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汽車を降り、慣れ親しんだイーストエンドの地に立つと、ソーホーの賑わいはみんな夢だったのではないかと思えた。それくらいロンドンのこちら側はうらぶれていて、霧にまとわりつかれたガス灯も、閉め切られた民家の窓も、足もとに積もった雪でさえ、なにもかもが塞ぎ込んでいるように見える。
なんて静かな街なのだろう。白い息を吐きながらそう思った。
ついさっきまで私たちは無数の音楽と喝采と着飾ったひとびとの衣装のきらめきに包まれていたはずなのに。できればずっとあの輝かしい夢の中にいたかった。
けれどこれこそが現実であり私という人間の正体なのだ。
「エリー」
夢に溺れるのはもう終わり。私は暗くて寒い現実の中で唯一の光を見つけた。
その光はとてもやさしくて美しくて、上品なウールのコートを着ている。
触れるとそっと包み込んでくれて温かい。だから私は彼とともに歩いていくことを決めた。差し出された腕に手を乗せて、舞踏会へ向かう紳士と淑女みたいに寄り添い合う。どちらからともなく笑いが零れた。
いつか旦那様とこんな風に歩いてみたいなんて夢想していた日々の記憶はここに置いていこうと思う。あれは大事に持って帰るにはあまりにもまぶしすぎるから。
「劇はおもしろかった?」
「ええ、とっても。裁判のシーンはちょっと怖かったけれど、最後はずっと笑いっぱなし。シェイクスピアってああいうお話も書くひとだったのね」
「シェイクスピア作品は確かに悲劇の方が有名だけれど、僕は彼の書く喜劇も好きだよ。中でも『ヴェニスの商人』は個人的にいっとう好きでね。〝輝くものすべて金にあらず〟──いい言葉だと思わないかい? 今夜の席を用意してくださったお嬢様には感謝しないと」
そうして他愛もない話をしながらふたり、肩を並べて家路を歩いた。ジェイムズも今夜はロンドンに泊まるそうだから、いつもみたいに急がなくていい。
パブやミュージックホールが軒を連ねるソーホーとは違い、夜のイーストエンドは閑散としていた。日曜の夜だというのに家々の明かりはすでに落とされ、街そのものが眠りに就こうとしている。
おかげで私はジェイムズの足音や衣擦れの音、抑揚の少ない話し声まで、すべてを独占することができた。今夜は彼の靴が雪を踏み締める音さえも愛おしい。
「エリー。今日はきてくれてありがとう」
「お礼を言うのは私の方だわ。あんな素敵な劇に私なんかを誘ってくれて……後悔してない?」
「どうして? 世界を裏側まで探しても、僕より君を求めている男がいるとは思えない。だのになにを後悔することがあるだろう。こうして君のきらめきを手に入れる権利を得た夜に」
普段は平坦な声色で話すジェイムズが、不意にとろけるような口調で言った。
彼の眼差しは大袈裟なくらい熱っぽく陶然とこちらを見つめていて、思わず気恥ずかしくなる。彼がこんなに私を求めてくれていたなんて知らなかった。
否、どこかで気づいてはいたけれど、認めて受け入れるのが怖かっただけだ。
右手でよろこびを掴もうとしたら、左手の宝物を取り落とす。
人生ってそういうものよと母は言った。
私は左手の宝物を失うことがおそろしかった。だから守り抜きたかった……。
でも右手で新しいよろこびを掴んだ今は、これでよかったのだと胸を張って言える。左手は当分空けておこう。欲を出してまた右手を伸ばしてしまわぬように。
「エリー。君は本当にまぶしいよ」
胸の中で小さな誓いを立てた私に、ジェイムズはなおも陶然と言った。
「僕は昔からきらきらしたものに目がなくてね。どうしようもなく惹きつけられるんだ。憧れ、とでも形容すればいいのかな。僕には生涯縁のないものだから」
「あら、どうして?」
「僕はね、エリー。今でこそきらびやかな貴族のお屋敷に仕えているけれど、もとはこのイーストエンドのスラムで暮らす孤児だった。来る日も来る日も自分が何故生きているのか分からないまま、ゴミを集めたり盗みを働いたり……金を稼ぐために、テムズ川に浮かんだ死体のふところをあさったこともあったよ」
