プロローグ
オレンジ色の空。
もう沈みかけの夕日が最後の一欠片を残し、空を色濃く染め上げる。
ふと、視線を正面に戻すと周りにはもう誰もおらず、世界に自分だけしかいないような錯覚に陥ってしまう。
いつも通りの帰り道。
普段と変わらない日常の一幕だ。
――退屈だ。
何気ない日常に対して、そう思い始めたのはいつからだっただろう。
小学生の時は、まだ良かった。
大体のことが楽しかったし、何も考えずにただ毎日を過ごすだけで良かったからだ。
それならやっぱり……中学からだったか?
理由を探すが、何も思い当たらない。……いや、一つだけあった。
――努力しても、天才には敵わないって思い始めてから、か。……ん?
そこまで考えたところで、ふと気づく。
先ほどまで猫すら見当たらなかった道の先に――一人の少女がいることに。
その少女は肩まである黒髪をひょこひょこ跳ねさせながら、目の前にある木に向かって必死に手を伸ばしていた。
よく見れば、自分と同じ学校の制服だ。女子の制服なんて触ったこともないが、少なくとも見た目では、うちのクラスの女子が着ているものと同じ制服、だと思う。
何やってるんだ……?
理由はすぐにわかった。
焦ったような表情の少女の視線の先には、木に引っかかっている、風船があったからだ。
そして、その少女の側には小さな男の子がいる。間違いなく、『あの少女が泣いている男の子の風船を取ってあげている』という図だ。
でもなー……。
しかし、一つだけ問題があった。
……まるで届いていないのだ。木に引っかかっている風船に。
頑張ってジャンプしているものの、まるで届く感じがしない。大丈夫なのか。
そう思っていると、少女は何やら気合を入れたように、グッと拳を握って、唐突に木の幹を抱きしめるように掴み、片足を掛けた。
まさか登る気か……?制服破れるぞ?
「おい、制服破れるぞ?」
そう思った途端、俺は少女に近づき声をかけていた。ほとんど無意識だったが、まあ別に気にすることもない。
「?いいよ、別に。それより風船取ってあげないと……」
は?と思わず声が出てしまう。
制服が破れてもいいなんて言う女子初めて見た、と言わんばかりにポカーンとしているだろう俺に、その少女は、さらに続ける。
「だって、取ってあげるって約束したもん」
目は真っ直ぐに風船を向いたまま。
俺がそんな少女に対して思ったのは、『バカじゃないの?』だった。それに制服はスカートだ。そんな状態で木になんて登ったらどうなるかわかるだろうに。
……というかそれ以前に、登ろうとしても登れていないのだが。
「はぁ、それじゃいつまで経っても取れないだろ」
「うるさいなー」
木に登るのを諦めたのか、木から手を離して何やら考え出す少女。そんな少女に何故か俺は笑ってしまった。
「……なんで笑うの?」
「いや、ごめん。なんでもない」
ジト目を向けてくる彼女。
そんな彼女に俺は一つの提案を。
「じゃあ、俺が取るよ」
「え……?いや、そんな悪いよ!それに制服破けちゃうだろうし……」
「いや、それはさっき登ろうとしてた君が言えることじゃないだろ?」
「ま、そうだけど……って、ちょっと!」
*****
「お姉ちゃん、お兄ちゃん!ありがと!」
風船を持って走り去っていく男の子に、右手を挙げて『気にすんな』の意を示す。……まあ、伝わってはないだろうが。
「気をつけて帰るんだよ!」
隣からは優しげな声が聞こえ、男の子に向かって手を振っているのがなんとなくわかった。
「ありがとね」
やがて男の子の姿が見えなくなると、少女がこちらを見て微笑む。
俺はその優しげな少女の表情を直視できずに、後ろを向いた。
「いや、礼はいいって。あの子を助けたのは君だろ?」
「ううん、あなただよ」
すると彼女は俺の顔を覗き込むように、視線を合わせてくる。純粋で綺麗な目だった。……まるで、諦めた俺を咎めてくるような、そんな目。
また目をそらす。
「俺は君が木に登ろうとしなかったら、あの子のことなんて、多分無視してた」
「いや、あなたは私がいなくても助けたよ。だって、あの子を見送る時のあなたの目――優しかったもん」
視線が交差する。
そこにはさっきと同じ……いや、少しだけ違う目があった。今度はどこか嬉しそうな目だ。何故かはわからない。しかし、俺は思わず息を飲んだ。
「あなた、名前何ていうの?……あっごめん。私は桐山 葵。よろしくね?」
「……俺は新戸 優暉。よろしく」
突然の自己紹介。
本当に突然だったので、最初に詰まってしまった俺は悪くない。すると、名前を聞いた少女――桐山葵は、俺の名前を数回呟いた後、
「女の子みたいな名前だね。――あっ、もうこんな時間!?ごめん!私帰らないと……じゃあ、またね!」
そう言い残して、走って行った。……走るのが遅かったのには、何も言うことができなかったが、それほどまでに衝撃が大きかったのだ。
人が気にしてることを……。
背を見せ去っていく少女に、そのまま少しの間俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「……あっ、ズボン穴空いてる」
*****
翌日。金曜日。
俺の通う高校――秋宮学園は、通常登校日だ。次の日からは二日間の休みということもあり、やけに張り切る生徒や、最後のテンションまで使い果たすやつまでいる。
ちなみに俺はそのどちらでもなく、普段と変わらないタイプだ。
「おい、優暉よー。明日遊びに行かね?」
