第三章『みんなのポジション』
第三章 みんなのポジション
四月四日十四時五十五分
恐縮して身を縮みこませるべきなのか。それとも逆に堂々としているべきなのか……あれだけの啖呵を切っておきながら、再びパイプ椅子に腰掛けている姿は我ながら滑稽だ。
俺は所在なさげに視線を漂わせながら、功刀さんが新しく淹れてくれたコーヒーをすすることしかできなかった。
「君は言ったね。必要悪だろうとなんだろうと人を犠牲にしていいわけはない、と」
冷静になって聞くとなんだか妙に気取っていて恥ずかしいくなり、俺は俯いてしまった。しかし、
「僕らもそう思うんだ」
「……え」
思わず顔を上げた。その反応に森崎さんはまるで大学の教授のように――まだ講義は受けたことはないけれど――頷いた。
「そして大昔のOBもそう思った。だから君の言う『犠牲になる人』を、当時のメンバーは学校や周りに害をなす人……直接問題にならずとも迷惑をかけている人間に限定してもらうよう学校側に頼んだ」
「要するにアレだ。ただ威厳を保つためにテキトーな連中をターゲットにするんじゃなくて、素行なんかが悪いやつに限定してターゲットにするように頼んだんだ」
「そして学校側はその条件を飲んだってことよ」
木柳さんと三輪さんが付け足すように言った。
つまり学校側にも『悪い人を選ぶ』という労力を払うよう進言したということか。学校側も当時からこのサークルの存在は大切だっただろうし、何より自分たちが『悪い人を選ぶ』だけで今まで通り威厳を保ちつつ、学校の評判を悪くする人間を追い出せるのだから一石二鳥だっただろう。でも――
「君の言いたいことはわかるよ」
心を先読みされて俺は目を見開いた。
「その時代のメンバーだって今君が思っていることと同じことを考えた」
「ただ学校から悪い奴を追い出しても、それは根本的な解決にはならない」
俺がそう口にするとピタリと空気が静まった。その沈黙からはどこか俺に対する期待のようなものが感じられた。自惚れでもなく素直にそう思った。
森崎さんが先を促すようにコーヒーに口をつけたので、俺は一旦深呼吸をするように息をついてから続けた。
「正しい行動をしているように見えますけど、それは所詮『臭いものには蓋をせよ』の精神。その活動はそれを誤魔化すための正義を気取った欺瞞、自己弁護に過ぎないんじゃないんですか?」
「おぅ、言うね言うね」
木柳さんの短い口笛が響く。森崎さんはカップをテーブルに置いた。その音は今の俺が言ったことを全てひっくり返すという合図のように思えてムッときたが、同時にそれで構わないという思いも心のどこかにあった。
「当時彼らもそう思ったんだ。そしてその思いを貫くためにある行動に出た」
「学校側には内緒でね」
功刀さんが言った。その横で木柳さんが煙草に火をつける。功刀さんの意見に同調するように立ち昇る紫煙がその身をくゆらせた。
「その先輩たちぁ気に入らなかったんだ。ただ悪いやつを追い出して安心してる学校側のやりかたがな」
「木柳君の言う通り。悪い人を追い出しても、学校からいなくなるだけで、悪いことがなくなるわけじゃない」
木柳さんに続いて森崎さんが口を開く。
「だから彼らはただ学校側からの依頼に応えるだけではなく、独自に悪行そのものをを止めさせるための活動をするようになった」
つまり悪い人を追い出すだけじゃなく、悪い人を倒すということだ。
背中がゾクリとするのを感じた。もしかしたら俺は彼らのことを誤解していたのかもしれない。
「さっきも言ったけど」
森崎さんが静かに言った。
「ただ悪い人を学校から追い出してそれで安心、なんてあまりに自分勝手過ぎる」
「そんな自分勝手な大人の考えに利用されるなんてゴメンだと思わない?」
功刀さんは優しく、でもどこか凛とした声で言った。
「そんなワケで、その瞬間から地域経済研究会という名前だったウチのサークルは今の世界治下経済研究会に生まれ変わりましたとさ」
三輪さんがポンと手を叩いた。
数瞬の間があった。その後最初に口を開いたのはもちろん森崎さんだった。
「さて、話はこれで終わりだ。君は僕らの秘密を知っていても問題ない存在になってくれるかい?」
この部室に入る前に聞いた言葉だった。頭をハンマーか何かで殴られたような衝撃が襲ったような気がした。俺は黙ったまま俯いた。自分はなんて考え方が浅かったのだろう。
彼らはまず自分達の活動の悪いところを出すことによって俺の反応を試した。俺がこのサークルに相応しい人間かどうかを見たのだ。もしあの時点で拒否せず受け入れていたとすれば、きっと俺は権力を振り回す悪者として追い払われたことだろう。
そしてそちら側の人間ではないと認識してもらったため、こうして本当の活動内容――いや、彼らの本当の信念を教えてくれたのだ。
どんなに俺に罵られようとも、俺という人間を見るために自分達の汚い部分をさらけ出してくれて、最終的にはこのように学校側にすら秘密の真の活動内容を教えてくれた――そこまでして俺を買ってくれているのは単純に嬉しかった。そしてその喜びは生まれるのと同時に、彼らの仲間になりたいという欲望に変わっていった。
その旨を口にしようとしたがしかし、俺はどうしても一つ気になることがあった。
「あの、一ついいですか?」
「ん、なんだい?」
森崎さんも俺がこの流れのまま頷くと思っていたのだろう。さすがに面食らったような顔をしている。変なところで一矢報いることに成功した俺は、少し上機嫌になって尋ねた。
「さっき三輪さんが言ってましたけど、このサークルは元々地域経済研究会っていう名前だったんですよね。どうして今の世界治下経済研究会に改名したんですか?」
彼らの話は全て論理的で筋が通っていた。しかしこの改名の部分に関してはどうにもその意図と言うべきか、意味が見いだせなかったのだ。
しばしの
沈黙の後、最初に口を開いたのは意外にも木柳さんだった。
「どうしてって……そうしないと世治会って略せないだろ」
「よ、よなおし……」
我ながらバカみたいなオウム返しだ。けど俺にはこれ以上のリアクションを取ることはできなかった。
いきなり『略して世治会』なんて言われてまともに返せる人間がいたら是非とも会ってみたいものだ。
そんな言った側からしたら面白くないであろう俺の反応に、木柳さんは大げさに肩をすくめて唸った。
「だぁーから、世界治下経済研究会を縮めて世治会。地域経済研究会じゃあ世治会にならねぇだろうが」
「えっとつまり……当時のサークルの先輩たちはそもそも『世治会』という略称にしたいがために、サークルを改名したってことですか?」
「それはなんとも言えないわねぇ」
功刀さんが困ったように笑った。どうやら正確な理由は不明のようだ。
「ちょっとヒトシ、そんなダッサイ通称明かしたら、この子入る気失せちゃうでしょ」
「いいじゃねーか、かっこいいじゃん世治会。なあケイさん?」
「う~ん、どうかなぁ……」
「えっと、ところで」
喧騒に紛れて森崎さんの声がした。その声色はどこか戸惑っているようにも聞こえる。それもそのはず、なぜなら俺が大笑いをしているのだから。
さっきまで真面目だったのに、いきなりこのふざけた空気だ――ある意味このバカ騒ぎが俺の意思を決定付けたといっても過言ではないだろう。
「森崎さん、なりますよ。秘密を知っていても問題ない存在に」
その日、俺は世治会のメンバーになった。
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七月二十三日十五時三分
俺たちが本蔵に駆けつけると、ナコさんは入り口のところで呆然と立っていた。どうやらショックは大きいようだ。
話によると、突然男二人がやってきて資料を探していたケイさんをさらっていったとの事だった。犯人の顔は後ろ姿だけで見ていないという。例によって後ろ姿とはここは呪われでもしているのだはないだろうか。
「管理人がいるはずだろうが。何してたんだよ」
「ちょっとうるさいなと思った位だって……」
ナコさんの返答にキリュウさんはキッと管理人室を睨みつけた。確かにあのダメ管理人なら十分あり得る話だ。
「っていうか、何でわざわざケイさんをさらいやがったんだ。普通にさらうならナコのほうがいいに決まってるだろ。小さくて持ち運びに便利だしよ」
キリュウさんが地面の石を蹴った。態度と口調こそ荒々しいが、わざわざケンカを売るような内容からナコさんを元気付けようとしているのがわかる。
