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第二章『存在しない女の子』

 第二章 存在しない女の子


  七月二十三日 十二時四十一分


 よく一目惚れなんてあり得ないというのを聞く。

でも、俺としてはもし本当にないのならそういう言葉自体が存在しないと思うし、そして何より自分自身がそれを体験してしまっているのだから、やはり一目惚れというものの存在を認める側の人間であることを自覚せざるを得ない。

 そんな一目惚れの相手と二人っきりで歩くのは非常に胸が躍る。

炎天下の中を「初瀬野ッ、ファイ、オー、ファイ、オー」と汗だくの柔道部とすれ違いながら楽しくおしゃべりをして歩いて、転がってきたサッカーボールをケイさんが蹴って返してあげたらやたら距離が出て驚いたり、俺が経済学部の教授のモノマネをしてそれがウケたり、俺としてはすっかりお散歩デートなんかしている気分だった。この時ばかりはこの広いキャンパスに感謝した。

デート気分を味わえて、暑い日に涼しい図書館に行けて、しかもお手伝いで評価アップのチャンスとまさに一石二鳥どころか三鳥までいただけるなんて、なんて運がいいのだろう。

――とまあ、そうそううまくいかないのが人生なワケで。

 結論から言うと着いたのは図書館ではなく、あぶれた本が蔵書されている図書第三閉架館、通称本蔵と呼ばれる古い建物だった。その通称の通り蔵を大きくしたような外観のそこは当然エアコン完備、などということはない。そのくせ定年後の再雇用お爺ちゃんの管理人完備といういらないサービスつきだ。

 そしてそんな蒸し風呂状態の上に、ケイさんの求める資料は高度すぎて俺にはさっぱりわからず、点数稼ぎどころかむしろ足を引っ張ってしまう始末。結局邪魔にならないように隅っこで本を出したりしまったりして時間を潰すしかなかった。

 やっぱり凡人の俺には一石一鳥がちょうどいい。デート気分を味わえただけで十分だ。でも、

「はあ……」

 誰もいない空間に僕のタメ息が溶けていった。実際にはケイさんと『誰か』、そして管理人さんがいるのだが、今は俺一人だけがここにいるような錯覚に囚われる。ここには一応貴重な資料もあるため、入り口にある名簿に名前と入退館の時間を書くことになっている。それによると俺とケイさんの名前の上に一つ名前があった。『誰か』がいるのを知っているのはそれを見たためだ。

 俺は手に持っていた本を戻してから本棚を見上げた。見てもすぐに忘れてしまいそうなくらい難しい単語の応酬に目が回りそうになる。

「すごいや」

 子供みたいなことを呟きつつ、適当に目についた本に手をかけた。

 さっき手にしていた本の五倍以上はありそうなその本は鈍器のような、というかもはや鈍器だった。さすがに片手でというわけにはいかず両手で取り出そうと思ったが、意外にも片手でスルリと棚から抜ける。えんじ色の表紙には『諸本集成倭名類聶寫擾』と漢字がずらりと並んでいた。どう考えても誰も読みそうにない。

「ん?」

不意に俺はその本に違和感を覚えた。それはタイトルを声に出すと誰かを呪ってしまいそうな感じがするとか、そんな下らないことじゃない。もっと根本的な何かに違和感があるような気がするのだ。

 本を手に立ち尽くしていると、突然どこからか物音がした。ケイさんの邪魔にならないように奥へ奥へと進んできたのだが、音は更にその奥――つまりトイレのほうから聞こえたようだった。

俺は本を棚に戻すと音のした方へ向かった。トイレはすぐに見つかった。建物自体が古いせいか予算の関係かはわからないけど、今時男女兼用のトイレだった。その一つしかない入り口の扉がガタガタ揺れている。

何かあったのだろうか。だとしたら放っては置けない。というよりケイさんだったら大変だ。俺は駆け寄ると軽く扉を叩いた。

「どうかしましたか?」

 呼びかけるとピタリと揺れは止んだ。一体どうしたんだろう――などと考える余裕など無かった。

 俺はあまり運動神経のいいほうではない。だから突然開いた扉とそこから飛び出してきた人影を避けることができたのは、ほとんど奇跡と言っていい。

「うわっ」

 悲鳴をあげる俺の横を灰色の人影が通過していく。振り返ると人影が肩まで伸びた茶色い髪を振り乱しながら走っていくのが見えた。灰色に見えたのは上下とも灰色のスウェットを着ていたからのようだ。

 髪型と小柄な体型から女の子のようだが、どうにも足元がおぼつかないように見える。まるで酒に酔ったみたいな妙な感じだ。

「ちょっと」

 声をかけたが、女の子はそのまま走り去ってしまった。どうでもいいが、ここまで来て彼女が俺たちより先に来ていた『誰か』だということに気がついた。

「どうかしたの?」

 呆然と彼女の走り去った方向を見ていると、ケイさんがやってきた。俺は今起きたことを簡単に説明した。

「トイレから?」

「はい」

 俺たちはトイレのほうを見た。扉はスウェットの女の子が飛び出してきたときのまま半開きのまま揺れていて、中には小汚い便器が見えた。

「あら」

 するとケイさんが何かに気付いたようにトイレの方へ歩いていった。彼女が扉を開くとそこにはなにやらバッグらしきものが落ちていた。おそらく彼女の場所からは角度的に初めから見えていたのだろう。迷うことなくそれを拾うとこちらに戻ってきた。