歩きながら紡がれた突然の告白に、私はひゅっと息を吸い込んだ。今の彼からは到底想像もできない壮絶な過去を聞き、思わず目を見張って振り返る。
「スラムの孤児? あなたが? 本当に?」
「ああ……今まで話していなかったけれどね。だって滑稽な話だと思わないかい? 生きる理由も見出だせないくせに、ひとの死臭にまみれてまで生きながらえようとしていたんだよ、僕は。だけどそんな暮らしを何年も続けているとね、ひとの心なんてものはいともたやすく壊れてしまう。そして僕も壊れた。今もここに穴が開いていて、なにかを大切に収い込もうとしても、水漏れするみたいに流れていってしまうんだ」
黒い手袋をはめたジェイムズの手が、音もなく自身の胸を押さえた。
まるで本当に穴が開いていて、心臓の脈動とともに溢れ出すなにかを堰き止めようとしているみたいに。
「だ、だけど……だけどあなたは今も生きているわ」
「ああ、そうだ。僕は生きている。何年も暗闇をさまよった末に、ひと筋の光を見つけたから」
「光?」
「そう、光だ。その光はほんの一瞬、ふっと暗闇を照らすだけですぐに消えてしまうのだけどね。それでもぱっと弾けたときのあの美しさったらないんだ。何度だって見たくなる。だから僕は生きている……より美しいきらめきをこの目に焼きつけるために」
珍しく昂揚した様子で、彼は彼を生かしている〝光〟のすばらしさを滔々と説いてくれた。私には彼の言う〝光〟というのが何なのか見当もつかなかったけれど、これから共に生きてゆく男性の心に少しでも寄り添いたくて、懸命に耳を傾ける。
「ときにエリー、君は魂の存在を信じるかい?」
「魂? そうね……私、そこまで敬虔なクリスチャンじゃないし、具体的にどんなものかと尋ねられたら受け売りの答えしか返せないけれど……でも魂はあると思うわ。旦那様が以前おっしゃっていたの。魂とはひとの心の器をさす言葉だって。魂が存在しなければ、心というものは水のように流れてしまって胸の中に留まらない。よろこびも悲しみも、楽しみも苦しみも、どれひとつ欠けることなく大切にしまっておけるのは、主が魂という名の宝箱をどんなひとにも必ず授けてくださるから……だからひとはひとで在れるんだって、そうおっしゃっていたわ」
「へえ。魂という名の宝箱、か。さすがは君の旦那様、とても詩的で的確な表現をされるのだね。だけど、そうか──宝箱か。ああ、なんてすてきな響きだろう!」
言うが早いか、ジェイムズはぴたりと足を止め、突然私の手を取った。
こちらがおどろきで目を白黒させている間にも、彼は恍惚とした口振りで酒精に似た甘い言葉を吐き続ける。
「そう、まさしく宝箱だよ、エリー。魂という名の箱の中には色とりどりの宝石が秘められている。それがあるときぱっと弾けて、目の前で花火のようにきらめくんだ。誰もがみんな、そんなものは見えやしないし存在しないと言うのだけれどね。僕には見える。確かに見えるんだ。あれを魂と呼ばずして、なにを魂と呼べというのだろう?」
「じ、ジェイムズ……?」
「だけど魂の輝きはひとによってまったく色合いが違うんだ。中にはちっとも美しくない、黒っぽくて濁った魂の人間もいる。イーストエンドで暮らすひとびとの魂はそういうのばかりでね。君のようにきらきらした魂の持ち主にはなかなかお目にかかれない。だから僕は君に惹かれた。叶わぬ恋に身を焦がしながら、なおも愛に燃える君のきらめきに」
「あ、あの、ジェイムズ……?」
「そして今夜僕はそのきらめきを手に入れた。今まで手に入れたきらめきの中でも君のは一番だ。特に今夜のきらめきはいっとう美しい。僕はもう我慢できない。今すぐにでも君の魂の輝きを見せてほしい」
「ジェイムズ、あなた、さっきからなにを言って──」
それはあまりにも唐突だった。唐突に、私はジェイムズの話す言葉が理解できなくなった。確かに同じ母国語で話しているはずなのに、異国の言語で捲し立てられているかのような錯覚。混乱。そして恐怖。
私の手を掴むジェイムズの目は爛々と輝き、闇の中で異様に白い結膜がみずから光り輝いているようでおそろしかった。今、目の前にいる彼は果たして本当に私の知るジェイムズ・オストログという男性なのだろうか?
