第一章『一緒に悪を潰そうぜ』その2
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四月四日十四時五分
彼らと出会ったのは入学式が終わった午後だった。借りていたアパートが学校から近かったこともあり、俺は入学式後そのままこれから青春を謳歌することになる初瀬野大学のキャンパスへと足を踏み入れていた。
いたるところに桜の木が立っているが、まだ蕾は硬いままだ。入学式に桜という当たり前の光景がこの地方ではまずありえない。あの蕾が満開の花を咲かせるのはゴールデンウィーク翌週くらいだろう。
初瀬野大学は冗談半分とはいえ『北の東大』という俗称が示す通り日本の北方に位置しながらも、なかなかに高レベルの学府ではあるのだが、それ以上にとにかく敷地が広いことで有名だった。
なんでもおよそ東京ドーム三十五個分の広さとのことだが、そもそも俺にとって東京ドームの広さ自体がわからないだけに、どうにも『広い』という実感が沸きにくい。
ネットで調べてみると、実際のところはその東京ドーム三十五個分の面積の大部分は研究のための施設や演習に使う森林などが占めているらしかった。
するとキャンパス自体は大した広さはないのだろうと思っていたが、ネット上には他に『初瀬野のキャンパスをナメたらガチで遭難する』『キャンパス内の移動には自転車が必須』など、嘘か本当か判断し兼ねる情報ばかりが錯綜していて、俺の頭はますます混乱するばかりだった。いや、この段階では俺はそれらの情報をただの悪ふざけだと考え全く信じていなかった。
しかし、実際にこうしてキャンパスを歩いてみると、すれ違う学生たちのおよそ半分が自転車に跨っているし、道なりに進んでいるのに入ってきたはずの北門はおろか他の東西南の校門のどれにも行き着かない。
ナメていたわけではないのだから『ガチで遭難』だけは勘弁願いたい。
そんな絶望しかけている俺の横を、体格のいい横縞の集団が「初瀬野ぉ~」と声だしをしながら走り抜けていった。
多分ラグビー部だろう。キャンパス内でロードワークとは、彼らにもキャンパスの広さにも恐れ入った。
自分がバカみたいに口をポカンと開けているであろうことはわかっていたが、そんな口元を引き締める気力すら湧いてこない。
着慣れないスーツと革靴のせいもありヒィヒィと悲鳴を上げ始める両足を無理矢理動かして、入学式で配られた諸々の資料の入った鞄をぶら下げて俺はフラフラと構内を彷徨い続けた。
どれくらいそうしていただろうか。ふと視界に大きなものが飛び込んできた。どうやらサークルの勧誘ポスターを張るボードのようだ。
そのベニヤ製のボード自体が下手なワンルームの面積よりも大きいのに、それがカラフルなポスターたちで九割型埋まっている。高校の部活と違って大学はサークルの数が多いとは聞いていたが、よもやここまでとは思わなかった。いや、きっと他の大学と比べても群を抜いているに違いない。
「ただ広いだけじゃないってことか」
皮肉げにそんなことを呟いて俺は何の気なしにそれを見上げる。内容からして文科系のサークルだけが貼られているらしかった。そうなると体育会系のスペースは別にあることになる。この文科系サークル数だけでも十分すごいのに、この大学は一体俺をどれだけ驚かせれば気が済むのか。
ある種の戦慄すら覚えながらポスターを流し見していく――そんな中から俺はあのポスターを見つけたのだ。
つまりは全くの偶然である。そしてポスター群の中にあった『一文』が視界に飛び込んできたのもまた、全くの偶然だ。いや俺が、というよりボードを眺めた人間なら間違いなくその時点で『一文』が目に付くだろうから、ある意味では必然とも言えるかもしれない。
俺はその『一文』を凝視した。それは別にサークル勧誘のポスターの中にあったから目立っていたというわけではなく、仮に町内会の掲示板にあっても目立つだろうし、あるいは電光掲示板で街頭広告として流しても目立つだろう。要するにそれだけインパクトがあるものだったのだ。
やがて俺は無意識にそのポスターに書かれたサークル名と部室の場所と思しき単語を拾い始めた。が、その瞬間そのポスターは突然『消えた』。
「え」
つい声を上げて目を瞬かせた。さっきまでそのポスターが張ってあった場所は長方形にくりぬかれたように、ささくれ立ったベニヤ板が露出している。
本当にきれいさっぱり僕の目の前からポスターが消えたのだ。
そう考えたが三回目の瞬きでそんなことはあり得ないと、頭の中の冷静な自分が言い、四回目の瞬きで更に冷静な僕が風で飛んだのだろうと判断した。しかし、
「三枚目……」
息も絶え絶えの声に、風など吹いていなかったことを思い出し、最終的に平静を取り戻した結果、今の声の主がポスターを剥がしたのだろうと結論付けた。
同時に視界の隅に――厳密に言えば下ギリギリに揺らめく髪が見えた。動いていなければ気付かなかったかもしれない。
ショートカットの女の子が数枚のポスターを手に肩で息をしていた。膝に手を置いているから小さく見えたのかと思ったのだが、どうやら元々の身長も低いようだ。おそらく中学生くらいだろう。
それにしても中学生がこんなところで一体何をしているのだろうか。あまり積極的に赤の他人に話しかけるようなことはしない方なのだが、この時ばかりは声をかけようと口を開いた。
だが、声を発する前に既に女の子は走り去ってしまったので、俺は文字通り閉口せざるを得なかった。
ポスターが剥がされてベニヤが露出した部分と、走っていく少女の背中とを交互に見やる。
「なんだありゃ……?」
などと呟きつつも、俺の中では既にあの少女と件のポスターのサークルとに何らかの繋がりがあると確信していた。というよりあのポスターを剥がし回っているであろう少女を見て逆に無関係だと考えるほうが無理がある。
「『――』か」