「忘れ物ですかね?」

 バッグは肩掛けタイプのもので、チャックと外側のマグネットで閉じる仕組みになっていた。

「届けてあげよっか」

「え、でも……」

「きっと困ってるよ、その子」

 当然のようにいうケイさん。そりゃあできれば俺だってそうしてあげたい。でも見たのは後ろ姿だけだし、名前も――

「あ」

 気付いてマヌケな声をあげてしまう。ケイさんは優しく笑いながら頷いた。そう、名前ならわかるじゃないか。

「入る時に書いた名簿ですね」

「そういうこと。行きましょ」

 俺とケイさんは早足で管理人のいる窓口へ向かった。無論拾ったバッグは俺が持っている。ここまで役に立っていないのだから、荷物持ちくらいはしなければなるまい。

 入り口横の壁には小窓が開いており、その中が管理人室になっている。そして問題の名簿はその小窓の前に置かれた粗末な机にペンと一緒に乗っていた。

 小窓から覗き込んで、今誰か走っていかなかったか尋ねると、白髪の定年管理人は、

「おお、あの子かい。通ったよ。退館時間書いてないみたいだから、ついでに書いておいてくれ。まったく、いつも言っているんだがな……」

 とブツブツぼやきながら読んでいた競馬新聞に視線を戻した。そんなのでいいのか、管理人。

「あった。この子ね」

 若干の憤りを感じている間に、ケイさんが例の女の子の名前を見つけてくれた。見つけるといっても、そこに書かれているのは俺とケイさんとその子の名前だけ。つまり今日は三人しか来館していないということだ。

「田代文佳さんね」

 名前を読み上げながらケイさんがお願いね、と目配せしてきた。退館時間は書いておくから田代さんのことは頼むという意味だ。

俺は本蔵の外に出て携帯電話を取り出した。メモリから学生部の番号を呼び出して通話ボタンをタッチ。相手は二度目のコールの後に出たので、こちらの所属と名前を名乗ってから用件を伝える。

「田代文佳さんっていう子について知りたいんですけど」

 普通ならここで怪しまれて門前払いだが、電話の向こうの職員ははいわかりました、と軽い口調で了承してくれた。俺たち世界治下経済研究会はその『裏面の活動』の性質上学校側に対してはある程度融通が利くようになっているのだ。

『タシロアヤカさんね。字はわかりますか?』

「タシロは田んぼの田に代わるで、アヤがブン……フミって読む字。それからカはジャイアンツの谷佳知のヨシです」

『ああ、ヤワラちゃんの旦那ね。また懐かしいところをついてくる』

 そんな呟きの向こうでキーボードが打たれる音がした。学生のデータは全てパソコンで管理されているのだ。名前、性別、学部などあらゆる面から検索をかけられるようになっているらしい。これならすぐに返答できるだろう。なんともいい時代になったものだ。

 しかしそんな考えとは裏腹に、なかなか答えは返ってこなかった。その間に退館時間を書き終えたケイさんがやってきて俺の横に並んだ。そこでようやく返答があった。

『その田代文佳って子、本当にうちの学生ですか?』

「え」

『そういった名前の学生はいませんよ』

 俺は思わず肩からかけたバッグを見た。

トイレから出てきた彼女を俺は確実に目撃したし、忘れ物のバッグだって俺の肩にかかっている。

でも名簿に書かれた彼女の名前は学生部のデータベースには存在しない。となると部外者の可能性が出てくるが、この本蔵は貴重な資料を保管している関係で、原則部外者が入ることはできない。

どういうことだ?

『あの……』

 電話の向こうからもういいだろという雰囲気が伝わってきたので、お礼を言って電話を切った。

「どうだった?」

 ケイさんに問われたが、俺にはバッグを掲げて首を振ることしかできなかった。



 二時少し前に俺とケイさんは部室に戻った。中ではキリュウさんとナコさんがそれぞれ窓際と本棚前といういつもの定位置でぐったりしていた。リイチさんの姿は見えない。

「二人とも大丈夫?」

 ケイさんが心配そうに二人を見やる。

「窓とドアは全開だけど……この時間は厳しい」

 ナコさんは唸りながら天井に顔を向けた。確かに二、三時は暑さもピークになる時間だし、今も部室はそれなりの気温なのだろうが、俺たち二人は炎天下を歩いてきただけにむしろ涼しく感じる。

「で、ケイさんアイスは?」

 うな垂れていたキリュウさんがゾンビのように起き上がった。

「あっ……ごめんね、忘れちゃった」

 申し訳なさそうにケイさんが言うと、キリュウさんは再び死体に戻った。例の忘れ物のことを話しながら歩いてきたから、そのまま真っ直ぐここまで来てしまったのだ。ちなみにとりあえずということでバッグも持ってきた。

「オビワン~」

 その地を這うような声がキリュウさんのものだと気付くのに少しかかった。なんとなく嫌な予感がして顔を引きつらせながら振り返ると、案の定その予感は的中した。

「なんでアイスのことケイさんに言わなかったんだよ。お前が覚えておくべきことだろうが」

 とんでもない八つ当たりの仕方だ。いやもう八つ当たりとっ越してただのイジメと言っていいだろう。

「どうせデレデレしてて何も考えてなかったんでしょ。やらし~」

 ナコさんまで加わってきた。二人は立ち上がると、じっとりした目でこっちを見てきた。

「フォースの力でアイス呼び出せ」

「そうそう。私はフォースの力を信じるよ」

「フォースってそんな都合いい能力でしたっけ?」

 仮にそうだとしても俺はフォースなんか持っていない。

「なんだよ、お前それでもオビワンかよ。夏風邪引いちまえ」

「ついでに夏バテしちゃえ」

 ひどい言われようだ。この二人、こういう時だけは黄金コンビになるからタチが悪い。

「暑さは人をダメにするのね。ゴメンね、オビワン君」

 ケイさんがぺこりと頭を下げて笑いかけてくれた。その笑顔に癒されていると、開いたままのドアからリイチさんが入ってきた。

「もう戻ってたのかい」

「はい。リイチさんは?」

 どこに行っていたんですかというニュアンスを込めて聞くとリイチさんは、学生部だよと言った。

 その言葉に部室の空気が一気に引き締まった。

「依頼っすか」

 さっきまでフラフラしていたキリュウさんは気を引き締めるように両腿を叩くと、部室の真ん中を占拠する机に歩み寄った。俺や他のみんなもそれに倣うように机についた。みんなで立ったまま机を囲むような形になる。

「今回はちょっとワケアリなんだけどね」

 そう言いながらリイチさんは一枚の写真を机に置いた。写真と言ってもB5版の紙に引き伸ばされて印刷されたものなので解像度はあまりよくはない。でもその写真に写っている男の異常性を示すにはそれで十分だった。むしろサイズが大きいことで余計にそれが引き立っているような気もする。

