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死神の絵の具  作者: 長谷川 馨
第五話 夢追いびとと悪魔
31/43

***** ****


 今年の春はずいぶんと雨が多い。

 おかげで桜の開花が例年より一週間程度ずれ込む見込みらしい。

 けれど僕の眼前では、ひと足早く桜が咲き乱れていた。

 気晴らしに描き始めた不死山(フジヤマ)と桜の絵だ。

 ここ数日すっかりご無沙汰な青空に、白い雪を被った日本一の名山と、この国の春を象徴する花が明暗をつけて重なり合っている。昨年、日本で過ごす最初の春に見た景色の複製。どれくらい精巧にできたか確かめに行きたいところだけれど、答え合わせができるのはもう少し先の話になりそうだった。

 今日も小雨が窓を叩いている。僕は白い三角巾(スリング)で吊った左手にパレットを乗せたまま、イーゼルから一歩距離を取ってみた。

 そして微かな違和感に首を傾げる。……何だろう。空の色との差別化を図るために山を暗くしすぎたのだろうか。だけどあいにく本日分の白と青は使いきってしまった。人間の魂を絵の具にしている以上、同じ色は二度とつくれない。

 ざっと書棚を見渡してみてもあるのは僕の理想より遥かに濃いか、あるいは薄すぎる青ばかり。だったらいっそ手前の桜の幹の色を敢えて明るくしてみようか。

 そんな思いつきで目についた〝赤〟へ手を伸ばした。そうして小瓶を掴みかけ──寸前で気づき、手を止める。


 何度見てもほれぼれするような唐紅(からくれない)が、指の先で誘うように瞬いていた。

 しかしその閃きを見た途端、言いようのない物憂さが胸の中に立ち込めて僕はそっと手を下ろす。一瞥(いちべつ)したアトリエの片隅には、未だハロウィンの衣装をまとったままのお化けがいた。……僕は一体なにをしているのだろう。

 死神は人間より遥かに傷の治りが早いとは言え、せっかく数日間の病休をもらったのだ。この仕事に連休なんて滅多にない。ならば今こそ、あの哀れで真っ白なハロウィンのお化けに色をつけてやれる絶好の機会なのに。

 そう思ってからもう一度目の前のイーゼルを眺めたら、今の今まで自分が描いていたものが急に陳腐で滑稽に思えてきた。おそらく日本でもっとも儚い花と、不死の名を持つ山が身を寄せ合ってそこに在るさまは安い皮肉がききすぎている。ため息をついた僕は作業台にパレットを置き、片手で器用にエプロンもはずした。

 描きかけの絵には手も触れず、ホワイトセージの香るリビングへと引き返す。


「少し出かけてくるよ」


 午後の紅茶の準備をしていたドールたちがおどろいたように顔を上げた。

 ただひとり、ダマスク柄のソファでくつろいでいたチャールズだけが素っ気なく「いってらっしゃい」と口にする。僕はいつものベストに黒のジャケットを羽織って地下へと下りた。玄関から取ってきた傘を手に短く行き先を告げる。

 扉を抜けると、あの日結芽子と歩いた公園に出た。僕はセーフハウスとつながった公衆トイレを出て傘をさし、歩き出す。平日の午後、雨天。ふたつの憂鬱が重なった公園にひとの姿はまったくなかった。まるで世界に僕だけが取り残されたかのような静寂の中、雨に(けぶ)る無人のベンチを横目に芝生広場へ足を運ぶ。

 そうして去年、はじめて不死山を見た場所に佇んでみた。

 当然ながら雨のベールに阻まれてかの山の偉容は見えやしない。

 頭上に伸びる桜の枝も未だ花を咲かせぬまま。見上げた先には雨の冷たさに耐えるように、じっと身を固めた(つぼみ)がいくつもあるばかり。その蕾から雫が落ちて、パタリと小さく音を立てた。傘の上で弾けたそれを聞き、そうか、と僕は呟く。


「……この音、いのちが弾ける音に似ている」


 ひとの魂がもっとも美しく輝くときの音。

 僕はそんな音を一瞬でも愛しいと思ったのか。

 立ち尽くす僕の頭上で、いのちの音は踊り続けた。

 聞いていたくないと思うのに、今日も足が動かない。


「〝The rain falls on the just and the unjust〟」


 小さく呟いた言葉が、雫とともに弾けて消えた。


 春はまだ、少し遠い。






(第五話・完)

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