けどその思いも虚しく、ナコさんはわからないよ、と小さく言うだけだった。
「多分……」
所在無さげに視線を泳がすキリュウさんに何か言おうと思ったが、それ以上続かなかった。結局俺も目を泳がせる始末――と、その泳いだ先に本蔵が見えて俺はピンと来た。
「バッグですよ。もしかして例のバッグはケイさんが持ってたんじゃないですか?」
俺の問にナコさんは顔を上げた。その目は明らかに肯定の意を示している。
それにしてもこの一連の流れ、妙に違和感を感じる。しかし、そんなことなどお構いなしにキリュウさんはなるいほど、と頷いた。
「バッグが欲しかったのか……待てよ、人をさらってまで欲しいものだったのか? バッグ奪うだけじゃダメだったのか?」
「それは……」
俺は口ごもってしまった。さすがにそこまではわからない。リイチさんなら――と、ここでようやくさっきの違和感の正体に気付いた。
本来リイチさんがやるべきことを俺がしてしまっていたからだ。どうにもしっくりこなかったのはそういうわけか。
「リイチさ――」
呼びかけて俺は言葉を飲み込んだ。
普段の温厚な顔はどこにいったのか、眉根を寄せて、メガネの下の目はまるで何かに恨みでも持っているかのように歪んで見えた。握った拳も腿の横で震えている。こんなに苛立った様子のリイチさんなんて見たことない。
そういえばナコさんからの電話を受けてから様子が変だった。そう、あの時から様子はおかしかったのだ。
その瞬間、俺はそこにこの件につながる何かに気がついた。
あの時リイチさんは何か呟きながら……『考え過ぎなんかじゃなった』と言っていた。
そしてその電話を受ける前には俺に田代文佳の服装を聞いていた。それを考え過ぎだと否定し電話後、考え過ぎじゃなかったと考えを改めている。
ということは、俺にした質問とケイさんがさらわれた件はなにか関係があるということになる。そして当然その何かをリイチさんは掴んでいるのだ。
それを放置しておくわけにはいかない。今は少しでもこの件に関する手がかりが必要なのだから。
「リイチさん」
俺は真正面からリイチさんを見据えた。彼は目だけこちらに向けたが無言のままだった。それでも構わず続ける。
「確かナコさんから電話が来る前に、俺に質問してましたよね? それって――」
「どうでもいいじゃないか」
あまりに小さな声だったのでそれは聞き間違いだと思った。いや、そう思いたかったというほうが正しいだろう。
「あの……」
「そんなことはどうでもいい!」
リイチさんは怒鳴った。そのあまりの剣幕に俺はマヌケな金魚みたいに口をパクパクさせるだけで二の句が継げなかった。
「功刀君は守ることができたはずだ。気付く要素はあった。なのに気付けなかったんだ……僕はっ……くそ!」
ギリッとリイチさんの歯が鳴った。あまりの豹変振りに一歩も動くことができない。ただそんなリイチさんを目の前にするしかなかった。人間ここまで変われるものなのだろうか。
もしかしてリイチさんもケイさんのことが……。こんなときにも関わらずそんなことが思い浮かんでしまう自分が嫌になる。
と、その時、
「今度は別の買ってやる」
そんな低い声と共に視界に影が差した。
「だから寄越せ」
返事をする間もなく、キリュウさんは俺の手からペットボトルを――封を切らないままのミスターペッパーを奪っていった。彼はものすごい勢いでそれを振ると、あろうことかリイチさんにその口を向けた。
「キリュウさん!?」
止めようとしたときには既に勢いよく中身が噴出していた。たっぷり圧力のかかったミスターペッパーがリイチさんの頭から降り注ぐ様は、月並みだがスローモーションに見えた。
――間。
全てのものの動きが止まり、ただリイチさんから滴るミスターペッパーだけが辛うじて時の流れを教えてくれていた。
「き、木柳君……」
額に張り付いた髪を上げようともせず、リイチさんはキリュウさんを見た。
「ちょ、ちょっとヒトシ!」
落ち込んでいたナコさんもさすがに声をあげる。でもキリュウさんは一切反応することなく、じっとリイチさんを見返していた。
「そこはアンタのポジションじゃないっすよ」
ようやく口を開いたキリュウさんが言ったのはそんな言葉だった。リイチさんが何が言おうとしたが、キリュウさんはその出端を挫くようにして続けた。
「ヤバくなって落ち込むのはナコのポジション」
キリュウさんは後ろ手でナコさんを指した。
「イラ立ってキレるのは俺のポジション」
次に自分を親指で指す。
「オロオロしてバカみたいにパニくるのはオビワンのポジション」
今度は俺を顎で指す。
「そしてアンタはそんな中で落ち着いて物事を見るポジションだ」
最後にリイチさんを睨むようにして見た。
「ちなみに間違ったことしてるやつを諭すのがケイさんのポジションだけど、今はいないから俺が代役」
ケイさんみたいにうまくはやれないけどな、とキリュウさんは口の中で呟いた。それから気を取り直すように頭をかくと再びリイチさんを睨みつけた。
「要するに、勝手に俺らのポジション奪うなって事ですよ」
それを聞いた途端、リイチさんは思わずといった感じで吹き出した。それはやがて大笑いへと変わっていった。俺とナコさんは突然のことに呆然としてしまった。キリュウさんだけが毅然といた態度でそれを見つめている。
「……これはまた手厳しいね」
ひとしきり笑い終えたリイチさんはそんなことを言った。ミスターペッパーで濡れたメガネの奥の目は、いつものリイチさんのそれだ。
「僕はパニックになることも怒ることもしちゃいけないのかい?」
「そうっすよ」
キリュウさんが突き放すように、でもどこかホッとしたような感じで答えた。リイチさんは小さく息をついた。
「なら仕方ないね」
前髪をかきあげていつもの笑顔を浮かべる。その笑顔でその場にあったわだかまりやどんよりした雰囲気やらの悪いものすべてが綺麗に解けていった。
「まったく、仲間がヤバくなるとこれだもんなぁ」
ナコさんが腰に手をやって偉そうにリイチさんを見上げた。どうやらこちらも元通りのようだ。
「面目ない」
リイチさんはバツの悪そうに苦笑いを浮かべた。それを見て俺はハッとした。
彼は単純にケイさんを助けたいという思いと、守りきれなかったことの後悔のせいで我を見失っていたのだ。俺はそこに日ごろのリイチさんに対する周りの信頼、そしてリイチさん自身の周りに対する信頼を見た。
とにかく仲間を大事にするリイチさんだからこそみんな信頼してついていくのだ。一切曇りのない仲間に対する純粋な思いを持つ。それこそがリイチさんなのだ。一瞬でもケイさんのことが好きなのではと考えた俺がバカだった。もしさらわれたのがナコさんでもキリュウさんでもきっと、いや絶対に彼は同じように心配のあまり落ち着きを失っていたことだろう。
そしてこうも思う。周りを信頼していたからこそ、彼は感情を爆発させることができたのではないかと。誰かが自分を止めてくれる。そういう思いがどこかにあったからこそ、心に余裕があったからこそできたことのように俺には思えるのだ。
「あ、そうだヒトシ。アンタ一つ間違い」
思考に埋没していた俺を引き戻したのは、ナコさんの声だった。彼女は相変わらず腰に手をやったまま、ピッとキリュウさんを指差した。
「なんだよ?」
「私のポジションはね、落ち込むことなんかじゃないわ。みんなを暖かく見守る頼れるお姉さん。それが私のポジションよ」
なんだか釈然としない答えだが、それなら俺だって。
「俺のポジションも間違いですね。パニック要員なんかじゃなくて、大事な場面でのバックアップです」
つまりワトソンポジションだ。この数ヶ月を見れば、そこが一番落ち着く立ち位置であることはすぐにわかる。
「オビワンはらしいからいいとして、何言ってんだかね、うちのめだか師匠は」
「誰がネクタイと同じ長さよ」
春先に連発していたキリュウさんのネタに噛み付くナコさん。いつも通りに戻ったのは結構だが、事態はまったく好転していないことを忘れてほしくない。
「それにしても小尾君。君は自分のポジションをしっかり理解しているようだね」
歩み寄ってきたリイチさんが言ったので、俺は思わず聞き返した。
「どういうことですか?」
「元々そういった臨機応変な立ち振る舞い――自分という存在すらもその場に置き去りにし、一歩引いて物事を見ることができるところに期待して入会してもらったんだ」
「はあ……」
そんな自覚はこれっぽちもないだけにそう答えるしかない。リイチさんはそんな俺を見て笑うと、ケンカしている二人に向かって手を叩いた。