 いかにも遊び人といった感じの黒い肌に、ニット帽から出る髪は真っ赤に染められている。鼻と唇には金色のピアスが付けられ、何より特徴的なのは耳元で光る銀色の物体。

「これ……釘?」

 ケイさんが怯えた様子で口に手をやった。写真の男の耳には五センチくらいの長さの釘が左右一本ずつ刺さっていた。抜けづらくするためか、真ん中あたりで軽く曲げられている。

「いるよね、こうやって奇抜さだけ狙う人……」

 ナコさんも顔をしかめている。見ると既にこの写真を見ているはずのリイチさんも眉をひそめていた。ただ、こういったものに耐性があるキリュウさんだけがフンと鼻で笑って写真を見下ろした。

「何で釘なんだか。家は金物屋か大工か?」

「いいや、両親とも教師だよ」

 キリュウさんの皮肉に対して、リイチさんは律儀に答えた。キリュウさんが納得したように腕を組む。

「教師ねぇ。そりゃそうもなるわな」

「え、教師が親だと問題あるの?」

 ナコさんが問うた。キリュウさんは大有りよ、と大袈裟に両手を広げた。

「昔、警察と色々やってた時に聞いたんだけど」

 その『色々』とやらには触れないでおこう。

「教師ってのは教育のプロであって子育てのプロじゃない。そこをはき違えてる連中が教師の世界には多いらしいんだ」

「あ、聞いたことありますよ」

 俺は頷いた。

「ヘンに子育てに自信持っちゃってるから大変らしいですね」

「ああ。そういう親に育てられればこの釘野郎みたいにグレるか、性格ネジ曲がるかの二択よ」

 あくまで都市伝説レベルの噂だが、実際に少年犯罪が起きた場合、警察はまず両親が教師じゃないかどうかを確認するというのを聞いたことがある。教師だとヘンな見栄などのせいで全く捜査に協力しないことが多いらしい。うちの子に限って、というのをよく聞くが教師の親は特にそれが強いそうだ。

ちなみに教師だったらその事件は『マルセン(先生の先の字を丸で囲うそうだ)』なんていう隠語を案件名の前に付けて呼ばれるとかそうでないとか。

「じゃあヒトシのお父さんかお母さんも学校の先生なの?」

「いや、うちは普通の事務職……何が言いたい?」

「グレてるわ性格ネジ曲がってるわ、パーフェクトじゃないの」

 キリュウさんの眉がピクリと動いた。

「それより問題は」

リイチさんは少し声を張って脱線した話を修正した。そしてメガネを上げてから続ける。

「お爺さんが山井光一市長だって方なんだ」

 部室の空気がどよめいた。

 山井市長といえば、この十年間ずっと市長の椅子にに座り続けている、いわば重鎮だ。

「俺が言うのもナンだけどよぉ、こんなのが初瀬野にいるなんておかしいと思ったんだ。でもお偉いさんの孫っていうならわからぁな」

 山井市長の権力による、とキリュウさんは言いたいのだろう。補助金やなんかを理由に孫を無理矢理裏口入学させたことは、容易に想像がつく。

「でもこんな人なら、私たちがどうこうしなくても自分から悪さしてそうだけどね」

「何言ってんだナコ。そんなモン市長がもみ消すに決まってんだろ」

 キリュウさんの意見に俺は思わず頷いた。むしろもみ消してくれるからこそ、彼はこの写真のような人間になってしまったのだろう。

「ということは、市長がもみ消すことのできないくらいの問題を起こさせろってことですね」

「それも今まで通り学校の名に傷がつかないよう、警察沙汰にしないという条件つきだ」

 俺の後を取り次ぐようにしてリイチさんが言うと、ナコさんがえーっと声をあげた。

「そんなの横暴じゃん。マラソン二キロを十分切れ、でも六百秒以上かけろって言ってるようなモンじゃない」

 なるほど、言いえて妙だ。警察沙汰にならなければ大体のことは市長が処理してしまうだろう。でも警察沙汰にはするなときている。

「リイチさん、学生部はなんて言ってるんですか?」

 ケイさんが形のいい顎に手をやりながら尋ねる。

「学生部からは、彼が市長の孫だということと、亮太という名前だということしか教えてもらっていない」

「それだけ言えばどうすればいいかわかるだろ、って言いたいワケ?」

 ナコさんの言う通りだ。学生部は暗にさっき俺たちが言っていたことを要求しているのだ。最初にリイチさんがワケアリだと言っていたのが、今更ながら理解できた。

「何をするにせよ、まずは情報が欲しいわね」

 ケイさんが神妙な面持ちで唸る。すると机の上の写真にすっと誰かの手が伸びた。

「つまり俺の出番ってワケっすね」

「頼めるかい、木柳君」

 リイチさんの視線に、写真をつまみ上げたキリュウさんは白い歯を出した。

「どの道最初から俺に頼む気だったんでしょ?」

「まあね。でも君なら自分から進んでやってくれると思ってたから、あえて何も言わなかったんだ」

「そりゃどうも」

 キリュウさんは気恥ずかしそうに視線をそらした。さすがはリイチさん。人の使い方がうまい。

「このテの連中相手は俺の管轄っすからね。とりま俺の後輩あたりからさらってきますよ」

キリュウさんはポケットから今時珍しい二つ折りの携帯電話を取り出すと、カチカチ操作しながら部室を出て行った。すぐに廊下から、ういっすー俺だ、と通話する声が聞こえてきた。

残された俺たちはなんとなく黙ってしまった。ケイさんが言った通り情報がないとなにもできないので仕方ないのだが……。

「ところでずっと気になっていたのだけれど」

 空気がもう一段階重くなる直前という見事なタイミングでリイチさんが沈黙を破った。

「あの見慣れないバッグはどうしたんだい?」

 リイチさんの視線の先には、パイプ椅子の上に置かれたバッグがあった。例の田代文佳さんの忘れ物だ。中を見れば住所などがわかるかもしれなかったが、女の子のバッグをあさるものじゃないというケイさんの意見に従って、未だに口は閉じたままだ。

