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──ふざけるな。
さっきから同じ言葉がずっと頭の中でループしていた。
思考が漂白されてまともにものを考えられない。俺は走って、とにかく走って、追ってくるなにかから逃れようとしていた。全力で走るのなんていつぶりだろうか。もしかしたら大学、いや、高校で受けた陸上の授業以来かもしれない。
だけどそれにしては体が軽い。全然疲れないし、息も上がらない。
どうしてだろう。いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
考えなくていい。考えるべきじゃない。俺はあらゆる雑念と沸々と湧いてくる違和感、そして恐怖を引き剥がすために走った。行き先は決めていない。というよりどこへ行けばいいのか分からない。ただ逃げたい。どこでもいいから。
俺を追いかけてくるものが見えなくなるところまで。
「ふざけやがって」
焦燥に精神を灼かれながら、誰にともなく悪態を垂れる。瞬間、すれちがったカップルらしきふたり組が、ひとりごちながら疾駆する俺に見向きもしないことにまた苛立った。まったくどいつもこいつも俺に何の恨みがあるっていうんだ。他人というのはいつも決まって俺を馬鹿にするか見向きもしないかのどちらかだ。
親父も姉貴もそうだった。ついでに言えばむかし付き合っていた女にも言われたことがある。〝つまらない男〟。みんながみんなそうやって好き勝手にレッテルを貼りやがる。けれどおふくろは──おふくろだけは俺の味方だと思っていたのに。
やっぱり内心では俺を嗤ってたのか。そりゃそうだ。なんたって元中学教諭だしな。惰性でギターやベースにかまけて、三流大学にしか入れなかった俺とはそもそもの出来が違う。あのひとは母親である前に教師だった。それだけだ。
それだけだったんだ。ちくしょう。
俺はなにもかもめちゃくちゃにぶち壊してやりたい衝動に駆られながら走った。
正直、どこをどう走ったのかも分からない。気づけば目の前にはやたらと恰幅のいい偉人の銅像があって、俺はその真ん前で両膝に手を置きうなだれていた。
息も切れてないし暑くもないのに、額からだらだらと汗が流れては滴っていく。
「何なんだよ、くそ……」
聞く者のいない悪態をつきながら途方に暮れた。見上げた先では鷹だか鳶だかよく分からない鳥を左手に乗せたご隠居が、公園の真ん中を陣取って俺ではないどこかを見据えている。
「なあ。俺って何なんだよ」
自分でも滑稽だと思いながら、他に寄る辺もなく銅像に尋ねた。
もちろん答えを期待したわけじゃない。ただ尋ねずにはいられなかった。
俺って結局何なんだ? 何だったんだ?
さっきのイギリス人とおふくろの言葉が事実なら──いや、ありえない。
俺がとっくの昔に死んでるって?
じゃあ今、ここでこうして銅像に話しかけてる俺は何なんだよ?
俺は生きてる。
そう口に出して確かめようとしたところで、脳裏にちらつく赤いフラッシュバック。甲高いブレーキの音。視界をいっぱいに埋め尽くしたトラックの……。
「あれ? 菫也さん?」
刹那、背後から聞こえた女の声に、俺はぶるりと身を震わせた。
「あーっ、やっぱり菫也さんだ! どうしたんですか、こんなところで?」
恐る恐る振り向いた先にいたのは見覚えのある女。少し前突然俺の前に現れて「駅前でよくギター弾いてた方じゃありませんか?」と尋ねてきたあの女だ。
女の名は出門といった。生まれも育ちもこの街で、十年前、ギター片手に夢を追いかけていた頃の俺をよく見かけていたらしい。
しかもずいぶん物好きなことに、出門は当時の俺の歌がとても好きだったと言った。なにがいいのか分からないのに、何故だかとても惹きつけられる歌だったと。
だから俺の顔をよく覚えていて、思わず声をかけたのだそうだ。ある日を境にぱったりと姿を見なくなってしまったが、もう音楽はやっていないのかと。
「あたしね。当時思春期真っ只中で、色々くだらないことで悩んでたんですけどね。菫也さんの歌を聴いてたらなんかそういうの、全部どうでもよくなっちゃったんですよ。で、素敵な歌をうたうひとだなあって、いつからか気になるようになっちゃって」
気恥ずかしそうに笑いながらそう話してくれた出門は、最初の再会のあとも頻繁に俺の前へ現れては当時の話をしたがった。俺にとっては蒸し返されたくない黒歴史だというのに、そんなことはお構いなしに。それどころか、
「ねえ、菫也さん、もう音楽やらないんですか? 菫也さんの歌、また聴きたいんですけど」
なんてことあるごとにせがんでくる。俺はもう何年もギターを弾いていないし、今は他にやりたいことがあるんだと説き伏せても決して折れることなく。
「じゃああたし、明日もまたお願いしにきまーす。逃げちゃダメですよ?」
と悪戯っぽくえくぼを見せる出門を見ていたら、俺も次第に悪い気はしなくなった。もう一度歌ってくれとしつこくせがまれるのは困りものだが、誰にも見つけてもらえなかった俺の曲を、歌を、今も好きだと言ってもらえるのは単純に嬉しかったから。出門、とここ数日ですっかり親しくなった女の名を呼び俺は立ち尽くす。