「さあ、まずは目の前にある問題を把握しよう。世治会の仕事はここからだ」
「ちょっと待ってください」
そう言って場の空気を停滞させたのは他でもない俺だった。
「まずは警察を呼びましょうよ。問題の把握はそれからでいいじゃないですか」
むしろなぜ今まで呼ばなかったのかが不思議でしょうがない。そういえばナコさんからの電話の時点で警察は呼ばないように言っていたような気がする。
「警察は呼べないよ」
答え合わせのようなタイミングでリイチさんが言った。
「おそらく相手は山井亮太だからさ」
「えっ」
理由を問いただそうと開きかけた口から出たのは驚きの声だった。一体何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。すぐにでも聞きたかったが、それは『問題の把握』をしていけばわかることのような気がしたので、あえて口には出さなかった。
「さて、僕は小尾君に、田代文佳の服装を聞いたと思うけど、答えはどうなんだい?」
「スウェットの上下でした、灰色の」
なんとなく聞かれると思っていたのですぐに答えることができた。リイチさんは少し目を細めた。
「長袖だったんだね?」
その言葉に僕はあの瞬間の感覚を思い出した。
彼を見た時なんだか妙な感じがした。それはいきなり飛び出してきたことや、足元がおぼつかなかったということもある。もしかしたらその時点で彼を女の子として見ていたことに自分自身で違和感を感じていたのかもしれない。でもそれ以前に彼女の服装――この暑さにも関わらず長袖を着ていたことが最大の要因だったのだ。とはいえ、
「長袖でしたけどそれが……」
山井亮太とどうつながるのだろうか。そいう思い首を傾げていると、キリュウさんがあっと、と大きな声をあげた。
「注射針の跡だな」
「ご名答」
リイチさんは満足げに頷いた。
「クスリをうつのに注射器を使っていれば腕は針の跡だらけになってしまう。だから夏でも半袖を着ることはできない」
「そういえば、ケイさんをさらっていった連中も長袖だったよ」
「合法ドラッグや脱法ハーブどころの話じゃねえってか、オイ」
キリュウさんがゴクリと喉を鳴らす。
リイチさんはそうだね、と本蔵を見上げた。
「功刀君をバッグごとさらったのは、中身が見られた可能性があったから……つまり見られてまずいものが入っていたからだ。そういった部分を考えても、ここが合法ドラッグ……いや、麻薬の取引に利用されていたのは間違いない」
リイチさんが正気じゃないときにキリュウさんが言った内容にまで触れられていて、俺は驚いてしまった。でも驚くだけがワトソンの仕事じゃない。
「でもリイチさん。そんな麻薬の取引をするような状況で、普通名簿に名前なんか残しますか? しかも本名ですよ」
「こっそり出入りしているのを見られたり、ヘタに偽名などを使ったりしてばれたりすれば言い逃れはできない。逆にちゃんと手続きを踏んだほうがリスクは低いんだよ」
答えてリイチさんは腕を組んだ。
「おそらく山井はここに麻薬を隠してそれを回収する、という方法で取引をしていたんだろう。調べれば田代文佳以外の常連もいるはずだ」
同時にここは麻薬の保管庫にもなっていたことが予想できる。ここにある程度の量を置いておけば頻繁な出入りをしなくてよくなるので、リスクもグッと低くなる。もっとも例のダメ管理人には顔を覚えられていたようだが。
なんにせよ、麻薬を扱っている上に市長の後ろ盾がある山井亮太が関わっていては、そうそう簡単に警察は呼べない。山井市長にもみ消されればそれまでだし、何より山井は人に無理矢理合法ドラッグを使わせて中毒にするような男だ。麻薬中毒にしてクスリを売るようなことも当然しているだろう。下手に警察を呼んで刺激してはケイさんが危ない。
「でもどうやって隠してたのかな。いくら来館者が少ないとはいえ、さすがに本棚の間に入れちゃおう、なんて不安じゃない」
本棚の間。ナコさんの言った言葉がなぜか引っかかった。
「本の間とかじゃねぇのか?」
「注射器なんだからムリよ。中でもくり貫いたなら別だけど」
「名探偵コナンかなんかであったよな」
キリュウさんとナコさんのやり取りを聞いているうちに、俺の頭の中で徐々に何かが構築されていく。いや、これはどちらかと言うと何かを思い出しているような感覚だ。そして、
「そうだ……軽かったんだ」
「は?」
思わず付いて出た言葉にキリュウさんが眉をひそめた。俺はみんなに向き直る。
「いや、本ですよ。ケイさんとここに来たときに、やたら分厚い本があったんですよ。でもそれすごく軽くて」
あれは奥のトイレ近くの本棚。田代文佳に遭遇する直前にいた場所だ。今思い返してみても、直前に持っていた本より明らかに厚いのに重さはそれ程ではなかったのはおかしかった。
「じゃあ本当に中をくり貫いていたかもしれないっての?」
ナコさんが言うので、俺は頷いた。
「でも中身は見てないのでなんとも……」
もしかしたらあの時トイレから物音がしなければ、俺はこの本を開いていたかもしれない。そう思うとなんだかしてやられたような気がして悔しいが、今はそんなことはどうでもいい。
「まあ、オビワンの言うことを信じるとすれば、ここが麻薬の取引に使われてたのはほぼ間違いないな」
「でも、だからってケイさんの居場所がわかるわけじゃないよ」
嬉々としたキリュウさんだったが、そのナコさんの言葉に一気に消沈した。確かに俺たちがしていることは目の前の問題を少しずつ解決していっているだけだ。それでもいずれはケイさんの手がかりを掴めると信じてやってきたが、もう解決すべき問題はない。ここで手詰まりになってしまった。
かに見えたが、
「さて、これで問題の把握はおしまいだ」
リイチさんはポンと手を叩いた。それは終わりを示すためのものではなく、次のステップへ進むための合図のようだった。
でも次のステップとはなんだろうか。推理小説ならここで推理を展開するはずだが、この状況では推理もへったくれもない。かと言って、ケイさんの居場所もわかっていないのだから動こうにも動けない。まさか、俺が言った本の確認をするというのではないだろうか? あんな漢字ばかりのタイトルなんて覚えているわけないじゃないか。大体の本棚の位置しかおぼえてない。そんなカッコ悪い絶望感に苛まれていると、
「あとは待つだけだ。ちょっとした賭けになるよ」
「待つ?」
「つーか、賭けってなんすか」
俺とキリュウさんは立て続けに質問した。しかしリイチさんはただ笑うだけで答えようとしない。それどころか全く別の話を始めてしまった。
「僕は木柳君の言った功刀君のポジションは本当にベストだと思うんだ」
「はあ」
肩透かしを食らったようにキリュウさんが気の抜けた返事を返す。
「間違ったことをする人を諭す。それは誰よりも冷静に物事を分析できないと務まらないポジションだ。そして実際に彼女はそうだと言える……僕はそこに賭けているんだ」
「だからそれってどういうことなの」
ナコさんが声を荒げたときだった。聞き覚えのある電子音――それもつい少し前に聞いた音が停滞しかけた空気を振るわせた。リイチさんのスマホがなっているのだ。
彼はまるで鳴ることを予想していたかのような素早い動きでスマホを取り出すと、笑いながらディスプレイをこちらに向けてきた。そこには080で始まる番号と『功刀恵』という名前が表示されていた。
「ケイさんから!?」
ナコさんが目を丸くする。まさかケイさんが直接かけてこれる状況にあるはずはないから、おそらくは犯人――山井亮太だろう。
「どうやら一つ目の賭けには勝ったみたいだね」
なにやら意味深な言葉を残して、リイチさんは携帯を耳に当てた。
「はい……そういうことになるね……性分だよ」
通話を開始したリイチさんだったが、どうも様子がおかしい。なんだか口調がのんびりしているような気がするのだ。まあ、相手は人さらいの上に麻薬の売人。緊張を隠すために意識してゆっくり喋るのは当然か。そんなことを考えていると、
「……忍者ハッタリ君」
いきなりワケのわからないことを言い出した。緊張のし過ぎで頭がおかしくなったのかと思い声を出しかけるが、リイチさんが手を出して制してきたのでどうにか飲み込む。
「……こっちは十人いるから……」
そんな脅しが通じる相手ではないだろうに。
「……最寄の駅を教えてくれないかい?」
友達の家に遊びに行くんじゃないんだぞ。
「……それは困るよ」
困ってるのはこっちだ!