「そういえば、オビワンが持ってたよね、アレ」

 ナコさんが背もたれを抱えるようにしてパイプ椅子に座る。

「はい。あれは――」

 俺は本蔵での出来事を簡単に話した。無論田代さんの名前が学生部のデータベースになかったことも含めてだ。案の定普通の顔で頷いていたリイチさんはその部分を聞いた途端、目の色を変えた。

「なるほど。なかなかどうして奇妙な話だね」

 一通り話しを聞き終えた後、リイチさんはメガネのレンズを拭きながら言った。

「もうなにかわかったんですか?」

そう尋ねたのは、その表情が早くも何か掴んだように笑っていたからだ。リイチさんはゆっくりとした動作でメガネをかけ直した。

「もう一度聞くけど、管理人さんはその田代君のことを知っているようだったんだね?」

「ええ、いつも退館時間を書いていかないってぼやいてましたから」

俺が頷くとリイチさんは、なら話は早いと腕を組んだ。

「まずは来館の際に書くことになっている名簿。あれは毎日学校側に提出する決まりになっていたはずだから、もし彼女が部外者だったり、『田代文佳』というのが偽名だったりすればその時点で学校側が怪しむだろう」

「何度も足を運ぶことは不可能ということね」

 ケイさんが頷く。

「その通り。しかし彼女は管理人さんが顔を覚えている程度の回数は来館した。つまりこの学校に『田代文佳』という人物は存在するということになるのだが……」

 一拍置きつつ俺に視線を向けてきた。

「小尾君が学生部に確認を取ったところ、そのような学生はいないという答えが返ってきた、か」

 リイチさんは言ったきり腕を組んで黙ってしまった。でもその顔はなんとも楽しそうに笑っている。

 意外とこういうことが好きなのかもしれない。そういえば初対面の俺を相手にこういった謎解き会話を展開していた。まだあれから数ヶ月しか経っていないのに随分昔のことのように感じる。

「ん、待てよ……」

 ナコさんが思いついたように顔を上げた。

「なんか思わせぶりに喋っておいて、リイチさん何も問題解決してないじゃない」

 口には出さなかったが、ナコさんの目は「騙された」と言っているようだった。ちょっと理不尽な気もしたけど、俺も内心は彼女の意見に賛成だった。あの何か掴んだような表情は演技だったのかと思うと少し嫌だ。

「そうだよ。僕はまだ何も解決していない」

 リイチさんはあっさり認めたので、俺とナコさんは思わず顔を見合わせた。

「どういうことですか?」

 聞かずにはられなかった。なぜなら彼がこんなに簡単に負けを認めるはずはないし、なにより相変わらず笑みを浮かべていたからである。

「僕はただ問題を把握しようとしていただけだよ」

「は?」

 ナコさんは椅子を斜めにしながら眉根を寄せた。

「目の前に問題があっても、それがどんなものかを理解しないとどこから手をつければいいかわからないじゃないか。さっきのはそのための作業だよ。普段は頭の中でやってるんだけどね」

「ややこしいよ、まったく」

 頬を膨らませるナコさんだったが、俺には彼女のようにリイチさんを揶揄するようなことはできなかった。俺はその謎に一番最初に触れておきながら、ただ漠然と疑問に思っているだけで、リイチさんの言う『問題の把握』すらできていなかったのだから。

「リイチさんは特別」

 気にしないの、とケイさんが笑いかけてくれた。それだけなのに沈みかけた気持ちが一気に浮き上がってくる。なんともゲンキンな自分に少し嫌気が差しかけたが、それはキリュウさんが部室に入ってきたことによって止められた。

「話しつけましたよ。今こっちに向かわせてます」

「あ、ここ来るの? じゃあ少し片付けよっか」

 ナコさんが立ち上がろうとするのをキリュウさんが制した。

「いや、校門のトコに来てもらうようにした。あんなガラ悪いの構内に入れられるか」

「アンタが言うかね」

 そう言いながらもナコさんは椅子に戻った。

「どんな人なんですか?」

 ガラ悪いの、という物騒な単語が気になったので聞いてみる。

「俺が走ってた頃の後輩。牧っていうんだ」

 走ってたと言っても陸上部に入っていたとかいうことじゃないくらい、キリュウさんの風貌を見ればわかる。きっとその牧という後輩もいわゆる『バリバリ』な人に決まってる。

「今すぐ来るっぽいから行きますわ。オビワン、ついて来い」

「えっ」

そんな『バリバリ』な想像をした矢先だったので、思わず大きな声をあげてしまった。

「いいだろ別に。俺一人じゃ話覚えきれねぇだろうしよ」

「何でも覚え悪いもんね、ヒトシって」

「うるせぇ小粒っ子。ほら、さっさと行くぞ」

 キリュウさんは俺に向き直って手招きした。

「み、みんなはどうするんですか?」

 せめて誰かついてきて欲しいと思って声をあげたが、その願いは一瞬にして打ち砕かれた。

「大人数で行っても仕方ないだろう。二人で行ってきてくれるかい」

 リイチさんにあっさり突っぱねられる。そののんびりした口調が今は恨めしく感じた。

「それじゃあ、二人が行ってる間に、私たちはこっちの調査でもしておきましょう」

 ケイさんはトコトコ歩いていって田代文佳のバッグを手に取った。

「やっぱり届けてあげたいし」

「そうしようか。そういう人助けも広い意味では僕らの活動に入るしね」

 リイチさんが頷く。

「じゃあ僕と功刀君と三輪君はバッグの件を、木柳君と小尾君は山井亮太の件を担当するということにしよう」

 ということにされてしまっては、俺はこれ以上何も言えない。大人しくキリュウさんについていくしかあるまい。

道中、キリュウさんに田代文佳の件を簡単にレクチャーしながらも、俺は『バリバリ』のイメージを振り払って少しでも気を楽にしようと必死だった。


 初瀬野大学には東南北と三つの校門がある。そのどれもがまったく同じ造りなのだが、最寄の駅から一番近いということもあって一応北口が正門という位置づけになっている。そのため大抵の学生はそこから出入りするし、来訪者も大体ここから入ってくる。