ポスターの『一文』を口の中で転がしながら、僕は歩を進めた。
少し行くと運良く衛星写真のような案内掲示板が現れたので、それを元にさっき見たポスターのサークルの場所――キャンパスの規模を考えるともはや住所と行ってしまってもいいかもしれない――を探して頭の中でマッピングする。
かなり距離はあったが道さえわかればこっちのもの、気が付くと俺は多少息を切らせながら第三部室棟の廊下に立っていた。
「『世界治下経済研究会』。第三部室棟一階……」
ポスターに書かれていた内容を反芻しながら古い木製のドアの前に立つ。掲げられたプレートにも『世界治下経済研究会』と書かれているので間違いないだろう。
と、ここへきて、なぜ俺はここに来たのだろうという疑問が頭を過ぎった。
短い時間だけ部室の場所を見たからサブリミナル効果が発動したため。いや、サブリミナル効果はもっと瞬間的じゃないといけないからそれは違う。
ポスターを剥がして回っていたあの少女が気になったから。これは少しそうだと言えるかもしれない。でも一番の理由は間違いなくあの『一文』だろう。
あれを見たら誰だって気になる。でも……今の俺のようにこうしてそのサークルの部室前までやってくる人間はいない。
無論俺だってそちら側の人間だったはずだが、あの少女の奇行が気になったのと、帰ってからの荷解きの面倒臭さから逃げたいという無意識下の思いが、俺の背中を押したのだろう。そうとでも考えないと自分自身の行動に説明が付かない。
強引に理由付けをしているうちに、ふっと好奇心がおさまってきた。代わりに湧いてきたのは危機感だった。
大学のサークルには思想的にアブナイ物もあると聞く。よく考えればあの『一文』だって普通に考えれば間違いなくそっちに分類されるだろう。
俺は自嘲気味に笑った。よく考えるここまで来たこと自体、自分としては立派な奇行だ。あの少女と大差はない。
好奇心だけで行動するとは我ながら珍しい。そんなことを考えながらここから出ようと踵を返した時だった。
「ここに何か用?」
出かける飼い主の行く手を遮る子犬のようにちょこんと俺の目の前に立つその人物は小首を傾げた。ポスターこそ持っていないが、髪が短いし、何よりこの小ささは間違いなくさっきの奇行中学生だ。頬がほのかに上気しているから、きっとあの調子でずっと走り回っていたのだろう。
「あ、いや……」
突然のことに逡巡してしまう。やましいことを考えていたワケじゃないのに、ついしどろもどろになってしまった。誰もいない廊下で声を上げてオロオロする男とそれを見る少女――掲示板前で少女の行動を胡乱げに見ていた時と見事に立場が逆転していた。
案の定少女は訝しげにこちらを見てきたが、やがてその大きな目を細めて笑った。見た目にそぐわない妙に大人びた笑顔だ。
「迷っちゃったんでしょ。君、新入生?」
「ええ、まあ」
笑顔どころか口調まで大人びていた。いやむしろこれは大人びているというより完全に上から目線で見られている。なんで中学生の女の子にこんなに大きい態度を取られなきゃいけないんだ。
「この学校広いからねェ。日本の国土の五百三十分の一を占めるんだってさ。すごいよねー」
いまいちピンとこないのですごさが伝わってこない。
それにしてもこの上から口調はどうにかならないものかと思うが、中学生相手に目くじらを立てるほど俺は子供じゃない。
きっと彼女のお兄さんかお姉さんがここの学生で、それに何度もついて来ているうちにキャンパスを覚えた。だから得意になってこんな大きな態度を取るのだろう。
上下関係や敬語などについて教えてやりたい気もするが、ここはこちらが上なのだから大人になっておくべきだ。というか、早々に立ち去りたい。ここにはもう用はないのだから。
「じゃあ俺は――」
「あれ?」
言いかけたところで出端を挫かれる。少女はこちらに寄ってくると、背伸びをして顔を覗き込んできた。小動物のように目をくりくりさせる彼女は、よく見ると幼く化粧っ気はないが可愛い顔立ちをしている。
「どこかで会った?」
「人違いだよ」
コテコテのラブコメが始まりそうなセリフに速攻で返す。サークル掲示板の前で見た、と即答してもよかっただろうが、そうなれば面倒なことになりそうなのは目に見えている。俺は今更ながら好奇心にあてられてここに来たことを後悔し始めていた。
「なにをしているんだい、三輪君」
不意に声がした。見ると部室棟の入り口のからメガネをかけた男性が歩いてきた。多分学生だろうが、おそらく四年生かそれ以上だろう。口調はもちろん歩き方などの振る舞いからも落ち着いた雰囲気が感じられる。
スラリとした長身の彼は柔和な笑顔をこちらに向けてきた。
「あ、リイチさん。この子迷っちゃったみたいなの」
とうとう『この子』ときたか。
「迷った?」
リイチさんと呼ばれた男は少女の言葉に首を捻った。最初は少女のお兄さんかと思ったがどうやらそうではないらしい。兄妹に『さん』をつけるのも妙だ。おそらくリイチさんは三輪ちゃん――苗字に『ちゃん』も変だがこの際仕方がない――のお兄さんの友達か何かなのだろう。
「入学式の帰りかな?」
「はい」
リイチさんの問いに俺は素直に返事を返した。さっきまでがさっきまでだったので、上から見るべき人に見られると妙な安心感がある。
彼は相変わらず柔和な笑顔のまま俺と三輪ちゃんを交互に見ていたが、やがてゆっくりと言った。
「君は本当に迷ってここに来たのかい?」
柔らかい口調だったが、俺はドキリとした。
「迷っちゃったんでしょ。君、新入生?」
「ええ、まあ」
決して嘘をついたワケではない。新入生かと問われてそうだと答えただけだ。だが流れで迷ったことにしてしまったのも事実。無意識に頬が強ばっていくのを感じる。
「別に責めているわけではないんだ。ただこの部室の前にいることが少し気になってね」