「……切れたか」
リイチさんはおもむろに電話を離して息をついた。叫び出したい衝動を必死に堪えていたせいか、俺も大きく息を吐いた。横の二人も同じ心境だったのだろう、同様に肩を落とす。
それもこれもリイチさんの妙な電話のせいだ。そもそもあんな電話で向こうが怒ってしまってはケイさんが危ないじゃないか。そんな気苦労が俺たちを完全に脱力させていた。
しかし、当の本人は疲れた様子は見せずむしろ元気になってすらいるように見える。
「よし、木柳君はすぐに車を調達して第三部室棟まで。三輪君には今から言うものを探してきてもらうよ」
「は?」
ついつい眉をひそめてしまった。俺はもちろん名前を呼ばれた当の本人たちも事態を飲み込めないといった風にポカンと口を開けている。
「今の電話で何かわかったんすか?」
「わかるかどうかをこれから考えるんだ」
「また問題の把握から始めましょうってワケね」
ナコさんがわかったような口をきいたので吹き出しそうになったが、よく考えたら僕も状況をさっぱり理解できていないので、黙っていることにする。
おかしな電話の正体はすぐにわかった。
キリュウさんがどこからか『調達』してきた(深くは聞くまい)青いスポーツカーの前で俺たちは携帯を凝視していた。ボンネットの上に置かれたスマホにはスピーカーが接続されていて、そこからリイチさんが録音機能で録った先ほどの会話が流れていた。
『はい』
『アンタがこの女のお仲間か?』
『そういうことになるね』
『とろくさい喋り方だな』
『性分だよ』
『とろくさいくせに随分買われてるみたいだぜ。なんでも、この女が言うにはお前らが証拠見つけて駆けつけてくれるそうじゃないか』
『そうだね。とりあえず君の名前が山井亮太だということはもうわかっているよ』
「お、うまいもんすね。向こう完全にビビッてますよ」
キリュウさんの言う通り、電話の向こうの山井亮太は明らかに動揺していた。
「これでうまくペースを掴めたんだ」
リイチさんの言う通り、その後の主導権は完全にこちらが握っていた。
『……なるほどハッタリじゃねぇってワケだ』
『忍者ハッタリ君』
『ふざけてんのか!』
『いや、空気を和ませようとしただけだよ。緊張しているみたいだしね』
『黙っとけよ……』
『僕は黙ってもいいけど、後ろがうるさくなるよ? こっちは十人いるから』
『へえ、数で勝ってるからそんなに余裕なワケだ』
「うわぁ、バッカでぇ。自分で人数バラしてるよ」
「キレさせて更に流れを引き寄せたんだな」
ナコさんとキリュウさんが頷く。これで向こうの人数は十人以下だということがわかった。
『でもムダだぜ。アンタは手を出せない』
『どうして?』
『舐めた真似しやがったらこの女にヤクうたせてもらう』
『それは困る。彼女を迎えに行くよ。最寄の駅を教えてくれないかい?』
『最寄の駅? ンなモンねぇよ』
『となるとバスでいくしかなさそうだね』
『バスでちんたらきてる間にヤクうっちまうよ』
『だからそれは困るってば』
『一生困ってろ。じゃあな』
通話はそこで終わった。
「さすがに場所を言うほどバカじゃないよな」
キリュウさんが悔しそうに舌打ちをした。ナコさんも神妙な顔つきで唇を噛んでいる。多分俺も同じような表情になっていることだろう。
リイチさんは電話に出る直前『一つ目の賭けには勝った』と言った。リイチさん曰く、ケイさんはこっちに手がかりがないことを見越して山井に電話させるように誘導するはず、それが賭けだったとのことだ。
その賭けに関しては冷静に物事を分析した――キリュウさんの言葉を借りれば、間違ったことをする人を諭すポジションのケイさんのお陰で勝つことができた。
そこで問題なのはわざわざ『一つ目』と銘打ったところにある。それはすなわち『二つ目』があるという意味に他ならず、その内容こそ電話からいかに相手の情報を聞き出すかにあったことは今にして思えばわかる。
確かにそれなりに情報は確保できた。だが手に入れた情報だけでは、とてもケイさんを助けに行けるほどの手がかりにはならない。要するに俺たちは二つ目の賭けに負けたのだ。
だが、そんな空気の中、満足げな男が一人。言うまでもなくリイチさんである。
「これで結構絞れるよ」
そんなことまで言い出す。
「三輪君は生まれも育ちもこの街だったね? この界隈の地理的感覚は僕らよりあると思うけれど、どうだい」
「あ~、まあ。この中でジモティーは私だけだけど」
「地図を出してくれないか」
言われて、ナコさんは小首を傾げつつもまとめて後ろの席に投げ入れた荷物をあさりはじめる。
「おいリイチさん、何が結構絞れるだよ。せいぜい相手の人数くらいじゃないすっか」
あとは相手が山井亮太だということが確定いたくらいだ、と心の中でキリュウさんに続く。
「いいや、山井亮太はいろいろと教えてくれたよ」
笑いながらリイチさんはさっきの通話を再生した。ちょうど『忍者ハッタリ君』のくだりだ。
「ここで何かわからないかい?」
「何かって、ただ怒鳴ってるだけじゃ……あ、もしかして」
俺はスマホを見ながら答えた。
「声が響いてる……?」
「お、言われてみればそうだな」
隣でキリュウさんが頷く。
「つまり彼のいる場所は声が反響するような広い空間、最低でも屋根がある場所だ。無難に考えて倉庫か体育館、あるいは廃ビルかなにかだと思うよ。アパートの一室とかだったら捜索は絶望的だったけど、これなら少しはマシだ」
これを調べるためにリイチさんはわざと相手に怒鳴らせるようなことを言ったのだ。ただ怒らせてペースを掴むためだけではなかった……恐るべし『忍者ハッタリ君』。
そんな下らないことを考えていると、ようやくナコさんが車内から顔を出した。手にはこの街近郊の地図が見える。
「山井亮太は市長との関係を考えるとこの街にたまり場を作っている可能性が高いだろう。それに功刀君をさらってから電話してくるまでのスパンを考えても市外まで行っているとは考えにくい」
リイチさんがナコさんの持つ地図を見ながらそんなことを補足した。そして三たび、通話を再生する。今度は最寄の駅云々の部分だった。
「やっぱり駅名なんか言ってないじゃん。まさか『ンナモンネェヨ』っていうのが駅名って言うんじゃないでしょうね」
ナコさんが的外れなことを言う。
だが今回ばかりは俺にもリイチさんが言いたいことを理解できた。彼はそんな俺に気づいたらしく、メガネを直しながらふにゃりと笑う。期待とも挑戦とも取れるその表情に後押しされ、俺は口を開いた。
「返答がスムーズなんですよ。いきなり『最寄の駅は?』なんて聞かれたら普通は少しくらい戸惑いますよね。本当に最寄の駅があればの話ですけど」
キリュウさんとナコさんは頭上に『?』を浮かべている。ただリイチさんだけは笑顔のまま俺のほうを見ていた。
「だから最寄の駅はないんですよ。最寄と言えるくらい近くに駅がない場所なんです」
「そういうことか」
キリュウさんが指を鳴らした。
「なら次のバスがどうのこうのってのもわかるぜ。バスは通ってるけどここからじゃ時間がかかる場所ってことだな」