 そして今回もその例には漏れず、たくさんの学生が北口から出入りしているし、来訪者も確かにそこにいた。

ただいつもと違うのは普段は一塊になってなだれ込んでくる学生達が、今はモーゼの十戒みたいに見事に中心から二つに分かれているということだ。

「おう牧。待たせたな」

 キリュウさんがその中心に声をかけた。

そこにはやたらトゲトゲした改造バイクに寄りかかる男の姿があった。身につけている黒いツナギには『爆』やら『死』やらと、あまり縁起のよろしくない漢字が刺繍されている。頭は坊主にしているのだが、それと同じくらい眉毛が薄い。

こんな人が校門のど真ん中に陣取っているのだから、それこそモーゼクラスの現象も起きるというものだ。それにしたって今時こんなにわかりやすい『バリバリ』があったものか。キリュウさんの携帯といいこのテの人たちは古いものをリスペクトする傾向でもあるのだろうか。

「こんちわっす」

 男はキリュウさんに気付くとピッと背筋を伸ばして頭を下げた。周りがどよめきながらキリュウさんに視線を送ったが、本人はそんなことなど意にも介さず男のもとへ歩いていった。

「お久しぶりです、キリュウさん」

「おう、元気だったか?」

 二人のやり取りを見ながら、ソッチの世界でもキリュウジンで通してるのか、とどうでもいい感想を抱く。

「キリュウさんの後輩さんですか?」

「えっ」

 突然こちらを向かれて、俺は思わず肩をビクつかせてしまった。相手にその気がなくても、この見た目ではどうしようもない。俺のような凡人は彼の一挙動一投足にビクビクせねばならないのは当然のことだ。

 しかしそんな俺のリアクションには特に触れず、彼はキリュウさんにしたのと同じく深々と頭を下げてきた。

「自分、牧っていいます。よろしくお願いします、後輩さん!」

「あ、いえこちらこそ」

 ここまでされては却ってこちらが恐縮してしまう。こっちの世界は上下関係が厳しいらしいと聞く。その影響で今時の若者にあるまじき礼儀正しさなのだろう。というよりイメージばかりが先行しているだけで、案外普通の人なのかもしれない。

「牧ぃ、お前なんでこんな門のド真ん中で突っ立ってんだよ」

「そのほうが見つけやすいと思いまして」

 ……やっぱり少しずれてるらしい。

キリュウさんが邪魔になるからと牧さん――キリュウさんの後輩だから同い年か年下だろうけど、まさか呼び捨てや君付けで呼ぶわけにもいくまい――を校門の外に誘導していったので俺も慌ててそれについていく。

「いやぁ、やっぱり頭いい人ばかりのところだと浮きますね、自分」

 トゲトゲバイクを押しながらそんなことを言い出す牧さん。それを言うなら、傍から見ればこの三人の中で俺はぶっちぎりで浮いているに違いない。

「うし、早速頼むわ」

 外の歩道まで来たところでキリュウさんが切り出した。

「山井亮太のことですね」

 バイクのスタンドをかけながら牧さんが言った。心なしか声のトーンが下がった気がする。俺たちが頷くと彼は一瞬言葉を詰まらせたように身じろぎした。

「どうした。さっさと話してくれや」

「あんなヤバイやつに関わろうとしてるんですか」

「あん?」

 キリュウさんは片眉を上げて牧さんを見た。

「ヤバイってのはどういうこった」

「自分も噂で聞いた話なんですけど……」

 今度ははっきりとわかるくらい声のトーンが下がる。

「なんでもヤクの売人らしいんですよ」

「ヤ――」

 俺は寸前で言葉を飲み込んだ。さすがのキリュウさんも目を丸くしている。まさか裏口入学とはいえこの初瀬野大学に薬の売人がいるとは。

「まあ、合法ドラッグってやつですけど。この界隈の販売ルートの中でも結構なレベルのトコを抑えてるらしいです」

「おい、そりゃおかしいぞ」

 キリュウさんが静かに言う。無理矢理抑えつけているような声だった。

「俺が知らないってことは、俺が消えた後……最低でもここ二年くらいで出てきたやつだろ。そんな短時間で名前の通る売人になれるわけない」

どうやら彼と俺とでは驚いたポイントが違ったようだ。

「そもそもそんな短期間で販売ルートを拡大しちゃあ他が黙ってねぇだろ」

「山井の爺さんは市長じゃないですか。そこから出た金であっという間にルートを確保したとか」

「金で抑えるトコを抑えてなし崩し的にってか。あり得るのか、そんなの」

「役人は税金使い切ることしか考えてませんからね。名目をテキトーにでっち上げれば、使い方なんて気にしないんすよ」

役人とはまた古い言い回しだが内容的には同意できる。でもだからといってドラッグのルート確保になんか使っては欲しくない。もっと旅行とか有意義なものがあるだろう。いや、それはそれでマズイか。俺は腕を組んで唸った。

「市が資金面でバックアップしてるとなると、かなりのものですよ」

「まあ、それも大変なことなんすけどね。事実としてもっとシャレになんないことしてますから、連中は」

 含みのある言い方に、俺とキリュウさんは顔を見合わせた。キリュウさんが顎をしゃくるように動かして先を促した。

「なんか、適当なやつを捕まえてきて薬漬けにしてるって」

「それで高値でヤクを売りつけるってか?」

 吐き捨てるように言ったキリュウさんに、牧さんははい、と頷いた。

「ベタだしリスクは高いけど、手っ取り早い儲け方か」

 キリュウさんが何か言ったが、あまりに現実離れした話に、俺の思考は止まりかけていた。捕まえてきて薬漬けにする? なぜそんなことができるんだ。利益のためだと考えてもどうしても理解できない。そんなのはおかしいし、絶対に許されない――