そうは言ってくれるが、この状況は完全に推理を展開する探偵と追い詰められた犯人の構図である。これで舞台が海原を臨む崖っぷちなら完璧だ。
同じようなことを三輪ちゃんも考えていたらしい。ハッとしたように目を見開いて僕を指差してきた。
「まさかこの子ってば新入生じゃなくて侵入者? なんちゃって」
うまいことを言ったつもりなのだろう。三輪ちゃんはデヘヘとだらしなく頬を緩ませて頭をかいた。
しかし侵入とはまたご大層な。子供の発想は突飛過ぎて困る。
「どうしてそんなことを言うんですか?」
俺は三輪ちゃんを無視して――しかし場の雰囲気は無視せず犯人役を演じてみた。実際に彼が何を根拠にそんなことを言ったのかが気になったのだ。今の俺なら推理小説のクライマックスで犯人が「なぜわかった?」と探偵に聞く気持ちがよくわかる。
かくして探偵は口を開いた。
「まず単純にこの第三部室棟は何か目的がないとわざわざ入ってくるようなところではない」
「俺がこの棟の見学に来たとは考えられませんか?」
犯人らしく言い返してみる。しかし探偵は少しも動じる素振りは見せず、ただ薄く笑っただけだった。
「見学だとしても第三部室棟に入るのはおかしいんだ。ここには外観が全く同じ第一、第二、第三と三つの棟が並んでいる。そしてこの第三部室棟は一番奥まったところに建っているんだよ」
「そっか。外観が同じものが並んでて、そこを見学しようとしたら普通は一番手前の第一部室棟に入るよね。見た目が同じなら中も似たようなものだって想像つくから、その後第二、第三って入っていくことはしないか」
三輪ちゃんがポンと手を叩いた。見事なワトソン振りに俺は思わず賞賛の拍手を送りそうになる。いつの間にか舞台は崖っぷちからベイカー街に移っていたらしい。
「でもリイチさん。もしかしたら文化系サークルにどんなものがあるのか見に来たのかもよ。それなら全部の部室棟に入ってくるのも納得できるし」
ワトソン君はホームズに疑問をぶつけることも忘れない。三輪ちゃんはさっきまで俺を侵入者扱いしていたのに、すっかり場の空気に飲まれていた。
ワトソンはホームズの導き出した答えを知りたくなってしまうものなのだ。だから気になることは口に出してしまう。たとえそれが犯人を助けるようなことになろうとも。
しかし、ホームズにとってはそれすらも計算して台本に組み込まれた演出に過ぎないのだ。
「三輪君。文化系サークルのことが知りたいのなら、彼の鞄の中にある入学案内を借りればいいよ」
リイチさんは僕の手に視線を送ってきた。ウエットに富んだ台詞回しもホームズの武器だ。
思わず鞄に目をやってしまった。彼の言う通り、この中には入学式で配られた入学案内をはじめとする冊子や書類が入っている。
「わかりました。俺が意図してここに来たことは認めます」
こうやって犯人は追い詰められていくのかと思いつつ、大きく頷いてみせる。同時にこうなったらとことんまでやろうという思いも湧いてきた。俺はなんだか楽しそうな表情のリイチさんをじっと見返した。
「まさか俺がここに来た経緯もわかったとか言うんじゃありませんよね?」
挑戦するように言うと、リイチさんは肩をすくめた。
「わかるわけないじゃないか」
一旦言葉を切ってメガネを上げた。
「ただ推測してみただけだよ。答え合わせはこれからする」
予想通りの返答だった。俺は沈黙することで先を促す。
「三輪君にどこかで会ったかと聞かれたとき、君は人違いだと即答していた」
どうやらあの会話を聞いていたようだ。この廊下は声が響くようだから当然か。
「即答できたということは、あらかじめそういった類の質問が来ることをある程度予想できたということ……それは君が既に三輪君と出会っていたということに他ならないじゃないか。それも彼女がこのポスターを剥がしている時にね」
声が出なかった。俺が三輪ちゃんに嘘をついていたことがバレたのは、リイチさんに問われた時に言葉に詰まっていたこともあるからわかる。けど、どうして出会った時の事までわかったんだ?
絶句した俺に代わって三輪ちゃんが声を上げる。
「なんで私がポスター剥がしてたの知ってるの?」
口元に手をやる三輪ちゃんに対し、リイチさんは楽しそうに笑った。どうやら三輪ちゃんは俺と違う部分が引っかかったらしい。けど、俺は黙ってリイチさんの言葉に耳を傾けることにした。ホームズは最後には全ての謎を解いてくれるのだ。
「ただこれを拾っただけだよ」
そう言ってリイチさんは後ろのポケットから四つ折になった紙を取り出して開いた。それは紛れもなく例のポスターだった。三輪ちゃんがあっと目を丸くした。
「全部剥がしてゴミ箱に捨てたのに……どっかで落としたんだ」
わざわざ剥がして捨てるということはあまりよろしくない内容だったのだろう。そしてそのよろしくない部分は間違いなくあの『一文』であるということは凡人の俺でもわかる。
「確かに内容を見たらこのサークルの人間なら剥がそうという気になるだろう。でも功刀君ならまず僕に連絡を寄越すだろうし、ポスターを作って貼った張本人である木柳君は論外。そして僕もやっていない。よって消去法で君だということになったんだよ」
「なるほど」
三輪ちゃんはタメ息と共にそう漏らした。リイチさんは「悪いことをしたわけじゃないよ」と優しく声をかけてから俺の方へ向き直った。
「さて、あとは君の疑問を解くだけだね」
「ええ」
短く言って首肯。今更こちらの思考を読まれていた程度では驚けなくなっていた。
「偉そうに言うけど、ただ状況を見て考えただけなんだ。三輪君がポスターを剥がしていたことと、君がここにいること。それを考えれば自ずと答えは出てきたよ」
リイチさんは得意げになるわけでもなく、ただ淡々と話しを進めていく。
「入学案内にはスペースの関係で部室の場所は書かれていない」
「同好会以下はスペース小さいもんね。名前載せてもらえるだけマシなのよ。ああ、世知辛いわぁ」