やや気怠げに後ろの席から話しかけてきたのは、眠そうに目を擦る俺の友人、麻木 遼。サッカー部に所属していて、運動神経は抜群。しかし、ちょっとバカなやつだ。
「部活は?」
「明日は何と……休みなのだ!」
やけにテンションの高い友人に若干引く。ちなみにこいつは、金曜日はテンションの振れ幅が大きいタイプ。テンションが低いと思ったら、突然マックスまで振り切れる。そういうやつだ。……しかし、モテる。いや本当に嘘かと思うぐらいモテるのだ。
「ふーん…………じゃあ、いいよ」
「何だよ、その間!」
「はーい、席に着いてー。こらー、麻木君うるさい」
ギャーギャー喚く遼に一言入れて入ってきたのは、西園寺 恭子先生。肩甲骨あたりまで伸ばした茶髪に童顔気味の顔。性格はちょっとおっとりしているが、仕事のできる女性らしい。職員室では、何かと回される仕事が多いとホームルームで嘆いていた。ちなみに彼女、まだ二十二歳ということで男子の間では意外と人気がある。
「突然ですが、今日は席替えをしたいと思います。もう入学して、一ヶ月ちょっと経ったからねー。そろそろ先生も顔と名前全員分覚えたよ」
『いよっしゃー!』
「……うるさい」
一斉に上がったのは、男子諸君のうるさい雄叫び。何でここまで男子が喜ぶのかというと、それは入学当初の席の並び順にある。この学園では、入学当初は名簿順で男女が分けられているのだ。
それに伴い、男子は周りがむさ苦しい男子諸君。女子の周りは女子ばかり、と。
そんなこんなで男子からしたら、最初の席替えはとてつもなく待ち遠しいものだった。
俺はとにかくこのうるさい状況をどうにかしてもらいたいけど……。
「じゃあ、女子からクジ引いて。席は完全にランダムだから、不満があっても一切聞かないからねー」
「例え女子が男子に囲まれて、男子が女子に囲まれたとしても、文句無しよー」と、そう言う先生を他所に、クラスの連中は順番にクジを引いていく。
「よっしゃー!俺は一番後ろ窓際の特等席もらったぜ!」
「はいはい、わかったから。引いたら席に戻ろうな」
「おい!何だよ、優暉。テンション低いなー」
お前が高すぎるんだよ、とツッコミながら俺もクジを引き、自分の席へ。
十八番、か……。
自分の番号を確認し、教室の後ろの方を見ると、男子が集まってどの女子と隣になりたいか、何てバカなことを話している。少し視線を移すと、女子も自分の席の周りで男子の誰と隣といいか、話していた。
まあ無理もないとは思うが、朝のホームルームでこの騒ぎとはいいのだろうか?間違いなく、隣の教室にはこの騒ぎの声が届いているはずだ。
「ちょっと、うるさいかな?もう少し静かにしようねー」
『はーい』
……これが人望か。
*****
「皆引いたね?――じゃあ、結果発表と行こうか」
クラスのそこらから「いぇーい!」とか、いろんな声かま聞こえてきた。後ろのバカも「俺の時代だー!」などとホザきのたまっている。いいから、座れ。机の上に立つな。……今は言っても意味がないか。
とうとう諦めた俺のことなどお構いなしに、席替えの結果が張り出された。
「九番どこじゃー!」
「おー、遼。お前、よかったな。――一番前の教卓目の前だ」
聞いた瞬間、「嘘だろ……」と崩れ落ちたバカは放っておき、俺は自分の番号の位置を確認する。
えっと、十八番……十八番……あっ。
「一番後ろの窓際だ」
「おい!優暉代われ!」
「麻木君、先生文句はなしって言ったよね」
またしても崩れ落ちる遼。
今度はせめてもの慰めにと両手を合わせて、お参りしておいた。「おい、何で手合わせた!?」とか後ろから聞こえるが、席移動を開始。
いや、それにしても運がよかった。これで、学校生活を静かに送ることができる。うるさいバカなどいない空間で静かに暮らせるのだ。これほど嬉しいことはない。
しかし、移動してみると隣には誰も座らない。
誰か誰かと周りを見ているうちに、結局誰も座らないまま、席移動が終わってしまった。
「はーい、移動終わったねー……っと、まだ来てない桐山さんは……新戸君の隣の席か。」
何だ、まだ来てないだけか――って、ん?桐山?……どっかで聞いたような……。
ガラガラ、と。
やや建てつけが悪くなっている教室の扉。それが、ゆっくりと開かれ、一人の少女が姿を現した。
「すいません、遅れました」
肩まである黒髪に、ぱっちりとした眼。
つい昨日くらいに見たはずの容姿と、彼女の容姿が完全に重なった。 初対面で人の名前を『女の子っぽい』と言ってきた少女。
「あっ桐山さん、おはよう。ごめんね?さっき席替え終わったばっかりなんだ。席は――あそこだよ」
「いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます」
そのまま彼女はゆっくりと歩いてくる。机と机の間を通りながら、俺の隣の席へと。
ゆっくりと進み、俺の前席の横を通り過ぎようとした時、――ふと目があった。
「「――あ」」
目が合ったことに驚いた俺の声と、彼女の声が重なる。
何という運命だろうか。この失礼な少女と隣になるなんて……神様、私に安寧はくださらないんですか。
「昨日の……!――改めてよろしくね?」
「……ああ、よろしく」
昨日と同じやり取り。
だが、それに含まれる感情は全く異なるものだ。
そして、俺は深く考えるのをやめた。ああ、空が綺麗だなー。風が気持ちいい。
……。
――完全に現実逃避である。
なろう二作目です。
できるだけ甘酸っぱい恋愛模様をかければいいなと思います。
主人公の苦悩などもありますが、どうぞこれからよろしくお願いします。