「山井と関わる気ですか?」

「ああ、たぶんな」

 キリュウさんが怪訝そうに眉をひそめる。すると牧さんは一呼吸置いてから口を開いた。

「なら安全策としてするべきことが一つあります」

「なんだ?」

「絶対に関わらない。それが確実に身の安全を保証できる手段です」

 まとまらない思考の渦の中で、その会話だけが俺の耳の中で反響していた。


 

「お前には少し重かったかな」

 そう言うキリュウさんが浮かべる笑顔も微妙にぎこちない気がした。

 牧さんと別れた後、キリュウさんが気分直しに飲み物を奢ってくれると言ったので、こうして第四購買部の自動販売機前にやってきていた。

普段なら奢るなんて珍しいなどとキリュウさんをからかうところだが、俺はさすがにそこまで空気の読めない人間ではない。これが彼なりの気遣いだということくらい理解できる。

 第四購買部の周りはちょっとした公園のようになっており、小洒落たベンチはもちろん小さな噴水まであり学生だけではなく一般市民もよくやってくる憩いの場となっていた。

キャンパス内に公園なんて最初は驚いたものだが、今となってはすっかり慣れてしまっている自分が少し恐ろしい。

ちなみに、なぜわざわざ部室までの道のりから大きく逸脱した第四購買部の自販機まで来たかというと、キリュウさんの好きなミスターペッパーというジュースがここにしかないからである。

「それにしても、ドラッグなんてすごいことになってきましたね」

 俺が言うと、自販機に向いていたキリュウさんがぎょっとしたようこっちを見てきた。あえて自分から触れることでもう大丈夫だということをアピールしようと思ったのだ。

「ん……ホントだよな。俺らも薬漬けにされたらどうするよ?」

驚いていたキリュウさんだったが、すぐにこちらの意図に気付いてくれたらしく、自販機のボタンを押しながらヘラヘラした口調で返してくれた。

「とりあえずみんなで話し合いですね」

「ああ。でもこれ飲むまでは休憩な。それからリイチさんたちに報告だ」

 そう言ってキリュウさんは今買ったペットボトルを投げてきた。慌てながらもどうにか受け取ったが、瞬間俺は顔を引きつらせた。

 キリュウさんが投げてきたのはミスターペッパーだったのだ。その薬臭い独特の味から一般人からはゲテモノジュースと敬遠され、出番といえばバツゲーム、それがミスターペッパーだ。そんな飲み物をなぜキリュウさんは好きなのかがどうしても理解できない。

 すぐに取り換えてもらおうとキリュウさんを見たが彼は既に自分の分を買っていた。無論ミスターペッパーである。

「ん? どうした」

「これ飲まないと部室に戻らないんですよね……?」

「そう言ったろ」

 いつ帰れるだろうか……。手に持ったボトルがやたらと重く感じる。

俺はパッケージ上のビン胡椒にカイゼル髭を生やしたキャラクターを睨みつけると、意を決して蓋に手をかけた。その時、

「木柳君、小尾君」

 それは俺にとって天からの声だった。顔を上げて購買部の入り口から出てきたリイチさんに向き直る。

「お、噂をすれば影ってやつ?」

 少し驚いたように目を大きくするキリュウさん。挨拶代わりのつもりだろう、ボトルを乾杯でもするみたいに掲げた。

「そちらはもう終わったのかい?」

「うぃ。んで、ちょっと休憩中だったんすよ。リイチさんは?」

「僕はもう解決してしまったよ」

その言葉に尋ねたキリュウさんはもちろん俺も目を丸くした。今の質問のニュアンスは流れ的にどうしてリイチさんがここにいるのかというものだったはずだ。でもリイチさんはそれをぶっちぎった上に、既に田代文佳の件を解決したと言うのだから、俺たちとしては二重の驚きだった。

 無論、リイチさんともあろう人が会話の流れとニュアンスを読み間違えるはずはない。彼はわざとらしく、

「ちなみに今は買出しだよ。ジャンケンに負けてね」

 と手に持ったビニール袋を揺らした。あえて流れを読まないことで俺たちに大きなインパクトを与えたかったのだろう。そしてその目論見の成否は、俺とキリュウさんがアホ面で顔を見合わせたことから察していただきたい。

「随分あっさり解決したんですね」

「なんてことはないさ。ちょっとした思い違いみたいなものだったからね」

 思い違い? と俺は首を傾げた。

「そう。結論も、そしてきっかけもね」

「どういうことですか?」

 何ともテンプレートなに聞き返してしまった。リイチさんはそんな俺の反応を見て楽しんでいるように見える。

「そうだな、君たち二人の名前がヒントになっていると言えばどうだい、オビワン君とキリュウ君」

 ますます意味がわからない。俺はリイチさんの意地の悪い表情を見ながら、ヒントの意味を必死に考えていたがしかし、

「あれ、リイチさん今俺のことキリュウって……」

「そこだよ木柳君」

 俺が思い至る前に話が進んでいってしまう。しかもさっぱりついていけない。どうやらリイチさんが俺たちのことをあだ名で呼んだことの何が重要らしいが。確かに普段は苗字に君をつけて呼ぶけど、だからといってそれがなんなんだろう。

「どういうことですか?」

 早くも今回二度目のフレーズを口にする。キリュウさんもそれ以上はお手上げだというようにミスターペッパーを一気にあおった。

リイチさんはなんだか楽しそうに笑いながら、キリュウさんがボトルから口を離すのと同時に言った。

「まず第三閉架館で小尾君がトイレから飛び出す女の子を目撃。その後トイレで例のバッグを発見し、入館名簿で彼女の名前を確認。しかし学生部に問い合わせるも、そのような女子学生はいないという答えが返ってくる。事の流れはそんな具合だね」

 確認を取るように言ったが、実際は自分自身が改めて確認するため、そして俺から軽い説明しか受けていないキリュウさんのために口に出したのだろう。

「先に結論から言ってしまうけれど、この学校に田代文佳という人物は存在しない」

「待ってください。それじゃあ……」

 部外者である者の名前を書いてはあそこには入館できないし、仮に入れたとしてもその日の夕方に名簿は学生部に提出されてバレてしまうから、次からは入ることはできない。でも管理人は田代さんは何度か来ているというようなことを言っていた。