三輪ちゃんが涙を拭うような仕草をしたが無視を決め込む。
「そういうことでポスターを見ないとこの部室の場所はわからないはずだ。でもポスターは三輪君によって剥がされている。そして君は三輪君を見ている。この三つの条件を同時に満たすには――」
「ポスターを見ていた俺の目の前でそれが剥がされる」
「その通り」
先回りして答えると、リイチさんは小さく笑った。
「そういえば三枚目か四枚目のポスター剥がした時に、誰かいたような気がしないでもないかもしれないかも」
三輪ちゃんがワケのわからない納得の声をあげる。それも無視して俺はリイチさんに向き直った。
「でも、俺がポスターを見たあとにすれ違ったかもしれないという可能性は考慮しなかったんですか?」
「ただすれ違った人の顔を覚えているとは思えない。意外に人は周りのことには無頓着なものだよ。それこそ目の前で強引にポスターを剥がされたりでもしない限り、赤の他人の顔なんてすぐに忘れてしまう」
リイチさんは『強引に』の部分で破れたポスターの四隅を指で指した。確かに一瞬消えたのではないかというくらいの速さだったのを思い出す。
「あなたは……」
俺は思わずそう言っていた。無論三輪ちゃんではなくリイチさんを見てだ。些細な情報から俺がここに来た過程を全て言い当ててしまった。だから、ありがちな言葉だろうとなんだろうと聞かずにはいられなかったのだ。全てを探偵に言い当てられた犯人だって最後に必ずこう言うだろう。
「法学部院生の森崎理一郎。ここの会長をしている者だよ」
リイチさん、いや森崎さんは俺の横――すなわち『世界治下経済研究会』の引き戸を指差しながら言った。本人にそのつもりが全くないのはわかるが、探偵さながらに決まっている。決まりすぎている。
「ところで、アンタはなんでここにいるの?」
呆けている俺の鼓膜を下方からの生意気な声が打つ。見ると三輪ちゃんがじっとこちらを凝視していた。偉そうに腕まで組んでいる。
「ポスターを見たんだよ。たった今、森崎さんが言ってただろ」
少し口調が荒くなったがこの際構わない。
しかし三輪ちゃんは大きな目をできる限りといった感じで細くしてきた。
「そんなのわかってる。どうして来たのかって理由を聞いてるのよ、り、ゆ、う、をっ」
声に力を込めながら、そのままずいずいと迫られて俺は思わずのけ反ってしまった。別に恐いわけじゃない。ただこんなに低い位置から圧力をかけられたことがないから戸惑っているだけだ。
「おや、三輪君は気付いていなかったのかい?」
森崎さんが意外そうな声をあげたので、俺と三輪ちゃんは同時にそちらを見た。
「気付くも何も、わかってるなら教えてよォ」
三輪ちゃんが可愛らしく頬を膨らませて首を傾げるが、森崎さんは特に反応はせず、そうかそうかと頷きながらポスターを俺たちに見えるように前に出した。
しかし次の瞬間に開かれたのは、森崎さんの口ではなく、俺の横の引き戸だった。
「お、やっぱりリイチさんじゃないっすか」
出てきた男は開口一番そう言った。折しもそんな彼の目の前に立つ形になった俺は、一歩では止まらず一気に三歩も後ずさった。
きっと俺が女の子だったら間違いなく「襲われる」とか「売られる」とかいった類の物騒な感想しか抱かなかっただろう。もっとも僕自身も「殴られる」という大差ない感想を持ったのだけれど。
その男は見ていると目に痛い派手な色のシャツをだらしなく着崩し、その胸元には金色のアクセサリー、そしてそれに負けないくらい派手な金色の髪をワックスで立たせており、完全に暴力とかを生業にしている人たちにしか見えなかった。
「あっ、ちょっとアンタ!」
下がったまま動けないでいた俺を押し退けて、三輪ちゃんが男に詰め寄った。
「これは何よ、これは」
森崎さんの手にあるポスターを指差す三輪ちゃん。金髪男ことヒトシさんは研ぎたてのナイフみたいに鋭い目をポスターに向けた。
「何ってアレだよ。回りくどい言い方しないで、いっそハナからこういう募集したらどうなるかな、って思ったんだ」
「バッカじゃないのアンタ。バカは見た目だけにしておきなさい」
なんてこった。俺は金魚のように口をパクつかせた。
三輪ちゃんはヒトシさんを睨みつけて数々の罵詈雑言を浴びせまくる。言っている彼女はどうか知らないが、見ているこちらは気が気ではない。そして言われているヒトシさんは確実にキレるだろう。ここは男として彼女の盾になる……ような勇気は持ち合わせていないので、せめて今すぐに彼女の蛮勇行為を止めることにしよう。
そう思って何とか一歩踏み出したが、ヒトシさんの様子を見て二歩目は踏み留まった。踏み出せなかったのではない。踏み出さなかったのだ。
彼はああ、だのおうだのと適当に返事をするだけで一向にキレるような気配は見せない。
そんなどこか投げやりな態度に俺は一つの結論を見出した。もしかしたら彼はいわゆる見掛け倒しなのではないか。冷静に考えれば本当に彼が危ない人間ならとっくに森崎さんが止めているはずだ。きっとヒトシさんも俺のようにケンカもした事のない普通の人間なのだ。三輪ちゃんも「バカは見た目だけにしておきなさい」とか言ってたし、格好が派手なのはいわゆる大学デビューという――
「おい、そこの」
俺の思考はそんな声に断ち切られた。いや、正確には声というよりその視線にである。ギロリ、と擬音が聞こえかねない凶器のような視線が、俺の体中の血液を凍らせ、震えることすらできず身体が硬直する。
そしてこちらを見たヒトシさんはニヤリと笑ってから俺のネクタイを掴んだ。
「う、わあっ」
なんなんだ、俺の心が読まれたのか? それだとしたらかなりヤバイ。ホントに謝ります。見掛け倒しとか言ってごめんなさい。大学デビューとか言ってごめんなさい。あとはそれから……。
「――してくれ」
「え?」
「だからネクタイだよ」
「ね、ネクタイ……?」