口に含んだらキャラメルみたいに甘いんだろうか、なんて夢想したくなる色の髪を揺らして、呼ばれた出門は無邪気に笑った。
「ちょうどよかった! これから菫也さんに会いに行こうとしてたんですよ。でも珍しいですね、いつもはベンチのとこにいるのに……あ、もしかしてあたしに会いにきてくれたとか?」
茶目っ気豊かに言いながら出門は淡いピンクのグロスが塗られた唇で三日月を描く。こいつがこういう冗談を恥ずかしげもなく口走る女であることは先刻承知だ。
でも。
「出門、おまえ……俺が見えるのか?」
思わず茫然と尋ねたら「は?」と間の抜けた返事を寄越された。出門はただでさえでかい両目を真ん丸に見開いて、適量のマスカラが乗ったまつげを上下させる。
「見えるのかって、逆に見えてなかったら声のかけようがないと思いますけど?」
「い、いや……そう、か。そう……だよな、ははは……なに言ってんだ、俺……」
当たり前にもほどがある出門の答えを聞いて、俺はつい笑ってしまった。全身から力が抜けるのを感じながら前髪を掻き上げて、おかしさのあまり笑い続ける。
そうだ。俺は何を動転していたのだろう。
死神? そんなやつが現実にいるわけないじゃないか。
いくら物書きの真似事をしてるからってフィクションの世界に毒されすぎだ。
現に目の前には俺を視認して、俺と喋って、俺に毎日ギターを弾けとせがむ女がいる。おかげで俺はここ最近、もう一度音楽をやり直すのも悪くないかもなんて思い始めていたくらいだ。書いても書いても灰を被ったままの小説と違って、歌とギターなら求めてくれる人間がいる。
やっぱり俺にはそっちの道の方が合っていたんじゃないか。
一度は音楽で食えそうなところまで行ったんだ。だったら次は、次こそは、と。
「菫也さん、もしや疲れてる? もしくは透明人間ごっこの最中だったとか?」
「いや、悪い。ついさっき変なこと言う連中に会ってな……けどもう大丈夫だよ」
「ほんとに? だけど変なことを言う連中って、なに言われたの?」
「俺はもう死んでるとか、自分は死神だとか、そういう馬鹿みたいな話だよ。変な外人だったし、どっかの宗教の勧誘かなんかじゃないか、たぶん」
「へえ……それは危ないにおいがしますね」
「だろ? いやマジで変な連中だったよ、ほんと」
まさかその変な連中に自分の母親も含まれているとは言えなかったが、俺は正直出門の賛同を得られてほっとした。ついさっき俺の身に降りかかった出来事はどう考えてもまともじゃない。忘れるべきだ。追いつかれてはいけない。
「ねえ、ところで菫也さん。あたし、今日はギター持ってきたんですよ。ほら!」
と、俺が脳裏でちらつく赤い点滅を振り払うことに躍起になっていると、桃色の三日月を浮かべたままの出門が言った。彼女が半身を拈って見せた背中には、確かに黒いギターケースが背負われていて俺はさすがに面食らう。
「おまえ、ギター持ってたの?」
「はい! ……と言ってもほとんど弾けないんですけど。むかし菫也さんに憧れてた頃に、自分でも弾いてみたくなって買ったんです。でも独学じゃ全然弾けなくて、すぐに押し入れに放り込んじゃって。だけど今日、久しぶりに引っ張り出してきました!」
おどけた調子でそう言って、出門は意味もなくその場で一回転してみせる。
途端に春色のスプリングコートの裾が宙を舞い、ふわりと視界を華やがせた。
「でもって今日が最後のお願いです。これ以上はさすがに自分でもウザいと思うんで、ダメならもう諦めます。別に無理強いしたいわけじゃないし……しつこい女は嫌われるから」
「出門、」
「ね、菫也さん。あたし、ほんとに菫也さんの歌が好きだったんです。だからどうしてももう一度歌ってほしくて。迷惑だったらごめんなさい。でも、もし……もしそうじゃないなら──」
出門の薄い肩からギターケースのストラップがするりと落ちた。
それを大事そうに抱えた両手が俺の前に差し出される。熱に浮かされたような出門の瞳がじっと俺を見つめていた。中学生みたいに小柄な出門は、上背のある俺のために白いパンプスの踵を浮かせて唇を引き結んでいる。
こんなにまっすぐ想いをぶつけられたのは生まれてはじめてかもしれなかった。
ここまでされてなお出門の好意を無下にする理由が今の俺にあるだろうか。
どんどん灰に埋もれていく小説もどきなんかより、明らかにまぶしくて価値のあるものが今、目の前にある。俺はもう迷わなかった。
たぶんこれが俺の人生最後の転機でありチャンスだ。ここで出門の手を取らなければ俺は一生笑い者のまま、誰にも必要とされないまま。だったら、俺は──
「──手放しちゃダメだ!」
そのとき誰かの叫びが聞こえた気がした。けれど聞こえた言葉の意味を理解するより早く、俺の手は差し出されたギターケースに触れている。
瞬間、俺の指の下で、ギターを包む黒いナイロンがどろりと溶けた。
突如現れた真っ赤な舌が、いびつな三日月を舐めていく。




