描きたいって気持ちが戻ってきてからでも遅くにゃあだら。あんまし焦らんと気長にやったらええがね」
いつもどおり表情少なに、されどツバメ舞う今日の日和のような口調で栄一さんはそう言ってくれた。彼もまさか目の前に座る英国人が、今年七十四歳になる自分より長い歳月を生きているとは夢にも思っていないのだろう。
けれどどこまでも穏やかな彼の声は、惑い疲れていた僕の心に沁み入った。
僕の描く絵には魂を受け止める器がある──という栄一さんの言葉が記憶のかけらに似た輝きをまとって、蜘蛛の巣だらけの胸中を照らしてくれる。
英国にいた頃も要らなくなった作品は売りに出したり引き取ってもらったりしていたけれど、それをこんな風に評されたのははじめてだった。
僕が人間たちの描き出す世界に惹かれてやまないのは、彼らの作品にはまさしく魂が宿っていて生きていると感じるからだ。そういう素晴らしい作品たちに、僕の絵も少しは近づくことができたのだろうか。いや、あるいは栄一さんが言っているのは、膠液と水に溶けた人間たちの魂のことかもしれないけれど。
「ところで話は変わるがね。君、英語の家庭教師をしとるっちゅうとったら?」
「……はい? ああ、ええ……一応そういうことになっていますが」
「ほいだら頼みたいことがあるっけよ。聞いてもらえるだか?」
いかにも画壇のひとらしい個性的なネクタイをくつろげて、ときに栄一さんが話題を変えた。彼が首もとをゆるめる仕草は、仕事とは関係のない話をするときの合図だ。だけど一体頼みごととは何だろう。僕はこの一年の付き合いで栄一さんの口からはじめて聞く言葉に目を見開き、次いでこくりと頷いた。
彼には日頃から本当にお世話になっている。だから恩返しも兼ねて僕に手伝えることがあるならぜひそうしたいという意思を込めて。
すると途端に栄一さんが意味深な笑みを浮かべた。まるでたまたま立ち寄った骨董屋で、掘り出しものの絵画でも見つけたときみたいに。
「実はぼくにゃあ中学生の孫がおってね。その孫が英語が分からんちゅうてちんぶりかいとるんよ。だもんで何とかしてやりたいやぁ思うっけ──君、ちょっくら手ぇ貸してくれんかね?」




