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わたしのヒーロー

作者: 田代有紀

 冷たい黒大理石の床を踏みしめて、男が現れた。天井から吊るされたシャンデリアが、闇の魔法で紫色に妖しく光る。薄暗い魔王の部屋は、光という光を穢し、闇以外のものすべてを呑み込むような気配に満ちている。その只中で、その男はまるで陽の光のように輝いていた。一点の染みもない純白のマント、少しの傷もない白銀の甲冑、ごく薄い色の髪と、アイスブルーの瞳。色白すぎる肌と相まって、まるで光の騎士といった装いだ。魔王は自分の部屋に現れた異物を見下ろした。と、男は目を上げ、アイスブルーの瞳で魔王の眼を見据えた。魔王と目を合わせて正気でいられる人間は、そう多くはない。男が口を開く。よく通る声が、広い部屋に響き渡った。

「魔王よ」

 声は少しも震えておらず、気負いも怯えも一切感じられない。それと同時に、多くの人間が魔物に抱く憎しみや怒り、その真逆のへつらいや命乞いといったものもの含まれていなかった。

「わたしはあなたに用があって、ここへ来た」

 淡々と、不遜とさえ取れる態度と口調で男は言った。しかし魔王にしてみれば、自分の城へやってきて、途中にいたであろう見張りの手下を片付けてここまできた人間がどんな態度であろうと不愉快な相手であることに代わりはない。

「どんな用向きだ」

 魔王が訊ねると、男は答えた。

「わたしの命をここで終わらせてくれ」

 「勇者」の装いをしたはずの人間から発せられるには意外すぎる言葉に、魔王は禍々しい目を見開き、そして笑い出した。


 むかしむかし、あるところに、五つの国からなる大陸があった。それぞれの国の名は、炎、氷、岩、風、そして光といった。長い戦争のあと、彼らは同盟を結び、平和な時代がようやく始まりを告げた。そんな時、大陸の西の果てに「魔物」と呼ばれる怪物たちが姿を現した。怪物はあっという間に大陸全土に広がり、たちまち五つの国は大混乱に陥った。事態を収拾すべく、五つの王国は会議を開き、そしてひとつのことを取り決めた。それぞれの国が勇者をひとり選び出し、五人の勇者を魔物の長である「魔王」の討伐に派遣する。画して五王国の隅々から、魔王の首を討ちとらんとする者たちが集められた。

 名誉のため、国王の提示した見返りのため、魔物への復讐のため、または有り余る力の使い道を探して、様々な理由から、彼らはこぞって会場へ集まった。魔王の城へただひとりで現れた男も、そんな中のひとりだった。ただし彼は、自分から志願したのではなかったが。

「わたしが魔王討伐に向いているはずがない」

 男はそう言って断ったが、家族も含め周囲の人々はそれを受け入れなかった。

「おまえの戦いぶりは天から与えられた才能なのだ」

「その才を、この危機に生かさずになんとする」

「我々の領地から勇者が出たとなれば、領主としても鼻が高い」

 男には子供の頃から見る者の目を引く才能があった。羊の放牧中、現れたオオカミを杖一本で倒した。山中に猟に出かけ、熊に襲われかけた仲間を救った。通りすがりの騎士が、面白半分で剣を教えてみたところ、あっという間にそれを習得してしまった。その噂は領主の耳にまで達し、男は十五歳で領主に仕える身となった。トーナメントではいつも優勝で、その容姿と相まって、貴婦人達の中でも高い人気を勝ち取った。そういうわけで、男は魔王討伐の候補者として、半ば無理やり王城へと送られた。

 選抜方法はトーナメント。選抜試合が開始され、男は案の定あっという間に勝ち進んだ。気付いた時には決勝戦の会場にいて、ついに相手の大柄な剣士を打ち倒した。魔王討伐の勇者は彼に決まった。彼はどうして自分がそんな力を持っているのか、知らなかった。

「わたしより、強い志を持った者が送られるべきです」

 自分が打ち伏せた対戦者たちが叫んだ言葉を思い起こしながら、男は最後の悪足掻きを試みた。しかし、それは謙遜と取られてすげなく却下された。しまいには国王付きの大臣に、