言葉の意味が理解できず目を瞬かせたことで、どうにか平静を取り戻していた自分に気が付く。
「おう。このネクタイ貸してくれって言ってんの」
そうヒトシさんが繰り返したので、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
俺は今朝苦労して結んだネクタイを解くとヒトシさんに手渡した。行動が素早かったのは、笑顔だったはずのヒトシさんの目が少し細まったからだ。
彼は俺のネクタイの端を持って床ギリギリまで垂らすと「やっぱりな」と吹き出した。その様子を見た三輪ちゃんがキョトンと小首をかしげる。
「なに笑ってんのよ、気持ち悪い」
「これ見てみ」
ニヤニヤしながらネクタイを三輪ちゃんの横に持っていくヒトシさん。三輪ちゃんは何よ、とネクタイとヒトシさんを怪訝そうに見ていたが、俺には彼のその行動の意味がすぐにわかった。
「池野めだか師匠」
「――ッ! 同じ長さじゃない!」
三輪ちゃんは顔を真っ赤にしてヒトシさんの手からネクタイを奪った。
「よくもまあ毎度毎度、息するように悪態ばかりつけるわね、このド腐れ金髪は……ッ」
ネクタイを縮めようとでもしているのか、三輪ちゃんはネクタイを丸めてギュウギュウと両手で押し潰した。
もちろんそんなことをしても、ネクタイの長さが縮むことなどあるはずもなく、かと言って三輪ちゃんの身長が伸びることなどもっとない。だから俺のネクタイをいじめるのはやめてくれ。買ったばかりでまだ二回くらいしか締めてないのだから。
俺が泣きたい気持ちになている目の前でヒトシさんは心底楽しそうにケラケラ笑っている。
「ずっと気になってたんだよなぁ。やっぱり同じ長さだ」
「先輩をからかうな、趣味悪シャツ!」
三輪ちゃんの声が一段と高くなる。結局俺のネクタイは彼女に油を注いだだけだったようだが、そんなことよりも今の叫びの内容のほうがずっと気になった。
ヒトシさんが三輪ちゃんをからかったということと三輪ちゃんの「先輩をからかうな」という言葉……ダメだ。まったく結びつかない。
俺に対してもそうだったけど、三輪ちゃんは他人を下に見るクセみたいなものを持ってるのだろうか。
「気になるかい?」
いつの間にか横に来ていた森崎さんに言われて、俺はゴクリと喉をならした。おそらくは顔に出ていたのだろうが、彼に言われるとなんだか心の中を見透かされているような気がして落ち着かない。
そんな俺の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。森崎さんはヒトシさんと三輪ちゃんを交互に見ながら言った。
「木柳君……金髪の彼は二年生で三輪君は三年生なんだ」
「は?」
なんとも失礼極まりないリアクションだが仕方がない。まさか中学生サイズの大学生――しかも俺より二つも上――が存在するなんて夢にも思わなかった。だったら俺に対して偉そうな態度を取っていたことも頷ける……どうにも納得できない部分もあるけど、とりあえずここは飲み込んでおくことにしよう。
俺は改めて木柳さんと三輪ちゃん、いや三輪さんを見た。
生物には全て個体差というものがあるけど、人間ほどその差がある生き物はいない。そんなことをどこかの偉い学者先生が言っていたような気がする。
「コラ、騒いじゃだめよ」
突然そんな声が耳に飛び込んできた。細くてか弱いがどこか芯が通った感じの声だ。現にそれ程大きな声ではなかったにも関わらず、木柳さんと三輪さんは言い争いを止めていた。
再び開かれたドアから出てきたのは髪の長い女性だった。
一瞬ふわりとした風が吹いたような錯覚を覚える。
片方だけ出した耳とその後れ毛がなんとも色っぽく、女性にしては高い身長で、少し大きめのサロペットがよく似合っている。
「ここの廊下は声が響くんだから……あら、お客さんかしら?」
女性は切れ長の目をこちらに向けてきた。その余裕のある年上然とした微笑みに、俺は心臓が大きく高鳴るのを感じた。
「それがわからないのよねー。なんかここにいたの」
「オイオイオイ、ナコとリイチさんの知り合いじゃなかったのかよ」
三輪さんの言葉に首を傾げつつ、木柳さんが三輪さんから取り返したネクタイを返してくれた。その気持ち程度だがシワを伸ばし、綺麗に畳まれたそのネクタイを見て、案外悪い人じゃないのかもしれないと思った。
それよりネクタイも帰ってきただことだし、今出てきた美人さんとお近づきになれないのは心残りだけれど、さっさとお暇するとしよう。
ネクタイを胸ポケットにしまってその旨を伝えようとした矢先、森崎さんがとんでもないことを口にした。
「彼はうちのサークルの見学者だよ」
「え」
あまりにも不意打ち過ぎてそれ以上の反応はできなかった。その後森崎さんは「本当の活動のほうのね」と付け足した。
場の空気がにわかにざわついた。それに本当の活動ってなんだ? 少し気にはなったが、口から出たのはその疑問を解決するための質問ではなく、今の森崎さんの発言を撤回させるための言葉だった。
「見学なんて一言も言ってませんよ」
ついつい口調がきつくなった。なし崩し的にサークル勧誘をしてきたことに対してもだが、同時にここがいわゆるアブナイサークルの可能性があるということを思い出したのだ。
警戒するようにその場の全員に対して神経を研ぎ澄ませるがしかし、森崎さんはそれを見透かしたようにふにゃりと笑った。そして手に持っていたポスターを胸の前に出す。
「さっき言った通り、君がここに来ることができたのはポスターに書かれた部室の場所を見たからだ。でも……」
言葉を切って言った箇所を指差す。
「こんな隅に書かれた部分を見るなんてことはないはずだ。人間の目というものは最も目立つものにいくはずだからね」
森崎さんはそう言ってその最も目立つもの――例の『一文』を指でなぞった。俺はその指の動きに合わせて頭の中でそれを読み上げた。
一緒に悪を潰そうぜ!
