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今日はもう電報が届かないといいななんて思いながら、窓辺でぼんやり頬杖をついていた。ビッグ・ベンの鐘の音が聞こえる。今、何時だろう。
暗い窓の外を眺めたまま、手探りで懐中時計を取り出した。二十時ちょうど。
劇はもう終わった頃か。シェイクスピアの『ヴェニスの商人』なんて僕は見飽きてしまったけれど、エリーは楽しめただろうか。
「ジェイムズから観劇に誘われたんです」
頬を赤らめたエリーからそう告げられたのは四日前。日曜日の今日、彼女は午後から半日の暇がほしいと言ってきて、僕は快く了承した。
「だけど劇場ってどんな服を着ていけばいいんでしょうか。手持ちの服はどれもみすぼらしくて、どうしようかと考え始めると夜も眠れなくって……」
と思い悩んでいる彼女をハロッズへ連れていき、ちょっとオリエンタルな風合いのドレスとファーつきのコートを一着ずつ買い与えたことを僕は後悔していない。
「時間があれば既成品なんかじゃなくて、いちから仕立てたものを用意したのだけれどね」
ついでに買ったエメラルドの首飾りを差し出しながらそう言えば、エリーは口もとを覆って宝石と同じ色の瞳を潤ませていた。
「君は日頃からよく働いてくれている。これはその正当な対価だよ。それとも君は、僕がこの首飾りをして夜会へ行く姿を見たいのかな?」
受け取れません、と固辞する彼女にそう言って首飾りを押しつけたのは少々やりすぎだっただろうか。だけど僕も餞別くらい送りたかった。
新しい人生へ進むことを決めた彼女に。
「似合っていますか?」
劇場へ向かう間際、着替え終えて不安そうに尋ねてきた彼女のうなじの後れ毛を思い出す。正装をして唇に紅を引いたエリーはちゃんと良家の子女らしく見えた。
「もっと早くにこうしていれば、案外君の夢も二十世紀が終わる前に叶ったかもしれないね」
なんてひねくれた答えしか返してあげられなかったけれど、僕と彼女の関係はこれでいいのだと思っている。
「旦那様」
出かける直前、わざわざ挨拶にきたエリーはとてもしあわせそうだった。
「本当にありがとうございました。──いってきます」
首もとのエメラルドと一緒に瞬いた、彼女の瞳を思い返して目を閉じる。
「O Lord our God,Be Thou our guide,That by thy help,No foot may slide……」
『ウェストミンスターの鐘』を口ずさみながら、僕は鳴り続ける鐘の音と暖炉で爆ぜる薪の音を聞いていた。エリーのいない夜は静かだ。彼女だって働いている間は四六時中僕の傍にいるわけじゃない。それでも、静かだ。
そろそろ新しい家政婦を探さなければいけないなと思いながら、僕は何気なくチャールズの姿を探した。彼もいつもはこの書斎がお気に入りで、夜はよく暖炉の前で丸くなっているのだけれど、今夜はどこか別の部屋へ行っているみたいだ。
夕方エリーが出かけるや否や、彼女を引き止めろと言わんばかりにまとわりついてきたのをすげなくあしらったのが気に食わなかったのだろうか。
チャールズは毎日餌をくれるエリーには従順なのに、飼い主である僕に対してはちょっとでも気に食わないことがあるとすぐに臍を曲げてみせた。そうして僕が譲歩するか彼が譲歩するまで、延々と冷戦を続けるわけだ。まったく長生きしすぎると頑固で恩知らずになるのは猫もひとと同じらしい。あの日母猫に見捨てられ、路地裏で凍えていた彼を助けてやったのは誰だと思っているのやら……。
「君もひとり?」
今日みたいな冬の寒い夜。
僕は狭い路地裏で真っ黒な仔猫を見つけて声をかけた。
「奇遇だね。僕もずっとひとりなんだ」
寒さと飢えで今にも力尽きそうな仔猫が、蒼い瞳で僕を見上げてミャアと鳴いたのを覚えている。掠れて弱々しくて、消え入りそうな声で鳴く仔猫を抱いて、僕は執事もいない家に帰った。死にかけの仔猫に寄り添う夜は、僕を「悪魔の子」と呼んで捨てた母の記憶を嫌でも思い出させた。それでも祖父が憐れみから遺してくれた遺産のおかげで、僕はたったひとりでもなんとか生きていくことができた。
むしろ家の経営がどうとか社交界がどうとか、そんなくだらない世界に煩わされずに生きていくことを許されたのだ。だったらいっそこの眼に生まれたことを幸運に思うべきじゃないか──と回想したところで、僕ははたと我に返った。
……今のは一体誰の記憶だ?
思わず椅子から体を起こして額を押さえる。以前引き取った誰かの記憶?
いや、違う。だって回想の中には仔猫だった頃のチャールズがいた。
だったら……だったら今の記憶はなんだ?
まさか僕が死神になる前の記憶だとでも?
いや、だけど僕はチャールズが仔猫だった頃のことなんて知らないはずだ。
だってムギンに案内されてここへやってきたとき、チャールズはすでにいた。
若く凛々しい成猫で、彼も使い魔なのかと尋ねたらムギンは「違う」と短く答えた。じゃあなんでここにいるのさ、という僕の問いに彼は……ムギンはなんと答えたのだっけ? 明らかな記憶の混濁に、僕は柄にもなく狼狽した。
──落ち着け。
これはたぶん、そう、日頃回収している魂の記憶と自分の記憶が混線してわけがわからなくなっているだけだ。死神にも時々そういうことがある。自分ではない誰かの人生を看取り続ける仕事だ、こうならない方がおかしいと言ってもいい。
今夜はもう休もう。大丈夫だ。寝て起きればまたいつものようにからっぽの朝が僕を待っている。すべての感情は淘汰され、こんな風に混乱することも、たったひとりの人間に執着を覚えることもなくなるのだ。
そうだ。眠ろう。僕はなにも思い出したくない……。
けれど寝室へ向かう僕の行く手を阻むように、そのとき玄関のベルが鳴った。
「電報でーす」
次いで聞こえる配達夫の声。僕は深々と嘆息したあと、苛立ちながら踵を返した。玄関まで行き、やや乱暴にドアを開ければ顔見知りの配達夫がぎょっとした様子で肩を竦ませている。彼の手には小さな封筒がふたつあった。
「それ、どっちも僕宛?」
ぶしつけに尋ねれば、配達夫は急に喋れなくなったみたいにこくこくと頷いてみせる。僕は封筒をひったくり「どうも」と心にもないお礼を言って扉を閉めた。
「僕らの上司ってさ。時々わざとなんじゃないか? と思うくらい間が悪いよね」
誰にともなく悪態をつきながら、廊下でさっさと封を切る。こんな時間に急な仕事が二件も舞い込んでくるなんて最悪だ。一件目の看取り対象者は二十四歳、男性。死に場所はオールド・ストリート沿いの路地。そしてもう一件は──
「……は?」
僕は立ち尽くして間抜けな疑問符を吐き出したあと、すぐさま脇にかけてあった黒のコートを引ったくった。そうしてろくに身支度もせず家を飛び出し、怒鳴るように辻馬車を呼び止める。面食らっている馭者に行き先を告げて、できる限り急ぐよう命じた。鋭く鞭打たれた馬が嘶きながら目的地へ向け旋回する。
「嘘だ」
二通の電報を握り締め、揺れる馬車の中でそう呻いた。
今夜、僕が看取るべきもうひとりの名は〝エリー・ターナー〟。
見間違いようがなかった。
それは僕が愛してしまったひとの名だった。