「ああ、向こうは私たちが初瀬野大学にいることはある程度予想できるもんね」
ナコさんは頭上の『?』を振り払うように大きく頷いた。
「つまり」
リイチさんがまとめに入った。
「市内にあって、バス路線の範囲内だが、駅と大学から遠く、尚且つ倉庫や体育館、廃ビルのような声の響く場所。ついでに人気がないという条件を加えても差し支えないだろう。そこに功刀君はいる」
最初に思っていたより遥かに多い情報量だ。でもやはりこれだけでは――
「ダメだよリイチさん。少なく見ても五箇所くらいにしか絞れない」
五分ほどしてナコさんが地図に丸をつけながら悔しそうな目を向けてきた。やはりここまでが限界だったか。そう思ったがしかし、
「いや、北側に絞れただけ十分だよ」
リイチさんが言うので地図を覗き込むと、確かに初瀬野大学の上方――つまり北側に五つの全ての丸があった。密集というほどそれぞれが近いわけではないが、しらみつぶしに探せないほどの距離ではない。そもそもこの推測が正しいかどうかすらわからない状況だが、僅かな希望が生まれたことは事実だ。だが、
「よし出よう。あとは走りながら絞る」
リイチさんはまだその希望を大きく膨らませようとしているようだ。その号令にキリュウさんは運転席に、ナコさんは助手席に乗り込んだ。
「絞るって言ってもどうやってですか」
後部座席に座りながら尋ねる。リイチさんは右手に持ったスピーカー付きのスマホを示した。
「ヒントになるのは何も会話内容や声だけじゃないよ。僕がどうしてあんなにのんびりした口調で話していたかわかるかい」
「それは……相手との通話時間を伸ばすためとか」
「その通り。わかっているじゃないか」
思いつきで言ったにも関わらず当たってしまった。でも所詮は当てずっぽうなだけにそれから先に思考が進むことはなかった。そしてリイチさんはそんなことなど当然のように見抜いており、スマホの配線を確認しながら答えを言った。
「通話時間を伸ばして周りの音を拾おうと思ったんだよ。入っているかどうかは音量を上げてみてからのお楽しみだ」
おそらくさっきは会話内容や声に集中するために音量は適音だったのだろう。だからリイチさんの言う通り、回りの音が入っているかどうかはわからない。まさにここは三つ目の賭けと言っていいだろう。
「よっしゃ、出すぜ。掴まってろよ」
キリュウさんは言うやいなやアクセルを踏み込んだ。掴まっていろと言うなら掴まっているのを確認してから発車して欲しい、というツッコミすらさせてもらえなかった。
俺たちの体は座席に押し付けられ、俺は思わず蛙のような声を上げてしまった。
スポーツカーだけあってエンジンの音は凄まじい。マフラーが改造されていないのがせめてもの救いだ。それにしても構内を突っ走るスポーツカーをいうのもまたすごい。
「東門でいいっすね?」
「ああ、頼むよ」
爆音とともにありえない速度で疾走するスポーツカーの中なのに、リイチさんは安全運転のタクシーにでも乗っているかのような軽やかな口調で返す。
大学の北側に場所が集中しているのだから素直に北口から出て行きたいところだが、門の利用者の人数を考えると東口を選択したキリュウさんの判断は正しい。まさか強引に突っ込んでまたモーゼの十戒をするわけにもいくまい。というか、間違いなく誰か轢くだろう。
車は東口から飛び出して――比喩ではなく本当に飛んだ――タイヤを軋ませながら公道に乗った。
瞬間キリュウさんはダブルクラッチでシフトアップ。車は更に加速した。スピードーメーターは見間違いでなければ百二十キロを指している。未体験の速度ではないが、公道では初めてだ。
「ちょっと、警察に捕まらないでよね」
ナコさんが助手席で声をあげる。反発するかと思ったがしかし、キリュウさんは素直に頷いた。
「任せろ、捕まらないくらい飛ばしてやるからよ」
「それならよし。頼もしい限りだわ」
頷くナコさん。一体何がよしなのか。心の中でそんなツッコミを入れていると、ナコさんはこちらに振り向いてきた。
「で、ここからどうするの」
「とりあえず幹線道路へ。三輪君、地図を」
リイチさんはナコさんから地図を受け取ると空いたほうの手で俺にイヤホンを渡してきた。コードの先はスマホにつながっている。リイチさんが流すよ、と目で合図してきたので俺はその片方を耳に押し込んだ。真ん中に携帯を置いて左耳に俺、右耳にリイチさんがはめた形だ。こういうカップルを電車で見るな、などとどうでもいい事を考えていると、程なくして例の通話が流れ始めた。
ついつい会話に耳が行きそうになるが、どうにか神経を周りの音に集中させる。しかし、目ぼしい音は一切聞こえてこない。たまに山井の仲間のものらしきドタドタという足音がなんだか腹立たしく聞こえる。
「幹線道路に入ったよ!」
イヤホンをしていない耳からナコさんの声が飛び込んできた。
俺は喉の奥で唸った。再生されるリイチさんののんびりした声が気持ちを焦らせ、またイラつかせた。でもこればかりはどうしようもならない。とにかく今は少しでも情報を集めねばならない。とにかく何か聞こえてくれ。
さすがのリイチさんも焦りの色を隠せていない。助手席のナコさんも不安げな表情でこっちを振り返ってくるし、キリュウさんもたくさんの車を追い越しながらもルームミラーでチラチラ様子を窺っている。
五つの場所を全て回るようなことはなんとしても避けたい。それが俺たち全員の共通意見だった。
誰も口には出していないが、山井亮太の『バスでちんたらきてる間にヤクうっちまうよ』という言葉がどうしても気になっていた。あの場ではバス路線内というところで終わったが、実際バスなどどうでもよかった。
ちんたらきてる間にヤクをうつと言っているのだ。それがバスだろうと候補地五箇所全てを回ろうと関係ない。遅くなればなるほどケイさんが危ないのだ。
それでも誰も何も言わなかったのは、不安がっている余裕があったら前に進めというのもまた僕達の総意だったからである。
「クソがっ。近場から当たってくしかねぇのかよ」
キリュウさんに言われて窓の外を見る。確かにもう少し進んで曲がれば一番最初の候補地に着く。でも、一度幹線道路を離れてしまうのでそれだけでも大きなロスだ。もはや猶予はなかった。
「頼むよ……」
リイチさんの呟きが聞こえた。俺も必死に耳を澄ます。何でもいい。何でもいいから聞こえて来い。俺はイヤホンをぐっと押さえつけた。
『バスでちんたらきてる間にヤクうっちまうよ』
それはまさにその言葉の直後に聞こえた。俺は声にならない叫びと共にリイチさんを見た。
「わかってるよ」
興奮気味に返してリイチさんは同じ場所を再生した。それはあまりに小さなものだったが、俺たち初瀬野大学の学生に馴染みのある言葉だったので辛うじて聞き取れた。
「間違いないですね」
「うん、初瀬野と言っている」
「え、なになに!」
ナコさんがひっくり返りそうな勢いでこちらに乗り出してくる。
「運動部の掛け声だよ。ランニングとかするときの」
「あの『初瀬野ぉ~ファイ、オー、ファイ、オー』ってやつっすか?」
