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彼女が通っていた高校は、校門の傍にイロハモミジが植えられている。
樹齢五十年は優にこえているだろうと思われる立派な紅葉だ。枝葉は燃え上がるように広がり、灰色のブロック塀を跨いで通学路にまで垂れている。
麓の町にいながら紅葉狩りを楽しめる、ちょっとした穴場みたいなものだった。
僕はその紅葉の下に立ち、塀を背にしてさざめく赤を眺めている。しばらくすると仲間の群からはぐれた落ち葉が一枚、音もなく舞い落ちてきた。風に吹かれるままあらがうこともできずに落ちる葉を、僕はそっとてのひらで受け止める。
「恋しくは、見てもしのばむもみぢ葉を、吹きな散らしそ、山おろしの風」
不意に日本にきてから読んだ古い詩集のうた詩を思い出し、ぽつりと口ずさんでみた。僕の手に収まった赤い葉はまだこんなにも瑞々しいのに、枝を離れた時点で死んでしまったのだと思うと、この詩を詠った詩人の気持ちも少しは分かるような気がする。
晩秋の夕間暮れ。薄井楓の死から数日が経ち、彼女が通っていた高校はいつもの日常を取り戻していた。もっともそれは傍目から見た印象であって、校内の様子や生徒たちの胸中までは分からない。少なくとも彼女の死は多くの生徒に衝撃を与え、今後の人生を左右するほどの烙印として刻み込まれたことだろう。公衆の面前での飛び降りということで、全国ニュースでも大々的に取り沙汰されていたし。
「ねえ、あのひと……」
鳴り響くチャイムの音に送られながら、制服をまとった少年少女が次々と校門を抜けてくる。時刻はすでに放課後。家路に就く学生たちは思い思いの方角へ歩き出し、友人と談笑する声や別れの挨拶を交わす声があちこちから上がっていた。
そんな中校門脇に佇む僕を見て、女子高生たちが顔を見合わせる。
まるで名前を呼んではいけないあのひとの話をする魔法使いみたいにひそひそと囁き、黄色い声を上げながら、彼女らは当たり前で平凡な日々へ帰っていった。
僕はそうした人波の中にとある人物を探し求める。
薄井楓と同じ制服を着たショートヘアの、すらりと背の高い女の子。
「──小梨綾香さん」
誰と連れ合うわけでもなく、ひとりで校門を出てきたその少女を僕は静かに呼び止めた。いきなり名前を呼ばれた彼女は目を丸くして振り返り、僕と目が合うや否やぱっと日焼けした頬を染める。
「小梨綾香さんだね?」
「えっ……は、はい、そうですけど……」
直前までスマホ片手に歩いていた彼女は、右手のそれを急いで背中に隠しながら上擦った声で答えた。見知らぬ死神にいきなり呼び止められておどろいているのかもしれないし、怯えているのかもしれない。けれども僕を見つめる彼女の眼差しには、おそれや警戒よりも疑問と好奇心の方が色濃く躍っているように見えた。
僕は先ほど受け止めた落ち葉をそっとふところへ収めながら、塀に預けていた背中を起こす。
「はじめまして。実は少し君と話がしてみたくてね。初対面でぶしつけな申し出であることは重々承知しているけれども、どうしても君に訊いておきたいことがあるんだ」
「え、えっと……誰ですか?」
「名乗る名前がないから、怪しい者ではないとだけ言っておくよ。君は今から駅へ向かうのだよね。その道中だけで構わないから、話をさせてもらえないかな」
校門から溢れてくる生徒の波に飲まれながら、綾香はしばらく困惑していた。
人間の目から見れば僕はどうしたって怪しく見えるだろうし、今日日見知らぬ相手からいきなり話をさせてくれと言われて快諾できるほど浅慮な人物はなかなかいまい。しかし綾香は悩みに悩んだ末、目を泳がせながら「え、駅までなら」と一応了承してくれた。電車を使って通学する生徒が多いのか、最寄り駅へ向かう道にはまばらながらも学生の列ができている。たとえば僕が怪しい者だったとしても、これだけ人目があれば安全だと考えたのだろう。僕は彼女と肩を並べて歩き出した。
「すまないね。急に現れた上に無理な注文をして」
「い、いや、別にいいけど……日本人、じゃないですよね? あ、もしかしてハーフとか?」
「いや。生まれはイギリス、育ちもイギリス……だと思うよ、たぶん」
「たぶん?」
「今の職業に就く前の記憶がなくてね。自分がどこの誰だったのか知らないんだ」
「え……も、もしかして記憶喪失ってやつ? やば、リアルでそういうことあるんですね」
「まあ、あるだろうね。君の常識や物差しでは計れないものが、世の中にはもっとたくさん」
閑静な住宅街を抜ける道を歩きながら僕は再び頭上を仰いだ。民家の庭先に佇む柿の木が熟れた実をつけている。もうすぐ自重で落ちて潰れそうだ。
子孫を残すための落実はしかし、種が根を下ろせないアスファルトの地面に叩きつけられ、無惨に腐り、朽ちるだけ。