これを見たからこそ俺はこのポスターに目が行ったわけだし、それがきっかけでポスターを隅々まで確認して部室の場所もわかったのだ。
「君はこの一文が気になってここに来たんじゃないのかい? でもいざ冷静になって考えると危ない思考の集団ではないかと思い尻込みしてしまった。そんなところかな?」
「危ないって……まあ確かにそっか」
ナコさんがポスターを見ながら小さく息を吐いた。
「話だけでも……というのは危ない人たちの常套句だけれど。どうだい、せっかくここまで足を運んでくれたのだから少しは興味はあるのだろう?」
森崎さんが柔和な笑顔を向けてくる。
本当に全てを言い当てられてしまった。この人には隠し事をするのは無理だろう。そんなことを考えつつ、俺は大きく一回頷いていた。
あの『一緒に悪を潰そうぜ!』のことも気になるし……こうなればトコトンまでいってみよう。毒を食らわば皿まで、というヤツだ。
通された部室は意外と片付いていた。意外とというのも三輪さんや木柳さんあたりが散らかしていそうだと勝手なイメージが先行していたからなのは言うまでもない。おそらく森崎さんとあの美人さん――名前を聞いていないのだから仕方ない――が片付けているのだろう。
真ん中に大きな机が置かれていて、向かって右の壁にはスチールの本棚。そして反対側の壁には『世界治下経済研究会』と書かれた分厚い木製の看板のようなものがかけられており、その下には道場の門下生よろしく歴代の会員の名前が並んでいるようだった。どうやら結構歴史のあるサークルらしい。
なんとなく雰囲気に圧倒されていると森崎さんがパイプ椅子を勧めてくれたので、お礼を言ってから座った。すると絶妙なタイミングで横からすっと紙コップが差し出される。
「コーヒーでよかったかな?」
湯気のたつ紙コップを片手に、美人さんが俺の顔を覗き込むようにしてきて、一気に耳が熱くなった。みっともなく赤面してないことを祈りながらそれを受け取る。
彼女は熱いから気をつけてねと、片目を瞑って見せてから他のメンバーのコーヒーを配っていった。机の端にポットとインスタントコーヒーの瓶が見えたけど、一口すすったそれは、サイフォンやネルドリップで淹れたどんなコーヒーよりもおいしいように感じた。
紙コップだったのは俺だけで、他の人はそれぞれのカップを受け取っている。森崎さんは無地の白いカップで、三輪さんはデフォルメされた犬の絵がついた小さなマグカップ、美人さんは上品なデザインのティーカップで、木柳さんにいたってはゴツイ湯飲みと、なかなか個性的である。
「さて」
みんなにコーヒーが行渡った頃に森崎さんが軽く膝を叩いた。これから話すぞという合図のようだ。すると、
「ちょっと待った」
窓際に陣取っていた木柳さんが声をあげた。森崎さんは首を傾げるようにしてそちらを向く。
「さっき『本当の活動のほう』って言ってたけど、マジで話ちまうんすか?」
木柳さんはこちらに鋭い視線を投げてきた。俺はそれに気付かないフリをしながら、今の言葉を吟味した。
真っ当に活動しているなら、世界治下経済研究会などと名乗るようなサークルが『一緒に悪を潰そう!』なんてことをポスターに書くわけがない。きっとそのあたりが彼らの言う『本当の活動のほう』に大きく関わっているのだろう。いよいよ危ない臭いがしてきた。
早くも『毒を食らわば皿まで』を後悔している俺をよそに、木柳さんは続けた。
「簡単に外部に漏らしていいことじゃない気ぃするんすけど」
「あんなポスター作っておいてよく言うよ」
本棚の前に座っていた三輪さんがタメ息混じりに言った。小馬鹿にしたような目を木柳さんに向けているが椅子に座ったお陰で余計に小さく見えるせいか、どうにも迫力に欠ける。それは木柳さんも同じように感じているらしく、どこ吹く風といった様子でフン、と鼻を鳴らした。
「元々今日中に剥がすつもりだったんだよ。それにあんなの見たってみんなギャグだと思うだろ。つーか、お前が剥がしてくれたから手間省けたけど。サンキューな」
「本当に手のかかる子だこと。奈々子ママに感謝なさいな」
渋面しながらも三輪さんは冗談めかしく声を弾ませた。真面目に話していると思ったらいきなりミニコントが始まるので、こちらもどういう心持ちで話を聞いていいのかイマイチ判別に困るところだ。
「そもそもギャグだと思わないで来ちゃった子がいるっていうのが問題なんじゃない」
三輪さんの言葉に木柳さんは喉を詰まらせたように唸り声を上げる。
話を聞くとはいえ、あまりにも向こうだけで話が完結してしまっていて、全容が見えてこない。どんどん質問して先を促したい気持ちもあったが、どことなくそれをするのを憚られるような雰囲気があるので、結局は黙っているという選択肢を選ばざるを得ないのがもどかしい。
「ま、それは置いといて」
三輪さんは『置いといて』のジェスチャーをして一拍置いた。
「ヒトシの意見には私も賛成かな。色々マズくなるんじゃない?」
「でも彼は周りに言いふらすような子じゃないと思うけれど」
意外なところからの返答に木柳さんと三輪さんはもちろん、俺も一緒に顔を上げた。ただ森崎さんだけは予想していたのだろうか、美人さんのほうをチラリと見るだけだった。
「そりゃあ、度胸はなさそうだけどさ。絶対とは言い切れないじゃない」
なんとも失礼なことをいう三輪さん。それでもあまり腹が立たなかったのはきっと美人さんが反論してくれると思っていたからだ。でも悲しいことに美人さんはあっさり、そうねと頷いてしまったので、俺はパイプ椅子からズリ落ちそうになった。
「確かに絶対はないわね。でもそれをわかった上で彼を部室に招き入れたんですよね?」
木柳さんと三輪さんは何かを思い出したように居住まいを正した。美人さんの視線は森崎さんに向いていた。どうやら今の言葉は彼に向けて言ったものだったらしい。
「もちろん、功刀君の言う通りだよ」
森崎さんは言いながらメガネを上げて笑った。こんなことをしてもまったく嫌味に感じないから不思議だ。それはそれとして、美人さんは功刀さんっていうのか。できれば下の名前も知りたいところだ。
「おそらく彼は僕たちの秘密を知っていても問題ない存在になる」
あまりに回りくどい言い方だったので、最初は何を言っているのかわからなかった。
「それにここでやっていくだけの力を持っていると思うよ」
「ちょっと、それって……」
自分の眉が寄ったのがわかった。つまり森崎さんは俺がこの得体の知れないサークルに入ることになると言っているのだ。冗談じゃない。