俺とリイチさんは頷いた。かなり小さく不鮮明だったが確かにたまに耳にする運動部の掛け声だった。
「今、木柳君が言ったように『初瀬野』の部分を伸ばしてるから屋外の運動部だ。屋内の部活は伸ばさないのが昔からの伝統だからね」
そういえば構内を歩いている時も『初瀬野ぉ~』と『初瀬野ッ』の二パターンがあったような気がする。
「でも外の部なんて山ほどありますよ」
俺が言うとルームミラーの中のキリュウさんがどうかな、と薄く笑った。
「わざわざ掛け声かけるって事はそれなりに大所帯なんじゃないか? ついでに、グラウンドや構内ならともかく、校外のロードワークで声出しするってことは結構マジな部活だ」
「また絞れたね。ラグビー部や野球部が――」
「野球部!」
突然ナコさんが声を上げた。
「そうだ、私のゼミに野球部のマネージャーの子がいて聞いたことあるよ。夏の地獄のロードワークのこと。コースもその時に聞いたんだ。ちょっと地図貸して」
言いながらナコさんはリイチさんから地図をひったくって言った。豊岡川を駒真内方向だから、などと呟きながら地図に書き込んでいく。
こうなればもはや上級生達の独断場だ。屋外、屋内部の伝統やら、ゼミの友達やら入学して三ヶ月ちょっとのぺーぺーにはわからないことだらけだった。
「これで二択よ!」
勢いよく地図を返してくるナコさん。見ると野球部のロードワークコースらしき線が大学から引っ張られていて、二つの候補地を見事に通過していた。たまたま知っていた情報でここまでくるなんて、運がいいとしか言いようがない。むしろ奇跡とすら言っていいかもしれない。
「二択ってどういうことだ?」
ハンドルを切りながらキリュウさんが聞いてくる。ドライバーとして早く知っておきたいのだろう。
「この幹線道路をずっと行くとYの字の交差点があるだろう。そこの左右で二択だ」
リイチさんはそう言ってから、再び地図に目を落とした。その目に不安げな色が浮かんでいたが、俺はその理由にすぐ気付いた。
幹線道路はY字路で別れたあとは完全に離れていってしまう。しかも候補地はそれぞれY字路のほぼ突端――人気も交通量もほとんどない郊外にあるのだ。一度どちらかに行ってしまえば、次に行くまでに時間がかかるのは目に見えている。
つまり一発で当てなければ多大なタイムロスになってしまい、それだけケイさんも危なくなる。まさに究極の二択だった。
「どっちかに絞れないんすか。野球部が走った時間と声がした時間を計算したりとか」
「そもそも野球部が大学を出た時間がわからないんだ、無理に決まってるじゃないか」
リイチさんは少しだけ声を荒げると、両耳にイヤホンを押し込んだ。なにか取りこぼした情報がないかを確認するのだろう。
「交差点まであと何分もねぇぞ」
キリュウさんが吐き捨てるように言った。
ここは勘に頼るしかないのか……いや、それはあくまで最終手段だ。まだ何かできることがあるはずだ。
俺はリイチさんが投げ出した地図を手に取った。外と見比べると地図にあるのと同じコンビニを通過するところだった。キリュウさんの言う通り時間はほとんどない。
地図上の幹線道路を目で追っていく。右に行けば潰れたガソリンスタンド、左に行けば今度は廃校になった小学校だ。
頭の中に転がっている記憶の中から、少しでもヒントになりそうなことを必死に探した。何か連中の居場所についての手がかりはないか。どんない小さいことでもいい。いや待て、ここは落ち着くべきだ。
リイチさんが言ってたじゃないか。まずは目の前の問題を把握することだって。
目の前の問題はケイさんの居場所がわからないこと。そして彼女をさらったのは山井亮太だ。彼はどんな人間だ?
山井は市長の権力の下で好き勝手にやっているようなやつだ。だから堂々と大学の構内で麻薬の取引ができる。そういえば麻薬のルート確保に市が一枚噛んだって牧さんが言っていた気がする。
「わかりましたよ」
その考えに行き着いた瞬間、俺はそう言っていた。
「マジで、オビワン!」
ナコさんが慌てて振り返ってくる。俺は大きく頷いた。
「思い出したんですよ。キリュウさんの後輩の牧さんが山井の麻薬のルート確保に手を貸していたって言っていたのを。それは市がかなりのところまで山井を助けたって証拠です」
「かなりのところまで手を……そうか、場所の確保もか」
リイチさんが手を叩いた。
「三輪君、確かこの廃校になった小学校って」
「小学校は……市立だよ、間違いない」
二人は顔を見合わせた。
市が用意できる場所といえば市立だったり市営の場所の可能性が高い。この小学校も廃校になって何年も経つにも関わらず残ったままだ。去年廃校になった俺の出身小学校が取り壊されたのにここが残っているというのも推理の要素として機能していた。
「そうか、あの足音……」
リイチさんがイヤホンをはめ直しながら呟いた。俺は聞き返す。
「足音?」
「うん、あのドタドタという耳障りな足音。何か引っかかっていたんだけど、あれは体育館の床を踏んだ音だったんだよ。倉庫やガソリンスタンドなんかのコンクリートじゃ、あんな足音はしない」
全員が感嘆の声をあげた。
たしかに言われてみるとそうだ。コンクリートやタイルではあんな足音はしないだろう。俺がただイラついていただけの音を最終的な決め手にしてしまうとはさすがはリイチさんだ。
「決まったな」
キリュウさんがルームミラー越しに笑った。ふと進行方向を見ると、既にY字路を目視できる位置にまで来ていた。
「ギリギリでしたね」
「ギリギリでも勝ちは勝ちだよ」
呟くとリイチさんがぽんと俺の肩を叩いた。
「さっきは功刀君が物事を冷静に分析できるといったけれど、君も負けていないね」
「……ありがとうございます」
なぜか今回ばかりは素直にそう言えた。それは多分自分自身が初めてみんなの役に立てたと実感できたからだと思う。
「やっぱ牧にオビワンを会わせて正解だったなぁ!」
そんなことを言いながらキリュウさんは思い切りハンドルを左に切った。
耳をつんざくようなスリップ音とゴムが焦げるような臭いを感じながら、俺は思い切りドアに叩きつけられた。ついでにリイチさんがのしかかってきた上に、しまっていた荷物が頭を直撃したのだからそのダメージはなかなかに大きい。
「コラ! 乱暴な運転するな!」
ナコさんが今更ながらの文句を言っている。俺とリイチさんは互いに謝り合いながら荷物を整理していた。それは地図と一緒にナコさんが探していたものだ。バットやら木刀やらはいざという時のものだとわかるが、俺にはどうしても使い道がわからないものが一つだけあった。
「あの、これって何に使うんですか?」
リイチさんに聞いてみる。考えてみれば車に乗って以来初めて余裕ができた瞬間だった。
「これは君が使うものだよ」
そう言ってリイチさんはそれを押し付けてきた。ただわけがわからずオロオロする俺に、リイチさんは一言付け加えた。
「君が今回の勝利のカギなんだよ」
凄まじい衝撃に俺の記憶は一瞬飛んだ。