「あ、あの、それで……あたしに話って何ですか?」
「ああ、うん。時間もないことだし単刀直入に訊こう。──君はどうして薄井楓に死んでほしかったのかな?」
前後を歩く学生たちの行進の中。まるで空間から切り取られたみたいに綾香がぴたりと足を止めた。直前までほのかに赤らんでいた頬は瞬時に色を失い、蒼白を通りすぎて土気色になる。
制服に重ね着された秋物のコートが、彼女の心を代弁するように風で暴れた。
「なんで……そんなこと、あたしに訊くの」
「君が命じたからだよ。楓に死ねと」
僕が事実のみ摘み上げて答えれば、綾香の唇がわなないた。
かと思えば彼女は戦慄とも忿怒とも取れる形相で顔を歪めて、限りなく黒に近いプリーツスカートをひるがえす。
「逃げるということは罪の意識を感じているということだね」
だから僕は上司に無愛想と叱られる口調と言葉で彼女の背中を追いかけた。
「よかったよ。最近の加害者の中には、被害者が死ぬとむしろ喜ぶものもいるから。それに比べれば、君はずいぶんまともだね」
僕は皮肉でもなんでもなく正直な気持ちでそう告げた。すると綾香の足が再び止まり、憎悪と呼ばれるものがひとの姿を借りたような顔で僕を睨む。
「ふざけんな。〝加害者〟って何? あたしがあいつを殺したみたいに言ってんじゃねえよ。なんか証拠でもあんの? 遺書はなかったし、校長もテレビでいじめはなかったって言ってたじゃん。つまりアレはあいつが勝手に死んだだけ。あたしには関係ない。あたしは知らない!」
「だったらどうしてそう声を荒げるのかな。ああ、もしも今回の件で恫喝すればなんでも思いどおりになると学習してしまったのなら、残念ながらそれは大きな間違いだよ」
「はあ!? 意味分かんねえ、ごちゃごちゃうるせえんだよ! 警察呼ぶぞ!」
「そうだね。僕と一緒に事情聴取を受けたいのなら呼ぶといい」
何気なく返したひと言が、期せずして綾香を怯ませる劇薬になった。
証拠はなにもないとは言え、彼女には確かに薄井楓を殺した事実がある。
学校側は体面を保つため、必死にいじめの存在を否定したものの、真実を知る生徒は少なからずいるだろう。ひとの口に戸は立てられない。
ここで警察に目をつけられたら、いじめの真相が世に広まったとき自分の身が危ない──と考えられる程度の冷静さはまだ綾香にも残されているようだった。周囲では様子がおかしいことに気づいた学生たちが無遠慮な視線を浴びせてくる。
駅を目指す足を止め、珍しい見世物でも見るみたいにスマホをかざす者もいる始末だ。撮影者に気づいた綾香は震え出し、肩を大きく上下させた。
歪んだ顔が汗にまみれている。
ひとの人生は平気で台無しにできるのに、自分の人生が壊されるのは怖いらしい。こう言うとなにやら大きな矛盾を感じるものの、人間には間々あることだ。
「それで、僕の質問に対する答えはいつもらえるのかな?」
「あァ!?」
「君が薄井楓の死を望んだ理由だよ。僕はそこに興味がある」
齢たった十六歳の少女が、ひとりの人間を死に追いやるほどの憎悪。
その根源は果たしてどこにあるのだろう?
薄井楓は世界を憎んでいた。
彼女はひどくからっぽで、そんな自分を生んだ母親を、母親を狂わせた父親を、父親を産み落とした名も知らぬ祖父母を、彼らの存在を容認するこの世界を憎んでいた。だから最後は現実という名の軛から解き放たれることを選んだのだ。
ならば彼女に死という選択肢を与えた小梨綾香はどうなのか。彼女はどうしてあれほど苛烈に楓を憎み、正常な人間ならばまずありえない嗜虐的思考に取り憑かれ、自らの人生を棒に振る危険を冒してまで他者をいたぶり続けたのか。
僕は理由が知りたかった──いや。
何故だか知らなければならないような気がしたのだ。
「答えてもらえないのなら、僕の推論を並べてみようと思うのだけど。たとえば楓になにか危害を加えられた。君が楓にしたように理由なく殴られたり、蹴られたり、あるいは所有物を壊す、奪う、隠すなどの理不尽な扱いを受けた」
「……」
「違うとすれば……楓に親兄弟や親しい間柄の誰かを殺された、もしくは傷つけられた。いわれのない誹謗中傷を受けたり、一方的に価値観を否定されたり、精神的な苦痛を与えられたという可能性もあるかな。宗教観の違いとか、差別を受けたとか、弱みを握られて隷属を強要されたとか……または借金を踏み倒されたとか」
「……」
「君の沈黙はすべて否定であると仮定すると、あとは特筆すべき理由もなく、ただ単に楓の存在が気に食わなかった?」
「……」
「なんだ、本当にそれだけなのか。──つまらないな」
彼女の最後の沈黙だけ、僕は肯定と受け取った。何故なら正面から僕を睨めつけていた眼差しがその一瞬だけ足もとへ逃げたからだ。率直に言って僕は落胆した。