とっさに掴まれた手を振り払おうとしたものの振り払えない。
とんでもない力だ。一体どうしてしまったというのだろう。慄然としながら彼を見やり、次の瞬間、私はさらにおののいた。何故ならジェイムズの右手にはいつの間にか、ぞっとするほど磨き込まれたひと振りのナイフが握られていたから。
「もう一度言うよ、エリー。今日はきてくれてありがとう。僕はずっとこの日を待ってたんだ」
「じ、ジェイムズ、」
「ああ、最後にひとつだけ教えておこう。僕には昔から名前がない──ジェイムズ・オストログなんて男は、どこにも存在しないんだよ」
そう言って彼が左右の口角を吊り上げたとき、私はようやく理解した。
名前がないという彼の、本当の名前──ジャック・ザ・リッパー。
おめでた女と呼ばれた頭脳がやっとのことでその答えに行き着いたとき、私は裂帛の叫びを上げた。
衝動的に目の前の怪物を突き飛ばし、すぐ先に見えた横道へと駆け込んでいく。
古くて狭い路地だった。どこへ続くかも知らない裏路地を、ドレスの裾をたくしあげ、私は馳せた。恐怖と混乱で気が動転し、なにも考えられない。
ただあの怪物の視界から逃れたい一心でひとけのない路地をひた駆ける。
背後には私を呼び止めようとする彼の声と足音が迫っていた。
エリー、エリー、と繰り返される呼び声に焦りや怒りの響きはない。
あるのはただ背筋も凍るような愉悦だけ。あれはまさしく化け物だ。
どうして私は今の今まで彼の正体に気づかなかったのだろう?
どうして、どうして、どうして──
「どうして……!」
喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
助けを求めたいのに、どこまで行けども人影はない。
やっと手に入れたと思った。私の人生。私の未来。私の幸福。
だのに左手の宝物を投げ捨てて手に入れた結末がこんなだなんて。
ああ、下手な喜劇よりよっぽど喜劇だわ。
胸もとでコートを飛び出したエメラルドが揺れている。この選択を祝福し、送り出してくれたあのひとに私はなんてお詫びをすればいいのだろう?
そんな現実逃避にも似た思考が脳裏をよぎった、直後だった。
ズッと背中に冷たい感触があって、コートと肌の内側に異物が滑り込んでくる。
痛みや絶望を感じるより先に涙が溢れた。
私の意思とはまったくの無関係に力が抜けて、凍てついた地面に倒れ込む。
そこから先はなにも言葉にならなかった。私の体から溢れる温かくてかけがえのないものが雪を溶かしてゆくのを感じながら、月もない夜空に閃く切っ先を見た。
腕を掴まれ、あらがえないほどの力で仰向けにされたかと思えば狂喜の笑みとともに二度目の刃が降ってくる。熱い。凍えるほど寒いはずなのに、氷でできているのかと訝るほど冷たい刃が皮膚を破ると、とても熱い。
──旦那様。
生きながら地獄に堕ちていくような光景の中で、私はひたすらに想い続けた。
旦那様。私、あなたを愛していました。
どうせお別れするのなら、せめて嘘偽りのないこの気持ちだけ、あなたに預けていくのだった。報われない恋だとしても、ここにあなたを愛した人間がいたことをちゃんと、ちゃんと──
「カア!」
そのとき、今にも閉じようとしていた私の意識の緞帳を鋭い鳴き声が引き裂いた。終劇にはまだ早いと言わんばかりの鳴き声は羽音とともに舞い降りて、猛然と切り裂きジャックへ襲いかかっていく。
鴉、と、すでに声も出ない唇で私は小さく囁いた。
漆黒の空から現れた漆黒の鳥が、けたたましく鳴きながら羽ばたきでリッパーの邪魔をする。もしかして、あの鴉は……。
十日前の晩、帰宅した私を見下ろしていた巨大な鴉を思い出した。今、果敢にも殺人鬼に挑みかかる大鴉は先日の晩に見た彼ではなかろうか。天からの急襲に虚を衝かれたリッパーの手からナイフが落ちた。彼は地面を転がる得物をとっさに拾い上げようとしたようだけれど一瞬早く、黒い把手を掴んだ手袋がある。
「礼を言うよ、ムギン」
ああ、今のは幻聴だろうか。
私が最期に聞きたくてたまらなかった声が耳朶を打ち、そして、血が飛沫いた。