すぐにでもここを飛び出したいと思ったが、それはなんとなくシャクなので、笑顔のままこちらを見てくる森崎さんをじっと見返した。
「初対面なのに随分俺のことを買ってくれるんですね」
そう言ってコーヒーを一口すする。あえて入会するしないには触れないでおく。
「確かに初対面だけれど、僕は君の能力を高く評価しているつもりだよ」
森崎さんはのんびりと無地のカップを口に運んだ。なんだか余裕を見せつけられている気がして俺も負けじと紙コップに口をつけた。
「君はあの時、初対面の人間二人にはさまれながらも、その場で瞬時に自分の『立ち位置』を理解した。あれはそうそうできることじゃない」
主語が曖昧だったが『あの時』が廊下での森崎さんと三輪さんとで話した時のことだとすぐにわかった。確かにあの時は場の空気に合わせて『犯人』のポジションを取ったけど……。
「それにあのポスターを見てここまでやってくるような好奇心。見事なものだと思うよ」
俺はなんとなく俯いてしまった。森崎さんの言う通り廊下ではしっかり立ち位置を確保できたけど、あれは森崎さんの出していた探偵然とした雰囲気によるところが大きいし、ポスターのことだって目の前で剥がされるという偶然がなければわざわざここには来なかっただろう。
そして何より森崎さんの言うことには無理があるように思える。
短い時間しか話していないが、今の森崎さんにはなんだか違和感を覚えるのだ。本人は何食わぬ顔をしてるけど少し話の持って行き方が強引な気がする。多分こうやって俺を仲間に引き入れるつもりなのだろう。
俺は鬼の首を取ったような気分で、その辺を突っ込もうと口を開きかけたが、森崎さんは俺の思惑の範囲内に立っているほど甘い人間ではなかった。
「……という少し強引な理由付けをしてみたんだけどどうかな」
悲しきかな、見事に思考を先回りされる。一瞬でも森崎さんの上を行ったと思った自分が恥ずかしい。もはやここまでくれば悔しさすら湧いてこないから不思議だ。
森崎さんは間を取るように縁のないメガネを上げた。
「実際のところは話していて、頭の回転の速い人だなと思ったくらいだよ」
このタイミングで褒められてもちっとも嬉しくない。
「それだけが理由ですか?」
しょげてばかりいられないので、何とかそれだけ口にする。森崎さんは大体ねと頷いた。
「残りは僕自身も理解しかねる部分――言ってしまえば勘というやつだよ」
「勘?」
俺は怪訝に思って眉をひそめた。
ここへ来てなんとも不確定なものを持ち出してきたものだ。でも他の人たちはどこかしっくりきたような表情で森崎さんを見ていた。
森崎さんの意見に対して否定的だった木柳さんと三輪さんまで大きく頷いている。まるでそれなら大丈夫だとでも言うように。これだけで彼がいかに信頼されているかがわかった。
完全にその場から置いていかれたような状態になった俺は、一矢報いるような思いで口を開いた。
「でも俺は入会しないと思いますよ」
「まだ話も聞いていないのにどうしてだい?」
「勘というやつです」
さっきのお返しだとばかりにぴしゃりと言い放ったが、森崎さんが笑顔を崩さないあたり想定の範囲内だったのだろう。俺の放った最後の矢は見事に叩き落されてしまったらしい。
「頭だけじゃなくて口の方もなかなか達者じゃねぇか」
木柳さんに嫌味っぽく口笛を吹かれたけれど、何も言い返せない。
「この通りさ。面白い人材だと思わないかい、みんな」
一同に目配せする森崎さんを見ながら、俺はぐっと口を結ぶことしかできなかった。
「なんにせよ結論は全部話を聞いてからということで」
森崎さんは笑った。
上等だ。毒を食らわば皿までという思いでこの部屋に足を踏み入れたのだ。負けるならトコトンまで負けてやろうじゃないか。
三輪さん。
木柳さん。
功刀さん。
そして森崎さん。
俺はゆっくりと全員の顔を見てから、ゆっくりと頷いた。
「さて」
森崎さんは最初とまったく同じ語調で言った。今度は誰も口を挟もうとしない。そのことをわかっていたのだろう。彼は間を置くことなく続けた。
「君なら気付いていると思うが、ここが掲げている世界治下経済研究会という看板はあくまで表向きのものだ」
君ならも何も誰でも気付くだろうと思ったが黙っておく。
「実際、経済学部なのは功刀君だけなんだ。三輪君は人文学部だし、木柳君は工学部」
経済学部、人文学部、工学部、そして、森崎さんは法学部だと言っていたから、とんだ学部のルツボだ。世界治下経済研究会というくらいだから経済学部が集まりそうなものだけど――実際俺も経済学部だからこのサークル名が目に入ったとも言えなくもない。
「君はどうすれば威厳というものを保てると思う?」
「え」
何の脈絡もない質問に、思わず目を見開いて森崎さんを見てしまった。そしてその目をすぐに訝しむように細めた。
「何を言ってるのか……」
「まあ、聞けよ」
俺の目に気付いた木柳さんがそんなことを言ってくるので、とりあえず黙ってコーヒーに口をつけた。
「警察を例に挙げるとわかりやすい」
俺がカップを下ろしたタイミングで森崎さんが言ったが、やはり要領を得ないまま首を傾げることしかできない。
「警察……ですか」
「そうさ」
コーヒーをすすりながら頷く森崎さん。
「極端な話になるけれど、もしこの世界に犯罪者がいなかったら、警察はどうなると思う?」
「どうなるって……」
いきなりそんなことを聞かれても困る。これならさっきの威厳云々のことのほうがまだ答えられただろう。今の質問はあまりに非現実過ぎる。
「それじゃあまずは、もし検挙率がゼロになったらって考えたらどうかしら」
わざわざ功刀さんが質問内容を噛み砕いて説明してくれた。それを取り次ぐように三輪さんが難しく考えなくていいよと、自分の眉間に指をやった。どうやら俺の眉間に皺が寄っていると言いたいらしい。
「そんなことになったら警察の立場が危なくなると思いますけど」
眉間をほぐすように触りながら答えると、森崎さんはさすがだね、と笑った。
「そう、誰も検挙できない警察はその立場が危うくなる。それが力不足で犯罪者を捕まえられないことが理由だろうと、犯罪者自体が存在しないことが理由だろうとね」
森崎さんはあまりにもわかりやすく後半の語調を強めた。なるほど、それで最初にあんな質問をしたのか。
「どうやら合点したようだね」
まだ何も言っていないのに森崎さんが頷く。俺はええと頷き返した。
「『検挙率』というものが警察の立場を構築するための大部分を占めている。けれどそれがなくなれば立場もなにもあったものじゃない。さっき威厳がどうのって言ったのはそういうことですよね」