田代文佳部外者、偽名説はそういった点から矛盾が生じるとして部室では却下されたのだ。それにそれを言い出したのは他の誰でもないリイチさんではないか。

 俺はそういった意味も込めて否定的な目をリイチさんに向けたが、当のリイチさんは何食わぬ顔で――それどころか笑顔のまま見返してきた。

「間違いは事の始まりにあったんだ。小尾君が出会った――いや、君は女の子には出会っていないんだ」

「えっ」

 今度ばかりは多少の驚きどころではなかった。あまりに不意打ち過ぎる上に、抜群の破壊力だ。じゃあトイレから飛び出してきた人影にぶつかりそうになったのも、茶髪の女の子の後ろ姿も全部勘違いだったというのか。そんなわけはない。彼女は確かにあそこにいた。

「俺は確かに見ましたよ」

「そう、君は確かに見ている」

 リイチさんはつい数秒前の事など忘れているかのようにあっさり認めた。

「オイオイオイオイ、言ってることめちゃくちゃだぜ」

 キリュウさんが呆れたように両手を挙げたが、リイチさんはどこがだい? とキリュウさんの動きをトレースするように同じ動きで返した。

「僕は女の子には出会ってないと言ったけれど、誰とも出会ってないとは言っていないよ」

「それはそうですけど……」

「それが最初の勘違いだ」

 リイチさんはぴしゃりと切ると、話を進めた。

「そしてその勘違いのまま、君は名簿を見て学生部に電話をかけた」

 勘違い云々についてはさっぱりわからないが、一連の流れに関しては正しいのでひとまず頷いておく。

「その時君は学生部になんて言ったか覚えているかい?」

 そんなこと突然問われても答えられるはずはない。とはいえ、俺とてボケ老人ではないので数秒後すぐに思い出すことができた。

「一字一句正しいとは言えませんけど、普通に情報を知りたいって――」

「誰の情報を知りたいと聞いたんだい?」

 何を言い出すんだこの人は。そんなの決まってるじゃないか。

「田代文佳さんについて調べて欲しいって言ったんですよ」

「それが聞きたかった」

 少し語調が荒くなってまずいと思ったが、リイチさんは気分を害するどころか、むしろ嬉しそうに目を細めた。

「それが勘違いによって生じた勘違いだ。そして勘違いしたまま学生部にもその誤認情報が伝わり、誤った結果が生まれてしまった。前提条件に誤りがあれば、その後に生じる結果もまた誤りとなってしまうものさ」

「最初の勘違いが勘違いをねぇ……うん、わからん」

 キリュウさんは白旗代わりに空のペットボトルを振った。

俺もサッパリなのでボトルを振りたいところだがそれはできない。別にプライドなどではなく、ただ単にまだ中身が入っているからだ。炭酸を振った後の惨劇は見るに耐えない。仕方がないので、

「俺も降参です」

 そのままのことを口に出すしかなかった。誰も何も言ってくれないので、俺のマヌケさだけが宙に浮いた。

「じゃあ最初の勘違いから見ていこうか」

 そう言ってリイチさんは携帯電話を取り出して画面をこちらへ向けてきた。そこには学生証のものらしき写真が写っていた。

「うえ、ギャル男かよ」

 隣でキリュウさんが舌を出した。肩までの髪を茶髪にして頭のてっぺんで結んでいる。それ程大きくないようだが、それはどう見ても男性だった。キリュウさんの言う通りギャル男である。

「そうだね、典型的なギャル男君だ。でも見てわかる通り小柄みたいだから、もしかしたら女の子と見間違えてしまうかもしれないね」

「あ」

 声をあげてしまった。ここまで言われて気付かないほど俺は耄碌しちゃいない。

「まさかこれが……」

「そう、君が出会った田代君だよ」

 最初の勘違い。それは彼の姿を見た俺が女の子だと思ったことだった。なるほど、確かに俺は『彼女』には会っていないと言えるだろう。

「この体型でこの髪型、しかも後ろ姿とくれば見間違うのも無理ないか」

 キリュウさんが写真を見ながら独りごちた。ついでにギャル、ギャル男がよく着るスウェット上下だったというのも付け足して欲しい。

「この最初の勘違いのまま名簿の名前を見た。だから俺はここで新たな勘違いをしたんですね」

 最初がわかれば後はドミノ倒しの要領で解けていく。

『前提条件に誤りがあれば、その後に生じる結果も誤りとなってしまうもの』だとしたら『前提条件が正しければ、その後に生じる結果もまた正しい』といったところか。

結局はリイチさんの敷いたレールの上を進んでいるだけなのだが、それでもこうして真実に向かっていくことはなかなか気分がいい。

「『田代文佳』という名前を女の子だと思って読めばタシロアヤカ。でも男の名前だと思って読めばそれはタシロフミヨシになります」

 見事に言い切ったがその実、心の中は複雑だった。俺は電話のときにこう言ったのだ。


アヤがブン……フミって読む字。それからカは谷佳知のヨシです


 気付くチャンスはあったのだ。気付くどころか自分でしっかりと『フミ』『ヨシ』と言っているじゃないか。こういうところだけ記憶力抜群な自分が少し嫌になる。

 と、そんな俺に気付いたのだろうか、リイチさんが妙に明るい声で言った。

「つまり大前提の勘違いによる読み違いということだね」

「なるほどね。俺とオビワンの名前がヒントになるってのはそういうことだったんすね」

 納得したように手を叩くキリュウさん。木柳仁の読みを変えてキリュウジン。小尾一の読みを変えてオビワン――僕の場合は一をワンと英語にしているので、せいぜいニアピンと言ったところだろう。それにしてもいやらしいヒントの出し方だ。

