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その日、天使サリエルはひとりの死神をとある邸宅へ導いた。
目覚めたばかりの死神はひどくからっぽでまっさらで、身につけている黒いベストと白いシャツ以外、名前も記憶も目玉さえも持たなかった。
天使に手を引かれて歩きながら、彼は時折左手を宙にさまよわせる。まるで底のない穴を泳ぐような感覚に、彼は生まれてはじめての戸惑いを感じていた。
一歩進むごとに地面があることを確かめないと、どこかに落ちていきそうで不安になる。掴み立ちを覚えたばかりの赤子だってもう少し上手に歩くだろうに。
「……あの、天使サリエル。やはり杖がほしいのですが」
盲いた眼を閉ざしたまま、死神は眉を曇らせてそう告げた。
天使にものをねだるなんて不遜だとは知りつつも、このままではひとりで歩くこともままならない。ところが天使サリエルは古い壁紙のにおいの真ん中で立ち止まり、静かに微笑うばかりだった。実のところ目が見えていない死神には、たった今自分の手を引いているのが本当に天使なのかどうかも分からない。
「大丈夫。あと少しの辛抱ですよ」
男性とも女性ともつかない声がやわらかく鼓膜を震わせた。ほどなく蝶番の軋む音がして、死神は己の靴が毛足の長い絨毯を踏み締めたのを感じ取る。
季節はすでに春だというのに、朝一番の新雪にそっと足跡をつけたような錯覚が何故だか胸裏に細波を生んだ。瞬間、なにかの映像の断片がまぶたの裏をよぎりかけ、しかしそれを遮る声がある。
「いらっしゃい」
知らない男の声だった。淡いおどろきとともに立ち止まれば、右手を預けていたはずの手袋の感触がするりと逃げる。
おかげで死神は唐突にひと雫の光もない闇の中で立ち尽くす羽目になった。
口を噤んで次なる沙汰を待ってみるも、沈黙が降り積もるばかりで変化がない。
「天使サリエル?」
虚空へ向けて放った呼びかけに、天使はもう答えなかった。
「僕はサリエルではないよ」
代わりに返ってきたのは、先ほど闇を震わせたのと同じ男の声だった。
「……あなたは?」
「そうだね。今はチャールズとでも名乗っておこうか」
堂々と偽名であることを宣言しながら、声の主はけろりと答えた。
ほんの一瞬、その声に聞き覚えがあるような気がしたものの、死神となった彼の感情や記憶の揺らぎはすべて生まれた傍から目の前の闇に食べられてしまう。
「新米くん。今日からここは君の家だ。そして僕は君の使い魔。君を一人前の死神に育て、あの世とこの世の調律を託す者……なんて言えたらかっこいいんだけど、実のところはただの咎人さ。おかげでこんな窮屈な肉体に入れられてしまった。チャールズには悪いけど、正直いまの僕と比べたらフランケンシュタインの方がまだしあわせだろうね」
滴るほどの皮肉を湛えて彼は言い、やがてどこからか降り立った。
響いた足音の異様な軽さに、死神は耳をそばだてる。
「ところで、君。なんでも君は目がないそうだね。盲目のままでは死神の仕事は務まらない。だから君に目を与えるようにと、上司からお達しを受けている」
チャールズの声は、今度はずっと低い位置から聞こえた。けれどからっぽの死神は返すべき言葉の持ち合わせがなく、行儀のいい人形のように佇むばかり。
「……僕は、君に目を与えるべきではないと言ったのだけどね。かつて僕にそうしたように、君にもチャンスを与えるべきだと上司は言った。あのひとは不条理を好むくせに、変なところで公平だからね。そして幸いなことに目玉ならここに腐るほどある。この中から特別君に似合いそうなのを僕が見繕ってあげよう」
硝子と硝子が触れ合う儚げな音がした。
どうもチャールズが品定めをしているらしい。やがて彼は数ある硝子瓶の中からたったひとつ咥え上げると、それを死神の眼前へ差し出した。
「ではこれを。僕の宝物ほどではないけれど、とっておきの逸品だ」
死神はまたも左手をさまよわせた。指先に玻璃の冷たさが触れる。
「君にはとてもお似合いだよ。そう、とてもお似合いだ」
微かに揺れた瓶の中で、ふたつの落日が彼を見た。
「さあ、早く鏡を覗いてごらん。果たして君はその赤を、何の赤だと呼ぶのだろうね」
(第四話・完)