「行き過ぎた謙遜は負けた者たちへの侮辱だ。国王陛下のお耳に入る前にやめられよ」

 と咎められ、男は渋々足掻くのをやめた。国王に同じ話をしたところで同じことを言われる結果が見えたからだ。彼らはなんとしても男を戦場へ送るつもりだった。

「よいか、必ずそなたが魔王の首を取ってくるのだぞ。そなたが魔王を打ち取れば、五王国の中の我が国の発言権は大いに増すことになるのだ。この国と民のため、くれぐれも頼んだぞ」

 恭しく頭を下げたその下で、男は顔を顰めた。派遣されてくる他の四人もまた、同じことを命じられていることだろう。魔王討伐。英雄。勇者。そうは言ってみても、所詮国王たちのボードゲームにすぎないのだ。そして自分はその駒というわけだ。国王は男のために純白のマントと白銀の甲冑、金の柄に魔を祓うという赤い宝石をつけた剣を用意した。光の国最高の勇者の装備は最高級でなければならない。

 プレイヤーに飾り立てられた駒たちは、そうして集合地点に派遣された。最果ての地への入り口、最後の街のはずれの一本の樹の前だ。派遣されてきた勇者は、案の定いのちをかけて戦うことを誓わされた者たちだった。

 情熱的で、正義に燃える炎の国の剣士。恋人の復讐のため、美しい容姿の内側に青い炎を燃やした氷の国の女剣士。鉄の門をも打ち砕く怪力を持て余していた岩の国の戦士。国王の娘との結婚のために課された試練に挑む風の国の弓矢使い。

 それぞれの掲げる目標に向かい、彼らは何の躊躇いもなくその身を捧げた。誓わされたことさえ気付かずに、自らのいのちを賭ける。それは男にとって滑稽で、そして同時に羨ましくもあった。

 旅は順調に進んだ。国一番の勇者とだけあって、彼らの腕は確かだった。しかし、魔物の国の中を汚れひとつ付けずに進んだのは男だけだった。

 最初の試練で、岩の国の戦士が命を落とした。彼は魔物が落してきた大岩を支えて他の四人が脱出する隙を作り、自分は下敷きになった。自分の力がこのためにあったのなら、この命は惜しくない。そう言って、彼は満足げに笑い、岩の下に消えた。

 次の試練で風の国の弓使いが脱落した。彼は魔物に右腕を食いちぎられ、自暴自棄になって突っ込んでいって、それきり戻ってこなかった。

 三番目の試練で、氷の国の女剣士が犠牲になった。魔物は彼女の耳元で囁いた。

「彼への愛は偽りだ。なぜなら、彼は死んだから。死んだ者のために燃やす復讐心は、自分のためのものに他ならない。お前は自分の欲望に彼を利用したに過ぎない」

 彼女の背中から黒い翼が生えるのを、男は見た。魔物と化した彼女は、男を食い殺そうとして向かってきたところで炎の剣士に胸を貫かれて息絶えた。

 二人だけになった勇者たちは、現れる魔物を黙々と斬り伏せて進んだ。黒い森が魔王の城まで延々と広がっていて、コウモリや竜のような怪しげな翼を生やし、蜥蜴のような皮膚に鳥のような鉤爪と獣の牙を持った化け物たちが襲い掛かってきたが、二人の敵ではなかった。二人はそうして、魔王の城の入り口に辿り着いた。

 炎の剣士は、寡黙な男のことをいつの間にか同じ情熱を持つ同志だと思うようになっていた。男の優れた剣の腕は、正義のために磨かれたものに違いないと考えて、兄弟か昔からの友のように接した。

 最後の試練は、城に入った後にやってきた。

 魔王の部屋へと続く廊下までやってきた時、魔王の手下たちの中でも生え抜きの者たち三匹が二人の前に立ち塞がった。こうなることは二人にとって予想済みだった。二人は難なく三匹の手下のうちの二匹を討ち取った。しかし、最後の一匹は炎の剣士に向かってこう言った。