「その通り。犯罪を無くすための警察なのに、犯罪がなくなると困る。なんとも矛盾したことだけれどそれが現実。それが威厳を保つということだ」
そういう森崎さんの目が少し物悲しく見えたのは、多分気のせいではないだろう。しかしそれも一瞬のことで彼は小さく息を吐くと再び笑顔をつくった。
「彼らには犯罪者の存在がなくてはならないんだよ。必要悪というやつだ」
「でもって」
三輪さんの目とカップの犬の目が俺のほうを見た。
「それは警察だけじゃなくて人の上に立ったり管理したりする組織なら大体そう。著作権だって侵害されなきゃ、それを管理する組織なんていらないワケじゃない?」
「あと、ナントカ管理局みたいなのも何かトラブるから必要だって言えるだろ」
「広い意味では党の威厳を高めるためにダメな政治家さんを叩くのも含まれるわね」
「そして」
木柳さん、功刀さんと続いて最後を締めるように森崎さんが口を開いた。
「学校もその例外ではない」
まるで台本でもあるかのようにテンポ良く繰り出された言葉に、俺は息を飲んだ。
徐々に話の輪郭が見え始めるにつれて、心臓が嫌な感じで脈打つ。
「学校側――学生部はもちろん文協などの組織は人の上に立つものとして威厳が必要だ。そしてそれを保つために何が必要かはさっき言ったね?」
検挙率。
ルールを破る人。
トラブル。
ダメな政治家。
威厳を保つ。
必要悪。
いくつもの単語が頭の中をグルグル駆け巡る。俺とて人並みには思考能力は持っているつもりだ。だからそれらを、結びつけて答えを出すのにはそうそう時間はかからなかった。
「じゃあこのサークルは……」
「依頼を受けて必要悪を提供することが主な活動内容だ」
今日のおやつはケーキだよ、とでもいうように森崎さんは言った。必要悪を提供……とんでもないことを言っているのはわかる。自分でもそこまでの結論は出せていた。にも関わらずやっぱり要領を得ることができない。
そこへまたタイミングよく功刀さんが助け舟を出してくれた。
「わかりやすく言うと、学校側や文協が指定した相手に悪いことをさせて……ううん、悪いことをするように誘発して、それを摘発してもらうの」
「要は捕まえさせるために悪いやつを作って献上するって感じかな」
三輪さんが何かを捧げるように両手の平を上に向けた。それを見た木柳さんが楽しそうに笑った。
「この前やったのはあれだ。学校の裏サイトに『中田教授のテストはカンニングし放題』ってカキコミしたヤツ。案の定ターゲットはカンニングしてめでたく捕まったってワケよ」
「あとさ、文協からの依頼で、茶道部の部室の大掃除にマージャン紛れ込ませたよね。違反したってコトで部室棟追放。見事に空き部屋ができましたとさ」
木柳さんも三輪さんもまるで武勇伝のようにペラペラと喋る。
それが腹立たしかった。俺は空になった紙コップを潰して床に叩きつけると、パイプ椅子から立ち上がった。
「どうしたんだい?」
森崎さんが何事もなかったかのように聞いてくる。いや、彼だけではなく他のメンバーも全く動じていない。三輪さんにいたってはコーヒーを淹れなおしているくらいだ。
「……帰るんですよ」
なるべく語気が荒くならないように言った。
悪いことを誘発して威厳を保たせる。当然その事実には強い怒りを覚えたけど、俺の胸中を占めていたのはそれよりも失望だった。
学校に対してなんかじゃない。彼らに対してだ。短い時間だったけど、話しているうちに俺は彼らにどんどん惹かれていたのだ。
理由はない。あえて言うなら彼らの間に強い絆のようなものを感じて、自分もそこに入りたいという思いのためか。
それこそまさに勘だ。
そこまで思っていた分、落差は大きかった。
「今の話にどこか気に触るところがあったのかい?」
「全てです」
落ち着いた口調の森崎さんが今は非常に腹立たしい。座ったままの森崎さんの前に歩いていって上から見下ろした。それでも彼は動じない。
「必要悪の提供? それって誰かを悪者にして差し出すってことですよね。そんなの生贄みたいなものじゃないですか」
さっき三輪さんが言っていた『献上』という言葉が妙にしっくりきて余計にムカついた。
「さっき話した通り必要なことだよ」
「そうそう。必要な悪だから必要悪って言うんだろうが」
森崎さんに続いて木柳さんが言った。その言葉に一瞬頭が真っ白になった。
「何が必要悪だ!」
気付けば俺は大声をあげていた。どこか浮ついていた部屋の空気がピタリと収まったことで、俺はハッと我に返った。
みんな黙ったままこちらを見ていて、もはや引き下がれるような状況ではなかった。
もっとも端から引き下がる気はない。完全に頭に血が上っているのだから。
「必要悪だろうとなんだろうと人を犠牲にしていいわけないじゃないですか。そんな権利は誰にもありません。大体自分たちで悪いことを誘発しておいて、何が一緒に悪を潰そうですか!」
一気にまくし立てたせいか、少し息が上がっていた。でも森崎さんをはじめ他の人たちも既に俺の方を見てはいなかった。互いに何も言わず目配せのようなことをしているだけだ。
「……失礼します」
俺はそれだけ言って入り口に向かった。一連の流れでポスターに書かれた『一緒に悪を潰そうぜ!』というのは彼らの欺瞞の表れだったことがわかった。だからもうここには用などない。
そう思ってドアに手をかけようとした瞬間だった。
「待てよ」
短い、だが鋭い声が俺の手を止めた。振り返るとパイプ椅子から木柳さんが立ち上がっていた。俺は思わず身構えてしまった。
「約束破るってのはいただけねぇな」
「約束?」
「リイチさんが結論は全部聞いてからにしてくれって言ったとき、お前頷いたろ」
そういえばそんなことを言っていた気がする。いやまて、ということは……。
「……その話とやらにはまだ続きがあるということですか?」
俺が聞くと森崎さんがその通りだと頷いた。
「やっぱり僕の勘は当たっていたようだ。君は僕の話を聞いて期待通りの反応をしてくれたよ」
嬉しそうに言うが俺にはさっぱりわからない。
「最初に言った通りまずは全て聞いてから……いや君にはぜひ聞いて欲しい」
懇願するように言われたが、さっきあんな啖呵を切っただけにどう返していいかわからない。戸惑って立ち尽くしていると、肩にそっと手が置かれた。
「私からもお願い。君は本当にいい人なんだもの」
功刀さんに笑顔で言われて、俺はさっきとは違う意味で頭に血が上るのを感じた。そしてゲンキンなことにその一言で俺は再びパイプ椅子に腰掛けたのだった。
理由はともかくとして、この選択は正しかったと思うのはこれから五分後のことだ。