「偉そうに言ってるけど、実際は僕も第三閉架館で名簿を見るまでは気付かなかったんだけどね」

 しっかりフォローしてくれるリイチさん。

「ってことはケイさんとナコもそっちにいるんすか?」

「うん、バッグの件がひと段落ついたから、また卒論の資料探しをしてるよ。もう少し詳しい本が欲しいらしい」

 なるほど。言われて見れば今リイチさんがわざわざ部室から遠い第四購買部にいるのはおかしい。でも第三閉架館からだったらここが一番近いことになる。

「学生部も小尾君からタシロアヤカという名前を聞いて、女の子だと思ったんだろう」

 リイチさんがおもむろに話題を戻した。

「おそらく検索するのに名前と性別を入力したんだ」

 そうなれば当然検索には引っかからない。もし性別の部分がちゃんと男だったら、いや性別の欄を設定しなければ、検索結果として『田代文佳』のデータが出てきたことだろう。

 つまりこれは……。

「お前の勘違いでややこしくなっただけじゃんかよ」

 そういうことだ。

キリュウさんにボトルでぽこぽこ殴られながらリイチさんの様子を窺うと、楽しそうに笑っていたので、そこまで怒っていないようだ、などと都合のいい解釈をしてみる。

「ところで、そっちはどうだったんだい?」

 そんな俺の視線が助けを求めるものだと思ったのだろう、リイチさんはキリュウさんに話題を振った。

キリュウさんはピタリと動きを止めると、ボトルをマサカリを担ぐように肩にやった。

「結構ヤバイっすよ、山井亮太って」

「ヤバイ、というのは?」

 キリュウさんの言葉に、リイチさんの表情が引き締まる。。そしてその表情はキリュウさんから話を聞いていくにつれて、どんどん曇っていった。とてもさっきまでニコニコしていたのと同じ人には見えない。

「合法ドラッグ……まあ、個人的にはドラッグに合法も違法も無いと思うけれど」

 ポツリと漏らすリイチさん。

「おそらく学校側はそのことを知っているだろう。だからこそ一切の情報を与えずに僕らに依頼をしたんだ」

 学校側は山井のドラッグの件を知っていたが、そんなことは言わなくても俺たちがそこに行き着くのをわかっていた。

そしてその情報はあくまで俺たちが手に入れた情報で学校側はそんなことは知らなかったことにする。いや、そうしろという学校側の無言の圧力だろう。情報を持っているからこそ思いつくなんとも汚いやり方だ。

「どっちが悪いやつだよ」

 キリュウさんが悪態をつく。

「仕方がない。物でも情報でも『持っている側』には逆らえないものだ」

 リイチさんは珍しくため息をついた。

「つまり実質学校側の黙認だ。まあ、市長の目を考えれば仕方のないことだけれどね。でも」

 リイチさんはそこで言葉を切って俺たちの顔を見回した。

「だからこそ彼を学校から追い出して済ませるわけにはいかないと思う」

「そりゃそうだわな」

 頷くキリュウさん。リイチさんも大きく頷くと高らかに宣言した。

「僕らの本来の仕事を――世治会の仕事をしよう」

「おお……」

 思わず声をあげてしまった。それを見たキリュウさんが俺の頭をポンと叩いた。

「そういやお前は初めてだったな『こっちの仕事』は」

「初めてでも活動理念は心得ているつもりですよ」

 俺はキリュウさんの手をどけながら、薄く笑った。普段ならキリュウさんに対してこんな行動は取れない。俺の精神はそれだけ高揚していた。

「ただ追い出して安心、なんてズル過ぎますよ。それに、もしかしたらこの学校の人にもドラッグを売っているかもしれませんし……そんなの許せませ――」

「待ってくれ小尾君」

 俺の大演説を、リイチさんはその一言で遮った。さすがに空気を読んで欲しいと思ったが、彼の表情を見て読むのは自分のほうだと思い直し口を噤んだ。リイチさんは腕を組んで大きく息をついた。

「一つ確認したい。君が田代君を見たとき、彼はどんな服装だったか覚えているかい」

「服装ですか?」

 今更何を言い出すかと思えば。俺としてはこれ以上掘り返して欲しくない話題だが、真剣な表情のリイチさんを見るとそうも言っていられない。

 そう思って口を開きかけたとき、どこからか電子音が鳴った。そのスマートフォンの初期設定音はリイチさんのポケットから流れてくる。

「三輪君だ」

 リイチさんが携帯電話を取り出す。言葉を発しようと思っていた矢先の出来事だったので、俺はえっと、と喉を詰まらせるような形になってしまった。

「あ、気にしなくていいよ小尾君。きっと僕の考えすぎだ」

 俺を気にしてか、リイチさんがそんなことを言ってくれる。それから何気ない様子できっと買い物の催促だよ、と笑ってスマホを耳にやる。

「遅くなってすまないね。ちょうど木柳君達と――」

 笑顔だったリイチさんの目が細められた。心なしかスマホを握る手にも力が込められているように見える。

「ん、わかった。落ち着いて話してくれないか」

 リイチさんの声は自分で言うだけあって確かに落ち着き払っていたが、その分電話の向こうのナコさんが慌てているであろう事は簡単に予想できた。

 キリュウさんもそれに気付いたのだろう。そのただならない空気に俺たちは顔を見合わせた。

「すぐ戻るよ。それまで何もしちゃいけないよ。警察に電話もだ、わかったね」

 リイチさんはそう言って電話を切った。

警察に電話。その一言がとんでもない事態になっていることを決定付けた。

「どうしたんすか?」

 問いただすキリュウさんの口調も早口だ。しかしリイチさんはそれには答えず考え過ぎなんかじゃなった、と呟くだけだった。

「リイチさん!」

「――いや、すまない」

 キリュウさんの声にリイチさんは顔を上げた。

「何があったんすか?」

「功刀くんがいなくなった」

「えっ!?」

 俺は声をあげてしまった。いや、それだけしかできなかった。言葉の意味を理解するのみでそれ以上頭が働かない。

「なんでだよ? どっか行ったんすか?」

 俺の思考先をキリュウさんが取り次いでくれた。リイチさんはわからない、と首を振った。

「さらわれた、と三輪君は言っている。とにかく第三閉架館へ戻ろう」

 そう言ってリイチさんは駆け出した。キリュウさんがそれに続く。俺はすぐには反応できず、

「オビワン!」

というキリュウさんの怒声によって、数秒後彼らに続いた。



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