校門の古ぼけた神郷小学校の文字を見たところあたりまでは覚えている。その後は……確かそのままグラウンドを突っ切って――
「車ごと突っ込んできやがった!?」
そんな声が車外からして、俺の頭は一気に覚醒した。あの時最後に見たのは体育館の鉄扉が積み木のように吹っ飛んでいく光景。
俺たちの乗ったスポーツカーはバンパーを吹っ飛ばしボンネットを見事にへこませて、ちょうど体育館の真ん中、バスケットのセンターサークルの真上に停まっていた。
少しヒビの入ったフロントガラス越しにガラの悪い男達が見える。その誰もがこの暑さで長袖姿だ。男たちはさすがに驚いたのだろう、皆ステージにへばりつくようにして目を丸くしている。ざっと見渡してみると隅っこのほうで田代文佳が小さくなっているのを見つけた。メンバー内ではそれ程地位が高くないようだ。
ステージの中心に立っていた山井が、両耳の釘を不気味に光らせている。そしてそんな彼の足元にはケイさんがぺたんと座っていた。
「ケイさ――」
「それじゃあ、手はずどおりにいこう」
思わず声をあげそうになる俺を制してリイチさんが言った。僕たちは互いに頷き合う。
「うぇ~い、世治会参上っってか」
気の抜けた声と共にキリュウさんがドアを開いた。続いて助手席のナコさん、最後に後部座席から俺、リイチさんの順番で降りた。
「君が山井君だね」
リイチさんが後部座席のドアは開いたまま言う。山井は驚いたような表情を消して、下品な笑みを浮かべた。
「テメエらがこの女のお仲間かい」
その言葉に、落ち着きを取り戻した取り巻きもニヤニヤしながらこちらを見てくる。
「うわぁ、みんな長袖で暑そう」
「汗をかかない体質なんじゃないですか?」
「それにしても八人か。確かに十人以下だったけど大丈夫かい?」
「そうっすねぇ、あと一人増えたらヤバイかもしれないっすねー」
相手を無視して、打ち合わせどおりの会話をする。これだけわかりやすくシカトすれば、こちらが挑発目的だということは頭の悪い彼らでもわかるだろう。しかし、そうとわかっていても『挑発されたという事実』が彼らを挑発することになるとキリュウさんが言っていたが、見事に的中。彼らは露骨に不快感を顕にした顔でこちらを睨みつけてきた。
「なに舐めてくれてんだよ」
取り巻きの一人が舌打ちをしながらメンチを切ってくる。これだけ距離が離れているにも関わらず俺は震え上がってしまった。でもそんなリアクションを取ってしまったのは俺だけで、みんなどこ吹く風といった感じだった。場慣れしていそうなキリュウさんはともかく、ナコさんとリイチさんには驚かされる。
それだけこの作戦がうまくいくと信じているということだろうか。俺は両肩に重いものを感じた。
「ベタな脅し文句だなオイ。つか、お前ら、まだ小学校にいるとかどんだけバカなんだよ。どんだけ留年してんだノータリンが」
キリュウさんが更に挑発しながらステージに向かって歩いていった。
「バカが」
山井が独り言のように言った。同時に取り巻きがステージ幕の裏に隠していたバットや竹刀、木刀など思いつく限りの打撃系凶器を手にした。そしてそのまま一斉に動いてキリュウさんを取り囲む。
「あ、ずるい!」
ナコさんが声を上げたが、誰も振り向かなかった。彼女を含め俺たち三人は放っておいても害はないと判断したのだろう。
案の定、山井は後ろのザコはどうでもいい、と前置きしてからキリュウさんに向き直った。
「おい、金髪。おめー何モンだ」
「誰だチミはってか?」
山井の問いにもキリュウさんの態度は変わらない。相手からしてみれば、こいつは状況をわかっているのか、とでも思うことだろう。
「そうです、私がキリュウジンです」
「キリュウジンだぁ? 知らねぇな」
山井はキリュウさんをただの小物と判断したようで、ヘラヘラ笑っている。だが、取り巻き立ちの反応は違った。その名前を聞いて明らかに動揺しているのがわかる。
「……なんだテメェは」
さすがに山井も取り巻きの反応が気になったのだろう。聞かずにはいられないという様子で聞いてくる。
「だからキリュウジンだって言ってるだろ。昔はちょっとした有名人だったんだ。ま、お前の先輩みたいなモンだな」
クスリはやってないけどな、と付け足したので少し安心。でもさっきの取り巻きの反応といい、今のセリフといい、キリュウさん……あなたは昔何をしてたんですか。
彼に対してそんな思いを抱いたのは俺だけではなかったようで、山井も眉を寄せている。ただここからでもわかるくらい顔が強張っているのを見る限り、恐怖心も一緒に抱いているようだが。
「だ、だったらロートルには退場してもらおうかな、キリュウよぉ」
山井はごくりと唾を飲み込んだ。明らかにキリュウさんに気圧されているのが見て取れるが、山井はそれを隠すためにあくまで尊大な態度を取ることにしたようだ。それが虚勢だということに気付かずに。
「『さん』くらい付けろ。無礼な後輩だな」
キリュウさんが言うと、山井の顔が更に強張った。しかし、その表情は不気味な笑みにすぐかき消された。どこか安心したようにも見える。
「うるせえよ」
山井は言うと、おもむろにステージ上に置いてあった箱から注射器を取り出した。そして横で座っていたケイを立ち上がらせるとその首に針を押し当てる。ケイさんが小さく悲鳴を挙げた。
「あんまり抵抗すると、ぷすっと行くかもな」
「おお、まさに悪役だね」
キリュウさんは相変わらずの口調だったが、明らかに顔が強張っていた。少なからずの動揺があったのだ。もっとも自分で見ていないからわからないが俺自身はとんでもない顔をしていたと思う。声が出なかったのは奇跡に等しい。
「やれ」
一切の躊躇もなく山井が命令すると取り巻きたちは一斉にキリュウさんに襲い掛かった。はじめは戸惑いがちだった取り巻きも相手からの抵抗があまりないことから、嬉々として攻撃に参加していった。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。同時にさっき肩に感じた重さの正体がプレッシャーだということに気が付く。そしてそれを知ったことでまたプレッシャーが――
「大丈夫、うまくいくよ」
そんな負の連鎖を止めてくれたのは肩に置かれたリイチさんの手だった。物理的には重くなっているはずなのに、俺の肩はみるみる軽くなっていく。
俺は落ち着いて喧騒の輪を見た。
キリュウさんはたまに反撃する程度で、うまく攻撃をかわして逃げ回っている。車中で相手の質によるけど十人ちょいはいける、と自信満々に言っていたのは嘘ではなかったようだ。
しかもキリュウさんはあの人数の攻撃から逃げながらも、彼らをうまく誘導していた。もう少しすれば打ち合わせどおりの場所まで『戦火』を移せるだろう。
「……いきます」
「ああ、頼んだよ」
小さな声でエールを受けて俺はスポーツカーのドアの陰で頷いた。
山井は忌々しげに舌打ちをした。八人がかりでなぜこんなに苦戦するんだ。
キリュウがチョロチョロ逃げ回るせいでたまにこちらに取り巻きが飛んでくるくらいの位置まで戦場が移ってきていた。うっとおしいことこの上ない。