「正義とは何か、お前は知っているか」

 男は話など聞かずに倒そうと提案したが、炎の剣士は聞き入れなかった。魔物の爪で抉られた頬から、赤い血が滴り落ちた。

「力を持たぬ弱者の平和な暮らしを脅かす我らが悪で、それと戦うお前たちは正義だと、お前は言う。だが、我々はもともとお前たちと同じ人間だ」

 氷の国の女剣士が魔物になったのを見て、二人は薄々そのことに勘付いていた。炎の剣士が顔を歪める姿を見て、男はもう一度魔物を倒そうとした。しかし彼は、それを引き止めた。

「こいつは俺の敵だ。正義の敵だ。おまえは手を出すな」

 魔物が高らかに笑い声を上げた。

「正義を誰が決めるか、お前は知っているか? 勝った方が正義なのだ。我らは先の戦で恨みや憎しみに染まって魔物になったのだ。我らは負けた。だから魔物になった。なぜ負けるのか? 弱いからだ。正義は弱者を救わないのだ」

 炎の剣士は魔物に打ちかかった。そして、逆に魔物に打ち果たされた。炎の剣士が倒れたのを見た男は、駆けていって魔物の首を刎ねた。

「おまえは必ず魔王を討て。何が正義か、俺には分からなくなった。だが、おまえが代わりに答えを見つけてくれ」

 そう言って息絶えた男を横たえ、男は魔王の間の入り口の扉へ向かって歩いていった。そして、重く古びた大扉を押し開けた。


 魔王の笑い声が響き渡り、そして静かになった。男はその一部始終を黙って聞いていた。笑いが収まると、魔物の王は訊ねた。

「お前は大陸の王国から派遣された勇者たちのうちの一人だろう。なぜ私に死を願う?」

「わたしには帰るところがないからだ」

 魔王は目を細めた。

「もしあなたを倒せば、わたしは英雄となれるだろう。しかし、誰もわたしの話を聞いてはくれない。なぜか、わたしは知っている。誰もが自分のために生きているからだ。わたしが英雄として振る舞わねば自分が困るからだ」

 家族は、男を戦場に送り出すことを一時も躊躇わなかった。城で知り合った侍女の娘も、男のことを慕っていると言いながら、ついぞ一度も男の本心を聞こうとしなかった。仕事仲間や領地の人々、領主、貴族、国王たちなど言わずもがなの話である。彼らのためにいのちを賭けて戦って、帰っていって、何が残るというのだろう。彼らは自分に何をしてくれる。

 男を見つめる瞳の中に、なぜか一瞬、懐かしそうな光が浮かんだ。直後にそれは消え失せ、跡形もなくなったので、男は見間違いだったのだろうと思った。

「ここに来るまでに、四人の仲間を――、正確には仲間だというものを失った。彼らは皆、自分の自尊心や欲望に英雄という衣を着せることができる者たちだった。それなのに、資格を持たないわたしだけが生き残ってしまった」

 男はそう言って、剣を床に置いた。大理石の床に置かれた金属が軽く小さな音を響かせる。

「魔王よ。わたしを殺してくれ」

 魔王は膝を屈め、男に顔を近づけた。男は目を逸らさない。魔王は訊ねた。

「お前を殺して、私に何の得がある」

「あなたは死なずに済む。それに、国一番の勇者たちが全滅したのなら、彼らはそう簡単に手を出してはこないだろう」

 フン、と魔王が鼻を鳴らした。意外に人間くさい一面がある、と男は思った。そして先の魔物の言葉を思い出した。その間に、魔王は冷静に分析してみせた。

「個の力が通用しなければ、次は数の力に頼る。お前が私の手にかかって死ねば、王国の大群がここへ押し寄せてくるだろうな」

 ではここで大人しくわたしに倒されるのか、と男はせいぜいの挑発を試みた。魔王はもう一度ニヤリと笑い、天鵞絨のような黒い手で男の顎を捕えた。

「私は長らく、お前のような者を待っていた。強大な力を持ったばかりに役割を押し付けられ、孤独で、賢さゆえに称賛に酔うこともできず、誰よりも惨めな、お前のような者をな」