僕が薄井楓の記憶を引き取ったとき、何度も何度も繰り返し現れた醜婆のような顔の少女。小梨綾香は薄井楓に当たるときだけそんな別人の形相へと変わるのだ。
あれほどの豹変を見せられたら、きっとなにかよほどの理由があるに違いないと期待するのが人情というものだろう。
もっとも感情を持たない僕が人情を説いたところで、説得力はないのだけれど。
「人間は時折、憎しみという感情さえも魔法のように美しく見せることがある。薄井楓がそうであったようにね。だから君の理由にも触れてみたかったのだけど……残念だよ」
そう言い置いて僕は立ち去る決意をした。あまり注目を浴びすぎると今後の業務に支障が出るし、知りたかったことも知れた今、ここに留まる理由がない。
僕は少しも後ろ髪を引かれることなく踵を返した。
いつの間にか垣根をつくっていた学生たちが道を開ける。
何だかモーセにでもなったような気分で、割れたひとの海を渡ることにした。
その背に金切り声とがなり声の中間みたいな声が降ってくる。
「ムカついたんだよ、いつもいつもお高くとまってるあの女が! 金持ちで成績がよくて、ちょっと見た目もいいからってさ! 自分はあたしらみたいな下等な人間とは違うんだって周りを見下して! ずっとひとりでいたのも、頭の悪い連中には混ざりたくないって意思表示だろ!? 同い年のくせに気取って〝自分はもう大人です、周りのガキどもとは違うんです〟みたいな態度ばっか取りやがって! だから思い知らせてやったんだよ、自分の立場をさあ! いいよね、家が裕福で何の苦労もなく育った女は! あたしみたいな社会の底辺とは違うからさ! ニートの兄貴もいなければ、毎晩警察に通報されるまでギャーギャー喧嘩してるクソ親もいない! でもそれってなんか不公平じゃん!? だからバランスを取ってやろうと思ったんだよねえ、バランス! 人類皆平等らしいし!? だったら別にいいじゃん、ちょっとくらい恵まれたやつを不幸のドン底に引きずり下ろしてやってもさあ! にしてもあの女、ずっと痩せ我慢して涼しい顔してたくせに! 死ねって言われてほんとに死ぬとか、最後の最後でバカじゃねーの!? 大人ならガキの言うこと真に受けてんじゃねーよ! アハハハハハハハハ!」
激情のあまり自分でもなにを言っているのか分からなくなっているのだろう。
綾香は突然僕が楓の記憶の中で見た醜婆の顔になると狂ったように笑い出した。
これには黒山のひとだかりをなす学生たちも顔色を失い、完全に怯えている。
中には綾香を知っている生徒もいるのだろう、同級生と知られることをおそれたのか足早にその場を立ち去る者もいた。
だから僕は、カシャリ、と、取り出したスマートフォンで笑い続ける綾香の写真を撮った。撮影された画像をプレビューしてみる。背を反らして抱腹している綾香の頭上に『61.30』という白い数字が浮かび上がった。
撮影した人間の寿命が数値で分かる死神専用のカメラアプリだ。
頭上の数字は彼女の寿命があと六十一年とちょっとあることを示している──そんなに寿命が残っているのなら、むしろ伝えておくべきだろう。
「おい、てめえ! なに勝手に撮ってんだよ、マジで警察呼ぶぞクソ外人が!」
「その前に訊きたい。薄井楓が裕福で何不自由なく育った子だと、誰が君にそう言ったんだい?」
「んなもんあいつの服とか持ち物見れば誰でも分かるっつーの! わざわざ嫌みったらしくブランドものの靴だのコートだの学校に着てきてさあ! 見せつけてんじゃねーよ!」
「あれは彼女の母親が一方的に与えたものだ。彼女だって好きで身につけていたわけじゃない」
「はあ!?」
「明日担任に尋ねてみるといい。薄井楓は母子家庭だ。父親は生まれたばかりの楓を〝娘は要らない、息子がほしい〟と言って捨てた。おかげで母親は精神を病み、ゆくゆくは娘を玉の輿に乗せて夫に復讐してやろうと楓を育てた。医師や弁護士といった高給取りに娘を見初めてほしかったのだろうね。楓には常に従順で聡明で見目麗しくあることを強要した。楓は母親に逆らえなかった。つまるところ彼女は母親を慰めるための道具であり、きせかえ人形だったのさ。それを恵まれていると受け取るか、囚人のようだと受け取るかはひとそれぞれだろうけれどね」
綾香のわめき声がようやくやんだ。
僕らを囲み、どよめいていた他の学生たちも静まり返る。
「薄井楓はただ自由になりたかったんだ。君たちが対立ではなく手を取り合う道を選んでいたなら、きっと互いによき理解者になれただろう。君が本当に欲していたものは、すぐ目の前にあったということだよ──もう二度と手に入れることはできないけれどね」
今度こそ最後の言葉だった。
僕は脱け殻みたいに立ち尽くす綾香を残して身をひるがえす。
もときた道を引き返したら、先ほどの民家の柿の木から案の定実が落ちていた。
誰かが誤って踏んだのだろうか。
熟しすぎた実は歩道の上で赤い果肉にまみれている。