「おい、避けるのも抵抗のうちだぜ」
山井は下卑た笑みを浮かべつつ勝手なルール変更をした。キリュウの目が僅かに歪んだのを見て更に笑みを大きくする。
それにしても……。
「テメェはなんか言わねえのか?」
さっきからずっと無抵抗のケイに聞く。あいつらが来るまでは口を開くたびに嫌味ばかり言っていたのだが、今はぱったりと何も言わなくなった。少し殴りすぎただろうか。
「怖くて声が出ないか?」
「いいえ。ちょっと安心しちゃって」
ようやく発した言葉がそれだったので、山井は怪訝に思った。
「何言ってやがる?」
「言葉の通りよ。もうすぐ助かると思うとつい、ね」
ケイに挑戦的な目を向けられた山井は、そのあまりの自信っぷりに思わずキリュウに視線をやった。
取り巻き達の間から一瞬見えたキリュウはこちらを見て笑っていた。嫌な予感がする。
そして次の瞬間見事にその予感は的中した。
「今だ小尾君!」
キリュウの仲間のメガネが叫ぶのと同時に、白いパーカーを着た男が乱闘の輪から飛び出してきてバットを振りかぶった。
瞬間、俺が感じたのはバットで山井を殴った感触ではなかった。正確に言えばそのバットは振り下ろされることなく俺の手から離れていったのだ。
バットを振りかぶって山井の前に躍り出た瞬間、山井はケイさんを横に押し退けて、そのまま俺の脇腹に強烈な回し蹴りを叩き込んだのだ。
バットは手から離れ、俺は滅多に感じることができないであろう空中浮遊のような感覚を味わいながら綺麗に吹っ飛んだ。
かくして、現在の仰向けに倒れる俺とそれを見下ろす山井という構図が出来上がったのだった。
「化けるとかセコくねぇか」
山井はものすごい剣幕でこちらを見下ろした。右手には注射器、左手には手錠みたいに縄で縛られたケイさんの手――俺を蹴ったあと、すぐに捕まえたようだ――があった。
なぜこうなったんだ?
乱闘になったら開けっ放しにしておいたドアの陰で、長袖のパーカーに着替えてこっそり戦闘の輪に紛れ込む。それから隙を見て山井からケイさんを奪還する――ハズだった。所詮凡人にはケンカは無理だったということか。
俺は勝利のカギなんじゃなかったのか……。
「とりあえず殴ろうとしてくれたお礼はしないとな」
山井の目が厭らしく細められた。俺は声を出すこともできず、ただ口をぱくつかせるだけで精一杯だった。
頼みの綱のキリュウさんは八人も相手していて出てこれないし、その乱闘の向こう側にいるリイチさんとナコさんはここまでたどり着けないだろう。
「このクソ野郎が……」
山井の上げた足の影が俺の顔にかかった。そんな絶望を象徴したかのような状態から、せめて視界だけは逃げたいと思い俺はぎゅっと目を閉じた。
「がっ……ああ……?」
そんな声が漏れた。でも俺の口からではない。じゃあ一体誰の? 不思議に思って目を開けると、そこには腹を抑えてふらつく山井の姿があった。
そしてそんな山井に正対していたのが、
「け、ケイさん……?」
蚊の羽音程度の声しか出なかったので、本人の耳には届かなかったようだ。
ケイさんは自分でも何が起きたかわからないといった様子で目をパチクリさせている。が、やがて山井が自分を睨みつけていることに気付くと、一歩後ずさった。
「や……」
ケイさんの口からポロリと声が漏れる。でもどこか様子が変だった。後ずさった歩幅が妙に大きい気がする。
だが、山井はそんなことには気付かず上体を起こすとなにやら叫びながら拳を振りかぶった。瞬間、
「やああああッ!」
ケイさんの叫び声が轟いた。
でもそれは悲鳴には聞こえなかった。どちらかと言うと気合に近かったと思う。
俺がそう結論付けたのは、その叫びと共にケイさんのハイキックが山井のテンプルあたりを捉えていたからだ。山井はそれこそKOされたボクサーのように床に崩れ落ちて動かなくなる。
その時乱闘の輪の中で声がした。
「よし、もう本気出していいな」
キリュウさんがそんなことを言ったが、その言葉の後半は山井の取り巻き達の絶叫でかき消されて聞こえなかった。
そんな阿鼻叫喚をBGMに俺はようやく我に返った。
「ケイさん――」
俺はケイさんに話しかけようと思ったがそれはできなかった。
彼女もまた目の前の脅威が去った事で我に返ったのだろう。まるで夜眠れなくてぐずっている子供のように手を胸の前で組んで震えていた。そんなケイさんはちょっとでも触ると壊れてしまいそうなくらいはかなげで、また美しくもあった。
今の彼女は山井に対して怯えているのだ。
さっきまでのケイさんなんて関係ない。今のケイさんを守ってあげねば。醜態をさらしていた自分のことなど棚に上げて、俺はそんな使命感に燃えていた。
しかし、
「功刀君!」
そんな爽やかな呼びかけは、同時に俺の使命感が徒労に終わることを告げていた。
「リイチさん……」
言いながらケイさんはリイチさんの元に駆け寄り、その腕に飛びついた。そして赤ん坊のように泣きじゃくる。
「…………」
俺は沈黙する以外に何をしろというのだろうか。
なんだろうかこのやるせなさは。もちろん見返りを求めていたわけでは断じてない。けれどこれはあまりに……あんまりだ。
「いやいや危なかったねぇ、オビワン」
いつの間にかやってきていたナコさんが俺を見下ろす。さすがに俺も座った状態で彼女に勝てるほど身長は高くない。そして彼女もそれほど小さくない。
ナコさんは未だに大暴れしているキリュウさんと、リイチさんの腕にしがみつくケイさんを交互に見ながら、
「釈然としないかね、少年」
などということを言ってきた。俺が憮然とした態度で見上げていると、ナコさんは仕方ないねぇ、と肩をすくめた。
「オビワンにも仕上げを手伝わせてあげよう」
「仕上げ?」
「そそ」
ナコさんが笑いながら取り出したのは金槌だった。その仕上げとやらはこれを使うようだがどう使うのだろうか。こんなのもせいぜい釘を打つぐらいにしか……。
「あ」
「そういうこと」
弾むような声で言いながら、ナコさんはステージ前で倒れている山井を見た。
ドタドタとやかましい足音で山井は目を覚ました。そして同時に聞こえてくるパトカーのサイレンに戦慄する。
警察が来た。他のメンバーはどこに……いや、やつらなんかどうでもいい。とにかくすぐに逃げなければ――
醒めきらない頭でありながらそれだけのことを考えると、山井は仰向けになっていた体を起こそうとする。しかし、それは叶わなかった。
「――?」
まるで体が床に張り付いたように動かない。いや、手足は自由に動かすことができる。動かないのは頭だ。無理矢理動かせないこともないのだが、そのたびに耳に激痛が走って引き戻されるのだ。まるで両耳を引っ張られるように。
「まさか……っ」
山井がその考えに行き着くのと同時に天井しか見えなかった視界に紺色の制服を着た警察官が数人飛び込んできた。皆一様に眉を寄せている。
「お前相当クスリにやられてるな」
警官の一人が聞いてきた。彼は山井の顔の両横――つまり耳を見てタメ息混じりに続けた。
「自分の耳を床に打ち付けるなんて」
山井の両耳で銀色の釘が鈍く光った。