 魔王の、黒い虹彩の中に金色の散った不思議な瞳を、男は黙って見つめていた。魔王は男の耳元で、いつぞやの魔物が女剣士の耳元で囁いたように、言葉を吹き込んだ。

「私もかつて、お前のような者だったのだ」

 国の希望と期待を一身に背負い、それを誰より疎みながら、傷一つ、汚れ一つ受けることなく魔王の間に踏み込み、そして男と同じことを願った。先代の魔王は今と同じことを言った。男はそこまで聞いて、はっとして身を引いた。引いた瞬間、床に置いた剣を拾ってくるのを忘れなかった。

「魔王を倒せる者が普通の人間であるはずがなかろう。魔王を倒せるのは、魔王と同一線上にいる者だけだ」

 反射的に構えた剣の先で、魔王は嘲笑うようにそう言った。次はお前だ――。憐憫と歓喜と懐古の混じった声が聞こえた。

 勝負は決していた。男が魔王の間に踏み込んだ瞬間から、勇者に選ばれた時から、最初に自らの才能を現した時から、否、生まれた時から――。

「冗談じゃない。人を喰って永遠に生き続けるなど、悪夢だ」

 男は悪い予想を振り払うようにそう言った。魔王は嘲笑を浮かべながら、男を見据えて言った。

「私に殺されるということは、即ち魔王の呪いを引き受けるということだ。お前は人間としての生を終え、魔王として生まれ直すことになる。お前は私に殺せと言ったな」

 言いながら、魔王は突然鋭い爪を翳して襲い掛かってきた。

「お前の望みは叶うし、私の願いも叶う。願ったり叶ったり、ではないか」

 男はその爪を掻い潜り、剣で反撃する。火花を散らすような、激しい戦いが繰り広げられた。男の顔や手には引っ掻き傷がいくつも赤い線を作り、今まで一度たりとも汚れなかった白いマントは引き裂かれてボロボロになった。男は生まれて初めて、自分と互角に戦える相手を見出した。誰もいない広間で、踊っているかのように、白と黒はぶつかり合った。こうして戦っている間だけは、自分を取り囲む闇黒の孤独を忘れられるような気がした。しかし、永遠に続くものなどこの世にはあり得ない。ついに男の剣が魔王の胸の中央を貫いた。その瞬間、魔王の口元に笑みが浮かぶのがはっきりと見て取れた。

 血の代わりに、黒い靄が剣の開けた穴から吹き出していく。男に向けて、魔王は言った。

「次はお前だ」

 剣を握る手から煙が立ち上り始めた。手だけではない。全身が燃えるように熱くなり、蒸気が立ち上る。アイスブルーの瞳の右側が金交じりの黒に代わり、髪の半分は既に漆黒だった。色白の肌は天鵞絨のような闇色の毛皮が覆い始めていた。黒い靄がどこからともなく現れて、吸い込まれてでもいるように男の周りを覆う。のた打ち回る男を見つめながら、くずおれた魔王は言った。

「私は魔物の王だぞ。素直に本当のことを話すと思ったか。私はお前に倒されることで、呪いをお前に移し替えることができるのだ。長い生も、孤独も、これで終わりだ。お前のおかげでな」

 魔王自身からも蒸気が立ち上り、全身を覆っていた黒い天鵞絨が艶を失って溶け落ちる。濁った瞳はもはや何も写してはいなかったが、すぐ隣で苦悶の表情を浮かべてのた打ち回る男の顔は容易に想像がついた。「お前を呪ってやる! わたしの全生涯をかけて、呪ってやる!」

 憎しみと怨嗟に満ちた声が響き渡る。そこに、かつての美しい青年の面影は欠片も残されていなかった。

「感謝するぞ。わたしの英雄」

 最期の言葉を残し、魔王は灰になった。残された新たな魔王は、世界を呪い、自らを送り出した人々を呪い、そして自分を縛りつけた先の魔王を呪った。それこそが人が魔物になる理由と知りながら、彼にはどうすることもできなかった。


 気の遠くなるような長い長い時間が過ぎた。城が静寂に包まれた午後、主の許可なしに、魔王の間の扉が開かれた。

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[良い点] まず第一に文章力に感服しました。 語彙や、主張しすぎない非常に小説らしい言い回し。自分もこんな風に文章を書ければなあと憧れます。 解りやすいストーリーの中に主人公の心理描写が加わる事で独自…
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