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それは遥か、遥か昔からの決まりごとだ。僕らの上司が下す決定は絶対で、たとえ天地が逆転し、大地が裂けて地獄が降ってこようとも忽せにされることはない。
そんなこと、長い長い死神生活の中でとっくに学んでいたつもりだったのに。ひどく寒い冬の夜、僕は血だまりに横たわるエリーの傍らへ跪き、世界を呪った。
「だ……だんな、さま……」
言葉を覚えたての子どもみたいに、色を失ったエリーの唇がたどたどしく僕を呼ぶ。僕は返す言葉を持たなくて、ただ、ただ、血と涙で濡れた彼女の頬にてのひらでそっと触れた。
「だ……な、さま……ごめ……なさ……わた、し……せっかく……だんなさま、に……おくり……だ……て……いただいた……のに……」
「……もういいんだよ、エリー。もういいんだ」
うつろに僕を見つめるエリーの瞳からはとめどなく涙が溢れていた。
潤んだエリーの瞳はこんなときだというのに綺麗で──とても綺麗で、笑い出したくなってくる。涙に洗われた彼女のエメラルドは、胸もとで輝く本物のエメラルドよりよほど美しかった。だから僕は彼女を愛した。愛してしまった。
これはその罰なのだろうか。エリーは僕と出会わなければ、もっと幸福な死を迎えられていたのだろうか。それとも〝僕と出会ったせいで〟なんてうぬぼれた考えはさすがに傲りがすぎるだろうか。
無力でからっぽな僕を嗤うように、ビッグ・ベンが鳴っている。
「だんな……さま……わたし……さい、ごに……おつた……したい、ことが……」
「何だい?」
「わた……し……わたし……ずっと……だんなさまの、ことが──」
静かな夜だった。薄く降り積もった雪が世界に蓋をしてしまったかのような、静かな夜だった。聞こえるのは鐘の音と、彼女が紡ぐ掠れた最期の言葉だけ。
だから僕は微笑んで答えた。
「〝その瞳に見られて、わたしの心は二つに裂かれてしまった。半分はあなたのもの、残りの半分もあなたのもの〟」
結局そんなひねくれた答えしか返してあげられなかったけれど、僕と彼女の関係は、これでいいのだと思っている。
「……終わったか」
エリーの頬を最後のひと雫が伝い、僕が彼女の魂を冥府へ送り終えた頃、背後から低い老爺の声がした。僕は大切に温めていた彼女の右手をそっと放し、立ち上がる。顧みた先には、真白い地面に降り立った真っ黒な鴉がいた。
さらに後ろでは両眼を押さえた殺人鬼が、今も地面に転がり呻いている。
僕は彼から奪ったナイフでヒュッと冬の風を切り、刃先に滴る血を払った。
「ムギン、どいてくれるかな」
「退けと言われれば退くまでだが」
と、殺人鬼の前に立ち塞がる僕の使い魔が嘴を開く。
「おまえも知っているだろう、猫目。死神が人間に手を上げることは許されぬ。足もとを見よ。その境界を跨げば最後、おまえは死神ではいられなくなる」
鴉の姿をした使い魔は、終始無愛想な声色で死神のルールを説いた。促され、僕が冷然と見下ろした雪の上では、先ほど払ったナイフの血が赤い線を描いている。
けれども僕は一抹の迷いもなく、あの世とこの世の境界線を踏み越えた。
「構うもんか。どのみち僕はもう戻れない」
「何故?」
「思い出したからだよ、ムギン。僕の本当の名前も、死神になる前の生い立ちも、すべてね」
ロンドン塔の鴉よりひと回りもふた回りも大きい僕の使い魔は、何も言わずに目を細めた。そこにあったのは諦念か、憐れみか。
そのどちらでもなかったことを僕が知るのは、もう少し先の話なのだけれど。
「そうか。ならば往くがよい」
大袈裟な羽音を立てて大鴉は飛び立った。それが僕を死神として育ててくれた彼との今生の別れだとなんとなく気がついて、ほんの束の間天を仰ぐ。
「う……うぅ、う……エリー……エリーは……?」
彼の羽音が遠ざかり、漆黒の空に漆黒の翼が溶けた頃。僕は足もとで呻く殺人鬼を見下ろして感情を無に還した。死神でなくなった今、感情を失うことはもはや不可能のはずなのに、不思議と目の前の男には何の感慨も湧いてこなかった。
ただ僕のナイフの一閃に両眼を裂かれ、視界を失って蠢く肉塊をほんの少し憐れんだだけだ。僕にとってこいつはひとのかたちをした汚物にすぎない。
汚物として生まれ、汚物として死ぬ者──ああ、なんてくそったれな夜だろう。よりにもよって最後に看取る人間が、こんなにも自分とそっくりな殺人鬼なんて。
「エリーはもうどこにもいないよ、ジャック・ザ・リッパー」
呻きながら左手をさまよわせていた殺人鬼が僕の声に反応した。
「いや、ジョン・メイブリックと呼んだ方がいいのかな? おどろいたよ。まさかひとの身でありながら魂を視る力を持つ者がいるなんてね」
「……君は誰だ? 僕はジョン・メイブリックなんて名前じゃない……」
「殺し屋がつけてくれた名前だろう? 親と名前は大切にしなくちゃあ、ねえ?」
自分のことは完全に棚に上げ、僕は殺人鬼を蹴りのけた。顔中を血まみれにして倒れた彼の胸に足を乗せ、雪のベッドの感触を存分に堪能させてやる。
「う、ぅ、エリー……! 放せ……僕はエリーのきらめきを見届けるんだ……!」
「残念だけどそれは無理だな。彼女の魂は僕がいただいた。長年この仕事をしている僕さえ見たことがないほどの美しい魂だったよ。だけど君にはかけらだって見せてやらない。彼女の魂のきらめきは、永遠に僕だけのものだ」
「あ、あぁ、あぁああぁあ……!」
彼女の魂がもうここにはないことを知ったからか、彼は苦悶の声を上げてもがき始めた。ひっくり返った甲虫みたいに手足をばたつかせ、喚くばかりの殺人鬼を、壊れかけの退屈な玩具みたいに見下ろして僕は言う。
「ああ……そう言えば君の目玉ももらっていくつもりだったのに、潰しちゃったな。実に惜しいことをした。噂の殺人鬼は一体どんな眼をしているのか、確かめておきたかったんだけど」
暴れる彼を踏みつけたまま、体に染みついた動作でくるりと手の中のナイフを回した。そうして黒い把手を握り直し、かつて殺人鬼だった頃の記憶に身を委ねる。
「まあ、いいか。目玉集めもこれで最後だ。僕が最後に手にするのは他の誰のものでもない、エリーのエメラルドがいい──」
じゃあねと無慈悲に吐き捨てて、僕は殺人鬼の胸に刃を突き立てた。
二十世紀の怪物は心臓で刃を受け止めて、そして死んだ。
看取り業務完了。
僕が最後に送った魂は、真っ黒で澱んでいて救いようがなくて、悲しいくらいからっぽだった。




